第六話「小さな長女」
両親が家を開けることが多いというのはそれなりに不便な面も当然としてある。しかしその分、身に付けられるものもあったりする。
家から一番に近いスーパーマーケットから歩いて十数分の位置に所在する別のスーパー。僕はいま、十数分の余計な労力をかけてまでここに訪れている。その理由は簡単。
「お、二十円も安いじゃん」
卵のパックが並ばれる棚に掲げられた特売価格の値段を目にし、思わずそう呟いてしまう。そう。ここのスーパーは近い方よりも特売日の値下げが著しいのである。
こういった生活の知恵や何かが自然と身に付く。それが僕のような家庭事情を抱えた者の特権だ。
親が不在の際の食事。その殆どは高坂家の厚意に甘えてしまっているのだが、それでも全てではない。バイトで帰りの遅い日などは、主に自炊する。
人に振る舞える程の域に達しているかどうかの判断はつかないが、自分ではそれなりに食べられるレベルだと自負している。
そして今晩のメニューも、僕が最も自信を持っている炒飯である。それに使う卵が切れていたため、ここへ赴いたのである。
「あとは――」
「うわっ!」
付け合わせのメニューを考えつつ歩き出そうと踵を返した直後。駆けていた男の子とぶつかってしまった。
「あっ、ごめんよ。大丈夫?」
「アイス……」
泣きはしないものの、男の子は酷く残念そうな声色でそう漏らす。でも、アイス?
僕の足元へ続く男の子の視線を辿ってみると、そこにはズボンにべったりとついたバニラアイスの無残な姿があった。
「ホントごめんよ。これ、どこで買ったの?」
「あっち。おみせに入ったとこ」
小さな指が向く先を見ると、そこには確かにアイスクリーム屋ののれんが掛かっていた。
「それじゃ、お兄さんに弁償させてくれるかい?」
「え、いいの?」
「ダメにしちゃったのは僕の方だからね」
今日はたまたま持ち合わせていたハンカチでズボンのバニラアイスを拭き取ってから、僕は男の子を連れて歩き始める。
アイスの代わりが得られるとなって上機嫌になったのか、男の子は何やら鼻歌を奏で出す。覚束ないながも、そのメロディはそこはかとなく聞き覚えのあるものに思える。
「それ、なんて曲なんだい?」
「お姉ちゃんの曲だよ」
聞かれたことが余程嬉しいのだろう。男の子は得意気に返してくる。
「お姉ちゃんは歌手か何かなの?」
「うん。お姉ちゃんはアイドルなんだよっ、日本一の!」
日本一のアイドル。その単語で僕はようやく思い至った。今の曲は穂乃果の――『μ's』の曲だ。
「君のお姉さんの名前は――」
「虎太郎!」
その時だった。背後から我が子を叱りつける母親さながらの、やや甲高い叫び声が聞こえてきたのだ。
すると。男の子はビクッ、と身を強張らせて振り返り、僕もそれにつられるようにして視線を後方へ回す。そこに居たのは……。
「もう。アイス持ちながら走ったらダメでしょ――て、あんた。アイスはどうしたのよ?」
赤い大きな瞳が先ず目に付く、背の低い可愛らしいお姉ちゃんだった。しかし、僕は彼女のその見た目を知っている。
「あのー、それがですね」
「えーっと……どなたです、か?」
僕が状況を説明する為に割って入ろうとすると、当然のことではあるのだが。お姉ちゃん――もとい。穂乃果の先輩である矢澤さんは、戸惑いがちな目つきでこちらを凝視してくる。
そして、その目がふいに足もとへ至ると。
「あっ、もしかして――虎太郎っ?」
明らかに憤った様相で弟を見やった。
「いや、違うんですよ? 弟さんは悪くなくて、僕の不注意で――」
「ごめんなさいっ! ほら、あんたもっ」
「うぅ、ごめんなさい……」
僕の擁護も虚しく、物凄い勢いで謝られてしまった。
けれど、このままでは決して良くないだろう。絶対に。
「あの、本当に僕が悪いんですよ。だからその代わりに今、新しいアイスを弁償しようとしてたんですよ。ね?」
弟さんの方を向いて笑って見せようとするが。その弟さんの方は今にも泣き出さんとした様子であり、どうにも僕の声が届いていないようだ。
「弁償だなんて、そんなこと――」
「あのっ」
堪らずに僕は語尾を強めてしまった。が、続けよう。
そうでないと、これではあまりに弟さんが不憫だ。それに、この人の為にもならない。
「そうやって当事者の話も聞かないで一方的に謝り倒すのは、ただの逃避ですよ」
「なっ――」
言い放つと、矢澤さんの目の色が変わりだす。
「ちょっとあんた。どーしてニコが見ず知らずの他人に、そんな説教されなきゃいけないのよっ?」
「あなたが弟の意見を無視して勝手に平謝りし始めるからですよ!」
「虎太郎がアイスをつけたのは事実でしょっ? 私はね、そのことを謝ってるだけなのよっ! だいたい、あんたって見るからに鈍臭そうだし、ぶつかった原因はあんたにあるって最初から分かってたのよ!」
怒りに任せて、ついに本音を吐き出してきたぞ……。
「鈍臭いって……あのな、人を見かけで勝手に決めつけるなよっ」
「へえ、じゃあ機敏なわけ? だったらどーして虎太郎とぶつかったのよ?」
矢澤さん――いや。こいつは物凄く憎たらしい顔を向けてくる。
「あのな、それとこれとは――」
「あんたこそ逃げてるじゃない」
「なんだとっ」
冷静になれば不毛な。そんなやり取りは騒ぎを聞き付けた店員の仲裁が入るまで続き、情けないながら。僕たちは二人揃って店を後にすることを余儀無くされたのだった。
仕方がなく近場のスーパーで卵だけを買った僕は、収まらない憤りを引きずったまま家の前まで戻ってきたのだが。
どうにも収まる気配のないこの気持ちを発散――もとい。聞いてもらう為にか、僕は気付いたら穂乃果の部屋の窓を叩いていた。
「どうかしたの? 珍しく怒ってるみたいだけど」
「聞いてくれよ穂乃果――」
それから僕はまくし立てるように矢澤さん――あいつとの一件のことを伝え聞かせた。
「あはは……ニコちゃんらしいと言えば、らしいのかな」
「あれじゃ弟が可哀想だよ」
視界に映る引きつった笑みを浮かべる穂乃果の顔から途端に。頭の中で先程の弟さんの泣きそうになる顔に切り替わる。
「でも、途中からムキになった歩も悪いんじゃないかな」
「僕が?」
苦笑から今度は困ったように眉を潜める穂乃果。
「だってね。結局は歩、自分のことを悪く言われて怒ってたんでしょ?」
言い返せない。言い返せない、が。
「それにね。ニコちゃんはたまに口が悪くなり過ぎる時もあるけど、心の底から人を悪く思ったりするような人じゃないんだよ?」
そんな穏やかな微笑みを見ている内に僕は、自分の非を自然と受け入れられる、そんな心境になった。
「確かに僕も悪かったな……」
「でもさ、こんなのって歩にしては珍しいことだよね」
いつものことではあるが。唐突に話題が切り替わったようだ。
「珍しい、かな」
「うん。歩がムキになるなんて、やっぱり珍しいよ」
どこか楽し気に見えるのは気のせいだろうか……。
「多分、あの時のことを思い出してたのかもしれない」
それは僕たちがもっと幼かった頃のこと。
近くの雑木林の中にある、ひときわ大きな木に登った時のことだ。あの時も例のごとく僕は園田や南、それから穂乃果と一緒だったのだが。僕は三人よりも先に上へ登ろうとして足を滑らせてしまったのだ。
その際、落ちた拍子に僕は穂乃果とぶつかってしまい、怪我自体はそんなに大したこともなかったのだが。そのことを知った僕の母親は酷く取り乱し、キツく叱られて泣き出した僕を引きずって高坂家へと出向いた。
そして。穂乃果の母親の「事故だった」という言葉も聞かずに、ひたすらに僕の頭を下げさせ続けたのだ。
「そんなこともあったねー」
「今にして思えば、痕に残るような傷じゃなくて本当に良かったよ」
そう。今なら母親の態度にも納得はいくが、しかし。
幼い頃に感じた強い理不尽はやはり、今も心のどこかに色濃く染み付いているのだろう。
「痕ならあるよ?」
「え?」
そう言うと、穂乃果は服の襟を引っ張って右の肩口を見せてくる。
するとそこには、薄っすらと小さな白い筋のような物が確かに見える。
「残ってたのかよ……」
「全然目立たないし、大丈夫だよ」
そういう問題でもないんだけどな。
「まあもし、それが原因で何かあれば責任は取るよ」
「ホントッ? じゃあ、何を買ってもらおうかなぁ」
「まだ何もないだろ?」
「あはは、そっか」
こいつは……。
しかし、そんなマイペースな態度に僕の憤りはすっかりとどこかへ消えていた。