こと読者の皆さんは忘れているかもしれないが、俺も三年生、つまり受験生である。めぐり先輩みたいに推薦を受けるわけではないので、当然受験勉強はしておかなくてはならず、あまり生徒会を手伝う余裕はない。模試の成績はそこそこだったがやはり油断はできないので、最近の放課後は基本的に部室で自習することが多いのだ。小町が暇そうだけれど、雪ノ下も由比ヶ浜という出来の悪い生徒の相手をしているので許してほしい。今度セブンのロールケーキ買ってあげるから。
「ここはいんすーぶんかいすればいいんだよね?」
「違うわ由比ヶ浜さん、これは図形問題なのだし、使うのは三平方の定理よ」
ちょっと待て。なんで大学受験控えた高校生が中学の範囲やってるんだ? 本当によくうち受かったなガハマさん……。小町がどんな顔すればいいのかわからないの、みたいな顔しちゃってるじゃん! 笑えばいいと思うよ……。
そんな本当に大学受験勉強なのか不安になるような会話をする二人と、それを眺めたり雑誌を読んだりと思い思いに過ごす小町、そして黙々と勉強をする俺、というのが今の奉仕部の基本構図。奉仕部としての活動といえば、週一程度で相談メールを開いたり、材木座が原稿だのプロットだの持ってくるのを確認する程度だ。まあ、相談がないのはいいことだから別にいいけどね。
そうやって奉仕部というよりは自習部みたいな部活動をしていると、いつも生徒会が終わった一色が遊びに来るのだが……。
「いろはさん、遅いね」
「ああ……」
だいたいいつも来る時間帯になっても未だに一色が来ていないのだ。最近は少し忙しいと言っていたけれど、別にヘルプを頼むほどではないとも言っていた。しかし、あいつも頑固なところがあるし……やばい、心配になってきた。
言い知れぬ不安に駆られてしまい、問題集に目を落としても全く問題が頭に入ってこない。春の時のように無理をしていないだろうか、なにか急遽仕事が入ってあたふたしていないだろうか。
「……今日は終わりにしましょうか」
もはや問題集の文字を認識すらできなくなってきたあたりで、雪ノ下の声が聞こえてきた。焦点の戻った目で時計を見るが、いつもの終了時刻よりも明らかに早い。どうしたのかと雪ノ下の方に目を向けると、彼女は呆れたような笑みをこちらに送っていた。
「そんな状態じゃ、勉強にも身が入らないでしょう?」
……全く、いつからお前はそんなに優しくなったんだよ。いや、実際元から優しいのだろう。俺の知らなかった雪ノ下雪乃、きっと今の彼女もその一つなのだ。それならば、その好意に甘えるのもきっと正しい。
それにしたってそんな生温かい眼差しを三人揃って向けられると、八幡恥ずかしさのあまりそのまま帰宅しそうになるんだけれど……。
「……サンキュ」
理由ができたら行動は早い。手早く問題集とノートを鞄にしまって、俺は部室を早足で後にした。
***
半ば走って生徒会室の前までたどり着き、勢いのまま扉を開けようとして、ふと動きが止まる。生徒会の仕事が長引いているのなら当然中には一色以外の役員もいるはずで、そこに息を切らした俺が突然入ってきたら、なんだこいつらバカップルかよ爆発しろ、と白い目で見られるのは必至だろう。……想像したら最高にキモかった。
若干乱れた息を整えて、なぜか咳払いなんかもしつつ扉をノックした。
…………。
………………。
「…………?」
反応がない。いやそれ以前に、複数人が活動をしているはずの部屋の中からは何も音が聞こえてこない。いつもは大抵キーボードを打つ音なんかが聞こえてくるはずなのだが……。
「……開いてる」
あ、なんかこのセリフ言うとサスペンス起きて船越さん出てきそう。いや、ありえんけど。
鍵の掛かっていない引き戸をゆっくりずらして中の様子をうかがってみると、やはり生徒会は活動していなかった。パソコンの電源は落とされているし、テーブルの上には綺麗に積まれたプリント。しかし、電気がついているところを見るにまだ誰か残っているのだろうし、とりあえず中で待っておこうかと思っていると――
「すぅ……すぅ……」
小さな音。静かすぎるこの室内だからこそ耳が拾ったそれに導かれるようにして、部屋の奥に歩を進める。
ロッカーで仕切られた部屋の奥、そこには冬の頃は付けられていた炬燵布団が取り払われたテーブルがあるはずだ。できるだけ音を立てないように注意しつつ、そろっと顔を覗かせてみる。
「寝てんのか……?」
聞こえてきた吐息の時点で大体予想は付いていたが、そこには身体を投げ出すようにして一色が眠っていた。前よりも少し伸ばすようになった髪をさらさらと広げ、浅い寝息を繰り返している。その手には目を通している最中だったらしい書類が握られていて、彼女の顔の近くをゆらゆらとたゆたっていた。
目にでも当たったら危ないことこの上ないので、起こさないように書類を抜き取ってテーブルに広げられていた資料と一緒にまとめておく。それにしても、生徒会長が寝てんのに他の役員はどうしたんだよ。おかげで俺が心配になって見に来ちゃったじゃん。
「あ……?」
そう思って広げられた資料をまとめていると、書類に混じって明らかに小さい紙が出てきた。なにか追加書き込みをしたメモかと思って見てみると、
『会長も最近の事務処理でだいぶ疲れているみたいだから、このまま寝かせておく。後は任せたぞ、比企谷』
『比企谷先輩! ちゃんといろはちゃん送ってあげなきゃだめですよ!』
『ここのところずっと頑張っていたから、労ってやってくれ』
あいつら三人共に俺が来ることバレてるんですが。なんなの? あいつら予知能力でもあるの? それとも俺が単純なの? どう考えても後者です、本当にありがとうございました。
まあ、実際がんばっていたのだろう。最近の一色は生徒会関係で俺を頼ることも少なくなってきた。大学受験もだいぶ現実味を帯びてきた時期の俺を気遣っているのか、それとも一年という肩書きがもうない今、少しでも自分の力でやろうと奮起しているのか。いずれにしても、こいつが一歩でも前に進もうとしている事実が、少し寂しくもあり、それ以上に嬉しくもあった。
「……俺もここにはもう少しの間しか来れないからな」
もう少ししたら一色にとって二回目の生徒会選挙があって、それから数カ月もすれば俺も卒業だ。学校生活で奮闘している一色をすぐそばで見守れる時間も残り少ない。
まあ、今は副会長達に乗せられておきますか。
一色の近くに膝をついて頭を撫でてみる。いつもやるわしゃわしゃって感じではなく、髪を梳くように手櫛をゆっくりと入れていく。
「……ん……はぅ」
一瞬起きたのかと思って手の動きを止めたが、すぐに規則正しい寝息が聞こえてきたので撫でるのを再開する。
それにしても、相変わらずさらさらした髪だよな。小町の髪も同じようにさらさらとしているが、長い分こいつの方が撫で応えがある。なんかこう言っていたら、いつも妹の髪撫でるの気持ちいいなぁとか思っていると思われそう。事実だけどね。
「ふにゅ……ぅ……」
……いやまあ、分かってはいたんだけれど――
こうして見ると、やっぱりかわいい……よな。まつ毛は長いし、小さな鼻や桜色の唇にもつい目が行ってしまう。こんなにかわいい女の子が、俺の彼女……なんだよな。もう半年も経つというのに、未だに信じられない。
俺なんかを好いてくれていると思うと、胸の奥がじわりと熱くなって、撫でる手にもつい力がこもる。
「せん、ぱい……?」
「あ、悪い。起こしちまったか」
いつの間にか、一色はとろんとした瞳をうっすら覗かせていた。ゆっくりと首を横に振った彼女はぼーっと俺を見つめてくる。相当疲れていたようで、未だに眠くて仕方がないようだった。時計を見ると――まだ完全下校時刻までには時間があるな。
「眠いなら、もう少し寝ててもいいぞ」
額をくすぐるように撫でると、一色はにへっとだらしなく笑い――
「せんぱ~い」
「お、おいこらっ」
俺の太腿にポスッと頭を沈みこませてきた。いわゆる膝枕。いや待て、膝枕って普通は逆なのではないだろうか? 俺自身一色に膝枕なんてしてもらったこと……いやつうかそれ以前にすげえ温かいし、スラックス越しにサラサラの髪が触れてきてくすぐったいというか。
端的に言って、超恥ずかしい。
「せんぱ~い、せ~んぱいっ……へへっ」
一色さん、楽しそうですね。ぐにぐにと太腿に頭を擦りつけたり、膝を優しく触ったりと実は寝る気がないんじゃないかと思うくらいよく動く。その度に感じる柔らかさに思わず身を固くなってしまうし、ぶっちゃけこのまま襲ってしまいたい衝動にすら駆られてしまう。ていうか、膝の頭を指先でくすぐるのやめて! 恥ずかしいし変な気分になるから!
「これ、気持ちいいですよ~」
「男の膝枕なんて硬いだけだろうが」
病院の診察室にある枕くらい硬いまである。ところで、なんであの枕あんなに硬いんだろうな。長時間横になったりすると首が痛くなるんだが。まあ、今は病院の住環境なんてどうでも――
「そんなことないですよ~。せんぱいの膝枕、硬過ぎず柔らかすぎずちょうどいいです」
……頭の中のベッド爆発したんですけど。
ぽやっとした口調で言うと再び頭をくしくし。今度は太腿を手のひら全体でさわさわとさすってきて、恥ずかしさのあまり「そうか」と小さく答えるのが精いっぱいだった。
「そ、れ、に」
身体を反転させて俺の方を向いた一色は、ことさら楽しそうににっこりとした笑みを浮かべていて。
「恥ずかしがるせんぱい、すっごくかわいいですからね~」
「っ……!」
ただでさえほんのりと熱を帯びていた顔が、もはや火を噴きそうなほど急速に熱くなった。今や俺の顔はアニメかというほど真っ赤になって湯気まで出ているに違いない。俺がかわいいとかねえから。むしろかわいいのはお前……自爆した。
「悪かったな、女々しい男で」
恥ずかしさのあまり、つい捻くれたことを言ってしまうのは、まあしょうがないことなわけで。
「え~、私はそんなせんぱいも好きですよ~」
……あーもう。
そんな心の底から言ってますみたいな表情をされたんじゃ、もはや憎まれ口も叩けない。それに――見上げてくる彼女の、なにかを求めているようにもじもじさせた口元を見ると、恥ずかしいとかそんなことはもはやどうでもよくなってしまって――
「ん…………」
背中を曲げて、そっと唇を触れ合わせていた。
彼女の髪をゆっくり梳きながら、静かに唇同士を触れ合わせるだけ。互いの熱を交わらせ、溶け合せ、交換する。唇から伝わった一色の熱は、じわっと身体全体を巡り、指の末端までも心地よい温度に包まれるようだった。
「へへぇ~」
そっと唇と離すと、一色はふにゃりと頬を緩ませて、俺の腰に腕を絡ませるとポスッと顔をうずめてきた。しばらくすると、ぎゅうっと抱かれていた腕から力が抜けて、規則正しい寝息が聞こえてくる。全く、寝付くのにどれだけ時間がかかっているんだか……。
「せんぱぃ……好き、ぃ……」
…………。
小さく息をついて、起こさないようにそっと頭を撫でる。しゅるしゅると指の間を髪が流れる感触が心地よくて、思わず笑みが漏れてしまう。全く、これじゃあどっちが甘えているのか分かったもんじゃないな。
「おつかれさま」
一色いろはは自分の目標を目指して進もうとしている。少しでも歩を進めようと努力している。それだけ頑張っているのだから、彼氏としてたまには存分に甘えさせてやろう。
俺にとっても心地のいい空間で、幸せそうに眠るいろはの髪を撫で続けた。
壊さないように、傷つけないように、そっと。そっと。
久しぶりの更新でした
今回は少し短め
最近のシリーズ読み返したら、5作連続でR-18だったので、たまにはまったりさせたいなーと
最初はもうちょっとイチャイチャさせるつもりでしたが、微糖くらいの甘さでええやんということで
まあ、最初さらっと書いてたら死ぬほどシリアスになって吐血しかけたんですけどね!