改札を出ていくまばらな人の流れに紛れて、見慣れた住宅地へと歩を進めていく。ICカードの当て口に慣れ親しんだペンギンが描かれたカードを当てて、止まることなく五十五センチ幅の短い通路を通り抜ける。カードかスマホか乗車券かの違いはあれど、みなほとんど同じ動きで通過していく光景を横目に、駅の出口を目指す。
出口を過ぎるとそれまで同じプログラムで動いているようだった人たちがそれぞれの目的のために散り散りになり、ちょっと息苦しかった周りの空間が途端に開けた。わたしもそんなプログラムから解放されたのかなんとなく開放的な気分になって、さっきよりも幾らか歩幅が広くなる。
「ふふふ~ん」
人のいない住宅街まで来たら、なんとなく鼻歌なんて歌ってみたり。
この間買ったばかりの秋用ブーツのゴム底で荒いアスファルトの地面をペタペタ踏みしめて向かうのは、大好きなあの人のおうちだ。多いとき――夏休みとか――には週に三回は通っていた家が見えてくるにつれて足取りも軽くなってくる。スキップなんかもしちゃったりする。
やがて見慣れた石塀の門を通り抜けて敷地内に入ると、玄関脇に備え付けられている呼び鈴ボタンを押す。
ピンポーンと機械的な音が室内で響いたのを確認して少し待っていると、パタパタと駆け寄ってくる足音が聞こえてきた。これは間違いなくあの子だろう。むしろせんぱいがこんな足音出しながら近寄ってきたらさすがに……いや、それはそれで逆にかわいいかもしれないけど。
「ほいほーい! いろはさんいらっしゃいです!」
扉が開くと、余所行きの格好をした小町ちゃんが出迎えてくれた。いや、わたしが来るってことが分かってたから着替えたのかな? せんぱいの話では普段はかなりだらしない恰好をしてるらしい。見たことはないけど、せんぱいがその話をした時の小町ちゃんの反応からして嘘ではないんだろうな。ゲシゲシ割と本気で蹴ってたし。
「あれ? 小町ちゃんおでかけ?」
ただまあ、彼女の肩に下げられたバッグを見る限り、わたしが来なくても今日はこの格好をしていたみたいだ。
「今日はクラスの友達と遊びに行くんです! だから出かける前にいろはさんが来てくれて助かりました!」
なるほど。学校では奉仕部くらいでしか会わないから分からなかったけど、この子はクラスでもちゃんと友好な関係を築けているらしい。
なんだろ……なんでもないことのはずなのに楽しそうな小町ちゃんを見てるとこっちまで嬉しくなってくる。ハッ、これはせんぱいが小町ちゃんを溺愛しているときの感情と一緒なんじゃ……? しかたないよね。小町ちゃんかわいいもん。
「って、助かったってどういうこと?」
小町ちゃんの交友関係だとかわたしが小町ちゃん溺愛しすぎ問題だとかの(脳内)議論にとりあえずの一区切りをつけると、今度は別のところが気になった。「助かった」の意味を考えてもなかなか答えらしい答えには行き着かない。
なにかこのかわいらしい後輩ちゃんと約束をしていただろうか。…………いや、たぶんそういうことはしていないと思う。友達以上な知り合いならいざ知らず、小町ちゃんとの約束を忘れるほど記憶がおざなりになる質じゃないし。
あれ? そういえばせんぱいが全然姿を見せないな。いつもならこうして玄関で話してると、気だるげに二階から降りてくるのに。
「あー。お兄ちゃん、まだ寝てまして……」
「なるほど」
そういうことなら確かに「助かった」だね。主に小町ちゃんが鍵を閉めて出かけた後、中に入れずに立ち往生することになっていたかもしれなかったわたしにとってだけど。ほんともうちょっと来るのが遅かったらせんぱいが起きるまでチャイム鳴らしながら電話し続けることになっていたかもしれない。なにそれ不審者じゃん。通報されるじゃん!
けど珍しいな。確かに今日は休日だけど――
「日曜日にこんな時間まで寝てるなんて……」
日曜日。言わずと知れたニチアサのある日だ。比較的朝に弱いせんぱいが週一この日だけは目覚ましをかけなくても決まった時間に目覚めてテレビの前に張り付いてプリティでキュアキュアなニチアサ最後のアニメを見る日。
そんな日に寝坊なんて珍しいことこの上ない。雪ノ下先輩が平塚先生から鉄拳制裁される確率より低いんじゃないだろうか。……わたしの中のせんぱいプリキュア好きすぎない? 女児アニメを必死に見るせんぱい……いや、これはこれで……。
「まあ、昨日は頑張ってたみたいなんで」
「?」
おかしそうに喉を鳴らした小町ちゃんに首を捻る。けれど目的語を問いただす前に時計を見た小町ちゃんは慌てて玄関を飛び出して行ってしまった。石塀の陰に消えた後輩女子を見送ってわたしも時計を見てみると、短針は「10」の少しだけ上を指していた。思ったよりも長話をしてしまったようだ。友達との約束が何時なのかは分からないけど、ひょっとしたら遅刻させてしまったかもしれない。後で謝っておこう。
「……さて」
喉の奥がキュッと小さく音を立てる。玄関から伸びているフローリングの廊下は、室内灯がついていないせいかいやに暗い。途中リビングに続く扉の近くから伸びている階段の方が明るく見えるくらい。なんていうか、ちょっと不気味。
もう第二の実家のように通い詰めているというのにそう見えてしまうのは、いつもせんぱいか小町ちゃんと一緒にこの廊下を通るからか。ひょっとしたら廊下の奥、お父さんお母さんの部屋の方向はわたしにとって未知の空間だからかもしれない。
じゃあ、階段が明るく見えるのはその先にせんぱいの部屋があるから?
「……なんてね」
少しだけ喉の奥を震わせて上がり框に腰を下ろす。上がるのに下ろすとはこれいかに。まあ、脱ぎやすい靴なら座り込む必要はないんだけど、今日はブーツだからね。
心持ち自宅よりも丁寧にブーツを脱ぐと玄関の端にそっと揃えて立ち上がる。少し深めに息をついて回れ右。とっとっと軽い音を鳴らしながら目的地を目指す。
摩擦の少ないソックスがフローリングでちょっと滑る。そんな普段は気にもならない感触を楽しみながら廊下を歩き、階段を上っていく。時々軋む音に「そんなに重くないよ」なんて内心拗ねてみたりするのもこの家ならではの遊びだ。
「…………」
はてさて、そんな遊びも挟みつつ目的地であるせんぱいの部屋の前まで来たわけだけど……ここからどうすればいいんだろう。たぶんまだ寝てるんだよね。勝手に入るのはさすがにダメだよなぁ。
というわけで、とりあえずノックをしてみた。
…………。
………………。
反応なし。まあ、ここで反応があるならその前に起きてそうなものだもんね。
「……失礼しまーす」
声を抑えようとしたらだいぶかすれたものになってしまった。下手したら聞こえないレベル。まあそれは気にするほどのことでもないか。
人一人分の隙間だけ開けて室内を覗き込んでみる。
「ぐっすり寝てる」
窓際に寄せられたベッドの上ではスウェット姿のせんぱいが規則正しい寝息を立てていた。近づいてみると、少し長くなった髪の間で揺れるまつ毛まで観察することができる。いつもの大人びたというか達観した顔立ちとは違うどこか幼い表情に、ついつい頬が綻んでしまう。
それにしても、本当に起きないな。試しに指でほっぺたをぷにっとしてみてもちょっと迷惑そうに眉を顰めるだけで、瞼が開く素振りすら見せない。一体昨日は何時に寝たのだろうか。
「……あれ? なんだろう、これ」
指先タップをしたほっぺはよく見るとほんのり赤くなっていた。結構広い面積の赤みは、唇の横で直角を作っている。何か押し当ててたのかな?
「ぁ……」
なんとなく部屋を見渡してみると、原因はあっさり見つかった。
ベッドとは反対の壁に備えられた机。その上にはノートや筆記用具と一緒に分厚い本が広げられていたのだ。表紙も背表紙も裏表紙も全部真っ赤で、おっきくせんぱいが第一志望にしている大学の名前が記載されている。いわゆる赤本ってのだ。
頑張ってたっていうのはこれのことか。たぶんこの赤本を枕にして寝落ちしてしまったんだろう。今ベッドで寝ているのは……小町ちゃんに起こされて寝ぼけ眼で移動からの二度寝、とかかな?
時々忘れそうになるけど、せんぱいももうすぐ受験なんだよね。改めて認識すると、自分のことのように心配になってしまう。模試の成績は良好とは言っていたけど、やっぱり不安は拭いきれない。
せんぱいの受験が終わったら、すぐにわたしの受験が始まるという焦りも少し、いや結構混じってると思う。わたしの第一希望はせんぱいと同じところだけど……。
「うわ、こんな難しいの……?」
文系がすこぶる得意なせんぱいが行く文系私立の大学。当然そのレベルも高いのは分かっていたけど、分かっていたつもりだったけど……正直自分の見積もりがあまりにも甘かったことを思い知らされた。試しに開いた英語の長文問題だけでめまいがするレベルだ。
「……はあ」
思わずため息を漏らしつつ拒否反応のままに赤本を閉じる。幸せを逃がしても、胸の奥のもやもやはなくなってくれない。
最近しこりのように胸の奥、胃の上あたりに居座っているもやもや。原因なんてとうの昔に分かり切っている。自分の進路、いや将来のことだ。
大学を志望しても「これがやりたい」というものがない。その先で就職するにしても自分がやりたいことが分からない。
そんな状態でせんぱいが頑張っていることを見せつけられたら……余計に不安になってしまう。
「わたしはどうしたいんでしょうね、せんぱい?」
自分にも分からない問題を問いかけてみるけど、返ってくるのは規則正しい寝息だけ。ただわたしの頭は思いのほか単純みたいで、そんな呼吸音が「気にすんなよ」なんて言ってるように感じて少し心が軽くなるのだ。
我ながら惚れ込みすぎだよなぁ。
まあ、惚れ込んでなきゃ毎週のように自宅に押し掛けなんてしないんだけどさ。
「…………」
「…………」
「……むぅ」
それにしても本当によく寝てる。せっかく彼女が遊びに来てるのに。彼女が来てるのに!
さっきよりも強めに頬っぺたをプッシュしてみるけれど、やっぱり起きそうにない。それどころかめちゃくちゃ嫌そうな顔された。こんにゃろ……。
本の跡をなぞるように人差し指を滑らせる。規則正しかった彼の呼吸が少し乱れたように感じるのはわたしの気のせいだろうか。
答えは出ないけど、指を止めることもない。
やがて直角に折れ曲がっている頂点に指先がたどり着いた。ちょっと指を滑らせれば、ぷにぷにとした頬よりも柔らかそうな唇に触れることができる。
…………。
どうしようかな、と少しだけ考えて――軌道を朱の輪郭から外した。
「……柔らかい」
思わず開いているもう一方の手で、自分のそれを触ってしまう。左右の指の動きをシンクロさせるように互いの唇の上を指先が滑り、頭が比較しようとフル回転し始める。
単純な柔らかさは……たぶんわたしの方が柔らかいと思う。ただ、せんぱいの唇はなんというか、むしろ少し硬いからこその弾力があるというか。
何が言いたいかというと、ずっと触っていたいくらい触り心地がいいです。なんですかこれ人をダメにするソファならぬ人をダメにするリップですか? まあ、この場合“人”と書いて“わたし”と読むのは当然だったりする。むしろわたし以外がこれを触ってたら怒る。すごく怒る。
もちろん触るだけじゃなくて――
「………………」
いや、さすがに今それはダメでしょ。ほら、ついさっきまであんな思い悩んでたのに、せんぱいを見てただけであっさり心を落ち着かされたばかりかその……。
キス、したくなっちゃうなんて……。
ただしかし、しかしながら。
一度灯ってしまった情欲の灯火は消すことができず。
「せんぱいが……悪いんですからね」
意味のない言い訳を零しながら、かすかに開いた口をそっと覆い隠した。
お久しぶりです(定型文
久しぶりにこのシリーズで書けそうなネタが降ってきたんで書いてみました。たぶんまだ三話くらいの話になりそう。
この話書いてて自動改札は基本的に幅55cmという知識を身につけました。我々は賢いのですが、この知識を活かすことのできるタイミングは皆目見当がつきません。今住んでるところは自動改札どころか駅すらないので本当に無駄知識です。くぅー↑
それでは今日はこの辺で。
ではでは。