超次元ゲイムネプテューヌZ-血と硝煙と鋼と荒唐無稽- 作:アメリカ兎
ユノスダスに戻ったアルシュベイトが、教会に預けていたプルルートを迎えに行く。その隣に大魔導師が立っていることに、首を傾げていた。なんでいるのか、という顔をしているがあまり気にしていない。
世間話をするような間柄でもないからか、三人の口数は少なかった。
ユウコに睨まれながら見送られるアルシュベイトと大魔導師。九龍アマルガムへ向けて進行する。プルルートはアルシュベイトの肩に乗せられて、短距離跳躍移動にしがみついていた。それに追従する大魔導師の脚力は、もはや見慣れたもので。
《……》
進路上に、モンスターの出現を感知したアルシュベイトが更に加速する。振り落とされないようにプルルートに手を添えながら。
それを優に追い越して大魔導師の放った黄金の矢が無数に別れて進路上の敵を一匹残らず撃ち抜いた。そして、並走する。一切の減速なく、それどころか加速しながら。
「何か、いたか?」
《いいや、なにも》
人の身で納まるにはあまりに似つかわしくない器。故に、超人と称されている。だが、それでも結局は神に至ることのない人間だ。神格者として君臨し、国王の座に就いて信仰を集めておりながらもそれが生きた人間からではなく死者の魂から集めたものである事に誰もが正気を疑っていた。なぜ、死者にこだわるのか。
生きた人間からではなく、死者からの信仰にこだわるのは大魔導師が死霊秘術を修めていることとなにか関係があるのだろうかと、アルシュベイトは考えていた。
アゴウに転用された、魂魄転写という禁術。元々は九龍アマルガムで開発された技術だ。
国産品である人形の生体化。より人間に近く、より完璧に近くするために。だが――人間と人形の違いなど、外見だけではそう判断がつくものではない。特に九龍アマルガムで製造されているものは、物によっては人間と瓜二つなまでの精度で巧妙に織りなされている。
ただ一歩、その一歩を踏み間違えれば死生観が狂い出しかねない。だが、そもそもにして狂った国なのだ。狂気渦巻く、大黄金にして大暗黒時代。
街道を駆け抜け、違法薬物に汚染された森林地帯に差し掛かる。悪臭と異臭と、異物にまみれた狂気の掃き溜めの片鱗。既に九龍アマルガムの領地に踏み込んでいることは明白だったが、モンスターの群れが今日は少ない。
いつもは薬物中毒者のように荒れ狂っている環境だというのに、どうしたことだろう。アルシュベイトが大魔導師に視線で語りかける。
「外出の邪魔だった」
《なるほど》
その一言で何をしたのかすぐに判別出来た。むしろ、なぜそれを今までやらなかったのか。
どうせ面倒だった、とか言うのは目に見えているので聞かないことにした。
「なんだか~、アルシュベイトといると思い出すね~」
《む? ああ、そういえば――》
エヌラスとの決闘の最中、空から降ってきたのを受け止めるために中断したことがあった。
あれも、随分と遠い昔の話だ。辛うじて覚えている程度でしかない。
《あの時は、本当に大変だったな。だが、プルルートのおかげであの時エヌラスを仕留めずに済んだ》
「なんだ、負けそうだったのかあのバカ弟子は」
《むしろ能力をほとんど失った状態でそこまで生き延びた事が驚愕の一言だったがな》
「そんなことがあったのか? 俺はその時点で“離脱”していたから知らなかったが、中々興味深い話だ」
《ああ、そういえば大魔導師はその時いなかったのだったな――……、いや待て》
「ん? どうした」
あの時――大魔導師は既に、エヌラスの手で殺害されていた。だが、辛うじて残されていた手がかりから外の世界に信仰を求めて次元連結装置の開発に着手したのが全ての始まりだった。
思えば、既にその時から大魔導師は“外の世界”というものに関心を寄せていたのだ。
《大魔導師。なぜ、次元連結装置を自らの手で作ろうとしなかった》
「技術力の問題だ」
《ならば、重ねて問おう。あれを完成させていたら、貴様は何をしようとしていた?》
「知れたことだろう? 世界の崩壊だ。箱庭を俺の手で壊してやろうかと思ってな。だが結局はそれも守護女神の手で阻まれたのだが」
盗み見るのは、アルシュベイトの肩に座り込んで頭部アンテナを掴むプルルートの姿。
次元衝突による多次元消滅。もしそれが完遂されていた場合、もうひとつの犠牲となった世界はどうなるのか。恐らくは、セロンの手によって“リセット”されていたことだろう。だがそうはならず、運悪く選ばれた超次元、ならびに連なる平行世界の神次元から守護女神の介入によって全ては丸く収まった。
ただ一人、エヌラスだけが全てを覚えていて――それが地獄の始まりだった。
「そうだよぉ~、すっごくたいへんだったんだから~」
《……どこまで想定していた》
「ふむ……そうだな。今なら話してもいいだろう。俺が亡き後、クロックサイコが図らうようになっていた。つまりは、最初からだ。私がアイツの恋人を奪ったその時から、既に。ああ、より正確に言うなら――アイツの妹と、話し合ってからだ」
《……諸悪の根源は、つまりソレだとでも?》
「ソレ以外にあるか? お前の国とて滅ぼされたはずだ。すまんがあれも俺の提案だ。剣姫に介入されては俺の策略など台無しになるからな」
何一つ悪びれる様子もなく、大魔導師の口から語られる謀略。
元々エヌラスの妹は守護女神と相性がひどく悪かった。それも起因しているのだろうが、そのために国一つ滅ぼすとは相当毛嫌いしている。
九龍アマルガム内で取り決められた、箱庭の全てを陥落させる世界の滅亡。
たった三人。大魔導師と、クロックサイコ、そしてエヌラスの妹。
《なぜだ》
「アイツがどこまで本気で駆け抜けられるか確かめておきたかった」
《…………――そのために、自分の命を投げたのか》
「なに、困る奴などいないだろう。
死を恐れない。それは、言うなれば自分の命すら計略の駒だと。自らの策に、自分の命を落とすことすら計算にいれる大魔導師は、倫理観も人間としても完全に破綻している。
「アレを、誰の弟子だと思っている? この私が。死霊秘術を修めるにあたって全てを敵に回したこの俺の弟子だぞ。生涯において、ただ一人のな。後にも先にも、私が弟子と認めるのはあのバカだけだ」
《だからといって。恋人とただ一人の妹を謀殺するなど……》
「そうでもしなければ、アイツの妹は死ななかったと言ったら。どうする?」
《――――――、なに?》
「兄への愛だけで、自らの惨殺を望んだ。それが全て、エヌラスのためになるならばとアイツは笑ってクロックサイコに生きたまま剥かれて死んだ」
魂が、恐怖で震えた。
それほどまでに、愛に狂っていたのか。あの妹君は。
「アルシュベイト。お前は、エヌラスの妹の名を知っているか」
《……いいや》
「私も知らん、そしてエヌラスですら知らんのだ。アレは、文字通りの絶望で、正しく怪物だ。名前が無い以上は、決して死ぬことはない。そして同時に、決して生まれてなどいない。さしずめ、始まりのない終わり、といったところか」
スタート地点に立っていないのだから、ゴール地点に辿り着くことすらない。無名にして未完成の存在。だが、それは確かに居たのだ。エヌラスの隣に、エヌラスのそばに、大魔導師ですら覚えている。だが、だが、だが――アレは、何だったのか誰も知らない。
「……ただ一人。アイツだけが、セロンの網を抜け出していたらどうする?」
《次元神にすら捉えられないと?》
「しかし、その兄であるエヌラスが今やあのザマだ。契約上、エヌラスに会うことは叶わない。そうだな。再会できる可能性があるのだとしたら……アイツが死ぬことで、セロンとの契約不履行を成すしかない」
《だが、そうなった場合》
「我々がその“
また。あのサバイバルが始まるのかと考えるだけでアルシュベイトは足を止めそうになる。
九龍アマルガムの都市部に辿り着くなり、大魔導師が無造作に前蹴りで公道から高速道路に始まり、改装工事中だったビジネスビルを粉砕した。教会まで突如一直線に道ができたことで何が起きたのか理解する国民達は、すぐさま退避している。
国王災害が巻き起これば、あとはただ過ぎ去るのを待つしか無いからだ。
「さて。以上の話をまとめた上で、どこまで想定しているのかという問いについてだが――正直なところ、あのバカが一度死ぬまでは私の想定の範囲内だ」
「…………」
肩に乗せているプルルートが目に見えて不機嫌になるのを、アルシュベイトは感じ取っていたが大魔導師は無視して話を進めている。
「だが、簡単に死なれては困る。ギリギリまで粘ってもらわねばな。ましてや、守護女神がこちら側についている状況だ。これを利用しない手はない」
《女神すら策略の駒か。後ろから刺されるなよ、大魔導師》
「その程度で死ぬような、やわな身体ではない」
かくして、九龍アマルガム上層都心教会・公安局まで文字通り一直線に駆け抜けた大魔導師は地下教会直通のエレベーターへ乗り込んだ。
アルシュベイトは地上にとどまり、腕を組んで考える。
これまでずっと、考えもしなかった。エヌラスの妹のことだ。
《……たしかに、あれは一体何者だったのか。見当もつかん》
ただ、偏執的なまでにエヌラスを溺愛していた。狂気的なほど。猟奇的な偏愛を捧げていた姿だけは覚えている。その眼に、他の誰も映っていないとでも言うように。
自分の世界はエヌラスだけで完結していると。絶望の魔人一人で、全て満ち足りている。
セロンですら次元の網に捉えられないとなれば、恐らくはヌルズ・エクス・モルテスですら想定していないのだろう。本当に計算外の存在であるならば、加勢してくれないだろうかと思案して――それが絶望的な望みであることに肩をすくめる。
アレは、エヌラスさえいればそれでいいのだ。他のことなど、本当に、どうでもいいと思っているに違いない。
プルルートは、アルシュベイトの肩から遠くを見渡していた。
大魔導師は、自分の手に収めている女神メモリーを見つめる。
インタースカイによって改竄されたそれを、中核としてエヌラスを再起させるという策は上手くいくだろう。だが、それだけでは足りない。これでは、機神の右腕に足り得ないという確信が大魔導師にはあった。
死霊秘術の書を手にして、光の粒子として解く。それを女神メモリーに刻み込んでいった。
それこそは、心血を注いで描き上げた魔術の集大成であったはずだ。自らの魂の研鑽のためだけに書き上げていたはずのものを、躊躇なく大魔導師は捨てる。
最後の一文。最後の一項目が書き上げられない魔導書など、必要ない。
それは、自分には完成させることが出来ないものだ。ならば、可能性があるとするならば――それは自分の弟子が継ぐべきだ。
魔導書を失ったところで、痛くも痒くもない。そもそも、痛みすら忘れた。生きているという感覚すら、朦朧としている。
地下教会、廃病棟へと戻った大魔導師はエヌラスが眠る病室へと向かう。
一度くらい死んでみればいいものを。
一度死んだ程度で、誰もお前を見放さないのだから。
例え、何度生まれ変わろうと必ず戦場に連れ戻す。あの神を殺すまでは、必ず。
この手で何度でも地獄から救いあげてみせる。
「入るぞ――」
扉をノックしてから病室に入ると、メイド服姿のマリーが穏やかな寝顔でエヌラスに寄り添っていた。
眠り続けていたのだろう。呼吸器まで付けて、点滴も脈拍もそのままだ。
黒く剥がれた右腕に、大きく割れた顔の左半分。無残な火傷の痕が痛ましい。もう、左眼も見えていないだろう。辛うじて生命活動を維持できるのは、無限の魔力貯蔵庫である銀鍵守護器官が稼働しているからだ。
そうして二人が寄り添って眠っている姿を見るのは、ひどく懐かしい気持ちにさせる。
まるで、あの日に戻ったような心地だ。
まさか自分が弟子を取る日が来るとは思いもしなかった。基礎学習から実践まで、てんでダメで。何一つ満足にこなせなかった不出来なバカ弟子だったが――それでも、此処まで駆け抜けてきた。
「…………起きろ、バカ弟子」
結局、ただの一度も自分を越えることなど出来ていない。だが、今でもまだ一番最初に教えたことを律儀に守っている。それが、何故かひどく嬉しい。
このバカは――まだ諦めていない。
「――――」
「……マリー、起きろ」
「んー……むにゃー……ぅ~……? おはよぉ、大魔導師……」
目を覚ましたエヌラスが、口を動かしている。しかし、か細い声しか出ていなかった。
もう、声が出せないのかと大魔導師は呆れている。銀鍵守護器官ですら、生命維持に魔力を割くので精一杯のようだ。手に触れれば、ひどく冷たい。まるで死人のように。
「おかえりなさい。エヌラスのお見舞いにきてくれたの?」
「そんなところだ。下がれ」
「はーい。終わったら呼んでね、大魔導師。エヌラスも、また後でね」
おはようのキスを頬に軽くしてから、マリーがスカートを翻しながら部屋を後にする。
「……運命、なんてものはくだらないと思っていたのだがな。いざ他人のを目の当たりにしてしまうと、なるほど悪くないとさえ思う。それだけだがな」
「…………」
何の用だ、と僅かに動く唇から読み解く。鼻で笑いながら、大魔導師は手にしていた女神メモリーをエヌラスに見せた。辛うじて見える右目だけでもそこに籠められている尋常ではない魔力濃度と情報量は身じろぎして逃げ出したくなるほどだ。
銀鍵守護器官の移植手術の時もそうだった。麻酔なしの全身施術は死を覚悟したレベルだ。一月、全身の感覚が消えていたほどの激痛に苛まれた。それと同等か、匹敵するレベルの激痛が待ち構えているのかと思うと、エヌラスは死にもの狂いで逃げ出したい一心だった。
「これがなにか、わかるな。女神メモリー改め、魔神メモリーといった具合だ。こいつを、お前が奪われた中核の代替品として今から使用する」
「――――」
「さて、問題はどう使うかだが……」
呼吸器を外して、大魔導師はエヌラスの顔の前に魔神メモリーを差し出す。
「食べるか? 心配するな。どうせお前なら腹を下すようなこともない。仮にそうだとしても外にマリーが控えているから何も問題ない。どうせ下の世話も喜ぶだろう」
「……!!」
問題あるわバカか死ねやハゲダコ。エヌラスが言いたいことは一言一句聞き逃していないが、そんな怒りに満ち溢れるほどの元気があるなら問題ないだろうと大魔導師は口にねじ込んだ。そのまま無理やり飲み込ませる。
――内部から暴走する魔力と、超常的な情報量にエヌラスの身体が跳ねた。
全身の魔術回路の拒絶反応と暴走する魔力に加えて、自己再生による内側から暴れ出す神経痛にエヌラスがベッドの上で悶絶する。点滴を引きちぎり、獣のように吠えながら大魔導師に向けて拳を振るう。八つ当たりのような拳を、大魔導師はそのまま容赦なく防いで押さえ込んだ。
異常なほどの発熱に、身体から湯気が立っている。歯を食いしばり、浮き上がる魔術回路と暴走した魔力の奔流によって触れている大魔導師の腕も熱暴走を起こしていた。焼け焦げる腕を見て、しかし顔色ひとつ変えない。
全身の骨格が砕けているのではないかというほどの、酷く生々しい音が響く。骨格の強度からエヌラスの身体が“打ち直されている”のだ。それは、麻酔でもどうにもならない。例え自分の全身がバラバラになろうとも、強靭に過ぎる精神力で抑え込んでいた。
「エヌラス。よく聞け。一度しか言わない――ソラが死んだ」
「――――ッ……ォ!」
作り変えられる身体に、古傷が開く。血にまみれようとも、大魔導師はエヌラスを押さえ込む腕を離そうとはしなかった。
「お前に今使った魔神メモリーを確保するためだけに。アイツは死力を尽くした。最善を尽くした」
再精製される魔術回路の痛みは、痛覚という概念すら覆しかねないほどの痛みを伴っていた。血が滲み、血管にガラスでも流し込まれているのかと思うほど恐ろしく冷たい。だがそれでいて嫌に熱く、体内から響く音に気が狂いそうになる。それでも、歯を食い縛る。
――ソラが、死んだ。
その言葉の意味を噛みしめる。
自分が守ろうとしていた友達が、自分を助けようとして死んだ。
自分の知らないところで、また。
そんなことを二度と繰り返さないと決めて、誓って、戦って、駆け抜けてきて――その結果がこれだ。
「――あ、あぁああああ!!! ふざ、けんな……ふざっけんじゃねぇぞぉ!! おれは、俺はそんなことのために、こんな事のために今まで――!!」
「…………」
目から、口から、鼻から、耳から。爪からも。
全身から血を流しながら、それでもエヌラスが吠える。
怒りと、悲しみとが折り混ざった激情の爆発。慟哭が病室に反響する。その叫びは、廊下にまで響いていた。
力任せに殴りつけたベッドが激しく揺れる。
「勝手に、死んでんじゃねぇ! 勝手に、殺されてんじゃねぇ……!! どうせ死ぬなら笑ってくたばりやがれ……!」
赤い瞳。血の色をした、薄暗い紅色の瞳が睨みつけていた。
憎悪に満ちた。殺意に溢れた眼光に射抜かれておきながら大魔導師は冷たい目で睨み返す。
「……ここで諦めるか?」
「誰がッ!!! どの口でほざきやがる、テメェは!!!」
魔神メモリーによる再起は、どうやら成功したと見ていいようだ。怒りに任せてエヌラスが魔力を爆発させると、指向性のない魔術が暴発する。それを事も無げに、指先一つで解除してみせる大魔導師だが、今度は力づくで拘束を振り解かれた。
顔面を蹴り飛ばされて、ベッドが投げつけられる。足で受け止めるなり、指を鳴らして接近していたエヌラスを重力結界で地面に縫いつけた。床に押し潰されておきながら、無理矢理立ち上がろうとする姿に大魔導師は驚く。
まだ身体が完全に馴染んだわけではないというのに。再生の途中だというのに、怒りと憎しみだけでエヌラスは大魔導師の魔術に抗ってみせた。
「っ……絶対に、諦めねぇぞ……!! 俺は――、俺が今まで犠牲にしてきた奴らのためにも……! 俺が、救えなかった奴等のためにも、絶対にッ……! テメェと、一緒にするんじゃねぇ大魔導師!!! 「救いきれなかった」と諦めた、テメェにだけは!!」
「…………」
黒い右腕に、赤い魔術回路が奔る。壊れた右腕も、左眼も。そこだけは回復しなかったが、問題なく稼働していた。自らの血に濡れながら、それでもまだ血走った眼光だけは一切の衰えがない。だが、全身に走っている成長痛にも似た激痛は治まっていないのか、どこか身体の動きがぎこちなかった。
「必ず、終わらせてやる――こんな巫山戯た
重力結界を振りほどきながら、エヌラスが血だらけの拳を握りしめて大魔導師の顔面に向けて叩きつける。しかし、それも防御陣に阻まれて届くことはなかった。
それでも。拳が焼けようとも、骨が折れようとも。自らの怒りに勝る痛みはないのか拳の勢いが止まることはなかった。防御陣の第一波を越えて、第二波を無理矢理破壊して。第三波に差し掛かったところで大魔導師が不意に防御を解く。
顔で受け止めた拳の威力たるや凄まじく、殴られた大魔導師が壁を破壊して廊下に叩き出された。それにはマリーも驚いたのか、身体を竦ませている。
「わぁ、びっくりした……」
どこかのんきな呟きを残して、廊下に散らばる瓦礫を見て腰に手を当てていた。
「大魔導師。お仕事増やしちゃダメだよ?」
「……そこのバカに言え」
ボタボタと、全身から血を流しながら、エヌラスが堰を切ったように大量に吐血するとその場に倒れて再び昏倒する。
マリーが慌てて駆け寄り、服が血で汚れるのも厭わずにエヌラスの身体を抱き起こした。
殴られた頬に手を当てて。大魔導師は息を吐く。
救いきれなかったと、諦めた――。それは、少しだけ違う。
この壊次元では「救えない」と知ったから諦めた。
それでも。
それでも――救いたいと、まだ願うのなら。まだ望むのならば。
諦めて、死んだはずの心を動かすのなら。
それはやはり、遥か彼方に置き去りにした、あの日の情景に他ならない。
「エヌラス、大丈夫?」
善意だけで、誰かに寄り添うことができる少女を見て――なぜ、と己に問う。
記憶など無いはずなのに。戦う力もないのに。何も出来ない、ただの人間だというのに。
運命を変えることすら出来ない無力な少女が、こんなにも力強く見えるのは。
血塗れの手で、血だらけの服で、それでも血で濡れた顔で、笑いながら抱きしめていたマリーと目が合った。頬を膨らませている。
「もー、大魔導師。お掃除大変なんだからね」
「…………」
「あ、笑った」
「……ああ。そうだな――忘れていたものを、少し思い出しただけだ」