八神さん事件です
薄暗い部屋の中。短めの緑髪の女性は、自身より濃い緑色の液体をコップに入れる。
「…………」
そのコップを受け取るのは、見た目が少女にしか見えない一人の女性。赤い髪の二つのおさげを揺らすと、コップの中身をのぞき込む。
「ほ、本当に飲むのヴィータちゃん」
「別に体に害はないんだろ。そう言ったのはシャマルだぜ」
「そ、そうだけど。でも必ずうまく行くかはわからないし。…………それにその、大人の体になるだけなら新しいデバイスを作るなり、変身魔法を使えばいいと思うけど」
「ベルカの騎士は自分の信じたデバイスしか使わねえ。それに変身魔法の偽りの体じゃ意味がないんだ」
「その気持ちはわからなくはないけど。本当に飲むのね?」
「…………ああ。あたしはこれでムチムチの体を手に入れる!!」
迷いなど初めからない。ヴィータは緑色の液体を一気飲みする。
そして次の瞬間。彼女にすぐに変化が訪れる。
だがそれは、体に対してではなかった。
「いやー、しかし本当にすることがないな」
仮教導試験も終わり、久しぶりである手放しの非番。
カイズは特に何もすることがなく、仕方なしに外を歩いていた。
「本当はサクヤの結婚式のスピーチ考えなくちゃいけないんだけど。……さすがに久しぶりの休みだからなー」
だがしかし、本当になにもすることがない。
カイズは目の前の木製ベンチに座ると、先ほど買った飲み物の蓋を開けた。
微糖のコーヒーのほどよい甘みが口に広がると、ゆったりと空を見上げる。
「こうしてゆっくりしてられるのもヴィータさんや八神家のみなさんのおかげなんだよな」
合格発表の日。自分と同じ教導官志望の生徒が悲しんだり落ち込んだりしている姿を自分は何人も見た。
「もしかしたら俺もそうなってたかもしれないんだよな。……これがなかったら」
カイズは首にかけているネックレスを取り出す。それは太陽光を反射させ、二つの黒が眩しく輝く。
「……何か恩返しでも出来たらな」
カイズがそう思うのは、何もデバイスを作ってもらったからだけではない。
八神一家はこのデバイスを作るために、十日ほどの有給を使った。そのために今は仕事の穴埋めで走り回っているのを知っているからだ。
そのため最近はあまりヴィータと会えてない。
自分のためにと思うと、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
「んー、家に帰って勉強でもするかな」
そんなふうにカイズが帰宅を考えた瞬間だ。
彼のデバイスが着信音を響かせたのは。
「ん、誰からだ?――――えっ?はやてさんから??」
デバイスに表示されるのは『八神はやてさん』という文字。八神家のみんなには番号を伝えていたが、実際に着信がくるのは初めてのことだった。
「いったいどうしたんだろ?まあとりあえずでなくちゃ」
とにかくこのまま放っておくわけにはいかないと、カイズは通話のボタンを押す。
「はい、もしもしカイズですけど」
「カ、カイズ君か?私や、八神はやてやけど、今大丈夫かな!?」
「え、はい。今日は非番なんで、どうしたんですか慌ててるよう――――」
「だったらお願いがあるんや。一刻も早く家に来てほしいんよ!」
「そ、それは別にいいですけど。本当にどうしたんですか?」
「とにかく大変なんや!ヴィータが、ヴィータが!!」
ヴィータさんがどうしたんですか。そう声をあげようとするが、その言葉は男の叫びによりかき消される。
『テオォォォォォォォォォォ!!』
「ザフィーラ!ザフィーラアァァァァァァァ!!」
――――プツ。ツーツー。
その言葉を最後に通信は切られる。
「えっ、へっ?何だよ、いまのは…………」
あのはやての慌てた様子。そして盾の守護獣と呼ばれたザフィーラの苦悶の叫び。
そしてヴィータが大変だとはやては言っていた。
数々な言葉が、休日気分だったカイズの心を一気にどん底に突き落とす。
「あの家にはAクラスから、SSクラスまでが揃い踏みしてるんだぞ。そんな簡単にピンチになるなんてないよな。――――ッ!!」
そんなことあるはずがない。そう思っていても、不安をぬぐい去ることができない。
それになにより、はやてはヴィータを名指ししていた。
それはほかの誰でもない。ヴィータにピンチが迫っていることを意味しているのだ。
「もしかして、ヴィータさんが何かの事件に巻き込まれて。それで八神家のみんなが動けないんじゃ!!」
とにかく急がなければならない。
カイズはデバイスを握り込むと、全力で地面を踏み抜いていくのだった。
「がっ、はっ、はっ、はっ、はっ!」
肩で息をするというのはきっとこういうことを言うのだろう。
カイズは全力疾走でフラフラになりながらも、必死に酸素を取り込む。
「家は襲撃されたような跡はな――――」
「テオオォォォォォッ!!」
「なっ!?」
電話で聞いた、いやそれよりもさらに苦痛の悲鳴が外にいるカイズの耳にも届く。
カイズはその場から弾けるように飛び出すと、玄関のドアを乱暴に開けた。
「ヴィータさん。ヴィータさん。ヴィータさん!」
不安。心配。恐怖。
ありとあやゆる感情が、カイズの心に渦巻く。そんなことあるはずがない。カイズは靴を脱ぐとそのまま玄関に飛び込む。
そして言葉を失った。
「なんだよこれ。…………酷すぎる」
目の前のリビングルームは、きっと家族がくつろぐために存在しているはずだ。
だがそのスペースに安らぎなど存在しなかった。
ぐちゃぐちゃに散乱した洋服。倒れたままの椅子。封を切られ散らかされたお菓子や、飲みかけの飲み物。
ただ泥棒が入ったといった感じではない。こんな惨状では八神家の人たちは。
「あっ!ザフィーラさん、ザフィーラさん!!」
机の影に隠れるように青い毛並みの守護獣が倒れていた。カイズは彼に近づくと、彼の肩を揺する。
「どうしたんですかザフィーラさん!」
「う、ううう、これ以上尻は叩かないでくれ……」
「……は?」
「さすがに乗せながら三回転はできな、い……」
ガクリと倒れ込むザフィーラを見て、カイズは首を傾げる。
「三回転?なんだそれ??」
「カイズくうぅぅん!!」
「あ、はやてさん。いったいこれは」
「今は説明してる暇はないんや!とにかくちょっとこっちきてや!!」
「は、はい!」
あまりの剣幕に言葉を挟むことが出来ない。カイズはその場から走り出すと、はやての背中を追う。
二階にあがるとまず目に入ったのは、リビングと同じ散らかされた洋服や布団だ。
そしてその惨状の中心にいる少女とカイズの目が合う。
「…………んん?」
目が×印のウサギを抱えた小さな女の子。だが見た目は少女であっても、彼女はれっきとした大人であり、上司であり、そして彼の恋人であった。
彼女はフリフリの白いワンピースを着ており、そのつぶらな瞳はカイズのことをじっと見つめていた。
「おにーちゃん、だーれ?」
「へっ、え、ええ??」
キョロキョロと周りを見るが、性別上その単語が当てはまるのは自分しかいない。
赤い二つのおさげの少女は、「おにーちゃんだよー」とカイズを指さした。
「え、俺はカイズですよ。い、一応恋人同士なんですけど。…………ヴィータさん?」
果たしてそこにいるのは自分の知っている恋人なのだろうか。困惑するカイズをよそに、ヴィータは指さした人差し指を口元にあてる。
そしてにっこりと微笑みを見せた。
「恋人ってことは、ヴィータの旦那様なんだね」
「え、ま、まあ最終的にはそうなりたいんですけど。――――じゃなくて、どうしたんですかヴィータさん。何か新しい遊びですか」
「カイズ君!!」
「は、はやてさん。これはいったい」
「……ヴィータはな。今五歳児に幼児退行してるんや」
「よ、幼児退行って。なんでそんな」
「それはな―――――」
「主、急いでください!そろそろ出ないと間に合わなくなります!!」
「も、もうそんな時間か。でも大丈夫や。カイズ君には事情はもう話したさかい」
「えっ、事情って俺は何にも」
「はやてちゃん。フロントアタッカーの件はスバルちゃんが非番で、そのまま会場に向かってくれるらしいわ」
「ありがとうなシャマル。リインとアギトは?」
「今二人でザフィーラを叩き起こし、じゃなくて優しく介抱してるわ。ああ、もう迎えの車が来てる」
相当困惑しているのだろう。普段は冷静なシグナムさえも慌てている姿を見ると、カイズは口を挟めなくなる。
そんなふうに口をぽかんと開けているカイズの両肩を、はやてはガッシリと握りしめた。
「カイズ君。私たちはこれから公開集団演習にいかなあかんねん。帰りは夜になると思うから、ヴィータのことよろしゅうな」
「留守番よろしくって。えっ、ヴィータさんはつれていかないんですか?それにヴィータさんはいったい――――」
「テオォォォォォォ!!」
「主、ザフィーラが目覚めました」
「よし、いくでシグナム、シャマル!」
「頼んだぞカイズ」
「よろしくねカイズ君」
三人はそれぞれ言葉を残すと部屋から飛び出す。そして様々な足音が家中にけたたましく響きわたった。
そしてカイズは窓から外を見ると、八神家は迎えの車に乗り込み、急発進したあとであった。
「な、なんなんだいったい……」
ポカンと口を開きっぱなしのカイズ。そんなカイズを見ると、ヴィータは呪いウサギを片手にトコトコと彼に近寄る。そして彼の服をグイグイと引っ張った。
「ねえ、おにーちゃん。ヴィータとあそぼ」
「え、あ。……うん」
いったいなにがあったのか。
それは数分後に見つかるリビングに置かれた手紙により、明らかになるのだった。