自宅謹慎四日目の朝。
朝食当番のヴィータはカイズより早く目覚めると、寂しそうな目でカレンダーを見た。
「…………本当は今日から旅行だったんだよな」
カレンダーに書かれた『初旅行』という文字は、赤い×印で消されている。
今日も今日とて自宅でダラダラ過ごさなければいけないと思うと、ヴィータは大きくため息をついた。
「カイズと一緒にいられるのはもちろん嬉しいけど。……でも謹慎中で遊んでいるのも気が引けるし」
それに旅行が中止になってから、互いに次へのきっかけを失ってしまっていた。
今まではいろいろなことがあったが、『海の見えるホテルで』という明確な理由が存在していた。
だがそれが破綻になってしまい、二人はどうしていいのか困惑しているのだ。
「…………うわぁ、今日もすごいことになってるな」
ヴィータは視線を下に向けると、朝立ちしているカイズの下半身を見る。ヴィータは頬をほんのり染めながら、彼のそれに顔を近づけた。
「お酒を飲んだときも言ってたけど。相当我慢させてるんだよな。……一人でしてるところも見たことないし。というか、男ってずっと我慢しててもいいもんなのかな」
女性の自分だって、いい雰囲気になりムラムラすることはある。(数ヶ月前まで知らない感覚ではあったが)
だがそれでも自分で秘部をイジろうとは思わなかった。それは我慢できることではあったし、何より自分自身で気持ちよくなろうとは思わなかったからだ。
だが男の人はどうであろうか。むかし雑誌の特集でチラリとだけ見たことがあるが、どうやら男性の性的欲求というものは、一日ごとに溜まるらしい。
定期的に発散しないと、むしろ体に悪いということすら書いてあった。
「そういえば、ずっと前にはベッドとかにエッチな本があったけど。……今はそういうの全然置いてないよな」
そうは言ってももちろん家捜しをしたわけではない。だが精子の独特のにおいを何度か嗅いだことのあるヴィータには、この部屋でそういったことが行われていないことが自然とわかっていた。
つまり何週間かに一回。何かのきっかけがあり、そういった雰囲気に流れたとき以外に、カイズは一切そういった行為をしていないのだ。
そうなると少なくとも三週間はお預け状態をくらっていることになる。
パジャマを突き破りそうなほど、テントを張っている姿を見る。ヴィータはそれにそっと手を伸ばそうとする。
だが伸ばしただけだ。ヴィータはその手を元に戻すと、この四日間何度目になるであろうため息をついた。
「なんか、旅行が駄目になったから仕方なくって言う感じで。…………きっとそれが嫌なんだろうな」
きっとそう思っているのは自分だけではないはずだ。この四日間、エッチな空気には何度かなりそうになった。
だが初体験がお流れになってしまったせいか、性的な行動に対し互いに躊躇してしまっているのだ。
初体験ができないから、手や口で性を吐き出させる。その行為が惰性に感じてしまうのが二人は怖かったのだろう。
ヴィータは今日二度目のため息をつくと、キッチンに向かい歩いていくのだった。
◇◆◇◆
夕食の時間。今日の当番であるヴィータは、小さなテーブルにお皿を二枚置くと、カイズの対面に座る。
今日の料理はロールキャベツだ。中身の肉がこぼれ落ちないように料理するのに少し苦労したが、納得できる完成度ではあると思う。
すでにコンソメのスープとバターロールはカイズが運んでおり、二人は手を合わせると『いただきます』と声を合わせた。
「ヴィータさん、これすごくおしいですよ!」
「わ、わかったから口のなか空にしてから感想言えよ」
「それもそうですね。………………ヴィータさん、これものすごくおいしいですよ!!」
「だからわかったって。っていうか、カイズはおいしいしか言わねえじゃねえかよ」
「いやー、おいしいものにおいしいというのは当たり前ですよ。それに『このキャベツの煮込み具合が』とか言われても嘘っぽいと思うので」
「まー、確かにそうだよな」
きっとはやての料理と比べたら、自分はまだまだだと思う。それでもはやての調理を手伝うことはあったし、カイズと暮らすようになってそれなりに経験を積んできているつもりではある。
おいしいです。そう言ってもらえるのって、結構嬉しいんだよな。
作ってもらえるのが当たり前。
ただおいしいですなんて言ってもしょうがないかな。
普通ならそう思うところかもしれない。だがカイズはどんな些細なことにでも、しっかりと感謝の意を述べてくれる。
そんなありふれた日常が、ヴィータには本当に嬉しかったのだ。
ヴィータがそう思っている間にも、カイズはどんどんと食事を口に運んでいく。そして満面の笑顔を作ると、ヴィータを見つめた。
「ヴィータさーん」
「ん、どうしたー」
「俺、いますごく幸せです」
「うん。あたしも、あたしも今すげー幸せだー」
そう答えると、カイズの笑みにヴィータも微笑みを向ける。そうやって笑顔を向けあうと、ここ数日のいざこざがゆっくりと解けていくような気がした。
思えばここ最近は行き違いをしてばかりだ。
サクヤの結婚式ですれ違って。
シスンとのことで離ればなれになって。
そして初旅行のことで互いに気まずくなって。
でもだとしても。いや、だからこそ今ある当たり前の幸せがヴィータにはとても幸せだった。
特別な何かはいらない。ただ自分はカイズとずっと一緒にいられれば。
「――――――――あっ」
ずっと一緒にいられればいい。
そう思った瞬間、ヴィータの背筋に冷たいものが走った。
ずっと一緒に、果たしてそれはいつまでのことなのだろうか。自分とカイズの絆はきっともう切れることはないだろう。それは闇の書の一部であり、贖罪の意志を決めたときから理解している。
だが本当にまた同じ明日がやってくるのか。
そんな漠然とした不安がヴィータを襲った。
もしも今回のように闇の書への復讐を誓う人物が現れたら。
もしJS事件のように世界を揺るがす大事件が起きたら。
もしカイズが明日事故にあったら。
もし自分の体が訳も分からず消滅してしまったら。
当たり前の毎日。幸せな日常。それが急に崩れ落ちてしまうことは、エレナやはやての時に自分は体験しているはずだ。
エレナの時は本当に後悔した。はやての時は事件が無事に解決したからこそ、よかったと思えるようになった。
ヴィータは木製のスプーンを机に置くと、静かに俯いてしまう。
本当に大事なことを先送りしていいのだろうか。タイミングが合わないと。明日はきっとやってくると。
そんなことを言い訳に、今あるこの時を無為に過ごしていいのだろうか。
きっと何かの拍子にカイズがいなくなってしまったら、自分は今日という日をずっと後悔するだろう。
でも、後悔するくらいだったら。
ヴィータは決意を瞳に宿すと顔を上げる。だが彼女の目の前にカイズはいなかった。
どこに行ったのか。ヴィータがそう思うとともに、彼は後ろからヴィータを抱きしめた。
「……どうした、まだ食事中だぞ」
「え、えっとですね、ヴィータさん。その、あの。……旅行もお流れになってしまいましたし。……このあとその、エッチなことしませんか」
「…………どうしたんだよ」
「え、あー、ははは。いや、ほんといきなりすぎますよね。いやー、でもここ最近エッチなこともご無沙汰ですし、旅行には行けなかったけどそろそろいいかなーって」
「……いいんだよ今更あたしに対して取り繕わなくても。それにどうしたんだって聞いたのは、言葉に対してじゃねえよ。――――手、ものすごく震えてるぞ」
「えっ! あっ……」
自分では気づかなかったのだろう。カイズは抱きしめながらも酷く震えている腕をみると、バッと手を離した。
「いや、これは武者震いといいますか。なんと言いますか」
「カイズッ!」
ヴィータの一括にカイズはビクリと上体を反らしてしまう。そしてこれ以上虚言は通じないだろうと、視線を反らしながら口を開いた。
「…………なんだか、怖くなったんです」
「なんでだ」
「……俺、今こうやってヴィータさんと恋人同士になって同棲するようなって。でも管理局に入ったばかりのことを考えたら、本当に今ができすぎなくらいで。まるで夢の中にいるように、幸せな毎日だと思ったんです。――――そりゃエッチなことはしたいですけど、それでも俺はヴィータさんといられるだけで本当に幸せで。そんな毎日が続くならそれでいいかなって思ったんです」
そこまで言うと、カイズはヴィータに背を向けてしまう。そして本当に申し訳なさそうに、言葉を続けた。
「そんなことあるわけない。それは信じてます。……でももしまた何か事件があったら、もし明日の俺に何かがあったらって。そんなことを考えたら急に怖くなったんです。――――俺はヴィータさんのことが大好きです。でもその好きだって言う想いを全て伝えられずに別れることがあったらって。そう考えたらものすごく怖くなったんです」
「…………カイズ」
「あ、あははは。考え過ぎですよね。考えすぎだって俺自身もわかってるんですけど」
「確かに考え過ぎかもな。――――だけどあたしも同じこと考えてた」
先ほどとは逆だ。ヴィータはカイズを背中から抱きしめると、その両手で震えている手を包み込んだ。
「ヴィータさん? 手が」
「だからあたしも同じこと考えてたった言っただろ。もし今回みたいに闇の書に恨みを持つ人が現れたら。JS事件のようなことが起きたら。――――一歩間違ったら大事な仲間を失ったかもしれないって。そんな経験をしたことがあるからこそ、あたしもその可能性を考えてたんだ」
あれはもう十数年前のことだ。きっとこいつは大丈夫。こいつは死んだりしない。そんな子供じみた安心感の末に、自分の目の前で高町なのはは生死を分ける大けがを負った。当たり前の明日は必ずくるわけではない。それをヴィータは嫌というほど理解していた。
それはきっとカイズもそうなのだろう。
子供の時に生き埋めになったこと。そしてデスイーターとの戦いで多くの死にうなされたこと。それらの経験が彼の不安感を煽っているのだろう。
「ヴィータさん。震えてますね」
「カイズだってそうだろう。……だからさ。お互いの不安、ぬぐい去ってもいいんじゃないかな」
「ぬぐい去るって。――――あっ」
視線を合わせると同時にヴィータの唇がカイズの唇に重ねられる。カイズは一瞬戸惑うような顔をする。だがすぐにヴィータの首にて手を回すと、キツく、強く、唇を押しつけた。
舌を絡ませることのない、真っ直ぐなキス。だが今までのどの口づけよりも、それは長く、お互いの気持ちがこもったものだった。
やがてどちらからともなく唇を離す。
もう言葉などいらなかった。二人は視線を合わせると、決意を固めていった。