※この作品はR-18です。

櫻ノ舞 【gasaraki 外伝】   作:ミナモトルカ

10 / 11
第十章 紅の舞

1.

 

 自衛隊における山岳演習が過去になかったわけではない。だが、今回我々が行うのは二足歩行型兵器という、未だ未知の領域を多分に含んだ開発途上の機体を主軸にして行われる起動実験だ。そもそもが、おかしなことばかりだった。北九州、そして唐突に決まった今回の日程。それに未だくすぶる民間人であり未成年である豪和大尉の半ば強引に決定された委託配属。速川は改めて強く思った。我々特自は豪和の玩具ではない――本来ならば、そう異議を唱えることもできただろう、しかし。

 速川の脳裏を掠めたのは、やはり異常な習熟度でどの隊員よりもTAとの親和性を見せた豪和ユウシロウのことだった。確かにTAの反応率向上に豪和大尉の能力が深く関っている。それは他の機体にも相互関係的に反映され、不気味なほどの双方向性を見せていた。それはまるで女王蜂の意思そのものが働き蜂を動かすかのような……。

 そう、それはまるで生物的な相互関係にも、どこか似ていた。

 山岳地帯に潜んだ敵、一個小隊の動きを掴み、それに奇襲をかける……、表向きはそういった内容の模擬演習だった。確かに森林など遮蔽物が多く存在する錯綜した場所での戦闘はTAに何より特化していた。だが今時点の段階で実戦さながら、というわけではなくとも、シミュレーターでの訓練を省略し、しかも近隣の関東圏でなく、この北九州の山間部までわざわざ足を運ぶ理由があるというのだろうか。

 豪和……。改めて速川は、そのヴェールに包まれた向こう側に存在する闇に目を凝らした。

 最初はどこかぎこちなかった、その豪和大尉と同じ小隊でコンビネーションを組む池口との関係も、どうやら幾ばくか解れてきたようだ。速川は昨日、通信機越しに耳に入ってきた二人の会話を思い出していた。豪和の思惑といい、未だ出口の見えないTA開発の中で、それがせめてもの明るく思える部分だった。

 

 戦闘指揮車両は、このTA開発にはTA自体とともになくてはならない、戦闘に必要な様々な情報分析と実験解析を行う、文字通りの情報統合基地だった。TAのAI(人工知能)だけでは処理しきれない情報を多角的に分析し、それを各パイロットに伝える。無論それぞれの機体の位置確認や状況の把握、そしてパイロット自身のフィジカル・コンディションも小隊毎に担当するオペレーターが各々チェック。勿論、今回のようなケースでも同様に指揮車両はTAの動向を離れた場所から常にチェックし、双方向的に連携して実戦模擬演習を行う。

 TAのピックアップは今回装備した軽量型トランスポーターで河川敷の川原に待機させ、いつでも充電、起動が行えるようにした。

 それでも一抹の不安要素は拭えない。何より慣れない山岳地帯の走行によるパイロットの心理的な不安、そしてそれから来る予期せぬ事態である。勿論、もしもに備えて救護班も同行させている。それでも、この駐屯地はおろか人里離れた谷間(たにあい)での行動には物理的制限があり、思わぬ支障が生じる場合もあるだろう。

 それでも、ここで決行する明確な理由がどこかにあるとでもいうのか?

 夜明けを迎え、二日目の朝がやって来ようとしている。急ごしらえのテントにも戻らず、各項目のチェックをしたまま、結局車両内で夜を明かしてしまった速川だったが、それでも離れた場所で演習行動を行う、各操縦士たちの心理面、身体面での様々な心配などが、どうしても頭から離れなかった。

 特に今日の午後、この一帯を飲み込むだろう、皆既日食。これも何かの因縁だというのか、それとも。

 無論、その間は一切の活動は行わない旨を既に隊員達には通達済みだった。だが……。

 速川の胸に去来するこの得体の知れない不安は、一体どこからやってくるものなのだろう?

 

 英彦山周辺の国道でジープを走らせながら、鷹水は妙な胸騒ぎを感じて車を停めた。

 徐に道路脇で携帯を取り出しプッシュする。僅かの間を置いて、呼び出されたその声を聴く。

『はい。誠司さん……?』

「いや、何だか急に声が聞きたくなってな」

 例の舞の件もあり、佐和子は貴嶋神社に残してきた。むしろ彼女をこれ以上、豪和の件に巻き込みたくなかったという、せめてもの思いからだったのだが。それでも、それが仇となることを鷹水は、この期に及んで想定していなかった。まさか、今日……。

 朝靄に煙る山麓を朝陽が美しく照らし出そうとしていた。鷹水はその光景に眸(め)を細めながら、何気なく彼女にも見せたい、と思った。

「今、山のほうだ――そうだ、英彦山の……薬師峠だったかな」

 紅葉は既に終わっていたが、神々しいその風景は、これから起こることなど微塵も感じさせず、ただ無心の慈愛に満ちて時そのものを包み込んでいるかのようだった。

『あの、誠司さん』

「ん?」

 どこか躊躇するような、その声が気にかかった。

 はやく……早く帰ってきて、……ください。そう遠慮がちに呟いた言葉のすぐあと、いいえ、何でもありません。彼女はそう否定した。いつの日も強気な姿勢で物事を見据えていたその眸が、急に弱々しく感じられた。それは気のせい?

『私なら、大丈夫ですから』

 そう自分自身を励ますかのように佐和子は言った。

「わかった、すぐ戻るよ」

 優しくなだめるかのように、そう応えた。しかし本当に鷹水は、彼女のそばに今すぐにでも駆けつけたい衝動に駆られ、自分自身でも戸惑った。

 

 そのTELを切ってから、私は思わず目線を足元に落とした。

 カサカサと音を立てる僅かばかりの枯葉が妙に心寂しげに感じられた。その紅が目に鮮やかに映る。あと少しで紅葉も終わる。季節の移ろいは早く、まるで一瞬で山肌を駆け上がるかのようだった。風の冷たさが、殊更にそのことを伝える。例えその一瞬の儚い時の移ろいに呑みこまれるのだとしても……そう、私は。

「誠司さん……」

 携帯越しのその声が、やけに温かく感じられた。いつでも、そばにあることが当たり前だった、その温もり。いつの日も、私を待っていてくれた、その優しさ。守られることが半ば当たり前だった。けれど私は、結局その心に応えることができないのかもしれない。今さらながら、胸を小さな痛みが刺す。誰かに手を伸ばすことが、別の誰かとの別れを意味する。それでも、きっともう。

 そう、私は随分前から決めてしまっていた。その華奢な肩が急にしっかりしたものに感じられて、それでもどこか儚いイメージを拭い去ることのできない、その運命を私自身のすべてをかけて、包み込みたいと願った。その過酷な運命が、この掌から零れ落ちてしまうほどのものだったとしても。そう、もう全て決めてしまっていたのだ。

 だから、その陰がこの杜に足を踏み入れ、私を迎えにきたのだとしても、何も怖れたりはしないはずだった。

 

「兄、さん……?」

 そうだ。今まで黙っていて、すまなかった。唐突にそう告げられ、私は瞬間その意味が解らず、瞬き一つできなかった。

 豪和一清――その男は、何よりユウシロウを特自へと送り、その実弟を不遇な扱いのままに理不尽にも自分の野望のために利用しようとした男だった。突然やってきたその一清が、自分を私の兄だと言う。一体何のことを言っているの。それでも、急に貴嶋満千留の存在(こと)が私の脳裏に浮かんだ。そんな、まさか……。

「貴嶋満千留は、お前の実母(はは)だ」

 乃三郎と満千留との間に生まれた娘、それが佐和子だった。それじゃあ……。私は背後に控えていた貴嶋宮司を振り返った。その場で固唾を呑んだまま、貴嶋はただ深く目を伏せている。ギュッと握ったその拳は心なしか震えているようだった。

 私が……そんな、そんなことって。不意にあの舞を舞った時のことが蘇る。あれはユウシロウと同じ舞。それでは――。

「異母兄妹、ということになるが」

 ユウシロウは私の弟ということになる。それほどまでに、豪和の血は同族の血潮を求めたということなのだろうか。そ、んな……。私の深い逡巡と絶望を見透かしたように、一清はふと、ほくそ笑んだ。

「ユウシロウとともに一度、家庭教師を頼んだことがあったな……美鈴とも母は違うが」

 美鈴さん……思わずその名を耳にし、あの長いお下げ髪が可憐さと清楚さを漂わせる制服の後姿を脳裏に浮かべる。兄と慕ったユウシロウを心から心配している少女。本当に、私たちが姉妹だったなんて――奇しくも、それは同じ思い、同じ思慕であった。

 ただまっさらな朝の光の中で、自分だけが見も知らぬ暗闇に突き落とされたような……。

 その闇からも朝の陽射しからも、目を逸らすように私はギュッと目を瞑る。

「――さあ、私と一緒に来るんだ」

 佐和子、とその男は言った。不意に見開いた目の前の視界が揺らぐ。

 あれは……私の中で、もう一人の私が叫んでいる。呼び続けていた、そう。私は一人、兄の背中に向かって。兄様……。悲しいほど、小さな指先を伸ばして。そして、やっと振り向いてくれた兄からの申し出。その唯一の願いに応えることこそが、私の願いそのものでもあった。……違う、違うわ。

 それでも“私”は、兄の望みを拒むことはできなかった。

 ……おいで、佐和子。

 進み出た一清の腕に凭れ掛かり、私は気を失った。

 ……沙耶。その少女は、やっと手に入れたつかのまの幸福(しあわせ)に、嬉しそうに目を閉じた。

 

 自分の腕の中で蒼白の表情のまま、意識の底に沈む妹――一清は無意識に、その長く額に垂れた前髪に触れた。一清の羽織っていたコートに包まれ、絶望のただ中に落ちた大切な妹。丁重に扱わなければならない、何しろ金の卵を産む雌鳥なのだから。

 今両手に抱いた佐和子は、既に自分の手の内に落ちたも同然だった。そのまま彼女を車に乗せ、貴嶋神社を後にする。貴嶋宮司は、結局何も言おうとはしなかった。ただ、その苦悶の表情が、すまないと語っていたことは一清の目にも明らかだったが、既にそんなことに頓着する彼ではなかった。

 そうだ、お前には重要な役割があるのだ……。貴嶋神社で佐和子が舞ったという舞。そのための、すべてが御膳立てだとしたら出来過ぎだが、それでも何らかの因果関係が彼女を己自身の実家に誘い、その舞を舞わせたに違いない。何より、筑紫舞の宗家、貴嶋満千留の血を色濃く引く娘。転じてそれは、余流の能楽と源を同じくするものだった。だからユウシロウとお前は……いや、それこそ理屈を越えた何かの因縁に他ならないが。

 そこは奇しくも、ユウシロウたち特自の実験中隊が実験を行っている渓流のほぼ近くだった。最初はユウシロウを使って始める神事だったが、風向きが変わった。まさにその存在は、かつての貴嶋家の血の伝統を引き継ぐ存在であった。そして何より――まさかお前も、嵬だったとはな……。

 まさに“その瞬間”のために準備は着々と進行しつつあった。それは豪和の神事。余流と筑紫舞。それらの間に横たわる、遥かな時。それが佐和子がユウシロウと出会ったことで活性化されたのか。父、乃三郎が、最早そこまで考えていたのかどうかは定かではないが、どちらにしても、その一方の流れがこうして今、この手の中にあるのだ。

 ユウシロウにはユウシロウの、今後の利用価値がある。そしておそらくは、今日始まる日蝕で――。

 

 見慣れない黒い車がやってきた。その人を拒むような見知らぬ黒いリムジンで、〝あの人〟は連れて行かれた。

 境内の物陰から美命は一部始終を見ていた。怖い……、あの男の人。最初、本能からそう感じた。そして美命はその会話の中で知った。まさか――“あの人”が……!

 お母さんの、本当の娘。それじゃ……やっぱり。目尻一杯に涙が浮かぶ。あの舞は、本当にお母さんの舞だったんだ! それでも、例え全てを知っても自分には、どうすることもできなかった。お父さんさえ……どうして、どうして。

「こんな早くに申し訳ないが――早速、佐和子に面会したいのですが」

 男はそう切り出した。貴嶋宮司は、どうしても佐和子を連れて行くというのですか。そう、苦渋に彩られた息の中から搾り出すように、やっと尋ねた。男は逆に、では、なぜ貴方は彼女を家に招き入れるような真似をしたのですか……そう詰るように訊き、相手の弱点を突いた。

「筑紫舞は、満千留の舞。そう、例えその血が彼女の中に受け継がれていたのだとしても、それは決して貴方がたのものではない……!」

「ほう、やはり舞ったのですか」

「……っ」

 図星だった。絶句した貴嶋を他所に、一清は得意げに言葉を弄した。

「その舞は時を越え、そして場所をも越え、こうして我々を強く結びつけた。それこそが何かの奇跡でなくて何なのです」

 そう、奇しくもユウシロウと佐和子は……一清は最早、嗤いを堪えることができなかった。

 

 お母さん、私。美命は胸の中で母に縋った。“あの人”を助けて……!

 私があの時、あの磐坐から、あの人を舞台に連れていきさえしなければ。それでも、その美命の後悔の念ですら、既にただ一つの切っ掛けでしかなかった。彼女が「目覚める」ことは、止められなかった。あの磐坐で、あの人を見た瞬間、お母さんが帰ってきたような気がしたの。だから、わたし。

 すごく、すごく怖がっていた。お母さんの本当の娘だって知って、でも。そう、あの怖い男の人はまるで、あの人を捕まえに来たみたいだった。嫌だって言ってた、あの人の目。まるで、蛇に捕まった子リスみたいに。

 お母さん……! もう、お母さんを取られるかもしれないなんて、思ったりしないから。

 それでも美命の願いは、天の母に届くのかどうかさえ定かでなかった。

 

  

  2.

 

 目が覚めた時、見慣れぬ白装束の和装に自分が身を包んでいることを私は知った。

 そこは静かな奥座敷だった。少しばかり開かれた障子窓の外から、どこかに渓流が流れているのだろうか、静かな水音が響いていた。

「私は……ここは一体?」

 そう問うても、誰も答えてくれる人などなかった。まだ朦朧とする頭のまま、僅かに痛む額のあたりに手を添えた。布団から起き上がって障子に手をかけ、外へ出る。

 平安風に結った長い髪が風にたなびく。そこはまるでどこか異界にも似た、山水画の風景のような景色が広がる山間だった。寒い……思わず肩にかけられた上衣を胸の辺りで掻き合わせる。

 ふと、どこからか能の謡が聴こえた。厳かにして玄妙なその調べは、あたりの空気を震わせ、夢幻の如く響いていた。古い寺を改築したかのような檜の能舞台。辺りの風景と相まって、その舞台は殊更に別世界のように思われた。何となく、どこかで……。私はその能舞台に見覚えがある気がした。

「目覚められましたかな……」

 ふと、その声に振り返る。

「貴方は――、」

 そこに一人佇んでいた老翁を目にして、私は思わず声を小さく上げた。

 空知検校、ユウシロウの能の師匠である。ということは、やはりここにユウシロウも?

「ユウシロウ殿は、ここには居られませぬ」

 空知もここ、北九州を訪れていた。ということは、やはり。それでも、静かに頚を左右に振る空知に、私は何かを感じ取らずにはいられなかった。空知は確かに、私の姿を見て哀しげに表情を曇らせた。そういえば、これは……まるで、あの時、美命さんに着せられた筑紫舞の舞装束そのものだった。

「ユウシロウはやっぱり――特自でTAの起動実験を?」

 そのために彼は、この筑紫へ足を踏み入れた。そして、私自身も。

 どこか儚げな風情の枯木立の間を、冷たい風がただ音も無くすり抜けていく。その度に周囲の木立が囁くような音を立て枝を震わせる。まるで姿を見せぬ何ものかの姿を、私たちの目に見せるかのように。

「伊集院殿……」

 やはり空知は何かを躊躇しているようだった。そう、か――おそらく空知も知っているのだ。私が豪和の人間だったということを。貴嶋家と豪和家。でも、それなら、もしかしたら……! 私は思わず弾けるように空知に尋ねていた。

「空知さん……もしかしたら貴方は、私の本当の母――……そう、貴嶋満千留について、何か知っているのではないですか?」

 切なげに言葉を詰まらせ、少しだけ躊躇しながら、それでも私は単刀直入に尋ねた。

「ここ北九州は筑紫に伝わる筑紫舞……」

 まるでその声色は、そのまま幽玄の世界へ遊ぶが如くの色を放ち、辺りの木立の間に吸い込まれていくようだった。そう、それは禁忌の舞……、我が余流と懐を同じくする傀儡(くぐつ)舞。

 どちらも、まるで人目を忍ぶかのように、それぞれの場で密かに守られ続けてきた。一方は豪和に、そしてもう一方は。それが何かの因縁で出合ったとでも言うのだろうか。そう……、貴嶋満千留と、そして豪和乃三郎。そして――。

 ああ、ユウシロウ。私は悲痛な表情を隠そうともせず、思わず頭を振る。止め処なく眸から涙があふれ、知らず知らず頬を伝っていく。

「私……私は、ユウシロウを……」

「佐和子殿」

 優しく穏やかに空知は私の名を呼んだ。その穏やかな声が包み込むように私に届き、くず折れたまま、なおのこと私は嗚咽を漏らす。

「満千留殿は、真に乃三郎殿を愛しておられたのです、そしておそらくは乃三郎殿も」

 おじさま、いいえ……。私は改めてその名に、自分の本当の父の面影を瞼の裏に見た。

「その目に見えぬ絆は、決して宿業や野望に捕らえられたものではございませぬ、そう、それはただ一つの思い」

 ……ただ一つの。その言葉に私はユウシロウを思った。本当の血の繋がり以上に、私は彼を。でも、でも。

「佐和子殿は、なぜここ北九州にまで足を運んだのです。それはやはり、御自身のその思いを信じるからに他ならないのでは?」

 そう、そうです検校。私は、やはりユウシロウを。

 ならば――、空知検校は静かに言葉を継いだ。貴方の望むべき答えは、ただ一つ。

 

「検校――茶番はそこまでだ」

 山肌を滑っていく凍える風を殊更に冷え冷えと凍らせるような、その声が辺りに響いた。

 見ると、その声の主が冷ややかな眼差しを二人に向けていた。

「一清殿……」

 山肌にしがみつくように建てられたその屋敷の板張りの廊下に一清は立っていた。

「そうだ、佐和子。お前はそのために、ここへやって来た」

 失われし伝承の吐息。筑紫舞と、そして余流の二つの流れを一つに束ねるため……。いや、そんなことは既にどうでもよいことかもしれぬ。佐和子、お前のその舞を今度こそ我々の前で見せるのだ。真に無窮の力へと導く、その舞を。その半ば強制とも取れる傲慢な態度が、その宿業に捕らえられた冷徹な魂が、ユウシロウを。

 私の怒りは、既に陰そのものである、その男を一点の曇りなく貫いていた。しかし……、

 もし、もしも私がユウシロウの代わりに――そう、それによって全ての軛(くびき)を断ち切ることができるのならば。兄さん、そう呼ぶことさえ躊躇われる、その男に向かって私は尋ねた。

「もし……もし私が舞を舞えば、ユウシロウを自由にして貰えるのですか?」

 やはりそう来るか……、くく、と思わず笑い声を漏らす。そう、だな……考えてやってもよいだろう。

「餓沙羅鬼の神事だけじゃない、彼をTAから、特自の任務からも解放してあげて」

 その歪んだ口元に嗤いを浮かべたまま、しかし一清の視線は鋭く私を捕らえた。それも、お前次第だ――佐和子。

 

 それでもまだ、すべてが悪い夢、まぼろしのような気さえする……。

 私はユウシロウを追って、ここへ来たわけじゃない。そう、最初はむしろ彼から離れるために。それでも。

 やはり私はユウシロウから離れることはできなかった、それどころか。むしろ彼自身を呑み込む闇そのものに呑まれることになるのかもしれなかった。でも、それは私にとって本望だった。彼をユウシロウを、その闇から救い出すことができるのなら。

 しかし兄は、一清は、それほど生易しい人間ではなかった。すぐにそのことを私は悟ることになる。

 目を閉じると、やはりその面影が瞼の裏に映る。どうして……次第に遠ざかっていくその陰に私は怯えた。まただ。……兄様、兄様。少女はやはり、私の中で泣いていた。だから、その面影が本当に手の届かない遠くへ行ってしまうことが怖くて、私は兄の望みを拒めなかった。

 そうだ、沙耶。お前は拒むことなどできはしない。そうだろう……。

 兄を想う気持ち、寂しいと思う気持ち。そのどちらもが本当だった。……佐和子、お前は、私の妹だ。そんな――。

 そんな、ユウシロウ。その幻に囚われれば囚われるほど、次第に自分が誰なのか判然としなくなる。わからない。そう、いつしか私は、その幻から逃れられない自分自身を知るのだった。

 

「兄さん、本当にあの薬を佐和子に?」

 半ば半信半疑で清継は尋ねた。それはユウシロウの記憶を消去した際に使用したものと同じものだった。すぐには効かないかも知れないが……、正気とも取れぬ、その返答に清継は絶句する。まあ、いい。本当はそんなものなど使わずとも、佐和子は言うことを聞くだろうがな、しかし。

 佐和子はユウシロウが自分の本当の弟ではないことを知らない。だが保険は必要だ。どちらにしても、やつのことは早く忘れさせた方が、妹のためでもあるだろう? 確かに――。実の弟と関係を持ったなどという悪夢など。

「どちらにせよ、早急に餓沙羅の舞を完成させねばならない、そうユウシロウ以上の、な」

 

 空知はずっと静かに私を見守っていてくれた。とりあえず呼吸慣らしのために、私は檜舞台にあがった。

 基本的な所作は、やはり空知検校から教わった。それなのに私は、まるでその舞を何年も前から習ったことがあるかのように、各々の所作を滞りなくスムーズに進められた。それが自分自身、とても不思議だった。それよりも……、ユウシロウのそれと同じ舞。私は彼の舞を鬼哭石の郷で見たときの事を思い出していた。

 そう、それは最初は静かすぎるほどの静寂から始まる。けれど周囲の気配を己自身から消し、雑念を追い払い……そうしているうちに次第に導かれていく〝向こう側〟の景色。まるでそれに手を伸ばすかのように、私は扇子を手にした右手を前方にスッと上げる。眸に映るのは、きっともう届かない彼方の地平。それでも。

 どこかで彼が私を待っている気がする――、きっととても哀しげな表情(かお)をしながら、それでも私は、そんな彼に手を伸ばす。

 ユウシロウのそれと同じ舞を舞おうとする度に鼓動が次第に激しくなり、呼吸が殊更に苦しくなる。ハァハァ……、思わず我知らず呼吸が荒くなり、大粒の汗が額から滴る。

 ユウシロウは、こんな思いをして、この舞を。改めて、それが荒業であることを私は知るのだった。

 そんな私を一清は、ただ冷ややかに見つめていた。おそらくいつその兆候が現れるのか監視しているのだろう。身じろぎもせず一点のみを見つめる、その眼差しの鋭さ。それはそのまま、この豪和一族の業そのものであった。闇そのものを懐に抱いた――、おそらく父乃三郎は、本当はそんな宿業から一瞬でも逃れたかったのかもしれない。

 また……、あの夢に囚われる。そう、私自身さえも、その豪和という闇からは容易に逃れられないのかもしれなかった。それでも私は、この舞が私とユウシロウとを、確かに繋いでくれているのだとも知った。この闇にいるのは、決して私一人だけじゃない。

 

 兄様、兄様……。また“私”は兄の姿を探して一人荒野をさ迷っていた。

 吹きっさらしの風が冷たい。そして私は、その樹の下で〝彼〟と出会った。

「どうしたの――、どこか痛むの?」

 その青年は、どこか寂しげだった。その曇った眼差しに私は問いかけた。彼がどんな仕事をしていて、どんな境遇にあるか、私は何一つ知らなかった。そうだ、幼い私に何が理解できるはずもない。それ以前に、私は……。

「兄さま――、」いつしか青年を、私はそう呼んでいた。刹也、確かにその名前を青年の口から聞いた気がしたのに。よかった、兄さま、こんな所にいたのね。彼を見つける度に私は安堵した。

 そんな私を煩がるどころか、彼はぎこちないけれど、いつでも優しい笑みで迎えてくれた。私の心は、もう真実を見極めることなどできなくなっていた。それでも……、兄が確かにそこにいてくれる、その安心感だけが、私自身を支えていた。

 その静かな微笑みが、彼とダブる――、ユウシロウ。その優しい手のひらを、私に差し伸べてくれた人。けれど、それが決して赦されない望みであると知ることが、私が本当の兄からの呪縛に殊更に囚われる要因となるのだった。

「佐和子、お前自身がどう思うと、お前はユウシロウの姉に他ならないのだ」

 舞の稽古の合間の僅かばかりの休憩時間を見計らって、一清がそう告げた。そう……、そう、なのだ。何一つ知らなかったとはいえ、私は。それでも、どうしてそんなことが許されよう。実際の関係云々というより、自分自身の思いという、もっと根源的な意味において。一清の指摘は、その私自身の弱点を見事に突いていた。そして、水分補給と称して差し出されたその飲料を、私は疑うことなく受け取った。

 

 “あの石舞台と同じ場所だ――”

 入り組んだ谷間を穿つ渓流の景色を見つめながら、ユウシロウは思った。

 辺りには急峻な山々が連なり、改めてここが外界から閉ざされた秘境なのだと強く実感させられた。

 起動実験、二日目。TAの稼働時間には限界がある。そのための身体機能のチェックは入念に行わなければならなかった。特に今回のように千メートル級の高山での実験は無論、過去に前例がないばかりか、常に酸素吸入を怠らないなどの特別の措置が殊更に必要となる。どちらにしても、ただでさえ体力を酷使し、微妙な身体変化にさえ左右されるTAの操縦には、やはり苛酷な環境下であると言えるのだ。

 実際、英彦山では自転車レースなどが行われており、酸素に関してそれほど神経質になる必要はないと思われがちだが、ことTAパイロットに関しては、その限りではなく慎重な対応が必要だった。

 医療班の急ごしらえのテントの中で操縦士たちは、それぞれに綿密な身体コンディションの精密検査を時前に受けていた。昨日の起動実験が、かなり堪えている操縦士も中にはいた。その僅かな酸素量の差で、これだけの支障が操縦そのものに出ることを彼らは思い知らされた。勿論、その酸素吸入にも限界がある。TAのように絶対的に膨大な運動量と呼吸量とを必要とする行動には、僅かばかり携帯した酸素量では、すぐに消費し尽くしてしまう。

 だから稼働時間自体も、通常の実験以上に制限せざるを得なかった。

「やっぱり無理がありすぎるんじゃねぇの……」

 それでも昨夜、十分とは言えないまでも深い眠りに就いた池口でさえ、その困難を極める状況に閉口していた。

 予定通り午前と午後の二度、集中的に実験は行われた。幸い、その日は朝から気持ちよく晴れ渡ったものの、山の天気などあてにはならない。空気の冷たさとは裏腹に汗が顎に滴り落ちる。今が晩秋であったのが、よかったのか悪かったのか。呼吸の苦しさは、むしろ通常の実験より改善されたようにも思えたが、それは最初のことだけで、酸素自体の消耗が激しいため結局は同じことだった。まさかTAで登山……なんていう荒行をこんな所で行わされるとは夢にも思ってなかった。思わず、そうぼやきたくもなる。同様にB小隊の隊員たちも午前の実験が終わる頃には、へとへとに疲弊しきっていた。

 文字通りCIC(戦闘情報中枢)そのものである指揮車両は若干上流に移動し、TA演習全般を支える。操縦士である各々隊員らのバックアップに努め、通常以上に彼らのフィジカル・コンディションに常に目を配った。

「中佐、今回の起動実験は、やはり無理があるんじゃないでしょうか?」

 二日目から演習の視察に現れた豪和三男の清春が携帯を握りしめ、退室した隙に作戦オペレーターである徳大寺琢磨が速川に呟いた。実験中隊の中でも、速川の副官的立場にあり、様々な情報分析に長けている彼も、今回の実験内容の無謀さとその根拠の不在を疑問視しており、その彼にも、それを実際に隊員たちに命じなければならない速川の苦悩が手に取るように理解できた。

「現時点でTAが山岳演習を強行できるかというと、やはり大いに疑問が残りますしね」

 徳大寺の脇の席に控えていたA小隊を支えるTAのシステムオペレーターも、同様の意見を呈した。

「……どちらにしても、ゴーサインを出したのは、豪和だ」

 速川は、何一つ問題はないといった表情で視察に現れた清春を思い浮かべた。豪和にとっては、おそらくどれほど困難を極める実験であろうと、何らかのデータが得られるのであれば躊躇しない、といったところか。

「冷血漢」

 もう一人の男性オペレーターが、そう囁いた次の瞬間、清春が車両内に戻ってきた。

「――どのような些細な兆候であっても、決して見逃さないでください」

 清春は、そう事も無げに言い放ち、改めて後方の席に着く。

 些細な兆候? こんな苛酷な環境下で……速川は、そう胸中で呟かずにはいられなかった。

 

 

  

  3.

 

 日本に派遣したエージェントである朴が連絡を絶って数日後、評議員メスは極秘にシンボル・ジャパンを訪れていた。

「やはり日本における二足歩行型兵器開発が極秘に行われているという情報は確かなのか……」

 当然、メスの目下の関心はその一点に絞られていた。

 あれから瞠(ミハル)は、以前同様に心を閉ざしてしまった……それは、どこか硬い殻に自らを封じ込めようとするかのような。その先日の瞠(ミハル)の一件もあり、朴に北九州への極秘調査に向かわせるも、その動向に関しては、あくまで独自の自由な行動を許していたメスであった。

 それにしても――、朴の行動には、どこかシンボルのエージェントらしからぬ純粋さが見て取れた。それが自ら報告を絶っている現時点での現状にも言えることだろう。シンボルらしからぬ、か。それでも、冒されざる数多くの権限を持つシンボル評議員たるメス自身、それを責めることなどできなかったかもしれない。

 それは、人としての情。一切の株式を非公開とする非上場企業である一大コングロマリットであるシンボルでさえ、その怜悧な企業論理と無縁でないばかりか、そのために組織そのものが出来上がっていると感じる瞬間さえある。

 そう、それは時折メスが感じていた漠然たる思い。そして茫漠とした疑問。もしかしたら、まさにシンボルとは、この“ナダ・プロジェクト”のためにあるのではないだろうか……。

 

 古来、大陸からの玄関口であった北九州は、かつて邪馬台国が存在していたとされる候補地の一つであった。その邪馬台国の女王、卑弥呼(ひみか)は文字通りの巫女であったと言われている。

 ……インヴィテイター。それはまさに神依りの儀式を行う者なのかもしれない。その北九州全土を覆う皆既日食の日。それが今日だった。

 自衛隊のデータバンクには「その記録」は一切残されていないが、その自衛隊のある特殊部隊が北九州に入ったという情報がメスの元に届けられた。無論、朴からはまだ何の連絡も入ってはいない。

 ただメスの中で、部分的なキーワードが何度も繰り返される。インヴィテイター、卑弥呼、日蝕。そして特自。

「やはり一度こちらから朴を正式に呼び出さなければならないか……」

 “その瞬間”が目前に迫っていることも知らず、メスはそう考えた。

 

 TAの視覚を通してみても、その光景は微妙な現実感を欠いてユウシロウの脳裏に届いた。

 全体としてなだらかではあるが、一部屹立した山地を覆う鬱蒼とした樹木。そこに僅かばかり穿たれた渓流の谷底。

 ユウシロウが先日、稽古を行っていた能舞台に程近い断崖絶壁の石の舞台。おそらくは、そこと同じ場所なのだという漠然とした確信。……自分は、この場所を知っている……。そこは決して彼自身が見知っていた場所であるというわけではなかった。それでも位置感覚的に、彼はこの場所を確かに“知っている”ということを知っていた。

 彼らTA部隊は今まさにその場所に降り立ち、いつ見知らぬ敵が襲ってくるのではないかという茫漠とした恐怖と不安感に襲われていた。

 勿論、それは野戦演習上でのあくまで模擬的な状況設定でしかない。その意味ではシミュレーターのそれと概念上は何ら変わりなかったが、それでも現実の場所が放つ独特の磁場のようなものに彼らは逆らえなかった。

“やはり何かが、ここにはある”

 それは昨日から何度も感じていた感覚だった。その、まるで心臓を鷲掴みにされるような異様な感覚に、ユウシロウの鼓動は早くも早鐘のように打ち始めていた。

「フォーカス1、心拍数上昇!まだ許容範囲内ですが、このまま上昇し続けると……、」

 この環境下での起動では何が起こるか分からない、そうオペレーターの言葉は暗黙のうちに指摘していた。

 やはりユウシロウが感じていた異様な感覚は、他の機体の操縦士たちへも如実に伝わってきていた。それは物言わぬ圧迫感。周囲を取り囲む世界そのものが自分たちを拒否し、その確たる意思を持ってして、どこか手足の自由さえ奪われるような、そんな感覚。

 “そこ”には、やはり“何ものか”が存在していた。あれは風の音? それとも……。瞬間、突然それが何かの歌声のようにも聴こえてきて、それが単なる幻聴なのかどうかさえも判らなくなる。どちらにしても彼らは今、言葉では言い表せられないような重い“気配”を感じていた。

 しかし、それはあくまでユウシロウ自身が感じていた感覚の、その余波のようなものが他の者たちへ伝播した結果に過ぎない。それでも池口は我知らず、呼吸が荒くなり鼓動が早くなるのを感じて狼狽した。

「フォーカス2、1の動きに追随できません! 心拍数、血圧ともに上昇」

 相次いで報告されるパイロットのフィジカル・コンディション。まだ実験を開始してから数分も経過していない。ハァ、ハァ……口元を覆う酸素吸入のためのマスクも、それほどの量を供給できるわけではなく、やはり呼吸が苦しい。指定された現時点での目標地点をバイザーのHUD(ヘッドアップディスプレイ)で確認するも、池口にはそれが遥か遠くに思えた。

 

「ああ、今時点では何も起こってはいない。昨日のデータからも同様の結果が出ているよ」

 先程、一清から掛かってきた電話に清春はそう答えた。それでも、もし本当にここが閾(しきみ)なのならば――、確かにあの日、一時的に異常なバーストが確認された。それは豪和総研のデータからも事実だと清継は報告している。

 ここは、おそらくは、その日女巫女(ひめみこ)が降り立った場所……貴嶋満千留、そしてその娘である佐和子が、その日の巫女の生まれ変わりだと言うわけではないが。我ら豪和一族が古来より守ってきた余流の能楽は、ここ筑紫に淵源を持っている。ならば、その起源を卑弥呼の鬼道に見出すことは可能だろうか。いや……。

 それでも一清には、それが単なるこじつけには思えなかった。案外、嵬の血はそこかしこに分散しているのかもしれない。それが傀儡の民の足跡であったとしても何ら不思議はない。

「どちらにしても能舞の神事と骨嵬による闘いを同時並行して行う――それが真に餓沙羅鬼へと到る道となるのだ」

 一清は傍らの舞台で一心不乱に稽古を続ける佐和子を尻目に、そう呟いた。

 

 日蝕とは文字通り太陽の陽光が月に隠される現象だ。しかし、それは厳密には月と太陽とが重なる事でもある。しかも、それが皆既日蝕ともなれば、その「黒い太陽」の輝きは特別なものとなる。実に月から太陽への距離と太陽と月の大きさの比率が同じになるために、それは生じる。日蝕はこの地球上のみで観測される現象、まさにそれは宇宙の奇跡だった。

 しかしなぜ、ちょうどその日に申し合わせたかのように豪和と特自は動いたのだろう。朴は改めて疑問に思った。確かにそこは、山自体が持つ独特の磁場に覆われていた。ダム建設のため、立ち入り禁止区域となった山中へ意を決して朴は分け入っていった。

 懐の端末の電源は無論、切ってある。おそらくメスは今頃、自分の行動に少なからずの疑問を抱いていることだろう。それでも、携帯電波の届かない山中での行動が逆にその言い訳にもなった。本来なら一時的とはいえ、日蝕が起こると分かっていれば、なおのこと山へ分け入ることには危険が伴う。しかし……。

 それでも朴は自分が、それを確かめなければならないと強く感じていた。おそらくは今、鷹水も同様の行動に出ているかもしれない。一ジャーナリストとシンボルエージェント。それぞれの立場も立ち位置も全く異なっていたが、それでも互いの間に流れるどこか同等の感覚に、朴は決して彼を他人と思うことができなかった。

 そして貴嶋満千留の奇跡は、確かにどこかその日蝕を思わせた。太陽と月が併せ持つ力。その二つが融合し、そして同時に相殺される地上の者たちの混乱。人はいつでも特殊な能力を持つ者を畏怖し深く敬い、そして同様の心で自らと隔絶するのだ。

 インヴィテイター……、我知らず朴の脳裏に浮かぶ、その言葉。そのバーストが起こす爆発的な力の暴発をして、シンボルはそれを目指そうとしている。しかし、なぜそんなAAAクラスのトップシークレットについてメスは自分に話す気になったのだろう。

 そして瞠(ミハル)という少女。どこかで朴は、その茫洋とした眸に哀しみの色を感じずにはいられなかった。

 

「本日の日蝕は、第一接触つまり蝕が始まるのが一四〇七、そして第二接触、皆既蝕の始まりが一四二八。いずれにしても第一が始まった時点で、出来得る限り各隊はそのまま待機、第二接触では一切の活動を停止する」

 ブリーフィングで時前に各自に伝達していた内容を、速川は再度繰り返した。

『フォーカス2、確認』

 第一小隊の池口をはじめ、第二小隊のそれぞれのパイロットも、その命令を各自承服した。

 それでもユウシロウ機だけが答えようとしない。

「どうした!豪和大尉」

 速川のその呼びかけにも一号機のユウシロウは反応せず、沈黙したままだった。

“俺は、こんなところで何をしているんだ――”

 そう胸の内で呟くユウシロウ。その間にも彼の心拍数は早鐘のように打ち、繰り返し周囲を圧迫し包み込む、その“怨嗟の声”は、留まる所を知らぬ津波のようにひたひたと彼自身に押し寄せた。

 何度もその声を聴いたような気がする。そして、その度に彼は止め処(ど)ない奔流に押し流されるように、我を失い、ただその憎悪の矛先となって幾多の魂に導かれるまま、戦場を駆け抜けた。

 その瞬間が、またやって来ようとしていた。それは彼自身の意思とは全く無関係に……。傀儡の民。神依りのシャーマンである彼らに最早、選択権などなかった。むしろ強要されたはずのその運命に、自らを失い、狂してしまう資質そのものが彼らの悲劇だった。

 闘いこそが、我らが宿業(さだめ)!

 ……だが、本当にそうなのだろうか? しかし、その疑問も今は彼の中で本来の意味で機能しようとはせず、ただかつて眼前に繰り返された惨劇だけに、その眸は既に釘付けとなっていた。

 そう、この場所。卑弥呼の死。それが偽りの命を供物とし、捧げられたその真実に〝彼〟の魂は猛り狂った。

 どうして……、どうして。そしてその鎮魂の舞は、最早それとは違(たが)う意味を持ち、その灼熱の焔をこの地に放った。それが骨嵬を眠りから呼び起こす。それは戦いの神。いや、鬼……。留まる所を知らぬ戦乱の世に、卑弥呼の存在は確かに救済の意味を持っていた。しかし、その生と引き換えに捧げられた小さな命。どちらにせよ、乱世は人の心に繰り返される。その真実を彼は知った。

 その鬼は人々の憎悪と怨嗟の心そのものだった。それに同調した哀しみの心が、ただ己を失い、闘いに駆り立てられる。それはまさに幾多の時を経て、目に見えぬ何者かが企てた〝罠〟だった。

 “まさに宿業の焔(ほむら)が、この地を灼き尽くす……”

 そのための人柱、なのだ。同時平行的に同じ閾(しきみ)で行われる餓沙羅鬼の神事。今や一清は、着々と各観測装置の設置が終わった石舞台袖の管制車両の中で、清春が指示している指揮車両から転送されるTA演習の様をじっと見つめていた。

 モニターには同時に石舞台の様子も映されている。それはまるで鬼哭石の郷のそれと瓜二つだった。

 古(いにしえ)の時代、おそらくは我ら豪和に先んじて、その神事は今に伝えられていた。それが、ここ筑紫だ。むしろ本来の場所とは若干外れた山中に、それはあった。邪馬台国が本当にここにあったのかどうかは、最早定かではない。それでも、この石舞台がここにあったことこそが、無言のうちにそれを指し示していた。

 そう、閾(しきみ)。この一帯の磐石から、異様な磁場が検出されていることは、既に清継の調査で確認済みだった。あとは、実際に神事と実験とで事実を確認するまでだ。そのすぐ下流で行われているTA起動実験。既にユウシロウのフィジカル・データは、異様な兆候を見せ始めていた。そして佐和子も……。

 すぐに彼女はおとなしい、我が命に従順な乙女と化すだろう。そうだ、お前は可愛い妹。

 一清は最早、不適な嗤いをその歪んだ口元に隠そうともしなかった。

 

 ――満千留、すまない……。

 その心に残されたのは、澱(おり)のように降り積もる悔恨の念だけだった。

 貴嶋は、そのまま佐和子が連れ去られた後の境内に一人立ち尽くすばかりだった。石のようになった意識が一つに固められたまま、貴嶋をいつまでもその場所に押し留めていた。

 満千留の舞を、その血の中に受け継いでいたがために。決して、その血を亡者どもの餌食にするようなことがあってはならない。それがために、生まれたばかりの佐和子を乃三郎殿の元に預けた。その身内の〝悲劇〟を嫌というほど味わったであろう乃三郎殿。その彼の心を信じたからこそ……、だから木を隠すには杜の中、豪和乃三郎という本当の父の元へ授けたのだ。

 だが……。美しく成長した彼女は、最早、満千留と見違えるかのような聡明さと勘の鋭さで、ここ筑紫の実家に戻ってきた。

 否、それはやはり嵬の血のなせる業(わざ)なのか。

“おとうさん……!”

 その姿を背後から美命はそっと窺っていた。

 すぐに駆け寄りたいのに、今の彼女にはそれができない。お母さんの、本当の娘。それが〝彼女〟だった。あの人、そう私のお姉さん――は、あの舞を舞ったから何処かへ連れて行かれた。お母さんと同じ舞。それを最初に教えてしまったのは、私。お母さんに帰ってきて欲しかったから、けれど。

 “行かなければ……!”

 美命は反射的に貴嶋に縋り付いていた。

「美命?」

 “お父さん!”

 父の着物の袖を掴みながら、美命は必死の表情で訴えかけていた。その眸(まなざし)が、叫ぶように語りかける。

“姉さんを……たすけて……おねがい!”

 貴嶋は、はっとした表情で我に返ったように、その半ば泣きそうな真剣な眼差しを見つめた。最早躊躇している暇などないと、半ば膠着していた自身に、その表情は語りかけていた。

“そうだ、彼に――鷹水さんに知らせなければ”

 

      *

 

「ユウシロウ殿……」

 ふと呟いた空知に、私は振り返った。時を迎え、場所を渓流の石舞台に移した、その鏡の間での瞬間だった。

 そう……貴方の舞は、ユウシロウ殿のものとよく似ておられる。ユウシロウ、の? 思わずその、酷く懐かしく感じられる愛おしい名を反芻する。勿論、技量の上では幼いころから舞っていたユウシロウと比べるべくもないだろうが、空知は何がしかを感じ取ったのか、鏡台の傍らに置かれた面に目をやった。

「その面はシテとしての演者を遠い忘却の彼方へ連れ去るためのもの。しかして貴方は、佐和子殿は、その面に何を隠して舞われるおつもりなのか」

 既に分かりきっているだろうことを、改めて問われ、私は瞬間身を固くした。

 私……私は……、もう何度、胸の内で呼んだのかも分からない。ユウシロウ。

「この空知もその昔、一度だけ貴嶋満千留殿の舞を目にしたことがございます。それは、まさしく風の舞――我が余流と淵源を同じくする傀儡の舞」

 その漂泊の民は軍事豪族としての業を逃れ、各地に散った。その大元の名残りが筑紫舞。

「満千留殿は仰られていました。もし娘である佐和子殿が舞を舞われるようなことがいつかあるのなら、その時は、“愛する人”のために舞って欲しいと」

「……愛する人」

 そう、そうなのだ。私は何よりも、その人のために。ユウシロウのために今、舞おうとしているのだ。

 それでも、この目に粘りつくような闇にも似た、あの鋭い眼差しが蘇り、そして身を貫く――一清。

 その姿が今にして遠い忘却の彼方へ私を連れ去ろうとする。否応なしに、それは遥かな過去へと連れ戻そうとする闇そのものだった。

 改めて鏡台の前に座る自分自身を見つめる。おそらくは、この面が、私自身を騙そうとする。私の想いを、騙そうとする。そう、もしかしたら私はずっと長い間、我知らず拘束されてきた。それが兄であると知る、ずっと以前から。けれど――。

 ……私が愛しているのは、その兄ではない!

 兄と名乗った男が今、強要している舞を舞うのは、その男のためではなかった。決して、遠い過去より引きずられた魂の無念に従わないわけではない。その儚く散った想い。それを痛いほど実感できるのは、やはりユウシロウがいるからだった。今ここにいる私と、そしてユウシロウは、亡霊のように連なる過去を過去として葬れるのだろうか? いやむしろ、その遥かな過去(むかし)に左右されてしまうだけの「今」なのだろうか。

 私とユウシロウが、こうして出逢ったのは、やはり過去の因縁の末の一繋がりのものなのだろうか。

「ユウシロウ……」

 私は、まるで初めてその温かさに触れたかのように、その体温のぬくもりを今さらのように恋しく思った。そして、彼と出会ってからのことが懐かしく脳裏に過った。初めて出会った桜の木の下で木漏れ日に包まれながら、ぎこちなく微笑む制服姿。そして豪和の家で仮初の教師として彼の元に就いた日々。そして……、

 あれは、やはり過ちだったのだろうか? それでも、とうにそんなことさえ越えて、あまりに自然に二人は……。

 再び私を襲う慟哭。あまりに信じられないその事実は、私自身を貫くのに十分だった。私は二重(ふたえ)に穢してしまったのだろうか。九つ年下の私の実弟。もしかしたら、それは豪和の、そう一清の差し金だったかもしれない。ユウシロウと、そして私の中に潜む“何か”を引き出すための。

 あまりに自然に父、乃三郎が私とユウシロウを引き合わせたことが、今さらのように遠く思い出される。

 けれど、もうそんな風に、人を疑い傷つけ合うことなど、金輪際したくないと思っていたのに。

「佐和子殿……」

 ふと我に返る私の傍らで、空知検校が哀しく微笑んでいた。

 迷っておられるのですね、その言葉に一瞬、泣きそうになりながらも、私は必死で自分を抑えた。

 

 ユウシロウは、どうしてもその「真実」から逃れられなかった。

 その衝動が、どうしようもなく今の彼自身を我知らず操ろうとする。……殺された!そう殺されたのだ。少女は無為の心のまま、贄としてその身を捧げた。それを自分はただ見ていることしかできなかった。その積年の思念(おもい)が、無言の慟哭が、今も激しく胸を叩く。それはもしかしたら、自分の裡にずっと永い間閉じ込められている少女の心かもしれなかった。

 やめろ!やめるんだ!

 その虚しい叫びが、幼い命が散った空に無限に吸い込まれていく。

 そして、なおも彼自身を苛んだのは、身代わりの少女の亡骸に縋り、いつまでも泣いていた高貴な女(むすめ)の姿だった。それと知らず、彼は彼女と出逢っていた。少女との出会いと同じくして、しかし、その人はずっと以前から知っていたような眼差しで彼自身を深く捕らえた。

『刹也……、』

 弥呼姫。沙耶――少女は知った。いつしか彼女の心を占めていったのは、決して兄の幻などではなく、確かな実体と体温を持った愛しいその人であったのだと。そして少女が新たに知る真実が、少女自身の心を壊してしまうのに十分であったことを、彼はそのすぐ後に知るのだった。

 沙耶……、ごめんなさい、沙耶……。

 少女はきっと恨んでいる。私と、そして弥呼姫を。

 それでも、彼は同じ嵬である宿命を負った、その高貴な女性の側を離れることはできなかった。宿業は幾重にも連なり、戦乱の世を緋(あか)く染め上げる。そう、齢一三歳にて再びクニの女王として立てられた壹与(とよ)。彼女はその後、卑弥呼の夫弟とともに畿内へと上った。

 そうやって軍事豪族としての傀儡の民の血が大和全土へと自然に広まっていっただろうことは想像に難くない。それは永(なが)の時を経て、繰り返される終焉のない一筋の道。

 その枝分かれしてなお、己が宿命を失わぬ何の狂いのない遺伝子の命に従い、ユウシロウは今ここにいた。

 

 お父さま……美鈴さん……。

 ユウシロウにまつわる豪和の家を思う時、すぐに脳裏に浮かんだのは、あの三人の兄たちではなく、やはり父である乃三郎と母親の違う妹であった美鈴のことだった。豪和……そう、私の本当の家族。

 でも、その父も、ただ一人の妹、美鈴も、やはり私のことを許してはくれないだろう。せっかく、せっかく出会えた私の家族、だったのに。

 そう思えば思うほど、悲嘆に暮れれば暮れるほど、この思いはユウシロウへと向かってしまう。そして、そうなれば再び私は変わらぬ罪過に絡め取られるのだ。罪過、罪……? それでも、この思いは、ユウシロウへの、この思いには嘘偽りなどないと誰かが胸の内で叫ぶ。だから私は……、彼のために。

 “お姉さま……”

 ふと、その胸の中の私に語りかける少女の声がする。

 お姉さま……。どうか、お兄さまを、ユウシロウお兄さまを守って……ください!

 そう悲痛な表情に顔を歪める少女の瞳は、これ以上ないほどの切なる思いに潤んでいた。

 それは、兄を思い、そして同時に姉であった私への――、そう、そうだ。それは同じ思い。姉妹である私たちが抱く実弟であり、そして実兄である彼への思い。

 美鈴さん……。

 今にして私は、本当に彼女の気持ちが初めて手に取るようによく解った気がしていた。

 そんな、そんなことって。心から愛してしまった人が、自分の家族だった。それは赦されぬ想い。本来ならば喜ぶべき、その血の繋がりが、逆に私たちの思いを無残にも断ち切る。それでも、かろうじてそれは僅かな均衡を保ち、ここに確かに存在していた。それはやはり、私たちが――?

 

 美鈴は妙な胸騒ぎを感じて、その場に一人立ち尽くした。

 鬼哭石の郷から帰ってから、その思いはひたひたと押し寄せ、ずっと彼女の胸を深く覆っていた。

 お兄さま……先生……。二人のことを思うと、今でも身が引きちぎられるように痛い。けれど、今はそれとは違う感覚に心がどうしようもなく逸った。

 “行かねばならない”

 鬼哭石の郷で空知と対峙したユウシロウの表情からは、そんな決然とした意思が感じられた。その時はまだ、時が来ていないと感じられたのもつかのま、兄はやはり旅立っていった。そう、遠く筑紫の地へと。

 ただ待っていることしかできない、そんな自分自身が殊更に歯がゆかった。でも、でも……!

 何だかとても嫌な感じ……そう、とても嫌な予感がする。何の力も持たない自分に何かができるなど、到底思えない。でも。

 空知のおじ様、お父さま。美鈴は我知らず、祈るように救いを求めた。

 豪和の家は、まるで降り積もる古い時に埋もれた牢獄のようだった。それでも、その時の砦の中に唯一感じられた、懐かしい安らぎが確かにあった。 

 それが兄ユウシロウであることは最早何の疑いも入れない。その懐かしい安らぎ、そして何ものにもかえがたい存在である兄と、その愛する人……。

 もし自分に翼があるのなら、真っ直ぐ兄の元へ今すぐに飛んでいきたい。けれど、そこにはきっとあの人がいる。兄はきっと、そのためにかの地へ向かったのだから。それでも私は、二人を……、祈りたい。お兄さまと先生が無事であることを、私は祈りたい。

 けれどユウシロウの元へ赴きたいという、その美鈴の切なる願いは、思わぬ所で叶う瞬間が直にやって来るのだった。

 

「フォーカス1、豪和大尉!」

 いつしか一人隊を離れていくユウシロウ機。それを目前に示されたモニターのマーカーとして捉える指揮車両内。しかも、その身体状況は過酷を極め、今にも爆発しそうな程に沸騰していた。

「……フォーカス1、心拍数二八五、脈拍数、アドレナリン値も規定値を越えます!」

 ユウシロウ機は、それが当然の行いであるかのように、ひたすら上流に向かって突き進んでいく。

 そして既に時は、そろそろ太陽が欠け始める頃合であることを如実に示していた。このままだとTAの活動限界を超えたまま、山中で遭難してしまう可能性も当然ある。しかしオーバーライド、指揮車両からの自動制御システムによる停止命令もユウシロウ機は全く受け付けようとしない。

「速川中佐!」

 深刻な響きを伴って耳に伝わるオペレーターの声。速川は逡巡した。が、すぐに我に返るように命じていた。

「豪和大尉のフィジカルコンディションに目を離すな、……実験は一時中止!」

 背後の清春から、どことなく非難するかのような視線が送られた気がした。しかし、その気配はすぐに消えた。そうだ、ユウシロウの機体のデータは、まだこちらとリンクされている……。

 例え実験が中断されたとしても、決してマツリは終わってはいないことを清春は知っていた。

 

 清継は兄の常軌を逸した行為に次第に違和感を覚えるようになっていた。佐和子……。

 石舞台の周辺に篝火の焔が灯され、次第に薄暗く青みを失っていく空を仰ぐ木立を異様な空気が包み込み始める。

 神事という名目の元に行われる実験の舞。それは闇に突き動かされた豪和という業が古来、幾度も繰り返してきた行為だった。既に観測用の各機材やカメラは要所要所に配置され、豪和邸地下の情報センターや総研と繋げられたデータリンクも正常、あとは演者の登場を待つばかりだった。

 それでも今になって清継は、自らの行いを疑問視する声を今さらのように心の最奥に聞いた。

 そうだ、これは肉親を使ってまで、やらねばならぬことなのか?

 しかし、そんな清継を背後から視つめる冷ややかな眼差し――一清は一切の感情を排した心で周囲を圧迫していた。

“兄さん”

 押し殺したような静寂が清継を押し包む。時折カチ、カチと響くサーバー音が彼を非情な現実に引き戻した。その現実は、これが厳然とした定めであるかのように、ひたすら冷たく心を突き放す。その時、おそらく彼を覆っていたのは限りない闇と絶望だったかもしれない。それでも清継は、かろうじて残されていた理性で必死に考えを巡らせた。

“そうだ、父さん、父さんに――”

 

 4.

 

 貴嶋からの連絡を受け、直ぐに鷹水は豪和の動きを改めて探った。

“くそ、やられた――佐和子!”

 なぜ佐和子が連れ去られたのか、そんなことは既に解り切っていた。それよりも彼女を守りきることができなかった己自身の愚かさを呪った。やはり、ずっとそばにいるべきだった……。しかし今、最優先で必要とされるのは、怒りや後悔よりも佐和子の居場所を突き止めることだ。

「貴嶋さん!何か、何か心当たりはありませんか?」

 そう問われ、何がしか思い当たる節があったのか、一呼吸のあと貴嶋は弾かれるように答えた。

「……おそらく佐和子さんは石舞台に――英彦山の懐に抱かれた、その場所に」

「石舞台?」

 一瞬の間のあと、すぐに返ってきたその返答によって、彼女が今自分のいる場所からそう遠くない所にいることが判った。

 わかりました……! 佐和子は、“娘さん”は、必ず私が取り戻します。

 その言葉を耳にすると、貴嶋は電話口に立ち尽くしたまま、声にならない嗚咽を漏らすのだった。

 

 貴嶋からの電話を切ったあと、鷹水は早急に行動を開始した。

 特自の実験中隊がTAの起動試験を行っている渓流沿いの場所は、彼が前日から現場の調査を始めてから程なくして判明した。英彦山周辺でダム建設が行われている場所は一つしかなかった。そこを改めて洗い出すと妙な厳戒態勢を以て、その場所が登山道で封鎖されていたのだ。その名目を利用して豪和は……。

 当然、この日の午後はこの地で日蝕が始まることから、山に登ろうとする人間は誰一人としていなかった、そのはずだが。それでも、その仮初の〝闇〟に乗じて事を為そうとしている者たちがいた。そして、それを探ろうとする者たちも。

 急ぎ車を再び発車させようとした瞬間、鷹水の携帯が鳴った。

「はい――……? 貴方はっ」

 一瞬の絶句のあと、彼は誰が自分の携帯に電話をかけてきたのかを知るのだった。

 

 鏡の間で改めて目の前の女面と向き合う――その面(おもて)は増髪(ますかみ)というのだそうだ。

 髪が乱れ、神が乗り移った狂気を表したその面は、確かに今の私自身に相応しいものかもしれない。精神の異様な昂揚、眉間に寄った皺……その激しさは高貴な女性であるにも関らず、宿命的な狂気をその表情に宿していた。

 これを付ければユウシロウの元へ行けるのだろうか、私も。嵬であるユウシロウが垣間見ている世界。永遠の苦悩を繰り返す、その涯てに到る世界。けれど、私がそこへ行くのは他ならぬユウシロウを求めてのことなのだ。そんなことは、もう分かりきったこと。

 古(いにしえ)の時を経て、この思いは何かを私の心で訴え続けている。そのことが、ここ筑紫へ来てはっきりと解った。

 空知は、未だそんな私を傍らで静かに見守っていた。罪悪感とも、哀惜とも取れぬ穏やかな眼差しで。程なくして遥か彼方から響いてくるような笛の音に身が強張り、もう戻れない合図のように私の身体を縛る。狩衣の装束に身を包み、その面を付ける。俄かに視界が狭まり、もしかしたらこれは……、ユウシロウが乗っているTAの視界なのかもしれない、ふとそう思った。

 その中では、全ての現実が意味をなくす。そうしたら、もしかしたら――そんなありもしない妄想に一時身を任せる。愛したい、愛し合いたい、もう一度……決して赦されぬ想い、だから。その想いは遥か昔、この地に散った少女の思いへと俄かに変容し、次第にすべてがその時の彼方に呑み込まれていく。

 

“先生……!”

 ユウシロウは感じていた。もうすぐ彼女の元へ行けることを。

 本当は自分が舞うはずだった……身代わり。身代わり? 時を経て再現される奇妙な符合。そして今、それを決して許してはならないという激しい思いだけが、この身を動かしている。

“……佐和子、先生!”――いや、違う。

 今こそ少女の願いに応えなければならない。その思いが彼自身を否応なしに駆り立てる。

 今すぐ迎えに行く!……もう同じ過ちを繰り返してはいけない。兄様、兄様……少女はずっと呼び続けていた。その彼女の想い。その一途な思いに一度たりとも答えようとしなかった者の代わりに、自分が。

 刹也……、刹也……。それでも、自分を哀しげに見つめるその人の眸が今も語りかけようとする。その人は言っていた。沙耶を、……沙耶を。

 守れなかった小さな命。応えてやることのできなかった、その思い。だから……だから?

 しかし、今の彼には、その本当の自分の気持ちを見定めることができなかった。

 

 そして太陽は、まるでそれが一つの約束であったかのように、急速に光を失いつつあった。

 

      *

 

 鏡の間から出、橋掛かりを渡ると、そこは既に幽玄の世界だった。

 トクン、トクン……、早くも鼓動が待ちわびたかのように、軛(くびき)から解き放たれたように身体の中で脈動し始める。

 ただ静かに摺り足で移動する。深い呼吸。身体の奥深くに確かな芯が生まれ、その核が重心を固定する。そう、それは決して迷いのない思い。構えの姿勢から、扇を手にした右手を前方に挙げるサシ、そして回転。

 どの動きも予め、この身に刷り込まれたように違和感がなかった。ユウシロウが、あの日舞ったように――ただそれだけを念じ、心を無にする。

 心を無にして緩やかに舞い続けるうち、次第に私は自身が何ものであったのか思い出す。だから私は、彼ユウシロウと。いいえ。

 思い出して。私を、思い出して……。ただ無心に願う。抱きしめて、私を。私の想いを。

 その希(ねが)いを形にするように、もう一度、目の前に手を伸ばす。……ユウシロウ、刹也。

「被験者の心拍数、上昇し始めました!」

 思わず眼前のモニターに身を乗り出す清継。その背後で一清が表情一つ変えず同様に石舞台を視つめている。

 佐和子……。清継は次第に己を失っていく仕手の舞を見つめながら、やはり少なからずの後悔の念に激しく襲われていた。

 父さん! 父、乃三郎に連絡したことに、やはり一清は気付いているのだろうか。何事もないという無表情を貼り付かせた兄の顔を盗み見た。が、やはり何も感じ取れない。いつしか豪和という名の元に同じ目的に向かって邁進してきたはずが、それでもやはり清継には理解の及ばない箇所が一清には当然のごとく存在していた。

 その罪過の重みにとうに気付いたのか、父乃三郎の思いは既にこの場所に兄とともにはなかった。

 そして自分も……、このまま兄さんに付いていくことが、どんな深い悔恨をもたらすのか想像もつかない。

 それでも――それでも清継は、究極には一清の張り巡らす呪縛から何人も逃げられぬことを、やはり知るのだった。

 

 次第に光が失われてゆく。今にも泣き出しそうな、淡く僅かな青色を薄っすら滲ませる冬の空。

 それでも深い山間にあって、地上のどこよりも空に近い場所で……そんな錯覚さえ思わせる鬱蒼とした山々が神霊の磁場を放っているここでは、すべてが一幕の幻想のように感じられた。おそらく人間活動とは一切、切り離された宇宙の神秘が起こす仮初の闇が、次第に周囲を呑み込んで行こうとしていた。

 その神の気まぐれが一時の刻(とき)の間断を生み出そうとしたとて、一体何の不思議があっただろうか。

“行かねばならない……”

 ユウシロウは確かに感じていた。今度こそ自分が抱きしめなければ。そう、かの人はずっとそれを希(のぞ)んでいた。だから、初めて出会った瞬間から、こんなにも――。

 ためらいがちに触れた肌と肌。その狭間で感じていた思いは、遥か遠い時空の彼方からやってきたものだった。例えそれが嵬としての宿命を負った繋がりでしかなかったとしても。そうだ、嵬。嵬であったからこそ出逢えた。その“哀しみ”に未だ捕らえられるしか術のない出逢いだったとしても。佐和、子……、

 約束して、兄様。

 その無垢な微笑みが心を締め付ける。少女は兄の願いがため、その身を葬送の棺へと投げ出す。一振りの短剣(かたな)がその証拠だった。少女の血を吸ったそれは、ある高貴な女(ひと)の命を救うため兄の手に握られていた。だが、畢竟それも、醜い政(まつりごと)の道具としての存在でしかなかったことを貴姫の哀しみから彼は悟るのだった。

 

 あに、さま。

 

 すぅっとユウシロウの瞳孔が縮まる。この地へ赴いてから何度か晒された悲しみと怨嗟の奔流が、今は別の思いを抱いて一筋の閃光となり、彼を包み込む。もはや機械的に動く手足同様、ユウシロウを懐に抱いた二足歩行型兵器は、その想いの塊となって、ある一点を目指した。

 山間の渓流の断崖に穿たれた石の舞台。そこでは迫り来る薄闇に乗じて今まさに繰り広げられるであろう、因縁の宴を待ち侘び、監視する者達が人知れず犇いていた。ドクドクと高鳴る鼓動。心臓から送り込まれる血管の隅々まで、その血潮は哀しみに彩られた憎悪が満ち、今にも逆流していきそうだった。そう、遠い古(いにしえ)の彼方へと。

 何をしている……!

 TAの視界越しに広がるその光景に、ユウシロウの鼓動がドクッと一際高鳴る。

 まるで操り人形のように舞い続ける女仕手。僅かな風に靡くその長い髪には見覚えがあった。

 ここが何処なのかさえも、そして己自身さえ忘れ、ピンと張り詰めた氷の上で一心不乱に舞うような、その狂気の舞台で、それでも私にはそのことが解った。

 ユウシロウ!

 それでも、私は舞うことをやめられなかった。すぐそばに夢にまで見た愛する人がいる、なのに磁石で縛り付けられたように、私は今自分が成していることをやめられなかった。ああ……、けれど、それが自分自身が選択したことなのだと改めて知る。私は身代わり。そうだ、それは他ならぬユウシロウのため。そのために、私は。

「……先生!」

 やめろ、やめるんだ。その叫びが鼓膜の内側に木霊する。が、それは彼自身が叫んだのではなく、TAの機関砲が空を貫いた音だった。演習訓練用のマーカー弾は、しかし、それでも断崖絶壁の一端から孤を描いて放たれ、周囲の空気を圧する炸裂音と共に薄闇迫る虚空へと吸い込まれていった。

「TAがっ!?」

 急遽モニターの一つに映し出された映像を見て、清継が絶句しながら席から立ち上がる。

「来たか……」

 しかし一清は微動だにしていない。その落ち着き払った様子から、今さらながら清継は兄の思惑を知るのだった。

 刻一刻と太陽は、その光が及ぶ範囲を急速に縮めていく。月の陰に呑み込まれる陽光。その瞬間、すべてが凍り付いた。

 漆黒の闇に浮かび上がる光点。石舞台上、空の一点から〝それ〟は、やってきた。

 一清の顔にいよいよ浮かぶ不気味な嗤い。餓沙羅鬼――それが最早、伝承の上での御伽噺でないことは誰の目にも明らかだった。ちょうど月の陰と重なり、その周囲に眩いコロナの白焔を発する「黒い太陽」……それは、まさにそこから地上へと伸びてきていた。

 皆既日食。暗黒の太陽は、まるで人々を嘲笑うかのように、幻の舞台をそこに浮かび上がらせた。

 ユウシロウ、来ないで……!

 白い繭のような光に包まれた仕手。差し伸べた右手は、それでも最後の祈りを誰かに向けて解き放っているかのようだった。

「被験者の心拍数、三〇〇を越えます!」

 研究員のその声を背景に、清継はその場に立ち尽くしたまま、モニターと兄との間で交互に視線を彷徨わせる。

「……兄さん、ユウシロウはっ」

 だが兄は絶対零度の嗤いを顔面に張り付かせたまま、こちらに振り向こうともしない。

「やつの……そうだ。ここからが、あいつの本領発揮というわけだ……」

 無論それは、今や舞台上で対消滅の生成の場を発現させる人間発電機と化した実妹を見つめながら、しかし、それ以上の何かを期待する、その業に執り憑かれた兄の表情から窺えるのは、既に周囲の言葉など耳には入っていないということだけだった。

 

 ドクン、ドクン、ドクン……。

 際限なくこめかみを圧し続ける血流。緋(あか)い……、そう今やユウシロウの視界は真っ赤に染まっていた。

 津波のように押し寄せる濁流のごとく、すべてが坂を転がり落ちるかのように暗転していく。

 兄様……、兄様……、兄様――。

 再び“その声”を聴く。既にその肉体は滅んだはずなのに、それでも新たな魂を得た少女の叫び。

 私には、もう何も聞こえなかった。ただ、その愛を望んだ。その確かな想いだけに全てが呑み込まれていく。

 

 あにさま。

 

「ゴー!」

 瞬間的にユウシロウは、そう命じていた。

 弾かれたように飛び出したTAが、ほぼ垂直の断崖を駆け下りてゆく。アルムブラストの気化爆薬がクッションを作り、それでも神業としか思えぬ速さで獣のような、その黒いシルエットが薄闇を脱兎のごとく疾駆する。

 だめ、ユウシロウ!

 既に操り人形(パペット)と化した身体は白焔の中で十字架に磔にされたように動かない。それでも私は必死に叫んでいた。

 対消滅の光。それは確かにあの月から発せられていた。否、それは今眼前で繰り広げられる嵬の舞との作用で生み出されたものだった。それは今、折しもの日蝕との相乗効果で何十倍にも増幅される。そして今、この場に嵬が二人……。

 その光景を上空から一閃のライトで照らし出しながら、飛来した一機のヘリが見つめていた。ヘリは一度だけ旋回すると、ホバリングしながら鳥のように断崖の上へと降り立った。

「お兄さま、先生!」

 そのヘリから弾かれるように一人の少女の影が飛び出した。それを追うようにして、どっしりとした体躯が駆け寄る。

「佐和子!ユウシロウ……」

 老齢の枯木と化していた乃三郎の視界に、今まさに白い繭の中へ入っていこうとするTAのシルエットが映った。

「美鈴!」

 乃三郎は、まさに崖から飛び出さんが勢いの娘の両腕を押さえた。

「お兄さま……せん、せ……い、……お姉さま」

 半ば崩折れたまま、嗚咽を漏らす美鈴。彼女は何もかもを知ってしまった。そう、乃三郎と貴嶋宮司を通じて。

 伊集院佐和子は豪和の家の娘、美鈴の実の姉であると。本当は乃三郎は、美鈴には生涯その秘密を告げるつもりはなかった。しかし、急遽貴嶋からの連絡を受け、事態は既に留まる処を知らぬ所にまで推移していることを悟った。一清……、そうだ。清継からの密告もあった。全ては長兄の独断で行われていることであるのだと。

 それでも清継は、一見して兄に付き従っているのみの行いであろうと、豪和という宿業に囚われた、所詮は自身もその操り人形でしかないことを知っていた。そうだ、それは既に乃三郎とて同じだった。

「餓沙羅鬼の焔……豪和、千年の悲願、か」

 美鈴を押さえながら、呆然と呟く乃三郎。しかしユウシロウの搭乗したTAは、その軛(くびき)でさえ超越したかのように、その光の中へと手を伸ばす。

 人口筋肉がぶるっと震える。一瞬、そのシルエットは光の中に掻き消えたかに見えた。しかし次の瞬間、くずおれた女仕手を両手に掻き抱き、水飛沫を上げながら渓流を猛然とダッシュする姿に誰もが目を見張った。

 その一部始終を鷹水と、そして朴も木立の間から瞠目していた。互いがこの場で一堂に会しているとも知らず……いや、朴だけは知っていた。佐和子の保護者以上に「彼」にはその資格があることを。日蝕が始まってから、ほどなくして同時にその場に辿り着いた二人は、それでも、それがただの偶然ではないことに気付かなかった。シンボルと豪和、その目に見えない繋がり。だから、こうして双方がここへ導かれたということを。

「佐和子……!」

 鷹水は、その四メートルを越す巨躯がしっかりと愛する者を抱く姿に安堵とも寂寥とも取れない思いに駆られるも、すぐにTAが消えた叢林をじっと見据えた。ユウシロウ。同時に別の場所で眼前を見つめる視線にも気付かず。

 あれが豪和の二足歩行型兵器か。朴は目の前の光景に絶句しつつ、メスが語っていたナダ・プロジェクトの根幹について瞬間、思い巡らせていた。まさか、あれが……!

 全てを包み込むかに思えた巨大な光球も、仕手を喪った途端、急速にその光を失っていく。

 

「……総代が? ふっ清継、あとはお前に任せる」

 一清は事態の収束を見定めると、一人監視車両を出て行った。

 

 




2013.2.21.部分的に加筆修正
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。