1.
――それは、つかのまの再会。
けれど永遠(とこしえ)とも思える時間を経て再び出逢った恋人たちのように、その逢瀬は確かな思いに満ちていた。
そこは巨大な鍾乳洞の中だった。永い時間をかけて大地が石灰岩と水滴の力で作り上げた自然の造形物(トンネル)。昼なお暗いその場所には無論、太陽の光は届かない。それでも日蝕の薄闇から、その只中へと踏み込んだ途端、微かな燐光に包まれ、その仄かな灯りに奥へ奥へと誘われる。
ポトン、ポトン……、不規則なリズムを刻むように時折、頭上を覆う岩盤の天蓋から透明な雫が零れ落ちる。
静謐。TAの駆動が辺りを壊してしまうのではないかと危ぶまれたが、それでも不思議とすべての物音が吸い込まれていくように静かで、そこは思いのほか頑強に出来ていた。近辺を流れる渓流の水音が遠くから響いてくる。しかし、ここには確かな静寂が満ち満ちていた。
「先生、佐和子先生……!」
ユウシロウはTAから降りると、その懐の中で気を失ったままの私に呼びかけた。
操り人形(パペット)の軛から解き放たれ、それでも未だ悪夢の中を彷徨っているばかりの閉じられたままの瞼。
ピチャン、その蒼白の頬を頭上から落ちた雫が瞬間叩き、う……ん……、そう呻いて、その冷たさに突然眠りから覚まさせられる。
「先生……、」
繰り返しユウシロウは私に呼びかけた。その必死の表情が次第に開いていく私の瞳孔に映る。
一体何度夢に見たかわからない、その柔らかく澄んだ瞳の色。懐かしい――、思わず私は遠い忘却の彼方から戻った人のように目の前に屈み込む彼の表情(かお)を瞬きしながら見つめていた。
「……ユウシ、ロウ?」
とても心配そうな眼差しを向ける彼が、本当に目の前にいるのか未だに私には信じられなかった。どうして?
ここはやはり嵬に縁の地なのだろうか。そんなことを思うより先にまじまじと彼の眸を見つめる。やっと、やっと逢えた、ユウシロウ。
けれど次第に朦朧としていた意識が戻るにつれ、私はおそらく舞の直前まで自らの心を苛んでいた彼にまつわる、ある記憶を思い出して苦しげに眉根を歪めた。そのつかのまの幸福感は、狂おしい現実の前に脆くも崩れ去る。
「ユウシロウ、私……私は……」
「先生?」
突然表情を曇らせ、目に涙を浮かべる私を見てユウシロウは狼狽した。ごめんなさい、ただそれだけを繰り返して嗚咽する。折角こうして再び出逢えたのに――、それなのに。
寒い。薄い和装の衣を通して冷気が忍び寄ってくる。私はその寒ささえ忘れ、けれどさっきから身体の震えが止まらなかった。
思えば私が自ら進んで一清の言葉に従い、舞を舞ったのは、勿論ユウシロウを豪和の業から解き放つためでもあった。が、もしかしたらそれだけではない思いも心のどこかにあったのかもしれない。
罪の呵責……本来ならば、私たちは互いに想いを交わすべき相手ではなかった。いや、それはもっと以前からあった一つの認識ではあった。曲がりなりにも教師と生徒だった頃の。それでも……、私たちは、私はこの思いを停められなかった。
「ユウシロウ、ごめんなさい」
なぜ……、なぜなんだ、先生? ユウシロウは思わず反射的にそう問いかけた。
久しぶりに彼と再会できたのもつかのま、私はその〝真実〟を知ってしまった……。心が、痛い。
ユウシロウは、そんな私の潤んだ瞳を凝っと見詰め、けれど私は彼と見つめあっているそのことにさえ罪の意識を感じて、思わずユウシロウから視線を逸らす。
「先生?」そんな普通ではない私の様子に何か感じ取ったのか、ユウシロウはさらに互いの距離を縮めようとした。そっと手を伸ばし、震えている私の指先を包み込むように握り締めようとする。
「ダメ!」
次の瞬間、私はそう叫んで、己の身を引こうとした。……先生?
だめ、だめなの、ユウシロウ。私に近寄っては駄目。けれど、そう思えば思うほど眸から涙があふれ、徒に頬を伝っていく。
そんな私を悲痛な表情で見詰めるユウシロウ。そんな、そんな顔しないで……、だのに彼を愛しいと思う気持ちは、際限なく胸にあふれてくる。その度に襲い来る胸の痛みに私は、ただただ一人泣き濡れるしかなかった。
「先生――、」
ふわり、私の頬に彼の髪が触れる。突然ギュッと強く抱き締められ、私は息を呑んだ。
いつかも、こんな風に彼に抱き締められた。温かい彼の体温。けれど、その時より明らかに抱擁に込める腕の力が違う。ユウシロウはきつく目を閉じ、ただ黙ったまま逃がすまいとするかのように、私をしっかりと腕の中に閉じ込めた。彼の胸の鼓動が直接肌に伝わってくる。そう……、あの時も、こんな風に。
「ダメ!やめてユウシロウ!」
思わず私はハッとすると彼の胸に両手をついて、その温もりを突っ撥ねようとした。ユウシロウは驚いたように呆然と私を見つめる。
「ダメ……ダメなの、ユウシロウ……私たちは、」
その先は溢れ出す涙に遮られて明瞭な言葉にできなかった。でも、でも言わなければ。
――私たちは、姉弟(きょうだい)だから。
その言葉を聞いてユウシロウは見るも無残に愕然とした。出逢ってから、これまでのすべてが崩れ去っていくような。
「私の実母(はは)は筑紫舞の宗家、貴嶋満千留。そして彼女とあなたの父親、豪和乃三郎との間に生まれたのが、私……」
だから私たちは。思いも寄らぬ告白。先生が、実の姉……そんな、ばかな。
一清からもたらされた真実とはいえ、私には心当たりのあることがないとは言えなかった。なぜ私は一度覚えただけのあの舞をあそこまでスムーズに舞うことができたのか。むしろそれが酷く自然なことに思えたのが不思議だった。そして貴嶋神社やその宮司である貴嶋氏にも不思議な愛着や言葉にできない懐かしさを感じた。
「……だから、あなたのお兄さん、豪和一清は私にあなたと同じ余流の能楽を舞うことを――いいえ、これは私自身の申し出でもあったの」
私は、もうあなたを……、『ユウシロウ、自由になって』その言葉がユウシロウの胸に再び去来した。
それは、ここへ来るまで彼自身の胸に刻み付けられ、守り神のように大切にしまってきた人の言葉だった。その言葉があったからこそ自分は……、そうだ、今度は自分が。心に固く誓った何かが彼を動かした。
「佐和子――、」
再びギュッと強く抱き締められ、今度こそ私は酷く躊躇した。有無を言わせぬ抱擁。さっきとは比べ物にならない力で強く抱き竦められ、思わず身を固くする。ダメ、はなして……。
けれどユウシロウは私に廻していた腕の力をほんの一瞬少しだけ緩めると、深い眼差しで私を凝と見つめた。目と目が合わせ鏡のように永遠とも思える時空を繋ぎ、眩暈にも似た感覚に襲われる。その瞬間、時間が停まった気がした。
「ユウシロウ」
言葉もなく唇を奪われ、そのまま私はその場に倒れ込んだ。ユウシロウは熱に浮かされた夢遊病者のように私の肌に口付けを落としていく。
ぃや……だめっ……、理性ではそう反論するのに、ユウシロウの唇の感触が素肌を滑る度に吐息とともに甘い声が漏れる。好きだ…好きだ……、繰り返しその言葉が無言の彼の抱擁から聞こえてくるような気がして、甘美な痺れに襲われていく。
朦朧としたまま、肌蹴られた着物と乱れた髪もそのままに、覆い被さってくる熱い愛撫に身を任せ、嵐のようなその一時を耐え続けた。以前の彼とは明らかに違う。しばらく会えずにいた時間の隙間を埋めるように、いいえ。
――そう筑紫(ここ)へ来て初めて解った。
あにさま。
本当は、そう強く望んでいた。兄様……。わたしは頭がおかしくなんか、ない。
でも、兄様の言葉は絶対だった。だから、わたしは。
姫姉さまとあなたのことを、ずっとみていた。誰も知らない物陰から。
ほんとうは、姫姉さまにとられたくなかった。あなたを。
でも、でももう遅いの……
わたしには、あにさましか、いない。
覆い被さるユウシロウの頭髪を抱え、私は満足げに目を閉じる……。
このまま、時が停まってしまえばよかった。まるで赤子に差し出すように吸い付かれるまま乳房を肌蹴け、うわ言のように彼の名を呼ぶ。
「あっ……あ、あ……っ、ユウシロウ、ユウシロウ!」
いつかしたみたいに。ダメ、ダメ――、微かに意識の表層で、そう叫んでいる自分がいる。でも変だ。まるで金縛りにあったように身体が動かない。朦朧とした意識の中で、それが当然の行いのように私たちは再び口付けを交わす。何度も何度も、媚薬に酔い痴れるように。誰も知らないこの場所に永久に二人だけで閉じ込められてしまったみたい。
姉と弟――本当に? そんなはず、だって私たちはこうしてここで……、その先を脳裏に思い浮かべて血が凍った。それなのに、やめられないのだ。どうして? 微熱に浮かされたまま、そう問いかける。
ユウシロウが好き。ただそれだけのこと。
嵬だから……? そうかもしれない。けれど私は、そんなことを思う以前から。
出会った瞬間に? それもずっと遠い過去(むかし)から決められていたことなの?
そんな押し問答が頭の中で続けられている。わからない、でもただ一つ真実(たしか)なのは、この気持ちだけ……。
彼と心も身体も繋がったまま、いっそのこと、このまま。
そのことを想像して、瞬間目が覚めた。
「――ダメ!」
白昼夢から醒めるようにハッとするユウシロウ。その眸に光彩が戻る。何のために私は。
「ごめん、ごめんなさい……ユウシロウ」
私はそのまま半身を起こすとユウシロウを掻き抱いた。愛してる……、ギュッときつく優しく抱き締める。
「ねぇユウシロウ――私、あなたと出会えてよかった、本当に心からそう思っているの」
そう、初めて口に出して告げた。ユウシロウが好き。そのことは以前も直接彼に囁いたけれど。
「だから例えあなたが私の実の弟だったとしても、この気持ちは変わらないわ」
「佐和子、先生……」
おかしなユウシロウ。もう私、あなたの先生でも何でもないのに。そして再び抱擁。
だのにまた、私は不吉な感覚が襲おうとしているのを感じて身を震わせた。あたたかい、どこまでもあたたかで大切な温もりに包まれながら。
*
その日北九州地方に訪れた日蝕は、数分間の皆既状態を経て次第に収束へと向かった。
TA小隊は既に活動限界を越え、各人がその場で待機、非常用トランスポーターが回収に向かうのを持つばかりだった。しかし、初冬の薄い日差しがようやく戻ったのもつかの間、夕闇迫る山間部の一角に停められた指揮車両内には重い沈黙が蟠(わだかま)っていた。
「一体、何だったんでしょうね、さっきの反応は……?」
固唾を呑み、訝しげに何度もモニター画面上を見つめるシステムオペレーターの一人。機能相転移、当然そうであることを知っている清春以外は、それがこれまでに何度か起こっていた異常兆候とは、明らかに比べ物にならないものであるということ以外、事態を正確に把握することすら出来なかった。
豪和大尉――。
突然隊を乱し、行方不明となったユウシロウTA。生命維持などフィジカルコンディションのデータリンクは未だ健在であることを示していたが、彼の突然の不在が意味する事実と今回の北九州での実験演習の是非を問うこととが、全くの無関係ではないことを速川は実感として肌で捉えていた。
「豪和さん、あなた方は我々にやはり何かを隠しているのではないですか?」
重い沈黙を破り、単刀直入に鋭く清春に訊ねるも、相手が易々と真実を語るとは到底思えない。
「弟のことなら何も心配は要りません。既に場所は特定されていますから」
特定? 一体何を根拠に――だが張り付いたような無表情を浮かべる清春から窺い知れることなど何もなく、諦念とも思えるような深い敗北感に己を沈めるほか、何一つ方法などなかった。
「ユウシロウ……佐和子、」
たった今眼前で繰り広げられた一幕を記録したモニター画面を前に清継は一人呻いた。長兄の一清から後の状況管理を任され、しかし一向にその場から動くことができない。夕刻を迎え、未だ揺らめく松明の炎は、本物の闇が辺りを侵蝕する眼前の渓流に穿たれた石舞台を何事もなかったかのように浮かび上がらせていた。
彼の仮定する理論が正しければ、一度あの光に触れたものは全て消滅するはずだった。しかし、石舞台に踊り出たユウシロウ機は無事そこから脱出した。その光球の原因でもある佐和子を連れて。
「かつてこの地で卑弥呼を葬った皆既日蝕は、同時に邪馬台国の復活をも意味していた――、」
もはや現実は伝承の一部と化しつつあった。餓沙羅鬼の焔。だが、それが何を意味するのか、その現実を目の前に目撃した清継自身でさえ、全てを知りえることは叶わなかった。
「ユウシロウお兄さま……、お姉さま……」
未だその場に崩折れる美鈴を前に乃三郎は語る言葉を持たなかった。
やはり自分の判断は間違っていたのか。以前の彼には、美鈴に事実を告げることは決して得策とは思えなかった。しかし、そう考えることが、何も知らない方が幸せであると断定することが、果たして真実なのか。美鈴とて豪和の一員。そうであるならば、徒にそこから追いやり、全てを教えぬままでいることの方が、よほど残酷ではないのか。
それが証拠に、何かの予兆を感じ取った美鈴に乃三郎は懇願された。そして清継からの報告もあり、美鈴を伴い、ここを訪れたのは、彼ら豪和の宿業が何度か繰り返してきた悲劇を今再び、この地に呼び起こしてはならないと悟ったからだった。
やはりあれは間違いだったのか――ここは古(いにしえ)の豪和の源。我知らず導かれるようにして、そして出逢った一人の女性。一見して明朗快活でありながら、複雑な表情を見せるここ筑紫の風土と一致する風情を筑紫舞は醸し出していた。余流へと続く神楽舞。その凛とした佇まい。それに連なるものが、結局は乃三郎を惹き付けることになってしまった。
貴嶋満千留。彼は自らの母体である縁(えにし)を見つけた。そして今再び繰り返される悲哀。所詮は傀儡の一族なのだ。それに抗うことは自らを否定すること……そうであることを知りながら、その過去から続く因縁とともにありながら、いつかは棄て去ることを選ばねば未来はないことを、泣き崩れる娘の姿に今一度心に刻むのだった。
「お父さま、お姉さまは……」
振り返り、乃三郎の気配に気付くと美鈴は尋ねた。
「お姉さまは、ユウシロウお兄さまとのことを……?」知っているのだろうか。
それはそのまま美鈴の心と同義だった。心から慕っている兄。そして愛してしまった実の弟。そうではない、すぐにでも、そう美鈴に告げるべきだったのか。だが、そうすることでユウシロウとの絆が断絶するのではと、美鈴自身の本心を知りえぬ乃三郎には決定しかねることでもあった。
「大丈夫だ、佐和子はユウシロウが」
ただ、いたいけな末娘である美鈴を安心させることでしか、自らを鎮めることが出来なかった。
2.
日蝕が起こったその時間帯、月面の監視衛星が捉えた異常なバーストが観測された事実をメスはエージェントからの報告で受けていた。まさに彼がシンボル日本支部にて事実収集に当たっていた頃合であった。相変わらず朴からの報告は途絶えたままだ。もしかしたら彼自身、筑紫舞とその縁(えにし)に引かれた存在(もの)たちに接触しすぎたのかもしれない。
「神依りの神楽舞、瞠(ミハル)――、」
インヴィテイターである彼女も、やはり同様のバーストを感じていたのだろうか。今現在はドイツにて静養の日々を送る、その少女に思いを馳せる。ふと彼女が謡った旋律(メロディ)が今も鼓膜にこびりついて離れない。とりあえず来日したものの、それでもメスは特に自分が福岡へ訪問する必要はないと考えていた。
そこには朴がいる……彼ならば、必ず何かを見つけてくるはずだ。それが直接、閉ざされた瞠の心を開く鍵となるとは俄かには考えられなかったが、それでもなぜかメスは彼を信じていた。
日本というキーワードが常に彼らの周辺に集まろうとする。日本の一子企業である豪和と特自が開発しているという二足歩行型兵器の件もだが、必ず日本というこの国に全ての謎が隠されている。そうとまで思える何かがあるのだ。
過去と未来が交差する国――。
そして卑弥呼の伝説も、この国の過去のひとつであった。巫女、ナダの民。インヴィテイター。
その卑弥呼が没したという北九州は筑紫地方に今も存在する筑紫舞。
はたして朴は、一体どのような報告をもたらしてくれるのだろうか。
“マツリ”は終わった……、しかし鷹水には、決してそうだとは思えなかった。
ユウシロウとともに消えた佐和子。事実を確認したわけではないが、あの二足歩行型兵器に搭乗しているのがユウシロウであると、鷹水は直感で察していた。だからこそ、こうして半ば安堵した気持ちで豪和が次に仕掛けようとしている何がしかに注意を払うことができた。いや、正確には豪和一清――豪和長男であり、豪和の企業活動の一片を担うその存在が、実は全ての黒幕であると鷹水は既にある筋から知り得ていた。
佐和子の正確な居場所を教えてくれたのは、あの時彼の携帯に電話をかけてきた、ある人物だった。例え時前の調査と貴嶋宮司からおおよその位置を確認していたとはいえ、でなければ到底、彼は場所を特定し、侵入経路を確保することなど出来なかっただろう。
朴基赫(パクキヒョク)。さすがの鷹水も驚かざるを得なかった。なぜ彼が自分の携帯番号を知っていたのか、それにも増して驚愕したのは、彼が在籍しているという、ある組織についてだった。朴自身は特にそれと匂わせるものは何も語ってはいなかったが、それでも彼には直感でそれがシンボルであると解った。
シンボルが最近この北九州に潜伏していることは、鷹水も知っていた。何よりその一件があったからこそ彼らの行動が阻まれていたのだが、特自の北九州入りとともに状況は一変した。やはりシンボルも豪和の二足歩行型兵器について事実上探りを入れていたのだろうか。
無論、朴について、それ以上詮索することはしなかった。今必要なのは、そのことではない。そんなことより――、
そうだ、佐和子とユウシロウを護らねばならない。俺たちには武器がある。それは、ともすれば現在の日本を転覆させかけない諸刃の刃となるだろうが、もうそんなことは言っていられないのかもしれない。そのために冒す危険なら喜んで被ってやるさ。
シンボルの真の目的がどこにあるのか、それは定かではないが、それでも彼は信じることができるような気がした。鷹水同様、おそらくはこの日本という国を愛しているからこその、多分その行動であるような気がした。日本を愛している……そうだったのか。それは下手な愛国心よりも、もっと身近な感情だったのかもしれない。そう、最も身近に感じる、愛する者を守るのと同様に。
*
もうずっと、二人でこうしているような気がする。
ユウシロウとともに、この鍾乳洞で救援を待っている間、私たちは急ごしらえの焚き火の前でじっとしていた。夕刻を迎え、辺りに響くのは時折滴る水音と焚き火の焔が爆ぜる音だけ。TAの活動限界はとっくに過ぎてしまっていたので、こうして二人して救護を待つほかなかった。
そもそも、どうしてユウシロウがこの鍾乳洞にやって来たのか、それは彼自身分からないのだという。ただ何かに導かれるように私を伴いTAを操縦した。あの状況下では無理もないだろうが、少なからず通常の精神状態ではなかったことにも左右されたのだろうか。幸い非常用の僅かながらの食料と眼前に広がっている地下水脈による小さな地底湖から水分の補給にも支障はなかった。確かに気温は低めではあるものの雨風は十分防げそうだ。
ずっと黙っているユウシロウの隣に座り、私は目の前で揺らぐ焔を見つめていた。
こうしていると、何だかあの時のことを思い出してしまう。二人で豪和から逃げ出して、そして。
つと、再び涙が頬を伝い、膝の上に顔を埋めてしまう。
「……本当に、姉さんだったのか」
ふと呟くユウシロウに顔を上げる。さっきのことが嘘だったように訥々としたその言葉が、殊更に真実の残酷さを強調させる。
違う、そうじゃない、本当ならそう信じたかった。でも……。
「あなたと同じ舞を舞って、あなたの気持ちがもっと解ったような気がする……そのことは、すごく嬉しかった」
半ば泣き顔のまま笑ってみせる。そんな私を見て再び気持ちが昂ぶってしまいそうになりながら、それでもユウシロウは優しく私の髪を撫ぜてくれた。
「もう二度と先生にそんなことはさせない、だから」
佐和子、そう呼ぶことさえユウシロウは、どこか躊躇っているように見えた。だからといって当然、姉として接することなど。すべてがあまりに突然すぎた。二人の最初の出会いからして、すべてが。
先生、そのための諸々に、とりあえず彼が何とか対応できる呼び方。私はそれでもよかった。そう彼が側にいてくれるなら……。
お願いだから、もう泣かないで。無言で見つめる彼の心が、そう言っていた。
「……時々、そう時々夢を見るの。大昔、小さな女の子の私が草原でいつも泣いている。そして、いつもそんな私を慰めてくれる人がいて、」
その人はユウシロウ、あなたにそっくりで。
「でも、あなたには心に誓った女性(ひと)がいるの。幼い私にはどうすることもできなくて、それでもある時、私の兄さんが――、」
そこまで言いかけて私は絶句する。どうして今まで気付かなかったんだろう。その兄が一清そっくりだということに。ぞっとした表情のまま、黙りこくってしまう私にユウシロウが声を掛ける。
「……どうした?」
「怖い」
そう呟いて自分の両腕を抱く。自分が兄には逆らえない、そう実感したことと一清に命じられ、余流の舞を舞ったこととが私の中で交錯する。
もしかしたら、私はずっと兄である一清に拘束され続けてきたのかもしれない。
「兄さん、総代が来たって本当なのか?」
そちらの状況を確認するために連絡を取った清春に一清は何事もないという風に嗤った。
『ああ、そうだ。――実験の神事? まだ終わってはいないさ。ユウシロウも、それに佐和子もまだいるんだからな、』
通話を切った後、清春は兄がまだ自分の知らない何かを隠しているのではないかと感じ、絶句した。
*
以前、とあるニュース番組の映像でその舞を見たことがあった。
思えば、それが美鈴とこの筑紫地方を繋ぐ不思議な縁のはじまりであったのかもしれない。――とても、とても似ている。お兄さまの舞と。決して直に兄の舞を見る機会があるわけではなかったのに、美鈴には、その空気がユウシロウが醸し出す緊張感のようなものに、とても酷似していると感じられたのだ。鏡の間で察したそれは、面を付けた兄の姿は、どこかこの世のものではないような気がした。ここから出て橋掛かりを渡り、舞台に出た瞬間、その物語は幻から現(うつつ)へと立ち現れる。そして、ふわりと鬣を揺らし、面を付けたユウシロウが面(おもて)を上げる。美鈴の想像の中で舞っていたユウシロウの舞が、そこにはあった。
――本当に、鬼哭石(きなし)の郷の石舞台にそっくり。
そこはまるで豪和の記憶そのものが、遠く離れたこの場所に過去の時間ともども据え付けられたように、何もかもが酷似していた。……いいえ、そうじゃない。それでも美鈴にも、ここが豪和にとって特別な場所であることが感じられた。どうしてそんなことが分かるんだろう。美鈴にも解らなかった。嵬という血筋を超えた血筋が、どんなものであるのか今の美鈴には想像すらできなかった。
「お姉さま……ユウシロウお兄さま……」
二人の間に流れるものと同じものを、以前から美鈴は自身の内に感じていた。だからきっと私はお姉さまのことを……、今さらながら美鈴は実の姉であった佐和子に哀しいほどの共感を覚える自分自身を実感していた。
今さらのことでありながら、事の詳細を現場の責任者である清継から訊ねるために、総代としてここへやって来た、その本来の務めを果たさねばならなかった。しかし乃三郎には、この場所でその権威を行使することに最初から幾許かの躊躇いがあった。そうだ、ここ筑紫での出逢いが、そもそもの発端であったのだから。
ただ美鈴の思い、そして自らの子の親としての思いが、重い腰を上げさせた。否、いかねばならなかった。全ての宿縁のはじまりと決着を付けるためにも。
「TAの実験と餓沙羅鬼の神事――その二つを同時に執り行う。北九州での日蝕のこの日を兄さんは狙っていたのかもしれない」
未だモニター前から腰を上げぬまま、清継が重い口を開く。父さん……! しかし、突然立ち上がり振り返った清継の憔悴しきった眸が乃三郎を貫く。
「佐和子がユウシロウと同じ嵬であると、いつから知っていたんだ!」
豪和総代とその豪和の神事と称した実験を行う現場責任者としてではなく、父と子として今二人は向き合っていた。
そう、すべては彼女がユウシロウの教師として豪和の家に足を踏み入れた日から。いや、彼女が生まれた瞬間から、それは予想できたことだったのかもしれない。
それでも乃三郎には拒むことはできなかった。もう一人の実の娘が豪和との絆を取り戻そうとすることを。そして父を詰る清継自身でさえ、長兄である一清の野心に準ずることを決して拒まなかった事実を彼自身、どうすることもできなかった。
業、か……。すべてが豪和の者として生きる業へと辿り着く。しかし、ユウシロウだけはそうではない。そのことをきっと佐和子は伝えたかったのかもしれない。
取り急ぎ特自の指揮車両を離れ、夕闇迫る中、清春は清継と乃三郎の待つ石舞台へと向かった。
未だ豪和に疑念を抱いたままの速川中佐は各TAパイロットの回収を急がせていた。たいした装備もなく、底冷えするこの山間の闇夜に彼らを置き去りにするわけにはいかない。しかし、未だユウシロウは消息を絶ったままだった。生命維持のデータリンクだけでは正確な場所の特定は計れなかった。だが清春はその居場所を知っているという。一体、豪和大尉は何処へ向かったというのだ。そもそものこのTA演習からして謎だらけだったのだが、その全ての回答を導くものが案外ユウシロウ自身にあるのかもしれないと、再び速川の勘がそう告げていた。
日蝕の薄闇のさなか起きた各隊員達の混乱。ようやく繋がった回線に向かって速川は呼びかけていた。
「大丈夫だ。我々はTAの回収が終わるまで、この場に待機している。お前たちをこのまま山中に置き去りにしたりなんかしない」
半ばそんな冗談めいたことでも言わなければ、突然不可解な事態に見舞われた隊員たちの心を宥めることはできなかった。
ユウシロウ機が突然消息を絶ってからしばらくして、各TAが異常な動きを見せたのだ。おそらくは例のごとく、それはユウシロウTAに呼応しての極度の反応係数だったのだろうが、その突然の機能上昇(オーバーラン)に各パイロット達は当然、呼吸脈拍ともに追随できず、軽度のパニック障害に陥っていた。そしてそのまま稼動限界が訪れ、機能停止。
このままでは、豪和大尉自身に事の詳細を訊かねばならなくなるな……。
他の隊員たちへの士気に関る、そう表面では考えながらも、もっと別の思惑が水面下で蠢いていることを速川はどうしても胸中で否定することができなかった。
「豪和大尉……一体どうしたって言うんだ」
池口は指揮車両との通信を切った後、コクピットの静寂の中で一人ごちた。
あの時は本当にどうかしちまったのかと思ったぜ。日蝕の始まるさなか、一人隊を離れていくユウシロウ機。その映像が池口の脳裏に繰り返し映し出されていた。何というか酷く切迫した空気を感じた。それ以前にその時の池口は突然動揺し始めた機体に全く付いていけず我を失っていたのであったが。
ったくアイツ、本当に……TAの内部は時折監獄のようだと感じる瞬間がある、それはもしかしたらユウシロウを閉じ込めるためだけに作られた空間だったのかもしれない。彼を見る池口の心はいつでも晴れなかった。
「それじゃあ、兄さんが向かったのは……」
「そうだ、おそらくはユウシロウたちのいる鍾乳洞だろう」
程なくして訪れた清春は絶句した。時前に一清からユウシロウの居場所は分かっていると訊かされていたものの、改めて乃三郎の口から、そこに何があるのか知らされた瞬間には言葉を喪った。
「そう言えば聞いたことがある……古い豪和の縁起、その古文書に筑紫の地に骨嵬(くがい)が眠っていると」
卑弥呼が没した際、その眠りが醒まされたのどうかは定かではないが、少なくとも日蝕の時を堺にその記述が増えている。大学時代に偶然それを見つけ、興味を持ったことを清継は思い出した。
「一清兄さんは、まだ終わりじゃないと言っていた」
清春の耳に未だこびりつく、半ば狂気を秘めたその兄の声色。
特自から救出隊が派遣されるよりも早く、そのもう一つの悲劇が再現されるなどと、それでも本当は皆、信じたくはなかった。いや……おそらくは一清は、そんな弟たちを鼻で笑っているのかもしれない。今さら怖気づいたのか、と。
乃三郎でさえ一清にしてみれば豪和総代としての資格など、とうに喪っているようなものかもしれなかった。だが、それが人としての真実なのか。既に一清以外の者たちは、その「柔な」人間性に未だ立ち返ることができていた。それが豪和の者として、よいことなのか悪いことなのかは差し置いても。
まだ手遅れではない……。しかし、乃三郎はそう感じていた。
嵬――そんなものが、この世に存在しているなんて……。改めて美鈴は、さっきまで目にしていた怖ろしい光景に視界を阻まれていた。
「大丈夫だ、美鈴。佐和子は、きっとユウシロウが」
既に辺りには濃い闇夜が忍び寄って来ている。自分の羽織っていた上着を美鈴の肩にかけ、乃三郎はそっとその華奢な肩先を両手で包み込んだ。
以前も同じように美鈴を励ました気がする。佐和子がユウシロウを連れて豪和から逃げた時。その時はまだ美鈴は無垢な魂の塊だった。そう、ただユウシロウを恋い慕うだけの。それでも今はそれが少しだけ違っていた。兄と姉。そして嵬……。
どうして、そんなことが。美鈴の心は哀しみで張り裂けんばかりだった。きっとお姉さまもお兄さまも、ただお互いを心から想っていただけだったのに。ユウシロウお兄さまは、きっとお兄さまは、お姉さまのことを諦めたりなんかしない。
どうしてか、美鈴にはそう心から思えた。それは心から兄を慕う彼女の願いでもあった。
3.
「クガイ……」
それは唯一つの幻のようだった。その囁きが示すもの、それ自体が命を持った被造物のように、かの少女の唇を狂おしく震わせるのだった。
――クガイ!
その叫びを合図に瞠はがたがたと身を軋ませ、自身を両腕で強く掻き抱いた。その後、中空に差し伸べられた両の手は、明らかに誰かの温もりを求めていた。
メスはその時、日本におり、少女の身に生じた異変を一切知らなかった。
おそらくそれは古来、豪和の護り神だったのかもしれない。いや、むしろ祟り神とでも言った方が正しいのか……。一清が空知を伴い、この筑紫地方を訪れたのは、“その存在”をこの目で確かめるためだった。たしかに空知は知っていた。どこに“其(そ)れ”が隠されているのかを。そして恐らくはその狂気こそが餓沙羅の舞と同等の、いやそれ以上の地平へと嵬の魂を誘うことが出来るのだと。
TAの駆動系に使用されているマイル1。それこそが、このオリジナルと拮抗することのできる現代の鬼の手だった。――そして今ここに眠る古(いにしえ)の神。
「鬼哭石(きなし)の郷の御蔵、そして京の祠……それらとは似て非なるもの。それでもこの一体が此処にあることこそが、ここが嵬の懐であることの証」
ゆらゆらと燃え盛る松明の灯りに仏像のような空知の表情が浮かび上がる。物音一つしない洞穴内で、その焔の爆ぜる音だけが異様に生々しく響いた。
「……だからこそユウシロウと佐和子は、ここへ来た。その血が導くものこそが己の真実であると知っているからか」
一清は一人ほくそ笑む。傀儡とはよく言ったものだ。空知は己が運命を悟った従順な人形のように、唯黙々と一清に従った。その無常の心はしかし、水面(みなも)にいつしか清かなる小波(さざなみ)が立つことを待っていた。
一清はそのことを知ってか知らずか、空知に向き直る。
「空知検校、今一度我が身に嵬の舞を御教授願おうとしよう……」
無論、一清は嵬ではなかった。その苦渋を滲ませた全てが今の彼自身を駆り立てている。……狂気。そうだ、狂気こそが真の恐怖を誘う。そのための贄は既に用意されている。
クツクツと嗤いを堪える一清の脳裏には、既に全ての映像が見えていた。鬼神の目前で抱き合う二人。巫女の恍惚こそが真に餓沙羅鬼を仰(お)ぐ最高の呼び水となる。
*
TAはずっと眠っていた。先程まで信じられない潤滑な動きを見せたその駆動系も今はただ静寂のさなかに沈むだけだった。
「まるで生きているみたい……、アナタがユウシロウと一緒に私をここまで運んできてくれたのね」
私はその巨躯に手を触れながら幻のように呟いた。そう、生きている。自分がTAと一体となることで……確かに何かが目覚める。ふと振り向くと俯くユウシロウが微かに震えているような気がした。
あなたと血が繋がっていたこと、喜んではいけないことなのかしら? そう思う自分がどこかしら正気を失っていることは承知の上だった。それでも。
「……それでも私は、あなたと出会えたことが奇跡に思えるの」
ぽつりと置くようなその言葉に、再び二人の眼差しが重なる。もう何も要らない……、そう思った途端、唐突な眠気に襲われ、私はふっとユウシロウの肩に半身を傾けた。
眠いの、ものすごく……眠い。
「佐和子先生……?」
いずれ此処の火種は尽きる。そうなれば救護班が居場所を付き留める以前に自分たちは凍え死んでしまうだろう。そう思うとユウシロウは意を決して佐和子を抱き上げるとTAを残し、洞穴の奥へと向かった。
本来ならば場所を動くことは得策ではない。しかし……、しかし? いや、もっと違う理由がある気がする。なぜなんだ。なぜ、この先に何かがあると思う?
まるで灯火に吸い寄せられる蛾のようだと思った。“其処”へ行けば、俺たちは本当に一つになれる。そう、決してもう過去の過ちに傷つくことはない。悔やむことなどないのだ。
先生は俺のものだ……! なぜ自分がそうまで強固に思うのか、ユウシロウ自身その理由は定かではなかった。ただ……、過去の絆のため取り零してしまった命があることが、気づかぬうちに彼自身の深い悔恨となっていた。
唯々、嬉しい……その幸福そうに目を閉じる少女の寝顔が、今目の前で眠る人の面影と重なる。ただその想いに応えることこそが今の彼自身の使命だった。使命? 違う、そうじゃない。
俺は、先生が……先生のことが……。しかし、その先は苦しげに閉じられた瞼の奥に一つの熱となって執拗に蟠るしかなかった。
愛してる、自分を愛していると言ってくれた女性(ひと)。その全てを捧げてもかまわないと言ってくれた、そのひと。何もかも忘れて抱きしめたい。ただ、その想いの塊となって!
それがさっきまでの自分。そして恐らく再びその狂おしい激情に身を晒さなければならない、その瞬間をこれからユウシロウは迎えなければならなかった。
耐えることなどない……、「我慢など、するな」
奥へ奥へと誘われ、いつしかその朽ちかけた祠にユウシロウは辿り着いた。そして見た。その幾年(いくとせ)の眠りを今まさに覚まさんとする巨神の塊を。
そうか。さっきから呼んでいたのは、お前だったのか。そう呆然と得心するユウシロウの腕(かいな)に抱かれた私の瞼が微かに動く。
だが、その陰で本当に自分を呼んでいたのは“兄”である一清であったことを彼は同時に知るのだった。
「よく来た――佐和子、ユウシロウ」
長い髪を垂らし舞装束に身を包んだ華奢な身体を抱いたまま、ユウシロウは絶句した。
自らの欲望が導いた先に佇む一清。これは罠だ。そう理性では分かっていても、最早感情は出口を求め、先走るばかりだった。
その瞬間、私は目を覚ました。いや、目覚めたのは本来の私ではない。本来の私? それは一体誰なのだろう。何の見返りも求めず、ユウシロウを愛しいと思った私。それとも、意識の奥底に眠る、それは遥か遠い昔に生きていた少女の記憶?
「さあ、おいで……佐和子」
何度巻き戻されたか知らない古(いにしえ)の記憶が再び私の中で再生される。はい、あにさま……。
唐突に“毒”が廻ってきたのかもしれない。それは半ば断ち切ることのできない縁(えにし)という猛毒だった。私は兄様を求めていた。そして兄様も。その本来の願いと仮定される何ものかが求めるものが、今こうしてここで皮肉にも再現されようとしている。
私は完全に自分自身を喪っていた。自分のものではない足が前へと踏み出し、求めるものを間違えた両手が差し出される。呆然と立ち尽くすユウシロウから離れ、私は一歩一歩ふらつく足取りで“兄”の下へと歩んでいった。
「愛している……、佐和子」――そう、お前は私のもの。
兄様……! まるで白昼夢を見ているようだった。夢遊病者のように両の手を前方へと差し伸べ、微笑みさえ浮かべ、私は次第に兄の元へと歩み寄った。
「佐和子先生!」
そんなユウシロウを嘲笑うかのように一清は自分の腕の中へ倒れ込んだ佐和子を抱き留め、挑発した。
「どうした?ユウシロウ。お前は、お前たちはその程度なのか」
いつしか一清の口元が私の首筋を這う。あっ……その微かな吐息を合図に次第に私は壊れていく。
ユウシロウを鋭く見据えたまま、一清は傍らの妹の着物の懐へと右手を差し入れる。その掌の中で形を変える丸い乳房。
「まるでお前自身のようだな、佐和子。誰の元へ行こうと従順に全てを受け入れる……愛しい我が妹よ」
やめろ! やめろと言っているんだ!
一清の行いは既に常軌を逸していた。それでも私はその口付けでさえ喜んで受け入れてしまうだろう。クチュ、ちゅ……、耳元を犯していくその水音が、昂ぶるユウシロウの精神をさらに崩壊させる。
兄様……、恍惚としたその表情は既にすべてを失っていた。手にした大切な妹を自分の思い通りにする。一清のその思惑は遥かな古(いにしえ)の時と何一つ変わらなかった。
なぜなら、それが嵬だと判ったから――遥かな過去、同じ日蝕の日、確かに“妹”は望みどおりの働きをしてくれた。いたいけなその身を差し出し、あまつさえヤツの怒りが餓沙羅鬼の焔を呼んだ。
そして、今この時も。
「……先生をはなせ!」
その怒りが呼び水となった。目に見えない激しい奔流が魂の拠り所を求めて荒れ狂う。カタカタ、武具として鍛えられた骨嵬の鎧が次第に鳴り始める。既に先の日蝕でその力は蓄えていた。あとはそれを開放させる切っ掛けを作ってやるだけだ。その鳴動が始まると、唐突に一清は佐和子を懐から突き離した。
「――先生!先生ッ!」
そのあと彼は自分自身の身に何が起こったのかも分からなかった。ただ目の前の女性(ひと)を誰にも渡したくない、そう激昂する感情の出口として彼は彼自身の心と身体を捧げるだけだった。自分にとって彼女とは何なのか? その目に見えぬ押し問答の末に辿り着いた感情……。
愛している――その答えだけが、今は彼のすべてだった。
あとはもう全てを開放させてやるだけだった。狂ったように激情に己を任せ、ユウシロウは佐和子を掻き抱く。もどかしげに身に纏った拘束具のようなパイロットスーツを脱ぎ捨て、そして目の前の美しい女体を灯火の元に次第に露にさせる。肌と肌でしか感じ得ない何か。その何がしかがユウシロウの中で荒れ狂い壊れていった。そう、その身体の中に眠る嵬の血が二人を狂わせる。
「あっ……あぁっ……あっ」
確かに刻み付けた自分自身を忘れないよう、あらゆる場所に口付け、そして一つになろうとした。
そう一つに、唯ひとつに……!
『好きなようにして、ユウシロウ――、』
その刹那、意識の底から届けられた愛しい言葉。それを合図に跪き、艶かしい舌が動いた。己自身の奥底にて蟠っていた熱が一気に解放される。
カタカタカタ、その度に傍らの鬼神は、さらに力を蓄え目覚めようとする。一清が傍らで見ていることも構わず、二人はただ深く深く繋がろうとした。例えこれが最後でも、もう二度と悔いを残さぬよう……? それだけが、偽ることのない真実だった。
そこは古(いにしえ)の神殿。自然石でできたその鍾乳洞の祠で、巫女(シャーマン)たちは性(いのち)の宴を神に捧げる。そのための、これは一つの神事。
でも、そんなことはどうだっていい。愛してる、ただそれだけを伝えたかった。そのために目覚めるのが鬼神ならば、地獄に堕ちてもかまわなかった。
艶かしく蠢く二つのシルエットが松明の灯りに映し出される。息も絶え絶えになりながら、激しい呼吸の中から彼の名を呼ぶ。
「ユウシロウ、ユウシ、ロウ……!」
私の腰を抱きながら、どうしたって一七歳にしか見えない華奢な彼とは別人のような激しさで私を求め、いつ果てるとも知らない律動を繰り返す。痛々しいほどにユウシロウは必死だった。そうでなければ、到底取り戻せない何かが彼の血潮を突き動かす。
私は……、そんな彼の想いのすべてを真っ直ぐ受け止める――嬉しくて、嬉しくてたまらなかった。迸る汗と涙、そして互いの遺伝子を運ぶ津波のような血の海嘯(かいしょう)。
ああ、私たち姉弟(きょうだい)だったんだ……そうおぼろげに思うことすら、遠い幻のように感じられた。
「いい……とっても……、ユウシロウ、すごく……上手よ」
半ば泣きながら、それでもその想いの奔流を彼は停めることができなかった。
どうして、どうしてこんなことになってしまったの。自らの身代わりとなり、命を捧げた少女。その亡骸に追いすがろうと、もうあの日の微笑みは戻ってこない。貴姫は項垂れた顔を上げ、傍らに佇む一人の青年を見た。涙に濡れた、その瞳。けれどその犠牲によって確かに貴女は自らの運命に翻弄されることなく、こうして生かされた。そう、貴女はもう卑弥呼ですらなくなったのだ。
だが、本当にそれでよかったのだろうか。時代に見捨てられた為政者である彼女は、本来ならば終わり沈み行く太陽と共に、この棺に葬られねばならなかった。その正統な行いを誰かが乱した。ために彼女は生きることができた。そして、そのために散った一つの命。これも運命だったのだろうか。
……そんな、そんなことはない!
彼女を生かした夫弟は、畢竟彼女を政治の道具にしたにすぎない。彼女が生き延びたのは、自らの生を生きるためではなく、結局新たな政権をかの地にて起こすためであった。その鬼道は人々を従わせる大いなる力。それをもってして、再び新たなる繁栄を我にもたらす――その男が望んでいたのは、最早一介の人間の感情ではなく、血塗られた野心そのものだった。
――……刹也。縋るような、その瞳。カタカタと、祠に眠る鬼神が共鳴りを始める。
小さくいたいけな少女の命。そして目の前で悲哀に封じ込められた貴姫。その二つの生を翻弄する、どす黒い野望。赦せない、決して赦しはしない。鬼神の鋳鉄の鎧が一層激しく鳴る。……刹也!――その思いがさらなる悲劇を呼ぶ。骨嵬!クガイ……!
引き離されようとする思慕(おもい)のさなか、哀しみと憎悪が一つの白焔の柱となって大地を貫く。
あにさま。いったい私は誰を求めていたのだろう。いつでもその背中を追いかけていた。そして求められることが、こんなにも嬉しかった。兄様のためならば、私は命だって惜しくない。……けれど、けれど。
だから私は、こんなにも強くユウシロウに惹き付けられたのだろうか。好きで好きで、しかたない。どんなことがあろうと私は彼を救いたかった。そのために自分自身がどうなろうと。彼が求めるならば、何だってあげる。何があっても、彼を癒し守り、あたためる。
「ユウシロウ、好きよ……」
耳元で囁くその声。半ば我を失っていた自分が目覚める。これでもう二人は永久に離れることはない……一粒の雫が毀れ、私の頬を濡らす。それがあれば、もう怖くない。二人を繋いだ刹那が、途切れることのない明日へと向かって流れ始める。
「佐和子、先生……」
その瞬間、骨嵬の胸部が開いた。ガシッというその音と共に私は立ち上がり、舞を舞う所作のようにふわりとその奥深くへと吸い込まれていった。
「先生!……ダメだ、先生!」
ユウシロウのその声が、まるで幻のように耳に届いた。
*
美鈴さん……、その瞳はそう語りかけてきた。真摯で、どこまでも真っ直ぐな眸。
姉さんのことをもう悲しまないで。涸れかけた涙、狂おしく胸を締め付ける圧迫感にも似た後悔の念。
けれど、あの時私を促してくれたのは他でもない、この人だったのだと美鈴は知った。美鈴は目に見えない手紙を受け取った。それは言葉ではなかった。繋がった心と心だけが知っている、““私は、行かなければならないのだということを””
ユウシロウお兄さまに、とてもよく似ている。その人の風貌が、ではない。ふとした立ち振る舞いに滲む気配、のようなものだろうか。その人は筑紫舞のただ一人の伝承者。ああ、だからだろうか。ユウシロウお兄さまが知っている同じ空気を知っている、どこか哀しげでどこか柔らかな……。
貴嶋美命さん。歳は美鈴より六つほど上だったが、どことなく幼げな雰囲気と背の低さで見ようによっては美鈴と同学年にも見えないこともない。彼女は口が利けなかった。だから余計な言葉より、ずっと大切な何かを美鈴に届けてくれたのだろうか?
……お姉さま。今はもう無き魂に無言で語りかける。私は今、ユウシロウお兄さまと貴嶋神社に来ています。皆、お姉さまのことを忘れてしまってるみたいだけれど、それでも私は。そう、忘れることなどできない。例え強制されたとしても、私はユウシロウお兄さまとお姉さまのことを忘れたりしない。だから、もうここへは二度と来ません。ただ、最後にお別れがしたかった。お姉さまが生まれた場所と、お姉さまの本当の命を心に刻み付けるために。
「美鈴……?」
境内から奥まった場所にひっそりと鎮座する磐坐に透明な朝陽が音も無く降り注いでいる。
その前に佇んだまま、美鈴は先程の美命との会話を思い出していた。言葉もなく静寂の裡に、ただ心と心で交わされる会話。
「ユウシロウお兄さま。私はあの時、行かなければという美命さんの心を受け取りました。……でも、本当に迎えに行って欲しいのは実の妹の私であると」
だから。美鈴は乃三郎とともにここ筑紫へと向かった。それが身を引き裂くような悲しみを知ることになるのだということを知りながら。お姉さま……お姉さま、何度そう心で叫んだことか。けれど、その人はもう帰っては来ない、もう……。
いつしか涙が蒼白の頬を伝っていた。その涙はユウシロウが零した涙だった。けれど兄は気丈に心を固めたまま、本当の涙を見せたりしなかった。そのユウシロウの流す涙の代わりに美鈴は泣いた。彼女はただただ悲しかった。ユウシロウの、そのいたいけな強さが。
「どうして、どうしてお兄さまは泣かないのですか、お姉さまは、お姉さまは……、」
いつしかそう泣きじゃくりながら美鈴はユウシロウに縋った。決してユウシロウを責めているのではない。それでもユウシロウは、その姿に酷く胸を締め付けられた。もっとお姉さまのことを想っていてもよいのではないですか? そう大きく見開かれた潤んだ瞳が告げていた。お兄さまが愛してらした人。いいえ、きっと今も変わらずに愛している人。その心が本当なのなら、そう本当に兄は。
ふと哀しく微笑むその表情(かお)に美鈴は言葉を喪う。
――だから、お兄さまは?
「ありがとう。いいんだ、美鈴」
ただ夢のように目の前に佇む兄は言った。美鈴のその気持ちだけで、きっと先生は。いや、俺は……、振り返らず前を向いて歩いてゆける。先生を想っていた時間、一緒にいたその時間は決して消えてしまったわけじゃない。そうだ、今もここで生きている。受け取った大切な何かを、悲しみだけで台無しにしてしまいたくない、そう思うから泣かないでいるだけなんだ。
美鈴はそんな兄の言葉を一字一句聞き漏らすまいと、微動だにせず兄をじっと見つめていた。そして、それだけで美鈴には兄の気持ちが痛いほどよく解った。
――もう少し……、そう、もう少しだけ泣いていてもいいですか。
掠れた声で美鈴はユウシロウにそう尋ねた。そっと包み込む兄の体温は確かなその存在の優しさを美鈴に教えてくれた。
そう、いつの日も兄は変わらず私の側にいてくれる。帰らぬ人を思って嘆かなくてもいい、もう十分すぎる涙を流したのだから――その優しすぎる温もりがそう言っていた。それでも美鈴は兄のために泣かずにはいられなかった。
4.
静寂がその場所には満ちていた。あれは――? 目を凝らすと遠い地平が目前に近づいてきた。遠い、それは古(いにしえ)の景色。
緑も疎らな草原の所々に立ち枯れた木々が風に揺れている。その彼方に高床式の住居と竪穴式住居を幾つも構えた村とおぼしき集落が見える。いや、それはクニだった。外敵からの襲撃を避けるため、特に王の住処は地面から少しばかり隔たった場所に設えるのが、この時代の常だった。そしてそれに見守られるように集う簡素な民草の住居。
幾重にも高い城柵で厳重に覆われ一際聳え立つように構えられた城とも思える高床式住居が、集落の奥まった場所に臨めた。
――女王卑弥呼(ひみか)の住処だ。
私はその卑弥呼、弥呼姫に仕える侍従、いや侍女見習いの一人だった。幼い身でこうして弥呼姫に仕えることができたのは何を隠そう、兄の力添えがあってのことだった。そう例え奴隷と同等の扱いでも私は兄に感謝しただろう。兄がいなければ、きっと私は。
けれども私は知ってしまった、その人の存在を……。
弥呼姫の祈祷を助ける“カミツカイ”。彼らはその血に宿る力によって醜悪な鬼神を操ることで権力という名の神威を人々の前に現す。無論、実際その武具を操る彼らは、その力の媒介者に過ぎなかった。戦という名の神事に駆り出され、尊い姫を守ることによって日々生かされるだけの存在だった。そう、ほぼ奴隷同然の扱い――。
その時代、下々の者に人権など赦されなかった。私もきっと彼らと同じだったのだろう、でも。
……その人の瞳は柔らかく美しい色をしていた。薄鈍色の前髪が、どこか寂しそうなその眸の色を隠していた。
私は、その人の笑った顔が見たかった。ただその人の優しい微笑みが見たくて……、そうそれは夢にまで見た兄の微笑みだった。
あにさま。いつしか、そう呼びかけていた。
でも、それは……つかの間の幸福だった。
鈍い痛みが知らぬ間に身を貫く。うっ、そう苦悶の表情を浮かべながら視線の隅で兄の姿を探す。
この痛みは――? そう、あの少女が受けた痛み。それでも少女は笑っていた。兄の姿を見つけて微笑っていた。
『ユウシロウ……』
彼の名を囁いたはずなのに声が出ない。それでも拘束され動かぬ手足の代わりに、その鬼神が動いた。メリメリと赤錆びた鎧が音を立てて剥脱する。それでも構わず骨嵬は立ち上がり、目に見えぬ敵を求めて前進しようとした。一歩、前へ踏み出そうとしてバランスを崩し、傍らの小さな祠をその腕で押し潰す。
「佐和子先生!」
そのユウシロウの叫び声が遠く意識の外から響いた。しかし、今はそんなことより前へ進まなければならない。
不思議とそう思い、私はぬるりと全身を包み込む繭のような内臓(はらわた)の中で奥歯を噛み締めた。全身に力が漲る。いいえ、そう感じたのは鬼神と一つになったもう一つの意識だった。血走った網膜に映るのは、ただ不毛のままに拡がる、おびただしい屍の山とどこまでも緋い血の情景。
それは刹也、ユウシロウが見ていた古の風景だった。来ないで、来ないでユウシロウ。今近くに寄れば、きっとあなたを。その景色が指し示す事の異常性に気付く。けれど戦の世では、これが当たり前だった。生きるために殺し、殺すために生きる……こんなことって。けれど、もう先に進まなければならないことを私は悟っていた。
「……先生!」
必死の形相でユウシロウが叫んでいる。安心して、あなたを決して傷つけたりしない。でも、私は……そう私は。
ユウシロウは視界の片隅でほくそ笑む一清を見た。そのしてやったりの表情はユウシロウに冷たい一瞥をくれると私の乗った骨嵬を見上げた。それはもう実の妹へ向けた眼差しではなかった。
ユウシロウは本能的に残してきたTAの元へと走った。停められるのはTAしかない。それでも、その時の彼にはTAが既に稼動限界を越えていることなど頭になかった。むしろ確信していた。いや、それも違う。この身体の中に流れる血が確かに“敵”を求めていることに彼は気付かなかった。
TAの元に辿り着くと自力で搭乗し起動シークエンスを行う。思った通り機体はユウシロウの思いに応えるように、すぐに起動した。不可解であると考えるより先に意識は先程の骨嵬へと向かう。
ゆっくりとした歩調で私を孕んだ骨嵬は鍾乳洞出口へと向かって前進していく。その動きはさながら初動のTAのようにぎこちなかったが、それでも尖った牙、頭部に生えた双つの角とともに醜悪な面構えはまさに鬼そのものだった。どこか機械的なその動きが不気味さを助長させる。
TAの視界がONになると同時に早くも鬼神は姿を現した。このままここから出すわけにはいかない。本能とも思える思考がユウシロウの脳裏に閃く。何より佐和子先生を救けなければ、その思いだけでTAを動かそうとした、しかし。
……なん、だ。
いつしかユウシロウは、そのいつ果てるとも知らない怨嗟の声に飲み込まれていた。
くぐもった幾つもの呟きが地の底から這い上がるように耳の奥のさらに奥底から響き渡った。それは脳髄を侵す地鳴りのようだった。一つ、二つと立ち現れたそれは、たちまち幾百の奔流となってユウシロウの精神を襲う。
その数多の“声”と一つになった意識が目の前の骨嵬を敵と認識する。既にユウシロウには選択権は無かった。
――お前は、誰だ。
再び自分自身にそう問いかける。それはこの筑紫で彼が発した二度目の問いかけだった。
自分自身が自分でなくなるのを遠く感じながら、それでも必死にユウシロウは抵抗する。佐和子先生!大切なその人を自分は救わなければならない。しかし、そう思えば思うほど、どこかに吸い取られていく思いが目の前の骨嵬へと向かう。
――オマエハ、ワレワレジシン
頭蓋に響くその言葉を前にユウシロウは自身の意識を喪った。
……恐、怖? そう、これは恐怖だ。だから奴を倒さねばならない。時間と空間がいつしか歪んでいく。
手放した意識の底で誰かの魂(きおく)と融合したユウシロウの意識が敵に手を伸ばそうとする。TAはいつしか骨嵬に向かってダッシュしていた。さっきまで活動限界をとうに越えていた鉄の塊とは思えぬ俊敏な動きで。そして大破するのも構わず右腕を突き立てる。
その衝撃で両者はもんどり打ち、共に地面に叩き付けられる。その瞬間、二人の意識が繋がった。痛みと衝撃が直に伝わり、それがつかの間の覚醒へと導く。
『……ユウシロウ?』
「――佐和子先生!」
互いの無事を確認した、それがその第一声だった。
佐和子先生!――取り戻さねば、どうしても取り戻さねばならない、その人。ユウシロウのその悲痛な思いが、骨嵬を通して直に伝わる。でも、いいの。あなたさえ無事ならば……ユウシロウ、そのために私はあなたと出会ったのだから。
思いが満ち、私の両目から涙が溢れる。そして、今二人は闘わねばならないことを悟る。それが嵬の宿命。戦うことでしか、本当の想いを告げられない。闘っていられる瞬間だけ、互いを感じ取れる。嵬が骨嵬に乗るということは、そういうことだ。
TAに抑え込まれた状態で倒されていたかに見えた骨嵬が再び動き始める。そして思わぬ反撃。骨嵬の繰り出した一撃によって今度はTAの装甲が打ち砕かれ、剥離する。その両者の破壊された右手から人工筋肉が蠢き、のた打ち回っていた。
それは両者が同じ機構を持った同様の生物であることを思わせた。否、事実TAと骨嵬は同じものであった。ただ嵬の心を繋ぐ、遥か古(いにしえ)の嵬の心を繋ぐ兵器として。そして、その過去から連なる記憶の奔流が餓沙羅鬼を呼ぶ。
……それは哀しみの連鎖。どこかでそれを断ち切らなければ、断ち切ってすべてを忘れさせなければ……、終わりの来ない永久(とわ)の哀しみ。私が、その最初の発芽となる。すべてを忘れさせ、その忘却のさなかで本来の生を全うさせる、そのために――。
「佐和子先生!」
なおも悲痛な声で叫び続けるユウシロウ。しかし、心とは裏腹にTAは憎悪の塊となって相手を捻り伏せようとする。が、骨嵬も反撃をやめようとしない。それは、想いと想いの交感。相手への強い思いが力となって増幅され、ほぼ鉄の塊と化しつつある両者を、元ある無へと返そうとする。
ユウシロウ……。
あなたが何処にいても、そう誰になっても、ずっとあなたのそばに私はいる。そのことをどうか忘れないで。
――佐和子先生!
のた打つ人工筋肉を大破した右腕から覗かせながら、いつしか骨嵬はTAから離れ、鍾乳洞の入り口とは別の方角の縦穴へと進んでいくのだった。
あの日蝕は一つの切っ掛けに過ぎなかった。だが、ほぼ物事の推移とは、そんなものだ。
一清は宿り主を得、ついに活動を始めた骨嵬を飲み込んでいった洞窟内の奥を満足げに見やった。すぐにユウシロウのTAも追いつくだろう。だが佐和子は既に……。
“兄として”彼女を最後まで守ってやらねばならない。が、ユウシロウ。お前が佐和子を欲しいと言うのならば聞いてやらないこともない。そう、嵬としての使命を果たすならば、だ。お前たちが生み出す「力」は豪和にとって最大の福音なのだ。……愛?そんなものはお前たち、嵬に必要ではない。最も大事なのは互いを欲するがゆえの負の引力だけだ。
思ったとおりTAは骨嵬に反応した。ユウシロウと佐和子。余流と筑紫の舞。そして骨嵬とTA。豪和の源であるこの地で、過去と現在を結ぶ点と線が一つに繋がる。おそらく餓沙羅鬼は、この地にも降臨したのだ。まほろばの卑弥呼の地。確かに閾(しきみ)は、この場所にもあった。
一清のその思惑は、そうであると最初から想定していたものでもなかった。だが――佐和子の存在と筑紫との関係が豪和の宿命の中で廻り始めた瞬間、古(いにしえ)の真実が約束されたのだ。互いを断絶させられれば、させられるほど、お前たちは強く繋がろうとする。強く、深く。
そして、おそらくはその絆が握り潰される寸前、鬼神の焔は火を噴く。それはまさに生と死の狭間にある生命の本能とでも言えた。死は、本来の意味で生を欲するための一つのスイッチなのだ。だからこそ戦場は、生きるという命本来の目的を最大限に引き出す場となる。そう、人は生物は死に近ければ近いほど、眠っていたその本来の力を発揮するのだ。嵬と嵬、骨嵬と骨嵬の戦い。嵬として交わり、そして闘う。早くしろ、ユウシロウ。……佐和子が、お前を待っている。
*
「明日の式典会場到着時刻は10:15の予定となります」
無言で窓外を見つめる一清の背後に凛としたその声が響く。
筑紫でのあの緋(あか)い砲撃より半年。……日本で桜は既に散っていた。一清はゆっくりと振り向くと、目の前のその女を愛しげな、だが何がしか含みを擁した眼差しで視つめる。
「お兄様……」
ユウシロウは知らない。彼女が生きていることを――、そう清継も、そして総代や美鈴も。お前はあの日一度死んだのだから。
傀儡(くぐつ)はやはり傀儡(くぐつ)であることを知らなければならない。妹が身篭っただろう新たな嵬の命も、あの日一度死んだ。だからこそ。
濃灰色のスーツを纏ったその肩先を流れる長い髪にそっと触れる。その途端、人形の瞳に妖しげな色彩(いろ)が芽生え、不意に揺れる。
「逢いたかった……お兄様」
「……佐和子」
ユウシロウは本当にお前を愛していたのか。だとすれば。その怜悧な眼差しに一時(ひととき)宿る、記憶の残滓。そっと抱く仄(ほの)かな女の薫りも、一時の慰めに過ぎない。豪和の長女、我が妹。しかし微かに朱に艶(いろ)めく唇は、すぐに血の気を失っていく。そうだ、それでいい。
鬼神の焔に貫かれ、灼かれた魂の抜け殻。日本を遠く離れたこの地にも、閾(しきみ)はあるのか。筑紫は嵬の故郷。そして、そこで新たな命が生まれた。
豪和を追われた我が身にとって、それは新たに〝力〟へ近づくための一歩でしかなかった。その野望の亡骸(なきがら)を抱いて今一度。――佐和子。
すぐに機械的な動作に戻り、一礼して無機質な部屋を出ていく。その一瞬に消えかけた炎の燻りを残しながら。
*
プノンペン国際空港。鷹水は異国の地に降り立ち、ふと紺碧の空を見上げた。
あれから日本の政権は変わった。己自身が撮影した動画とTAにまつわる詳細なレポートによって。だが、豪和はそれでも死んではいない。豪和一清が去った今、TA開発は一旦白紙に戻されてしまったが――TA実験中隊も一度解体。速川中佐ほかの処遇も、自衛隊内部含め、国の采配を待つのみだが、豪和とともに独断で実験開発を突き進めた特務自衛隊幹部参謀である広川中佐ともども、まだどうなるかは判らない。
――これでよかったのか。鷹水の脳裏に蘇る、その眼差し。
佐和子……。
一旦死んだと思われた、彼女の存命を教えてくれたのも、彼だった。シンボル。その痕跡を追って、ここまで来た。
まだ終わってはいない、そう、まだ。
豪和ユウシロウと、その姉、佐和子。いや――。
気丈なその眸(ひとみ)に揺れる光は、まだその「愛」に生きている。
そう、それだけが……。
第一部「櫻ノ舞」―完―
CAST(想定含め)
豪和ユウシロウ/檜山修之
伊集院佐和子/篠原恵美
豪和乃三郎/小山武宏
豪和一清/高田祐司
豪和清継/速水奨
豪和清春/千葉一伸
豪和美鈴/こおろぎさとみ
空知検校/秋元羊介
鷹水誠司/森川智之
朴 基赫/大川透
メス/徳弘夏生
貴嶋紀仁/中博史
速川保/安井邦彦
池口洋介/岩永哲哉
貴嶋美命/高垣彩陽