1.
「それで、ユウシロウは?」
「大井埠頭の湾岸道路からレンタカーごと転落、その後県警の捜索隊を出させましたが、いまだ見つかっていません。が、遺体は上がっていませんから、おそらく無事なのだとは思いますが」
一清の報告を聞いて、乃三郎は深く溜息をついた。
一清にしても乃三郎にしても、驚異的なユウシロウの体力的強靭さを知っているからこそ、とりあえず安心できたのではあるが。しかし……。
「やはり彼女は一緒なのか」
「おそらくは――ユウシロウを手引きしたのは彼女ですから、多分一緒と考えて間違いはないでしょう」
一清は、そう言ってから乃三郎の表情を盗み見た。
だがその老練な仮面は、多少険しさを増している以外は、いつもの変わらぬ威厳を保っている。
「彼女、伊集院佐和子は、お父さんのかつての同僚、伊集院大祐の忘れ形見。……だからとは言いませんが、少し彼女を甘く見ていたのでは?」
それより一清には不思議でならなかった。なぜ乃三郎が彼女をユウシロウの家庭教師として、豪和邸に招き入れたのか。
おおかた佐和子を使って、国際ジャーナリストの最右翼である鷹水の動きを探ることが、その一番の理由だろうが、それにしても、あまりに隙を見せすぎている。
確かに彼女にとって豪和は、仇以外の何物でもなかった。その佐和子を自らの懐に安易に招きいれるなど、豪和の総代として、あまりに軽率すぎる。
その結果が、ある意味この不始末である。
ユウシロウを使って、膨大なデータを取らなければならないことは、この先、まだ山のように残されているというのに。
「大丈夫だ。ユウシロウは必ず戻ってくる……近いうちにな」
その乃三郎の言葉には、強い確信があった。一清は父のその落ち着き振りを半ば奇異に思ったが、
「お父さんには、何か考えがあるのですね?」
と問いかけた。しかし乃三郎は、ただ沈黙するだけだった。
「……そうですか、解りました」
だが一清は何かを察したらしく、口元に微かな笑いを浮かべ、そのまま部屋を出て行った。
切れ者で、頭がよすぎるくらいよすぎる一清と接していると、時々こちらの意図をはぐらかすのに苦労する。しかし、乃三郎は一人呟いた。
「何も解ってはおらん癖に――」
乃三郎は思いを馳せた。遥か昔、まだ自分が今のような野望に取り付かれていなかった頃、かつての友、伊集院大祐と共に過ごした日々を。
「すまぬ……伊集院」
乃三郎は目を閉じると、ひとり瞑想へと戻った。
*
「ユウシロウお兄さま……」
美鈴はひとり心配していた。あれからずっと消息を絶っているユウシロウのことを。
療養先から帰ってきた美鈴を待ち受けていたのは、兄の不在だった。
一清たちからは、特自でのシュミレーション訓練が長引いているのだと聞かされていたが、内心美鈴は穏やかではなかった。彼女は知ったのだ。それが自分を安心させるための偽りであると。
美鈴は偶然、聴いてしまった。兄たちの話を……ユウシロウは今、特自の訓練施設にいるのではないということを。
「教えてください!一体お兄さまに何があったのですか」
乃三郎は美鈴に詰め寄られ、嘆息を漏らした。
美鈴のユウシロウを想う気持ちは、常に半端ではなかった。日頃から彼女はユウシロウに対する豪和の仕打ちに、当然納得のいかないものを抱いていたのだ。
"どうしてお兄さまだけが……"
美鈴は、特自の実験中隊で厳しい訓練を受けているユウシロウのことをいつも心配していた。そしてそんなユウシロウに対して、たまに帰ってきても優しい言葉の一つもかけてくれない兄や母達のことを酷いと思っていた。
そして何より、それ以前に美鈴はユウシロウのことが好きだった。
他の三人の兄たちに感じることのない優しさを、ユウシロウは持っていた。
それは豪和という古い家に生まれ、格式張った家族の間にあって、幼い頃から常にあたたかな家族愛というものを欲していた美鈴に不思議な安らぎを与えたのだ。
美鈴の生活にあって、ユウシロウの存在はそのすべてを締めているといっても過言ではなかった。
だから、彼が長期に亘って特自に赴く時も、それがしばしであっても、美鈴はユウシロウと別れることが辛くてしかたなかった。
彼と離れている間も、彼女はユウシロウのことを片時も忘れたことはなかった。兄と再び同じ時間を過ごすことを、美鈴はずっと心待ちにしていたのだ。
それなのに――そんな彼女を待ち受けていたユウシロウが行方不明という事件は、あまりにも容赦なく美鈴の心を深く突き刺した。
そんな美鈴の胸の内を察していた乃三郎は、せめて彼女を何とか安心させてやりたかった。
乃三郎は言った。
「心配するな美鈴。ユウシロウは必ず戻ってくる……」
「お父さま……お父さまはお兄さまの居場所を知ってらっしゃるのですね。どこ?一体お兄さまは、今何処に」
しかし乃三郎は、それ以上何も言わなかった。
美鈴はその無言の横顔を見詰めながら、今も何処かにいるはずのユウシロウの無事を祈ることしかできなかった。
*
すっかり体調が回復していた私は、仙台で以前自分が暮らしていたマンションの一室に戻ってきていた。私は豪和邸に赴くまでの数ヶ月をここで過ごしていたのだ。
この部屋もまた、8年ぶりに日本に戻ってきた私のために、鷹水が用意してくれたものだった。
私は数ヶ月前に出てきたままの、きれいに整頓された部屋の中を見回すともなく見回した。
ここに以前いた当時の私は、豪和に対する憎しみの気持ちだけで生きていると言っても過言ではなかった。
しかし今は違う。今私は、ユウシロウという一人の少年に出会うことで、自分のしようとしてきたことが、いかに不毛な行いであるかを知ったのだ。
確かに豪和に対する憎しみは、まだ私の胸に内から消えていなかった。
しかし私は何かが違うと思った。豪和への復讐のため、そのために私は何か人間的なものまでも、どこかになくしてきてしまっていたような気がした。
豪和は確かに憎い。しかしこれでは、豪和それ自体のやっていることと同じではないか。
憎しみは憎しみしか生み出さない。どこかでその循環を断ち切らねば……。
そのことに気付いたのは、やはりユウシロウに出会ってからだった。
彼はまるで流れる水のごとく、すべてを受け流していた。しかしそれは彼を取り巻く周囲の状況に、ただ流されているというのとも、また少し違っていた。
あれほど物理的に拘束されているのにもかかわらず、ユウシロウは常に凛としていた。その姿はまるで、強靭な沈まない鋼鉄のようだと私は思った。
作りは一見華奢なようだが、実際の彼の精神は驚くほど強いのだ。
だが、彼には、やはり自由になる権利がある。
私はそう思ったからこそ、ユウシロウを豪和から連れ出したのだ。ただなんの確証も持たぬまま。
しかし私はまもなく知る。そのことが結局は彼自身を、再び豪和に立ち戻らせることになるのだと……。
――私は、玄関先で鳴るベルの音に我に返った。
「はい」
扉を開けた私の前に立っていたのは、ユウシロウ本人だった。おそらく鷹水が場所を教えたのだろう。
「ユウシロウ……どうしたの急に?」
「よかった、元気そうで」
ユウシロウは私の顔を見ると、思わず微笑んだ。
突然尋ねてきた彼に私は一瞬戸惑ったが、すぐに笑顔で彼を部屋に招こうとした。が、
「今日は、お別れを言いに来ました――」
ユウシロウのその言葉に、私の表情が強張った。
マンション近くの公園の遊歩道を私たちは無言で歩いた。
『どうしても話しておきたいことがある』
先程のユウシロウの言葉が何度も頭でリフレインしていた。
でも、なかなかユウシロウは話し出さない。
しかし同時に私自身も、ユウシロウに告白しなければならないことが一つあることを知っていた。
夏も終わりに近づいたその日、竹林の渋緑の中で最後の残照を惜しむかのように蜩の声が響いていた。
その静寂が包む夕陽の中、重苦しい沈黙に抗うように、ふとためらいがちに私は切り出した。
「私もあなたに話さなければならないことが……いえ、謝らなければならないことがあるの」
ユウシロウはそんな私の緊張した面持ちを凝と見つめた。
しばしの沈黙のあと、私はやっと口を開いた。
「……ごめんなさい。私、あなたをずっと騙していたかもしれない。私には婚約者がいるの」
しかしユウシロウは一瞬寂しげな瞳の色で俯くと、動揺するでもなく言った。
「そうか……」
彼には何もかも解っていた?
私は思わず彼の顔を見つめた。その表情は、ある決意に硬く凍り付いているかのようだった。
そして次の瞬間、ユウシロウは言った。
「今まで、ありがとう……」
「ユウシロウ?」
「佐和子先生には感謝している、とても……でも」
私はユウシロウの顔をさらに凝と見つめた。彼が言おうとしていることを、ひと言も聞き漏らすまいと。
「――豪和に、戻ろうかと思ってる」
ふと呟いたユウシロウのその言葉を聞いて、一瞬すっと周囲の潮騒のようだった蜩の声が遠のくのを感じた。
なぜだか彼からその言葉を聞かされることを、いつからか私は予感していた。
「どうして……? せっかく豪和から逃げられたのに」
しかし静かに反論する私に、ユウシロウは穏やかに告げた。
「これ以上、先生に迷惑はかけられない」
私はその一瞬、とても悲しくなった。
しかしそれが彼自身の私に対する精一杯の思いやりなのだとも解っていた。だからこそ、彼の運命がひたすら哀しかった。
そして何ひとつしてやれない、彼を助けてあげられない自分自身の無力さにも――。
「ユウシロウ、本当に行くのね」
瞳を潤ませながら、私はユウシロウの瞳を見つめた。その澄んだ瞳の中に、切なげな私の表情が霞んで見えた。
ユウシロウは優しく静かに頷いた。
「先生、ありがとう。僕も先生のことが好きだった――」
"……!"
そのユウシロウの言葉に、私の中でぷつんと何かが切れる音がした。
私は思わずユウシロウを腕の中に抱き締めていた。
「ユウシロウ……」
「佐和子、先生」
ユウシロウは私の背中を優しく抱きながら、その名をそっと囁いた。
私のぬくもりが、冷たく凍っていた彼の意識を次第に溶かしていく。
そのあたたかな感触に包まれながら、ユウシロウはひと時、幸福な感情(おもい)に包まれ満たされていった。
そして私も、ユウシロウの体温を直接肌に感じながら、自分の中にある決心が芽生えていることを知った。
*
「それで、ユウシロウ君を豪和に戻そうと言うのか?」
私に背を向け、窓外を眺めながら、オフィスの一角で鷹水は言った。
「ええ――第一にこれは彼自身が望んでいることなの。私たちには彼を拘束する理由も、ましてや束縛する権利もないわ」
しかし鷹水は、そうきっぱり言い放つ私をちらと振り返ると、こう言った。
「確かにそうだ――だが、それは許可できない……もしそう言ったら、君は僕を許さないかな?」
鷹水は、思わず緊張する私の顔から視線を外すと、ふっと溜息を漏らした。
「君は何のために豪和に潜入したんだ。豪和に復讐するため、君は僕たちに協力してくれた……いや、無論同士として。そうじゃなかったのか?」
「それは……」
鷹水の言葉に私は二の句が告げられなかった。確かに私には、彼に反論する権利など何ひとつないかもしれない。
しかし鷹水は次の瞬間、優しい表情になって私に囁いた。
「君が彼を哀れむ気持ちはよくわかる。そう、君はとても優しいひとだから」
そして鷹水は私に近づき、何気ない風を装って婚約者の素顔に戻ろうとした。何か悪い予感が、……だから敢えて鷹水は彼女を突き放した。
「だからと言って何も君が危ない橋を渡ることはないんだ。僕は本当は反対だった。君を豪和へやることなど……そうだろう? 君には復讐など似合わない」
そう。豪和邸に潜入することを最初に言い出したのは私だった。
その固い決意を知りながら、鷹水はそれでも私をこうして待っていてくれた。……その変わらぬ優しさで。
でも――。
「佐和子」
鷹水は、さらに私との距離を縮めた。しかし、その唇が唇を奪おうとした刹那、その手をすり抜け、私は彼を拒んだ。
次の瞬間、私ははっとして我に返った。
「ごめんなさい……!」
私はようやくそう言い残して踵を返すと、戸惑いながら部屋を走り出ていった。
*
「ユウシロウ君、君は〝嵬〟の末裔……だそうだな」
「カイ?」
ユウシロウは鷹水の言葉に顔を上げた。
仙台支部の屋上。その近くの寮で数日間、世話になっていたユウシロウが突然、鷹水を訪ねて来た。ま、何を言いに来たのか大体のところは解っていたが。
「ふ……知らないのか、自分のことを」
夕空が二人を照らした。その鷹水の言葉の真意を探ろうとするユウシロウにかまわず、鷹水は続ける。
「まあいい。それにしても驚いたよ。佐和子が君を連れて豪和から逃げ出したと聞かされた時は」
「……」
ユウシロウは再び沈黙の中に戻っている。
「豪和の開発したタクティカルアーマー――通称TAの実験において、いわば君はなくてはならない存在だそうだが、一体それはなぜだろうな?」
「それを聞いて、どうしようと言うんです」
「そうだな、……豪和に隠された千年の秘密。それを世に暴いて、これから豪和がしようとしていることを、我々の組織が通じているメディアに検証させてみせようか」
そう言って鷹水はユウシロウの反応を窺った。しかし彼は、まるで何一つ聞いていなかったかのように沈黙している。
だが、鷹水は既にすべてを知っていた。
豪和が骨嵬の組織を用いたTAを使い、そして〝嵬〟であるユウシロウを使って、餓沙羅鬼の神事を復活させようとしていることを。
それは古くから豪和の一族が代々その禁忌の舞によって求めてきた、権力という名の妄想……いや、野望か。
しかしその力を目覚めさせることのできる唯一の鍵である当のユウシロウ本人は、そのことをどう受け止めているのだろうか。
いや、彼は既に豪和の操り人形でしかないのかもしれない。そうでなければ、この哀れな少年が、ただ豪和の意図に従うばかりでいるはずがない。
しかし、本当にそうだろうか?
鷹水は隣に佇むユウシロウの眸の中に、只者ではない光が宿っているのを知らなかった。
それでもこの少年は、いつか自分から行動を起こす――それがいつのことなのかは分からないが、鷹水にはそう思えてならなかった。
"しかし佐和子は――"
鷹水は昨日の私の不可解な行動を思い返していた。
"一体佐和子と彼の間に何があったのだ……"
そのまさかの真実……鷹水は今すぐ側にいる華奢な少年が、自分の恋敵だということに気付いているのかいないのか、視線を遠くに投げた。
「それで君は豪和に戻ってどうするんだ。また父親や兄さんたちの言いなりになって、特自で実験を繰り返すのか」
「解りません……でも」
「でも?」
「――先生は僕に自由になれと言った。僕にはその権利があると」
「だとしたら佐和子は、豪和にとって厄介なことを君の心に植えつけたことになるな」
鷹水はやれやれといった調子で付け加えたが、ユウシロウは佐和子の言ったその言葉の意味について、あらためて思い巡らしていた。
「……お世話になりました」
つと、そう律儀に告げる朴訥とした少年の言葉を、鷹水は心なしか寂しげに苦笑いながら聞いていた。
*
「そうか。ユウシロウは自分からそう言ったのか」
『――ええ。これ以上、迷惑はかけられないと』
「……そうか」
乃三郎は目を伏せた。その瞬間、乃三郎の書斎にしばし沈黙が流れる。
『それにしても、本当に彼を使って神事を復活させるおつもりですか……?』
乃三郎は専用回線のモニター画面越しに問いかける人影に向かって口を開いた。
「儂はもしかしたらまた同じ間違いを繰り返そうとしているのかもしれん。……しかし傀儡子の一族の末裔であるこの心が、血が囁くのだ。お前は神事を伝えていかねばならないのだと」
『――貴方は自分の息子ばかりでなく、また別の〝嵬〟の血を受け継ぐ者の命を奪うおつもりですか?』
その非難の色を含んだ言葉の響きに、乃三郎は殊更に深く打ち沈んだ。しかし男は続ける。
『……佐和子は、どうやら彼を愛してしまったようです。貴方はまたもそんな彼女の心を間接的に不幸に陥れようとしている。貴方は、貴方の友人であった伊集院氏を、いや、その家族をも見捨てた――それは何のためですか?そうまでして築き上げたい栄光とは、いったい何なのですか』
眉根一つ動かさず聴いている乃三郎に、その言葉は降り注いだ。
『……しかし、こうしてこの場で私が貴方とお話しているのも、貴方の中に佐和子とその家族にしたことへの後悔の念が残されていると信じているからなのです』
男は一旦言葉を切ると続けた。
『――豪和に関する様々な情報を提供してくださったことには感謝しています。しかし本当に貴方はそれでよいのですか?本当に餓沙羅鬼の神事を復活させることを自ら承諾なさるおつもりですか』
乃三郎は男の言うことが間違っているとは思わなかった。
いやむしろ、自分がこれからしようとしていることにこそ、過ちはあるのだろう。そのことは既に8年前に喪った一つの命によって、痛いほど己の胸に刻まれたはずである。
しかし、乃三郎の奥に巣食う思いとは裏腹に、すべての歯車は、今現在推し進められている豪和のプロジェクトに従い、既に動き始めようとしていた。
……もう、誰にも止められないのだ。それは豪和の総代である乃三郎にも。
いや、彼自身でさえも計り知れない大きな渦の中にすべてを巻き込もうと、時間の秒針はただ規則正しく歩を進めるだけだった。
「佐和子君のこと、今までありがとう……それからユウシロウのことも」
乃三郎はそう最後に言葉を残し、通信を切った。
"解っている、解っているとも……"
乃三郎は深く目を伏せると、ただ胸の内で、そう呟くことしかできなかった。
2.
ユウシロウは、豪和邸に戻った。
帰ってすぐ彼は再び、以前のように特自での実験の日々に明け暮れる毎日に戻ることになる。
当然だが、その日々に佐和子の姿はもうない。
しかしその代わりに、そんなユウシロウを玄関先で美鈴が待っていた。
「お兄さま」
「美鈴……」
美鈴は何も変わりない兄の姿を見て、安堵のあまり思わず涙ぐんだ。
「ユウシロウお兄さま、ずっと心配していました。お兄さまが行方不明だと聞いて私……でも、よかった。こうして無事に帰っていらして」
「……すまない」
ユウシロウは自分の身を深く案じてくれていた美鈴に、ひと言だけ詫びると、ただ泣きじゃくる彼女の肩を抱いてそっと慰めた。
「いったい、どこに行っていらしたの? お兄さま」
しかしユウシロウはそれには応えず、美鈴の身を気遣って言った。
「あまり興奮すると身体に障る。さあ、奥に入ろう」
ユウシロウはそっと美鈴を促して一歩前に踏み出した。
と、そんな彼を上がりかまちで一清が待ち構えていた。
「一体どこに行っていたんだ……そんなことは訊きはしない。だが、これだけは忘れるな。お前は豪和ユウシロウだ。我ら傀儡子の民の呪縛から、貴様は決して逃れられはしないのだと」
「……」
一清の鋭い一瞥を背中に感じながら、ユウシロウは美鈴と共に屋敷の奥へと消えていった。
"そう。俺は豪和ユウシロウ……だが、本当にそうなのか?"
ユウシロウは、ただ何の根拠もなくそう思う自分を不思議に思った。
しかしその思いが、決して偽りではなかったことを、ずっと後になってから彼は知ることになる。
一方美鈴はユウシロウに抱きかかえながら、彼に纏わり付いていた、ある女性の"匂い"を感じ取って、胸の内で密かに狼狽していた。
それは、微かに鼻をくすぐる芳しい香水のような薫りだった。
"でも……まさか、そんな"
美鈴は己自身を疑ったが、以前と何ら変わらないユウシロウの優しい微笑みを見て、きっと気のせいだと自分自身に言い聞かせるのだった。
*
「やっぱり私、行きます」
しかし鷹水は、今にも飛び出していきそうな危うい私の腕を掴んで引き止めた。
「君が今行ってどうなる? 今度は顔パスというわけにはいかないんだぞ。いや、それどころか今行ったら、君まで豪和に軟禁されてしまう。君は豪和の秘密を知る者の一人だからな」
「でも!彼を放ってはおけない。このままでは彼もまた神事の犠牲にされてしまう!」
必死に抵抗する私を見て、鷹水は思わずその手の力を緩めた。そして溜息をついた。
「君はなぜそうまでして彼に固執するんだ。確かに豪和のしようとしていることは、世間的な一般論としても、そして我々ジャーナリズムに預かる人間にとっても決して見逃せない、許されざることだ。だが、たとえジャーナリストのはしくれだとしても、それに殊更に君が加担することはない――いや、ユウシロウ君のことは君には全く関係のないことじゃないのか?」
「……関係ない?私にはとてもそうは思えない。だって私、私は」
私のその辛そうな表情(かお)を見て、鷹水は一瞬沈黙した。そして次の瞬間、悟ったように口を開いた。
「そうか、やっぱりそうだったんだな……君はやはり彼のことを」
その言葉に瞬間的に私の身体が固まった。
「……ごめんなさい、誠司さん。私、これまで全部あなたにして貰ったことを決して忘れたわけではないの……感謝してる。でも、だめなの。私はやっぱり彼を、ユウシロウを」
皆まで言えず、苦悶の表情になる私に、鷹水は諭すように言う。
「解ってるのか? 彼は普通の人間じゃない――彼は〝嵬〟だ。いわば餓沙羅鬼を呼ぶための生きた兵器なんだぞ。それでも君は行くと言うのか」
「ええ、だからこそ私は……私は彼を救いたい。そんな権利、私にはないかもしれないけど。でも、もう止められない。私はもう、この命だって惜しくはないわ。そう、彼のためなら――」
鷹水は私のその深く思い詰めた言葉を聞くと、低い声で呟いた。
「そうか、解った……そこまで君の決心が固いというなら、俺はもう止めはしない。だが、これだけは言っておく。決して無茶はするな。危ないと思ったら、すぐ手を引くんだ」
鷹水は無理な忠告だと思いながら、それでも最後まで私の身を気遣ってくれた。それが精一杯の彼からの愛情だと分かった。
「ありがとう……誠司さん」
私は真剣な顔つきの鷹水に背を向けると、そのまま振り返らずに部屋を出て行った。
*
「何、取材だと? 何度言ったら解るんだ。すぐに断ってくれ」
乃三郎は、苛立たしげにインターフォンに向かって言い放った。
『それが……先方様は、軍事機密に関わる豪和の新兵器開発について、取材したいとおっしゃっているのです』
受付嬢が言い難そうに、おずおずと言葉を継いだ。
「なに?」
乃三郎は一瞬言葉を失った。
豪和の二足歩行型兵器開発は、決して外部に漏れてはならないトップシークレットだったが、そうすると……余程の情報技術がなければ、その情報バンクへのアクセスも容易ではないだけに、その相手は限られてくるのだった。
乃三郎は、己の心のうちを振り返った。しかし別の意味で若干驚いてもいた。
豪和の秘密に触れようとすればどうなるのか、一般的なマスメディアの出版関係者ならば、既にそれは解り切っている暗黙の了解でもあった。
それを正面切って取材に赴くとは……。
しかしそれでも、その相手に全く心当たりがないとは言い切れなかった。
「いいから断るんだ。そんな事実は無いと言ってやれ」
しかし次の瞬間、執務室の扉が開き、ある女性が姿を現した。
「取材の相手が私でも、ですか?」
「君は……」
乃三郎は、その女の顔を見て、思わず息を飲んだ。やはり。
そう――それは私、伊集院佐和子だった。
乃三郎は深く溜息をつくと、口を開いた。
「……一体何をしに来たのだ。ここへ来るということがどういうことなのか、君には本当に解っているのか?」
たとえ「彼」と通じているとしても、まさか彼女がそこまで決行するなどとは。
「ええ。それは承知の上です、おじ様」
「それなら、話は早いわけだ」
と、その時、扉を開けて入ってきた長身の男がおもむろに言った。
その男の氷のように冷たく鋭い視線に、一瞬私は身を硬くした。
「一清……」
乃三郎は、一清に厳しい一瞥を送り呟いた。
「一体どこからその情報を手に入れたのか、詳細は後ほどゆっくり訊くとして、さて、どうしましょうか、総代。いずれにしても取材の後、このまま彼女を黙って帰すわけにはいかないでしょうね」
不気味な陰を落とす一清の眼光に射竦められ、それでも私は怯まずに言い放った。
「豪和がどんな兵器を開発しようとしているのか、そしてその兵器とあなた方の実の肉親であるユウシロウを使って、何をしようとしているのか、すべてを調べさせて貰ったわ」
「……それなら尚更、このままあなたを帰すことはできないな」
ふっと鼻で笑うと、一清はいつのまにか後ろに控えていた部下達に眼だけで指示した。
私は素早く背後に回った一清の二人の部下に、しっかりと両腕を抱えられた。
「失礼ですが、さて一緒に来て貰いましょうか」
私は二人の男に連れられ、執務室から廊下を経て、地下へつながるエレベーターへと歩き出すしかなかった。
「おじ様、一つだけ聞いてください!私はもう人を憎むのをやめました。憎むより、ずっと大切なことがあると――私はそれを彼から、ユウシロウから学びました。もう、つまらないことで自分を偽ったりしない。だから、おじ様も約束してください!もう過ちは繰り返さないと……あなたの実の息子を、神事の犠牲にするようなことは絶対にしないと」
しかし乃三郎は、深く瞼を伏せ、そのまま岩のように凍りつき沈黙した。
「おじ様!」
私の叫びは、やがて暗く深い地の底へと吸い込まれていった。