1.
慌しく足早に過ぎていく季節は、既に初秋に突入していた。
日本アルプスの山々に囲まれた盆地に位置する豪和市。
その地方都市にも、既に乾いた秋風は俄かに目に見えるように吹き始めるようになっていた。
澄み切った冷たい夜気が頬を掠めていく。
私はぽつぽつと街路の灯る舗道を、足早に歩を進める。さらに豪和市の一角にある特自の実験センターに向かってタクシーを拾う。
今頃ユウシロウと美鈴は自分の思った通り、ともに出合っているのだろうか。
その頃ユウシロウは、人の波に飲まれた美鈴を追って、夜の路をさまよっていた。
やはり病弱な美鈴のことが心配だった。それほど遠くへは行けないとは思いながらも、ユウシロウは美鈴の身を案じた。
たったひとり、兄である自分を求め、ずっとさまよっていた美鈴の心は、だがしかし今は、独りきり夜の寒空の下を、あてどなく漂っていた。
そう思うと、ユウシロウの胸は痛む。
美鈴は俺と先生のことを……。
だが、幾ら悔やんだとて、真実は何一つ変わらない。
もし何か一つ実の妹である美鈴に自分ができることがあるとしたら、何よりも自分の心に嘘をつかないことだ。それこそが誠心誠意、最愛の妹に対する偽りない兄でいることなのかもしれない。
しかしそれは同時に、美鈴にとって最も残酷な仕打ちであることも、また変わらなかった。
「美鈴、どこにいる……!」
だが、どれほど案じても、今の美鈴には兄の心でさえ届かなかった。
しばしタクシーに揺られた私は、シミュレーションセンターのある特自実験棟の門前に降り立った。
ここで日々ユウシロウは……。
ふと、そう思い巡らせたが、すぐに気持ちを切り替え、そこから改めて二人の足取りを追うことにした。
ユウシロウと美鈴さん――血を分けた実の兄と妹。それなのに、やけに心が騒ぐ。
何より美鈴さんの私を見る棘のような視線が痛かった。
それでも私は、ユウシロウとの事を偽ることなどできなかった。二人に芽生えた何かはもう花開き、確かな実を付けようとしていた。
"お兄さまが好き――"
明らかに美鈴の潤み詰るような瞳はそう語っていた。
どこまでも一途で純粋なその想い。
けれど"私たち"は、もしかしたら、たぶん似た者同士なのかもしれない……?
――美鈴さんは、きっと認めようとしないかもしれないけれど。
でも、私にはその気持ちが痛いほどよく解る。
そう、たとえ兄妹だろうと。教師と生徒だろうと。
ふと前髪を揺らして通り過ぎる夜風にコートの襟を立て、私はまたユウシロウの温もりを思い出した。その同じ温もりを欲している少女がひとり、彼を恋しがって泣いている。
そう思うと、殊更にきりりと胸を刺す痛みが増した。
私たちはユウシロウという静かなる青い惑星を廻る、まるで二つの衛星のようだ。
その二つ月は互いに反発しあっているようで、その実その引力は、どうしようもなく引き合ってしまうのかもしれない。
そう――ユウシロウという、かけがえのない大地を中心に据えたまま。
美鈴は死んでしまいたいと思っていた。
"お兄さま……ユウシロウお兄さま"
その名ばかりが何度も脳裏をよぎる。このまま兄の面影を抱いて、冷たい湖の底に身を投げてしまいたい。
そう、オフィーリア。あのシェイクスピアの一節のように……。
常日頃、愛読してもい、まだ学校に通学していた頃、所属していた演劇部の劇の台本でもあったそれを思い出し、この場に河も湖もないのに、美鈴はまるで不幸に酔うヒロインのように思った。
けれど心とは裏腹に、自分はその兄の前から逃げ出した。逃げ出してしまった。
……最愛の兄。
そうよ、ユウシロウお兄さまは……私……私、の。
そこまで切なく思い詰めて、いつでも感情がストップする。いや、正確には自らブレーキをかけてしまうのだ。
それでも美鈴は、いつしかユウシロウと自分との間に現れた、美しい女教師の存在を知ったことで、いつかその思いを停めることをやめてしまいそうな自分自身がここにいることを知って、心ならずも狼狽した。
――怖い。
それでも、限界まで昂ぶった思いは留まるところを知らず、気づけば、いつのまにか理性のたがを外してしまいそうになる。
……でも。
それがユウシロウお兄さまなのなら……。
怖くない、と思った瞬間、美鈴はとんでもないことを考えている自分自身に気づいてしまった。
嫌!……私、わた、し、は……。
そんなのじゃない。そんなの、まるで"あの女(ひと)"と一緒じゃない。
違う、私とユウシロウお兄さまは。
そこまで考えて、美鈴ははっとした。
"伊集院先生、も……?"
いつしか美鈴の足取りは、その心とともに鈍くなっていった。何より、碌に上着も羽織らず、制服のままの姿では、さすがに夜風が身体に障ってしまったようだ。
繁華街を行き交う人の波から外れ、ふらふらと歩くその足には、既に力がこもっていなかった。
"帰りたい……ユウシロウお兄さまのところへ"
熱っぽくなった額を携え、はぁはぁと美鈴は肩で息をした。
"私、伊集院先生に酷いことを言ってしまった――"
今更のように、その恋敵であり自分と兄の先生でもある女性の悲痛な表情を思い出しながら、美鈴はきゅっと胸が苦しくなるのを感じた。
許せない――絶対に許せなかった。
けれど、でも。
先生もユウシロウお兄さまも、お互いがきっと好きなのですね……。
二人の間に自分が入り込む隙など、最早ないのだと悟った。……それでも。
私、もうお兄さまの傍にいられないのか、な?
そう思った途端、目の前が暗くなった。
「美鈴さん……!」
聞き覚えのあるその声に助け起こされ、美鈴さんは舗道の片隅で目を開けた。
「……伊集院、先生……?」
「よかった――皆、心配しているわ。きっとユウシロウも……」
その名が目の前の女性の唇から零れるのを目にすると、美鈴さんはひときわ目を見張り、心配げに自分を抱いて見下ろす、切れ長の瞳と視線がかち合うのを感じた。
その瞬間、思わず私は出かかった言葉を噤んでしまった。
しかし、ふいに視線を逸らすと美鈴さんは言った。
「ごめんなさい、先生」
「……美鈴さん」
彼女が何を考え、何を言わんとしているのか、私には手に取るように解った。
それよりも――。
すっかり冷え切った美鈴さんの身体をコートでくるむと、冷たくなったその手を握った。
「先生の手、あたたかい……」
実際はこの寒空の下、美鈴同様にコート一枚羽織っただけでいたのだから、それほど私の手は温かいとは思えなかった。
でも美鈴さんは、その手を弱々しく握り返した。
「ユウシロウお兄さまも、きっとこの手が好きなのね……」
ぼんやりと夢みるように言うと、美鈴さんはそのまま目を閉じた。
「美鈴さん……!」
その後、私が偶然ユウシロウと出合ったのは、気を失った美鈴さんを背負い、車を拾おうと夜の街をほんの少し歩き出してからだった。
「先生……美鈴!」
不意に二人が一緒であったことを知り、瞬間ユウシロウは戸惑ったが、美鈴さんの容態に、それどころではないと悟り、すぐに駆け寄った。
「熱が少し……でも、もう大丈夫よ」
「よかった……」
さすがにほっと胸を撫で下ろし、ユウシロウは私から妹を受け止め、今度は自らの背にその華奢な身体を背負うのだった。
予定を変更し、大事を取って私が携帯で救急車を呼び寄せると、ユウシロウは口を開いた。
「すみません――ご心配をおかけして」
久しぶりに逢えたのに、なんだか少し淋しい。
そんな贅沢な寂しさが二人を包んだ。
でも、今はそれでもいい。
たとえ他人行儀であろうとも、こうして久方ぶりに互いの顔を見交わせただけでも、私は十分だった。それより――。
意識を失っているとはいえ、美鈴さんの手前、その嬉しさを素直に態度に表すことが、なぜだか躊躇われた。
それはユウシロウも、きっと同じだろうか。
病弱で、ユウシロウしか精神的に頼れるきょうだいのいなかった美鈴さん。
たとえ"兄妹"だとは言え。その心には、やはりユウシロウの存在が必要不可欠なのだ。
そのことが解っているからこそ……。
到着した救急車に美鈴が運び込まれると、碌に言葉も交わさず、ひと時の僅かな再会を終えるその瞬間、二人は無言のまま、目と目で深く会話した。
今度はいつ会えるのか……。
そんなことに思いを馳せるより、ユウシロウと私には、もうすべてが解っていた。
今、そして今後、二人がどうすべきなのかを。
"先生、無事でよかった……"
"ユウシロウ、元気なのね……"
瞳と瞳で頷き合い、まるでテレパシーでも交わすかのように、二人は沈黙を以て話した。
まるで見えない硝子の壁越しにみつめあっているかのように……互いの眼差しが静かに絡み合い、いとおしげに刹那の手のひらを合わせ。でも。
きっと離れていても一緒にいる。そんな確信とも思える何かが、私たちの間に漂っていた。
美鈴さんを豪和市内の病院まで送り届けたら、ユウシロウは再び特自での実験の日々に戻り、そして私は……。
ああ、そうか。美鈴さんの容態が安定しない間は、豪和の家にいても――。
きっと美鈴さんは、またすぐよくなるだろう。おじ様も、もうしばらく美鈴さんの勉強を見てくれと言ってくれるだろう。……けれど。
どちらにせよ、どこまでも暫定的な家庭教師でしかなかったのだ。それも、豪和総代である乃三郎の配慮がなければ、一体今頃どうなっていたことか。私は蛇のような一清の凍った視線を思い出した。
「先生、ありがとう――さようなら」
「さよなら……ユウシロウ」
ユウシロウの口から零れた別れの言葉に、私は蒼白の表情で答えた。
でも、まだすべてを諦めたわけじゃない――
そう、まだすべてを。
見あげると、薄青い光源を微かに放つ、冷たい三日月が目に入った。
また会いましょう――ユウシロウ。
きっと、いつか、また。
2.
「ん……あっ……」
切なげな吐息がマンションのワンルームに木霊する。
大人の男女が抱き合い、喘ぐ声――それは幾年も人の間で繰り返されてきた密かな営み。
誰もが寝静まったはずの深夜、常夜灯のように夢の中に灯り続ける明かり。
いや、それは月明かり、か。
まるで閉め忘れ緩んだ蛇口から、ぽたんぽたんと零れ落ちる水滴のように。
私は男の中で我を忘れ、ひとりの女である証を貪っていた。
背中にこぼれる長い髪は汗を吸い、湿り気を帯びて夜光虫のように光っている。
その下に顕れた、まろやかな尻を鷲掴みにされ、律動し繰り返される歓喜の渦に酔いしれる。
まるで何かを忘れるように、何かを吹っ切るかのように思い切り――私は己の中の女の性を存分に解き放っていた。
「はっ……あぁ……あ、ぁぁ」
静まり返った室内に暗く灯る僅かなライトに照らし出され、のけぞるその女の白い肉体は、長年馴染んできた懐かしい温もりに、久しぶりにその肢体を預けている。
男はしかし、半ば戸惑っていた。
一度自分から離れたと思っていた芳しくも愛しい香りと感触が、こんなにも簡単にこの手に戻ってきた。
それはなぜなのか。
そう思えば思うほど、そんなことはあまりに無意味なことに思えてくる。
なぜなら女は今こうして確かに、自分の手の中で、たまらない快楽を伴いながら、切なく淫らに喘いでいるからだ。
「誠司さん……もっと……もっと欲しい」
耳元で叫ぶ大胆な囁き。そう、もっと……もっと。
私はただひたすら、我を忘れて狂おしい快楽に身を任せる。それはまるで、死の間際に遭遇する、あまりに刹那的な不可思議な感覚に近かった。
そう――まるで生と死の狭間の一種の生存競争のような。
そうでもしなければ、自暴自棄にはなれない。いや自暴自棄になっているからこそ、今こんなことをしているのかもしれないが。
「どうした……急に?」
FOIJ東京本社に近いその高級マンションの一室に、突然私が現れると、鷹水は面食らうでもなく、あまりに自然に出迎えてくれた。
それがいつも彼が私に対して接してくれる態度だ。いつ何時も変わらずに。
その問いかけの答えを探すように、しばらく黙りこんでいたが、私はもどかしげに玄関ドアを閉めると、久方ぶりに昔の男の懐に入り、自ら内側から鍵をかけた。
"ユウシロウ君は……?"
鷹水は無論、その問いを口にはしなかった。たとえ訊いてもせんないことだ。それはそう尋ねられる私自身としても、確かにそうだった。
「どうしてかな、急に――」
やっとそう一言だけ呟くと、突然胸が熱くなり、堰を切って涙があふれ出てきた。
気がつくと私は鷹水の胸の中で、土砂降りのように泣きじゃくっていた。
自分でも卑怯だと思う。
こんな風に甘えられる場所が残っていたことを、私はまだ覚えていた。
――そして不意に浮かんだ、懐かしいその顔。
「抱いて……誠司さん」
鷹水は待ちわびたその囁きを逃さなかった。嵐のように強い腕の力で私を抱きすくめると、その髪にうなじに口付けした。
怖いくらいに押し黙ったまま、まるでこれまでの鬱憤を晴らすかのように。鷹水の愛撫は容赦なかった。唇だけでは収まらないキスを、ついにはまろびでた躊躇いがちな丸く形のよい乳房に落としては、その先端を執拗に啄ばんでいく。
――舐めて、もっと。
もう止まらない。身体中を熱病に冒されたように……いつしか両脚を開かれ、熱い接吻をその濡れた下肢に受け入れながら。私はうわ言のように、その抱擁の迷宮で、高い声でずっと啼き続けた。
それなのに、どうしようもない妙な違和感が二人を押し包む。
少なくとも以前は、こんな誘い方をする女ではなかった。こんなあからさまな浅ましさを男の前で曝け出すやつではなかった。
そう……本当に私は自暴自棄になっていたのかもしれない。
"どうした――佐和子"
未だ熱い抱擁を降らせながら、鷹水はその甘い肌に問いかけた。
死にそうなほどの快楽に身を任せながら、それでも私の意識はどこかで醒めていることを悟っていた。醒めた俯瞰の視点の自分が、真上から意地悪く自分自身を見下ろしていた。
"ユウシロウ君を救いたいんじゃなかったのか?"
鷹水もまた、完全には溺れきれない違和感を肌で感じていた。
そう、それは心ここにあらずの人形を抱いているような……。
自分が生きるための方法を教え、これまで育て上げてきた可愛い――愛しい、その魂の容れ物である身体の隅々までを覚えているからこそ。
あの日、彼女は一人立ちしようとしていた。自分の手から巣立っていこうとしていた。
それを促したのは、他の誰でもない、豪和ユウシロウ……。
それなら、それでかまわない。まるで娘を嫁にでもやる父親の気分だ。
父親、か。
鷹水は思わず苦笑した。
確かにそうかもしれない。俺は彼女の父親代わりだったんだ。
だが、それでもいいと思っていた。死んだ家族の恨みを晴らすまでは、指輪はつけないという約束を了解してまで、やっとエンゲージリングを手渡したというのに。
しかし、鷹水が佐和子に与えていたのは、父親、家族としての愛情だった。
無論、私はそれを心から望んでいたのかもしれないが。
ただ与えられる側から、与える側にメタモルフォーゼしただけなのだ。
私にその変化を促したのは、ユウシロウだった。
その"娘"とこうして交わっているんだから、俺も浮かばれないな。
相も変わらず続くその違和感の中で、鷹水は自嘲気味に笑った。
それでも翌日、私が落ち着くと、その心を試すかのように、やっと鷹水は告げるのだった。
結婚しよう――と。
3.
あれから一週間、美鈴の体調はすっかり回復していた。
もっとも、少し風邪をこじらせてしまっただけで、肺炎に至らなかったのが幸いだった。
そんなことより、美鈴が気掛かりに思っていたのは、私、伊集院佐和子のことだった。
市内の病院を様子を見て退院してからというもの、佐和子の姿が家にないことを、美鈴はずっと気にかけていた。
乃三郎に訊いても、先生は自己都合で、しばらく休んでいるとしか教えてくれない。
結局、一度見舞いの花束を届けてくれただけで、終ぞ佐和子の顔を見ることはなかった。
その代わり特自の実験の合間を縫って、頻繁にユウシロウが見舞いにやってきてくれたことは、美鈴としては、確かに嬉しかった。
――でも。
そのユウシロウ自身も、佐和子については一言も何も言わない。
それは当然、美鈴の気持ちを汲んでのことだろうが、それではあまりに淋しすぎる。
"ユウシロウお兄さまは、先生のこと気にならないのですか?"
折を見て、何度そう尋ねようとしたことか。
だって"自分の好きな人の好きな人"のことですもの……。
気にならない方がおかしい。
美鈴の理屈としては、そうだった。
表面では微笑みを浮かべてはいるが、心なしかユウシロウの表情が悲しげに翳って見える瞬間があった。
やはり、伊集院先生のこと考えてらっしゃるの……。
「具合は大分よくなったか?」
美鈴は自分の身体のことより、ユウシロウの今の心の状態の方が、余程気掛かりだった。
これでは、どちらがどちらを見舞っているのかわからない。
物思いに耽って月を眺めていると、遠く離れたその人の面影が月の鏡に映る。
なぜなら月の鏡は、普段は見えないものを、光に反射して見せるから――。
4.
数日後、私は鷹水の組織の元へと戻った。
まるで、何事もなかったかのように。
本社のある東京から遠く離れた北九州は福岡支部にも、足早に深まる秋の訪れがやってきていた。その屋舎近くの時計台の風見鶏が、窓辺越しに吹く寂しげな涼風に揺れていた。
私は鷹水の秘書として、共にその九州、FOIJ福岡支部に赴いていた。
無論、その目的は豪和の伝承の淵源である、筑紫王朝についての詳細な現地調査であったのだが(実は、その陰に巨大コングロマリットであるシンボルの存在も見え隠れしていた……)。
その薬指にいつしか光る、エンゲージリング……。
これでいい。これでよいのだ。元々こうするのが一番よい選択だったのだから。
私は、常に傍らで優しく微笑んでいる鷹水の存在を殊更に意識した。
まるで遠い昔から、既に仲睦まじく連れ添ってきたかのような二人の道筋。
その先には、どこまでも穏やかで平凡な幸せが、おそらく私を待っている。
しかし、それでもなおのこと自らの心を苛む、ある一つの存在――。
……そう、豪和ユウシロウ。
鷹水は彼のことは忘れろ、と言う。
そして私自身も、そうしたつもりだった――多分おそらく一時は。
だがやはり、未だにユウシロウが豪和の操り人形であるという事実は消えてはいなかった。
彼はどこへ行こうとしているのだろう。そして、私も?
それは豪和という家が古くから持つ、永き時の因縁と直結していた。
その"時の輪〟のただなかに自分自身も漏れなく捕えられ、巧みに組み込まれていたなどと、今の私にどうして想像しえただろう。
本当は鷹水の存在など軽く消し飛んでしまうほどの永きに亘って、この身と心とを拘束し続けてきたかもしれない、果てしのない結び目。
哀しき輪廻……平たく言えば、豪和が密かにその歴史の陰に包括し紡いできた、いわゆる――ミッシングリンク――という言い方もできるかもしれない。
その連綿と続く時の輪の中では、このユウシロウと私の刹那の物語など、取るに足らぬ一瞬の出来事にしか過ぎないだろう。それほどに豪和の歴史――いや、人類そのものが人知れず歩んできたかもしれぬ、その足跡は気が遠くなるほどに永いのだ。
少しでも、その人知を超えた秘部の一端に触れてしまった者に、それを忘れろというのは無理な話だ。
……いや、違う。本当はすべて洗いざらい忘れてしまった方が、一人の人間として幸せなのかもしれないが。
その意味で、だからこそ鷹水は私にあらためて求婚し、ユウシロウのことを忘れろと言ったのかもしれない。
元々私は彼の言葉、望みを退けることなどできない。いや許されないのかもしれない。
私自身が彼から受けた恩恵の数々をまだ覚えているというのなら。その私への見返りのない深い愛情を、すべて尊ぶことができるというのならば。
それほどまでに、これまで肉親のごとくの情愛を鷹水は惜しみなく与えてくれたのだ。
でも、どこかでまだ、私はユウシロウと鷹水とのあいだで揺れていた。
その愛の証であるエンゲージリングを鷹水から貰い受けながら――その婚姻の申し出を快く受け入れながら。
血が騒ぐ……(こういう言い方は、その時の私にとって心当たりのないことではあったが)なぜなのかは解らないが、それらしい実感を伴って、私にはそう思えた。
そう――私はユウシロウを忘れられない。
いや、決して忘れることなどできないのだ。
それはおそらく、愛や恋といった感情を超えて。
そしてだからこそ、その人の世の思いに私はあらためて立ち返りたかったのかもしれない。
――ユウシロウに、それを教えたかったのかもしれない。
〝好き〟という、どこまでも人間的な感情を。
しかし結局そのことが、変わらず鷹水を裏切ることになる……そう、結局何ひとつ変わらないのだ。
〝なんて罪深い女〟
その傷みを平然とヴェールの奥に隠しながら、根気よく待ってくれていた、懐深い男の元へと嫁ごうとしている自分。
こんな華奢な指環ひとつで、頑丈に繋ぎとめておけようはずもないのに。しかしそれでも鷹水は、だからこそ、こんな私を自分の元へ確かに縛り付けておきたかったのかもしれない。
後から考えてみたら――〝真実〟が明らかになる"その日〟に私は、あらためてそのことを知ることになる。
運命に翻弄され、弄ばれる、木の葉のように。
まさに人の運命とは、風の向くまま……。
その風向きを知らせる風見鶏が、もしかしたら嵬であるユウシロウなのかもしれない。
少なくとも豪和に関わるすべての人間にとっては。
5.
現在、大宰府督府とも呼称される筑紫王朝は、そもそも日本誕生の神話が筑紫に始まり、日本書紀に記された日本の古代史が太宰府を拠点に展開したことから、また倭国の前身である邪馬台国の女王である卑弥呼伝説からも、元来この国の史実の始祖としても重要であったかもしれない。
つまり七世紀後半ばまで大和(=倭)王朝として日本列島を支配し、実質的に君臨していたのは、筑紫王朝であった。
その軍事王朝の陰において、傀儡子の民として強大な力を欲しいままにした嵬の一族。
ともすれば、その卑弥呼自体が嵬の一族に操られていたと考えられぬこともない。
その後、「白村江の戦い」が発端となり、次第に中央集権が中心となっていく歴史の表舞台から姿を消し、倭国筑紫王朝は滅びてしまった。
それに伴い自然、嵬の一族も……。
その白村江の敗戦に潜む、人知を超えた妖しげな力。それが餓沙羅鬼であったなどと、遠い史実の陰において、ゆめゆめ誰しもが決して思うまい。
嵬、そして餓沙羅鬼を繋ぐ"ミッシングリンク〟は、とりあえずそこで一旦途絶えている。
まさに、まほろばの夢と消えゆく縁起の源である。
だが、本当にそうなのか?
――嵬の一族とは、単にそういった一つの単一種族を指すものなのか。
なんとなくではあるが、私にはそうは思えなかった。これは漠然とした実感として、であるが。
このことばかりは、鷹水にも誰にも解らないだろう。
この、どこから来るとも知れない、常人の理解を超えた、計り知れぬ胸騒ぎ。
わからない。それがなぜなのか、私にはわからなかった――けれど。
以前、ユウシロウとひとつになった時、身体の、魂の奥深くで感じた、言い知れぬ感慨。
まるで、母の胎内にでも戻ったかのような。遠い宇宙(そら)の星々の狭間に漂うかのような。
そんなどこか哀しげな安心感が、ひと時二人を包んだ。
その瞬間、"私たち"は"一人"であると実感した。
それほどまでに、心と肉体という二つの壁を越えて、その時二人はひとつになった。
その時、確かな"声〟を聞いたような気がした……。
どこから来るのかも解らない、誰のものとも解らない、微かな、けれど確かなその言葉。
その声にならない声が、一秒の数千分の一ほどの刹那、ずきりと深い楔を二人の深遠に打ち込んだ。
"――イ、キ、テ〟
そしていつしか私は、己の心身が誰かの身代わりであると知る。
そう、ユウシロウを確かな生の現実へと誘うための。
生きて"ユウシロウ〟――。
誰かが私の中で叫ぶ。
その少女の陰代である私。
……だから私は、ユウシロウを愛するの。
おそらくその思いは、美鈴さんの思いでもあり、いま彼が出逢っている、そしてこれから出逢うだろう、かけがえのない人たちの思いでもある。
そして"彼女〟にユウシロウを託すため、私は。
だから、せめて今だけは……。
――ユウシロウ、生きて。
突然ハッと私は目覚めた。気が付くと酷い寝汗を掻いている。
なんだか少し怖い夢を見た気がした。でも不思議と恐怖感はない。
漠然と心身を包む妙な安堵が広がり、むしろ満足感さえ感じるほどだ。
それとともに、突然なぜだかユウシロウの面影が脳裏に呼び覚まされ、再び彼への恋しさが激しく募る。
が、それはとうに許されぬ身なのだ。ならばなぜ、私はこうして鷹水に寄り添い、遠い北九州の地にまで足を運んでいるのだ。
しかし理性とは裏腹に、ユウシロウと感じた"あの瞬間〟の感覚が人知れず胸に蘇る。
実際、この地に赴いたのだって、餓沙羅鬼にまつわる縁起の謎を解き明かすため――結局は嵬であるユウシロウ自身に間接的に関わることなのだ。
その意味で、どれほど鷹水と行動を共にしようと、私はユウシロウと遠ざかることはなかった。
"やはり離れられないんだ……〟
そう思うと、哀しいくらい、じんと胸の奥が熱くなる。
そもそも鷹水の方こそ因果な男である。好いた女をやっとこの手にしたと思えば、結局やっているのは、彼女にとってかけがえのない存在(やつ)に関する調査なのだ。
だが、それもある意味で、いたしかたなかった。
第一これは私自身もだが、一ジャーナリストである鷹水自身、既に十分踏み込んではならぬ領域に片足を踏み入れているのだから。
そう、誰も戻ることはできないのだ。おそらく、もう誰も――。
6.
ユウシロウは"鬼"を見ていた……。
いや、それは確かに鬼と呼べる姿形と形相を呈していたが、実際"鬼"であったのは、本当は自分自身であったのかもしれない。
それは遥か彼方の記憶の連なりが見せた残像であった。鎧と甲冑を纏った奇妙な姿。細長く突き出た鋭い牙と、それが異形のものであるという証の角と。
かつて遥か彼方の過去、かの地で彼は、確かにそれと一体となっていた。巨神は彼という御霊の容れ物だった――まるでパペットを操るかのごとく……。
そして謂われなき怒りに支配され、我を忘れ、ただ妄念にかられるまま、目前の敵将たちを、その手にした巨大な鉾で、いとも簡単になぎ払った。
多くの意味なき死と屍。大地に流される、無数の朱い血。身体を突き抜けるような、阿鼻叫喚の嵐。それは、まさに恐怖そのものだった。
"俺は、嵬……"
最早、避けようもできない真実が彼を襲う。
ユウシロウは、襲い来るその呪縛から必死に逃れようとした。
だがその心さえ、虚しく虚空に絡め取られていく。
骨嵬――それは既に、彼自身と化していた。
脈打ち不気味に蠢く人工筋肉は、その血肉となってユウシロウの体内を駆け巡った。
千年の闇が、ぽっかりとユウシロウ自身の内実に空白をあけて、彼を飲み込んでいた。
"夢――!?"
そう……夢、であって欲しかった。少なくとも今の彼自身には。
特自実験棟の宿舎寮の寝室に、薄青い闇が広がっていた。額の汗を拭い、見ると窓の外が、うっすら白くかすんでいる。
昨日の実戦シミュレーターが、やはりいささか堪えていたのだろうか。
ユウシロウはベッドの上で上半身を起こすと、軽くめまいを覚え、目頭を押さえた。
シミュレーションとはいえ、実戦さながらの臨場感と興奮をコクピット内に作り出すシステムである。確かに通常の人間ならば、既に失神していておかしくない負荷を、TAはその肉体と精神とに与えるのだ。
しかしユウシロウに限って言えば、彼はそれをほとんど苦もなく日々の実験において、こなしていた。
それなのに……。
何かが、おかしい。
ユウシロウは、考えるともなく思った。そんな彼を、どこかで誰かが俯瞰の視点でみつめているような気がした。
独りでいても、常に誰かの意識に晒されているような、奇妙な感覚。
ここのところ、そんな異様な感覚が彼自身を包んでいた。
――なぜなんだ?
ユウシロウは、ふと佐和子の面影を心に思った。
"彼女は……、"
いつかも不意に心に浮かんだ、漠然とした疑問がユウシロウを押し包む。
あの時、一瞬の再会で、ユウシロウは確かに彼女が自分にとって大切な、かけがえのないひとなのだと実感していた。
月明かりの中に揺れる、その長い髪。どこか哀しげな、淋しげなその瞳。
その瞳は、いつでも自分を優しく包み込んでいた。
瞬間、カチリとユウシロウの中で何かが音を立てた。
それは、何かの歯車が確かな刻(とき)を刻む音……。
"ユウシロウ……悲しまないで"
"先生……?"
いつしか夢の中で畏れにうなされていたユウシロウの心を、私はそっとどこかへ導いた。
まるで、溺れかけたひとを救けた人魚のように――その岸辺は、確かにどこかで見覚えがあった。けれどユウシロウには、それがどこであったのか、最早、確かめるべくもなかった。
ふとユウシロウは、舞を舞っている時の自分自身を思い出していた。
余流能楽。あまりにも自然に自身の四肢に染み付いている、その一つ一つの所作。
その無限の境地の彼方に浮かぶ、おそらくそれがその岸辺であったのかもしれない。
地面からくぐもり響き渡る呪文のような地謡の調。それはどこか、漠然と意識に鳴り響く"あの声"とも似ていた。
一旦面をつけた演者は、舞台に立つと現を離れ、己自身を棄てて、その精神をいずこへかに浮遊させる。
巫女のトランス状態……それがユウシロウをどこへ導くというのか。
それは、彼自身にもわからなかった。
"そうだ、石舞台――"
ユウシロウの脳裏に鬼哭石の郷の石の能舞台が浮かぶ。
なぜか自分はいますぐにでも、その場所に赴かねばならない気がした。
遠い昔、いつか流された血と同じ血潮が、彼自身の中にも巡っていた。
その狂おしい生の証である血が、執拗に彼を駆り立てる。
"ユウシロウ、行ってはダメ"
私のその小さな叫び声に、彼は気づかない。
「先生……」
*
"その少女"の存在に気づいたのは、福岡で筑紫舞の公演を観てからだった――。
古くから伝わる筑紫の幻の伝統芸能であり、かつて筑紫朝廷にて奉納された宮廷舞でもあったそれを、鷹水とともに観た私は、思わず絶句した。
その能舞台には、鬼哭石の郷で見たユウシロウの舞と、ほぼ同じ世界が広がっていたのだ。
余流能楽は、異端の能楽。北九州筑紫には、確かに「傀儡子」と呼ばれる謎の芸能集団が実在していた。
口承伝承という形のみで密かに受け継がれてきた幻の神楽舞。おそらくこれが余流能楽の源流……それらはまさしくともに、巫女(シャーマン)による神招ぎの神事であった。
傀儡子の民は、海人の民。傀儡子の「クグ」とは、水辺に生える雑草のことである。古代の水辺の民、海人族の女たちは、この茎で「クグツコ」と呼ばれる籠を編み、それに魚や貝などの海産物を容れていた。
しかし、クグツコは単なる食糧貯蔵のための籠ではなく、海人族にとって霊験あらたかなる藻である「稚海藻」=つまりワカメをしまう器でもあったのだ。
おそらく彼らにとって、それは豊かな海の恵みの象徴であり、同時に神前に捧げる供物であったのだろうか、この神聖なる稚海藻を容れるクグツコに、海人族は彼らの神として奉っていた人形も、ともに入れていたという。
その人形を「クグツ」と呼び、翻って人形を繰る彼ら自身も「クグツ」と呼ばれるようになったと、ある民俗学者は説いている。
古来より、人形は他人に呪いをかけるための呪詛の道具や、人の代わりに罪や穢れを引き受け、厄祓いをする呪術的なもの――つまりそれらの対象物としての形代(かたしろ)であった。
現代でも神道の大祓等で用いられる和紙でできたものは、人形(ひとがた)と呼んだり、あるいはこの形代と称したりする。
そして傀儡子もやはり人形を繰り、人の穢れを祓って廻る漂白の芸能の民という一面を併せ持っていた。人形浄瑠璃なども、あるいはその傀儡子の民の残した一端かもしれない。
いつからか大陸から渡ってきたといわれる海人の民は、福岡市の志賀島に流れ着き、棲まうようになったそこで、彼らの始祖神である安曇磯良を祀った。それが現在の志賀海神社である。傀儡子の民である海人族は、そこから人知れず海伝いに日本各地へと四散していったという。
どんな位にも属さず、どのような権力にも支配されず……風のように自由自在に土地から土地へと巡り、神降ろしを行っては人々の穢れを祓い、霊的で神聖な優れた芸能を伝えてきた放浪の傀儡子の民。
その漂白の民が人知れず伝える舞は、回転や跳躍を取り入れた独特の舞で、それは確かにユウシロウが舞っていた余流能楽と酷似していた。
"誰かに伝えていかねば、地獄に堕ちる……"
だが、そんな怖ろしい言い伝えが、古より筑紫舞にはあったといわれる。数百年、いや数千年の時を経て、そうやって闇の中で人々の間に手渡され、密かに伝えられてきたかもしれない舞。
おそらく豪和は、その一端であるのだろう。彼らが同様に代々余流能楽を後世に伝えてきたのは。それは単なる伝統や因習ではなかった。そこに潜む神の神威。いや、もしかしたら、それは文字通り鬼なのかもしれない。
*
宮地獄古墳の横穴式石室。
そっと訪れたひんやりとしたその洞窟内に、私は一人佇んでいた。
宮地獄神社の境内にある、その本古墳の墳丘形状は大型の円墳で、直径は34メートル、横穴式石室は約22メートルもある。今日内部を見ることのできる最大規模のもので、文字通りの巨石墳である。
そこには馬具、頭椎大刀(かぶつちのたち)やガラス製の骨壺を収めた青銅製の骨臓器なども納められており、それらは国宝とされている。
つまり、まさにそこは、かつての九州王朝の王が葬られた墓所でもあった。
その不動洞窟で、かつて筑紫舞の唯一の伝承者である、ある女性の舞が奉納された。
実際その伝承者の女性の舞を見たわけではないが、それでも私の胸に去来する何かは、常に私自身に何かを語りかけてくるようになった。
そして、ぎゅっと胸を締めつけるような、胸苦しい感覚……。
"沙耶……、"
え?
"私を許して……"
憂いを湛えた哀しげな瞳をした少女が一人、そこに立っていた。
「ユウシロウ……」
次の瞬間、私は急に怖くなって、彼の名を呼んだ。
我に返ると、懐の携帯が突然鳴った。鷹水からだ。
洞窟内から外へ出ると、すっかり日が暮れ、満ちかけた美しい月が夜空を照らしていた。
そういえば、安曇磯良は海神であるが、同時に月の神でもあるという見方がある。
日本古来の陰陽の考え方で、陰を司る象徴の一つである月は、女性をあらわす。だからだろうか、筑紫舞の宗家である伝承者が女性であったのは。
深まる秋のひんやりとした夜気に当たり、急に寒気を感じて、私は思わずぶるっと身を震わせた。
けれど本当の理由は、それだけではなかった。
"あれは幻だったのだろうか……?"
神聖な場所である神社と洞窟内の墓所……霊的な何かを感じ取り、寒気を覚えたのか、私は足早にその場を去った。