1.
その岩室の洞窟の中には湯殿があり、滾々と温泉が湧いていた。
言葉もなく美命に連れて来られて数時間――二人はまるで昔からの姉妹のように、共に湯に浸かり、その一時に私の心と身体はすっかり癒されていた。
"キレイ……"
私を見つめる、うっとりとした美命の瞳が、ふと潤んでいるような気がした。ほんのり桃色に上気する美命の頬に目をやると、ふとドキッとしてしまう自分自身に戸惑う。
確かに佐和子の素肌は白く透き通るように美しかった。
でも、それを言ったら美命さんだって……。
「なんだか不思議。全然初めてじゃない気がするの」
一人呟くような私の囁きが、湯気とともに湧き上がり洞窟内に木霊する。
この筑紫の地には同じように古くからの神を抱く神社が数多く存在したが、同様に古墳の杜と洞窟の墓所を持つものも多かった。
それがたとえ、あの宮地嶽神社のものと同じ空気を持つ岩殿であったとしても……。
ふと私の脳裏に、あの少女の姿が一瞬よみがえって消えた。
そんな私の背中を流す美命の表情は、心なしかとても嬉しそうに見えた。
"お母さん……"
"え?"
湯殿から上がってすっかり温まり、上気しきった私の背中に美命が抱きついてきた。
たとえ言葉はなくとも私には解った。美命さんの言葉が、その淋しげな心の裡が。
育ての親である貴嶋氏を安心させるためだったのだろうか。彼女は常に自分自身を毅然とした緊張感の中に置いていた。それは、この貴嶋神社の巫女であり、何より筑紫舞の伝承者の一人であるという自負と、そしてそれ以前の何かのために……。
"お母、さん"
再び美命が疼くように囁いたような気がした。
けれど次の瞬間、ぱっと私から離れ、振り返るとその表情はどこか所在なげに、はにかみながら歳に似合わぬ幼ささえ泳がせて見せる。ふと微笑むと、私はそんな美命の手を取る。優しく両手で包み込んだその指先は、心なしか震えていた。
「ありがとう……私、なんだかとても嬉しいの。美命さんに出会えて。それから、ここに来られて」
それは本当に嘘のない心からの気持ちだった。
それから私は、ほんの思いつきで、そして美命からの勧めもあり、その筑紫舞の衣装に腕を通してみる事にした。
最初は軽い気持ちからだった。ただ着替えの代わりに、と思った程度だった。
けれど不思議にその衣装を身に纏った途端、何かが弾け身体中の血を駆け巡った。
一体どうしたんだろう、私。舞なんか舞ったこともないのに――。
それでも自然に"その時"はやってきた……そう、あまりにも自然に。
初めは踊ってみるつもりなど、微塵もなかった。
でも筑紫舞は、この地に所縁の郷土舞。だから、ここに住まう者は勿論、ここに訪れたのも何かの縁。元来郷土舞とは、そういった親しみや素朴さに根ざしたものでもあった。
それに……ユウシロウ。
やはり私は、ユウシロウの舞や美命さんの守ってきた、この筑紫舞に強く惹かれていた。
"大丈夫、大丈夫"
まだ若干戸惑いがちな私に、楽しそうに目配せしながら一つ一つの所作を教える美命の瞳が無邪気に優しく頷く。あくまで初心者なので、最初は基本のみ、のつもり。
だが、その姿は、まるで――。
平安風に髪を結い、白装束に身を包み。なぜだか、すっと背筋が伸びるような気がした。
"よく似合うわ"
美命は微笑むと私の手を取り、まるで従者のように岩殿の舞台上に導いた。
その姿を見た者は(無論、地元の人間に限ってだが)、かつて唯一この舞の伝承者であった、美しいその人と見間違えたに違いない。
"やはり――!"
その姿を戸の陰から見詰める視線が見開かれ、思わず絶句する。
慣れない和装に緊張し、けれど、なぜだかとても懐かしい心地がして、私は美命に導かれるまま、ぎこちなく足の運びを進めた。
すっと扇子を手にした右腕を眼前に伸ばすと、途端に周囲の空気がぴんと張り詰める。
私は急に背筋に寒気を感じて、一瞬震え、身を強張らせた。
ひんやりした岩殿の洞窟内だからか――いや。
"……!"
突然、呼吸が苦しくなり、同時に狂おしいほどの目眩に襲われ、私の身体はふらっと傾きかけた。早鐘を打つ自分自身の鼓動の音が、洞窟内に木霊する気がした。
それなのに、周囲の物音が急に遠ざかると、ただでさえ静寂の包む岩殿が、いっそう沈黙に閉ざされ、突然どこか違う場所に意識を持ち去られたように感じた。
"其処"は――どこまでも光に満ちた、茫洋とした拡がりだった。
次の瞬間、視界がぼやけたかと思うと、私の心は瞬時にユウシロウの元へと飛んでいた。懐かしいその腕が、悲痛な眸が私を哀しく出迎える。
"ダメだ、来てはいけない、先生……!"
でも……。
「お、か……あ……さん!」
その声は確かに美命の唇から発せられた。
痛いくらいに空気がキ――ン、と鳴る。
"だめ……だ、め……、"
胸の奥底で誰かが叫ぶ。誰……?あなたは、誰。
"お母さん……"
私の脳裏にまだ見ぬ、いいえ。もう永遠に逢えぬ母の姿が映る。
それと同時に、再びあの少女が目の前に姿を現す。
"――来てはダメ!"
少女の眸は、やはりユウシロウと同じ哀しみの色を湛えていた。
どうして、どうして――。
誰かが問う。それは私自身?ええ、そして……。
"沙耶……"
"あの日"の情景が、突如視界を覆う。
"刹也、弥呼姫――ああ"
次の瞬間、私は気を失って舞台上に倒れた。
*
奥座敷に敷かれた布団に寝かされ、青ざめた顔で私は昏々と眠り続けていた。
「これほど早く……」
傍らには、いつ報らせを受けたのか鷹水と、そして貴嶋宮司が控えていた。
「佐和子のことを手厚く歓迎してくださり、ありがとうございます」
半ば項垂れた風情の貴嶋氏に、鷹水は恭しく頭を下げた。
「美命には黙っていましたが……」
「御気持ち、お察しします。彼女はもはや貴方の娘同然、いや――」
ふと飲み込んだ鷹水の言葉に、貴嶋は重い口を開いた。
「筑紫舞……いえ、余流の能舞」
「嵬――なんですね?」
確かめるように鷹水は貴嶋に問うた。
その舞手である血筋の呼び名に、問いかけられた横顔が厳しく強張る。
「その禁じられた舞を、私たちは、こうして人知れず静かに守ってきました――そう、満千留の遺志を継ぎ」
その眼差しは、愛しげに佐和子の寝顔に注がれる。人知れず、もう逢えぬ人の懐かしい面影を重ね――。
「しかし……」
「彼女は、佐和子さんは満千留さんの遺児であり愛娘。そうであれば、いつ豪和が彼女を」
白々しい――鷹水は一瞬言葉を途切らせ、胸の内で思った。
ではなぜ、自分は佐和子をこの地に連れてきたのか。真っ先にこうなると知っていて、なぜ。
そして貴嶋自身でさえ、なぜ彼女を平然と迎え入れた。こうして、この社と杜に佐和子を導き入れれば、自ずとこうなることは……。
だが、同時にそれが人の業であることも分かっていた。
同じだ。所詮、豪和と同じなのだ。
もしかしたら禁忌とは、破られるためにこそ、あるのかもしれない。
美命は一人震えていた。
己自身の身に染み付いた、この舞。それが、いつか誰かを狂わせる気がした。怖かった……。
お母さんに逢えた気がしただけなのに――ただ、それが嬉しかっただけなのに。
それでも、私は……私は、お母さんの舞を。
2.
「えっ彼女が……」
一清から初めてその話を聞かされた清継と清春は、意外な展開に心ならず絶句した。
豪和家の地下深くにある情報中枢である機密室。ひんやりと淀んだ空気が重く圧し掛かる。
先に福岡に送ったエージェントから送られてきた情報データから、既に佐和子の居場所は突き止めてあった。そう、たとえどこにいても一度豪和のターゲットになった者は、そう容易くは逃げられぬ。
豪和が一企業として成り立っていくためには、古くから主従関係にあったからとて、伊集院家のことは、いた仕方ないことだった。乃三郎や一清のみならず、それは清継や清春にとっても同様に自明の理であった。
しかし――。
「まさか……伊集院佐和子が豪和の人間?本当なんでしょうね、兄さん」
「そのまさか、だ――」
一清は顔色一つ変えず頷いた。傍らに控える乃三郎は、ただ蒼白の表情を浮かべ、最早岩のように凍りつくばかりだった。
「しかも我が妹、佐和子は正当なる嵬の血筋にあるのだ」
「……ユウシロウ」
一清の言葉を受け清継と清春は互いに顔を見合わせた。まさか父や兄が彼女をユウシロウの傍に置いたのは、このためだったのか。
共にこの家の人間でありながら、二人は今更ながら豪和の業の深さに軽い目眩を覚え、血の気の引く思いだった。たとえ本当の姉弟でないのだとしても、佐和子とユウシロウ――二人を深く関わらせることで……。
そのユウシロウは今、美鈴とともに石舞台を抱く鬼哭石の郷に、空知の下(もと)に身を潜めている。
「そういえば筑紫は嵬の源流、豪和の源となる地でもあると、確か豪和の古い縁起に……」
清継は豪和の歴史を紐解く古文書の存在を思い出した。そうだ、筑紫王朝は余流の――。
「無論、空知検校は知っていたのでしょうね?」
一清は半ば木偶のようになった父に念を押すように訊ねた。
「筑紫の日向(ひむか)の高千穂の霊(く)しふる峰に天降りましき……」
乃三郎のうわ言のような低い呟きが、ただでさえその場の重い空気を鬱々と震わせた。
「天地(あめつち)を揺るがす餓沙羅鬼の焔――」
返答にもならぬ父の繰言を受け一清が呟く。言葉にできぬ悪寒が背筋を這い上がる。
「ということは佐和子は今、北九州は福岡に」
三男の清春が思い出したように問いかけると、
「まさか、筑紫にも閾(しきみ)が!?」
科学者特有の勘の鋭さで清継が核心を突く。
「そうだな……殊更に我々は、かの地へ赴かねばならぬ、ということか」
清春はともかく、清継には自分が兄にここへ呼ばれた理由が今にして理解できた。
兄はガサラキの実験を、ユウシロウではなく、今度は佐和子を使って……。
*
〝嵬〟が二人――いや、正確には……。
確かに一瞬、己自身の脳髄に閃いた光の矢。それを見逃すはずがなかった。
まるで人間離れしたような銀髪に金色の眸。男は長身の背を優雅に揺らすと、窓際に立った。
『卑弥呼……弥呼(みか)姫、その魂は幾重にも四散し、今や眠りから醒める刻(とき)を今か今かと待ちわびている』
だが、こちらの所有する駒は、未だもう一人の片割れとは出遭っていない。インヴィティター瞠(ミハル)。お前の形代は、お前自身を受け入れることを拒むのだろうか。否、それは所詮、道から外れた行為……。
人間――命は、あまりに儚い。だからこそ嵬は嵬として生き続けるのです。千年、いや、さらなる遥か遠大なる時を超えて。いかなる時の流れも、その宿命から逃れられはしない。その軛(くびき)を断ち切ることなど、できはしない。
豪和……、その嵬の末裔である一族は、筑紫に淵源を持っているという。そう傀儡の民として――新たなもう一人の嵬は、今目覚めた。
日本、倭(ヤマト)という国は、本当に面白い。無論、私自身も、かつてこの国で生を受けた。そして何千年もの時を越え、未来へと脈々と受け継がれる、この記憶。それは嵬であるなしに関らず、人という生命が持つ、業のようなもの。それを求めるがゆえに、私は再び蘇ったのです。
『……さて、最後まで見定めさせていただくとしましょうか?』
男の眸に常人離れした妖しい光が宿った。
月の裏側に位置する探査衛星が、その閃光を捉えた。それは、ほんの一瞬、瞬いた刹那の光でしかなかった。
けれど、宇宙の何処かからか見つめる視線が、確かにその口元を僅かに歪めて笑った。
それは、かつて幾度か時の彼方で繰り返してきた、その一瞬の煌きでしかなかった。
しかし、それが目醒める度に、そのものたちは言いようのない歓びに打ち震えるのだった。
――それは、生命そのものが存在し続けることの歓び。
*
「瞠(ミハル)が、どうしたというのだ?」
メスは目を通していた書類から視線を上げると、執務室に響く通信機から伝わる研究員の声に怪訝な表情を浮かべた。
『……実験のあとでした。彼女インヴィティターが突然、』
「なに、謡(うた)?」
シンボルが誇る二足歩行型兵器メタルフェイクのプロトタイプ走行実験後、瞠が突然、謡を謡いだしたというのだ。どのような刺激や働きかけに対してもことさらに反応せず、じっと無言のまま、ただ黙々と目の前の作業をこなすだけだった瞠。それが……。
『あれは、おそらく――日本の』
「日本!?」
彼女の口から零れ出したのは、どことなくエキゾチックな和音を響かせる、日本の大和言葉のような和歌だった。民謡……? どことなく哀しげな、それでいて底知れぬ美しさを湛えた。その例えようもない妙なる響きを高く長くそっと響かせる、その歌声。
それはどことなく鎮魂歌(レクイエム)のようだと、その時録音された音声を聴きながらメスは思った。
一体どうしたというのだ、瞠。
やはり彼女の故郷は日本なのかもしれない。あの飛行機事故の現場から保護して以来、彼女の国籍は東アジア系であるということだけが判っていた。その歌の言葉は純然たる母音を響かせる大和言葉。いや、それどころか。まるで何かに呼応するかのように――、確かに彼女が突然歌い始めた瞬間、その同時刻に月の探査衛星も異常な兆候を捉えていた。
「……これは。やはり日本、それも北九州――だと?」
ほんの数秒だったが、確かに特異点の瞬きが日本列島の南西、それも北部九州地方で確認されたのだ。
北九州、福岡。それは、ある調査のためにメスが派遣していた韓国人エージェント朴が潜入している地でもあった。そう、筑紫地方。かつて日本が倭国としてスタートした礎となった、ある王朝が栄えた土地だ。まさかそこに特異点が。
メスの予感は当たったのだろうか。以前、瞠とともに日本を訪れた時、彼女に現れた微細な変化。そこは京都近郊だった。だが、時の拠人(よりうど)インヴィティターは、幾重もの魂の記憶をその身に宿すという。まるで獣そのもののような鋭敏な嗅覚。そこで物言わぬ瞠の指先が指し示した方角は、南西だった。
メスはその時の悲痛な眼差しを忘れることができない。
なぜだ、どうして……まるで初めて瞠の眸に手に取れるような感情が表れたような気さえした。
まるで、何かを言いたげに。それでも、その唇は何かの禁忌を怖れるように未だ閉ざされたままだった。
*
『ユウシロウ……』
その声にユウシロウは目覚めた。まだ宵の口であったにも関らず、山間の郷は異様にも思える静けさに満ちていた。
夢、なのか? だが、そんなはずはなかった。額に流れる大粒の汗。そして何より、圧倒的な質量を以って精神を圧迫する重苦しいおびただしい気配。その圧力に確かに彼の胸は悲鳴を上げた。一体、何が……。
それでも眠りの淵で確かに彼は、その人の面影を一人見ていた。平安風の髪を結い上げ、舞の装束に身を包み。その長い髪が翻った瞬間、覗いた白い項(うなじ)。長い睫毛が美しく蒼い影を頬に落とす。どこか哀しげな、その横顔。
自分は、その人の幻をずっと夢の中、追いかけていた。――先生、佐和子、先生!
だが、そのひとは、その呼びかけには応えない。……ダメだ、行ってはダメだ!
悲痛に叫ぶ自分自身の声に、いつしか己を失う。
『ユウシ、ロウ――……』
伸ばした手が虚しく落ちる。本当は、ずっとユウシロウに助けを求めていた。怖かった……それなのに。
次第に自分自身が自分自身でなくなっていくような。そんな得体の知れぬ感覚に絡め取られ。いつしか私は気を失ったのだ。
「佐和子先生!」
やっとのことでユウシロウは声を出すことができた。そして金縛りから解かれたように、一足飛びに寝室から飛び出した。
行かなければ――。ただ、その衝動に突き動かされるままに、ユウシロウは夜を駆けた。
ただあてもなく夜道を走ったわけではない。その動物的勘は確かに間違ってはいなかった。
突然、目の前の車道から一台、四輪駆動のジープが滑り込んできた。そのヘッドライトの眩しさに顔を左手で覆うも、目線はしっかりと、その車から降りてくる人物の影を捉えていた。
「ユウシロウ、なのか?」
そう呼びかける声には聞き覚えがあった。さらりとした長髪をなびかせた、そう、それは彼の兄の一人である清継であった。
「清継兄さん……」
思いもかけぬ兄との出会いに、いや、それでさえもユウシロウは既に全て知っていたのかもしれない。一体どうしたんだ、確かに郷にいると知らされてはいたが……、そう白々しく話す兄がここへやってきた思惑も、全て。
「……僕は行かなければならない」
ふと独り言のように呟く。ふ、そうだと思っていたよ、相手はまるで、そう言いたげにニヤリと無言で笑った。
「実は次のTA実地試験を行うことになった――ユウシロウ、お前には翌日にも北九州の福岡へ飛んで貰う」
それはまるで、あからさまな罠のようだった。だが、今の彼には願ってもないことでもあったのだ。例えそこで、どんな出来事が待ち構えていようとも。自分は行くしかない。先生がそこにいることは間違いなかった。
してやったりの表情を浮かべる清継に促されるまま、ユウシロウは黙ったままジープに乗った。
3.
翌日の午後、私はやっとのことで目を覚ました。
傍らには貴嶋宮司と、そして心配そうに見つめる鷹水の姿もあった。
けれど……頭が、割れるように痛い。昨夜、一体何があったのかも、私は全く覚えていなかった。ただ、美命さんに連れられて湯殿に浸かり、そして、そのあと――。
記憶はそこで、ぷっつりと綺麗に途切れていた。何かとても、特別なことがあったような。
「私……一体、」
未だ幻肢のような記憶に痛む額を押さえながら、私は握った掌に滲む脂汗をじっと視つめた。
「佐和子――」
どことなく悲しげな表情で優しく微笑む誠司さん。どうして、そんな眸(め)で私を見つめるの? 何だか、まるで――末期患者を見つめる家族の眼差しのようだ。一体私は、どうしてしまったと言うんだろう。すると貴嶋宮司の影に隠れるようにして、美命さんが青ざめた表情で私を見ているのに気付いた。
「まだ痛むのか、佐和子」
もう一度横になった私の額を冷たく冷やしたタオルで拭いながら、鷹水が囁く。
「ごめんなさい、大丈夫よ、もう……」
彼をこれ以上心配させまいと、殊更に気丈に振舞おうとする。けれど、先ほど部屋から出て行った貴嶋氏の横顔に盗み見た、押し殺したような苦悶の表情が気にかかる。
「もうしばらくこちらで休むといい。貴嶋さんも勿論、そうするようにと仰ってくださった」
「すみません……御心配おかけして」
いつも以上に優しい鷹水の言葉。自分や彼がここ筑紫へやってきた、その目的が、なぜだか急に意識から遠のく。突然、熱病にかかったようにだるく、そんな自分を気遣ってくれる皆の優しさに、ふと涙さえ出そうになった。
それなのに、自分は何かを忘れている気がする。本当に大事な何かを。思い出そうにも、何一つ思い出すことができない。身体に力が入らないのと同時に、どこか思考までもが正常に動くことを拒んでいるようだ。
一体私は、何のためにここまでやってきたのだろう?
「で、ユウシロウは早速筑紫へ向かったのか?」
「特自の実験中隊への通達も正式に済ませた――夜半にも各種機材とともにユウシロウを追って現地へと向かうだろう」
一清の問いかけに真顔で答える清春。自衛隊専用機にて自機とともに九州へ旅立ったユウシロウ。無論、豪和総研主任である次男の清継も一緒だ。
同時に彼らの観測機器が独自に捉えた異様な兆候。僅かだが、その一瞬の明滅を豪和が見逃すはずがなかった。それは悲劇そのものであった……遥か過去から続く神依りの舞台。閾(しきみ)――彼らがそう呼ぶ異常な空間軸。それは時折、世界各地でその観測を見出すことのできるものだった。おそらくは嵬。その資質を持つ者と、その場所とが出遭う時、爆発的に観測される、いわゆる特異点と呼ばれる超常現象とも言えた。
異様な精神の暴発が引き起こすメンタルバースト(機能相転移)。それが一つの引き金となって、その空間の歪みは現れる。そして、まるでブラックホールのように、全てのものを飲み込むのだ。難しいことはよく解らないが、清継の説明によると、それは物質と反物質同士が引き起こす対消滅。まさに膨大なエネルギーを放出させる、言ってみれば途方もない人体発電機である。
餓沙羅鬼の焔――それを古より嵬は、その能力によって自在に操ってきたという。豪和に伝わるその古い縁起は、決してただの御伽噺ではなかった。骨嵬。その力をかつての軍事豪族が欲しいままにしないわけがない。それは無論、科学万能の現代の世にあっても同様だ。いや、科学万能の今だからこそ、我々はその研究開発を独自に進め、今時点で唯一使える手駒であるユウシロウを利用して……。
だが、そのユウシロウ自身が次第に己の自我に目覚めつつある今、もう一片の別の者の力が必要であった。それは皮肉にもユウシロウの内面に働きかけ、明確な己自身に目覚めさせた張本人、伊集院佐和子。
いや、もうその名は相応しくない。我が妹、豪和佐和子……翻って、その力の源のルーツから貴嶋佐和子でもよいが。一清は一人無言で口元を歪めた。
ユウシロウの心理操作は完璧だった。各種薬物投与から始まり、自己暗示マシーンにかけ、何度も豪和の末弟の記憶をその脳髄に刷り込ませた。改めて人というのは、まさに記憶によって成り立っているのだと知る。転写に次ぐ転写で元の人格さえあやふやになった、ただの操り人形。
しかし今となっては、やつには別の方法で役に立って貰わねば……。
佐和子の存在を通じてユウシロウは自発的にTAに乗り込む。そして、いかなる理由があろうとも、その宿命の軛(くびき)から逃れられぬ己自身を知るのだ。そう、貴様は嵬、嵬なのだ。
一清は、まるでその者たちへの憎しみの情を滲ませるように冷酷に嗤った。かつて、その資質が自身にはないと知った時の落胆と絶望の念。それは餓沙羅鬼を操り、その無窮の力を己が手にすることへの執念、ただそれだけのために生きている男の、それが今の姿でもあった。
*
その翌日、とある韓国人男性が貴嶋家を訪れた。
「朴基赫(パクキヒョク)と申します――、私はフリージャーナリストなのですが、」
彼がこの貴嶋神社を訪れたのは、ずばり貴嶋満千留の舞に関する取材を行いたいとの趣旨からであった。市内の商店街で彼女の死を知り、それでは、せめて……ということで、実家であるこちらの貴嶋神社で話を伺いたい。流暢な日本語を話す朴は、いかにも純粋な日本文化への興味を持っていることが、その真摯な表情(マスク)からも窺えた。
しかし、肝心の一番弟子である美命は、昨夜の精神的ショックで舞うことができないでいた。適当に理由を繕って本日は、その舞をお見せすることはできないと貴嶋宮司が打ち明けると、朴はさすがに残念そうな顔を隠さなかった。
すると、奥から何事もないことのように鷹水が二人に歩み寄ってきた。
「……ほう、韓国の? 遅ればせながら、私はこういう者です」
にこやかに鷹水の差し出した名刺を受け取りながら、朴はこちらも笑顔を絶やさず挨拶した。
「朴です、どうぞよろしく」
私も美命さんの舞は一足遅く拝見することができなかったのですが、それでも、この地にやってきたその日に筑紫舞の公演を観劇しました……、本当に素晴らしい舞でした。
確かにその感想は真実だった。決して衒うことのない質素さの中に滲み出る躍動感。その日本的な舞の所作の中に、おそらくこの男も生き生きとした生の実感を確かめようと、この福岡は筑紫にやってきたのだろう。
それでも鷹水は、まだ何も知らなかった。この朴こそが、不可解極まる行動で、彼らの足取りをここに留めた、シンボルジャパンの極秘調査エージェントであることなど。
「国際ジャーナリスト連盟……、その昔、私もお世話になったものです」
今でこそフリージャーナリストで通していますが。朴の話には極々普通の韓国人らしい真摯さが垣間見れ、何一つ怪しい素振りなどなかった。それが鷹水の警戒心を解いたのかもしれない。
「聞けば、非常に起源の古い伝統的な舞と伺いました。お恥ずかしい話ですが、私自身、生粋の日本人でありながら、その存在については最近まで全く知らなかったのですから」
鷹水は素直に自分自身の無知について語った。
そう、知らないということは怖ろしいことだ。――そして同時に、知らないでいた方が幸せなこともある。
奇しくも二人は、同じ事を双方の胸中で、それぞれ思った。
「本当に日本という国は美しい所だと常々思います。瑞々しい海と山が生み出す自然、そしてそこに住む人々の素朴な暮らしぶり、まさにこういう所にこそ神は住まうのでしょうね?」
確かに日本という国の基盤には必ずそんな美しい風景があった。その、時に厳しく時に穏やかな自然の懐に抱かれた風土。おそらく日本人の精神は、その心象風景が存在してこそ持ちえた独自のものなのだろう。かつての日本人……、今は失われてしまったかもしれない、その光と闇の永遠のせめぎ合い。
遠く縁側から、そんな和やかな歓談の声が聞こえ、私は思わず身を起こした。
「誠司さん……?」
そっと障子を開け、穏やかな午後の陽だまりを眩しく見つめる。
「あの方は?」
その、少しやつれた風情を見せる美しく華奢な姿に、朴は思わず目を細めた。
「いえ、彼女は私の――、婚約者なのですが、旅先で少し風邪をこじらせて今休んでいたところです」
以前は当たり前だったその紹介に、浴衣姿の私は少しだけ、はにかむ。
「すみません……お話中の所、もしお邪魔でしたら、私」
とんでもない、貴女のような美しい方に出会えたのも、何かの縁。御世辞だと解っていても、何だか恥ずかしい。あちらの方は、とにかく表面に表す感情が豊かだと確かに聞いてはいたが。そんな御国柄を口実にしてか、朴は佐和子のことを、しきりに褒めちぎった。
「いや、鷹水さんは幸せ者です」
――ところで、
朴の話は、そこから次第に核心に迫っていった。
仕事のため、いつのまにか退席した貴嶋宮司に代わって、その話が出るのは必然ではあったのだが。
「……貴嶋満千留さんですが、実は私はその昔、一度だけ貴嶋さんにお会いしたことがありまして、」
えっそうなんですか? その事実に純粋に驚く鷹水。
それは単なる偶然の出会いでした――、私は勿論、彼女がかの有名な筑紫舞の伝承者だとは、その時全く知りませんでした。しかし、たおやかで美しい彼女に、これが生粋の日本人女性の美しさであると実感しました。そういえば、事故に遭った娘さんを、これから見舞いに行く所だと仰ってましたね。それからすぐ、私は自国での仕事が入ってしまい、彼女とはそれでお別れしたのですが。
ちょうど8年前、まだ彼女が生前の頃の話だという。
『……っ』
鷹水は一瞬、絶句した。貴嶋満千留は、あの心中事件のことを知っていたのだろうか?
というより、自分の娘が今どこにいて、どんな暮らしをしているのか……、数年前の不慮の死まで、その存在を常に気にかけていた? しかしその時、彼女は実の娘を見舞うことができなかったのだろうか。
今この場にいる佐和子は本当の母親の真実(こと)を知らない。何一つ知らずに自分の実家を訪れ、そして――。
佐和子が舞ったという筑紫舞。そう、まるで……満千留の魂が乗り移ったようだと宮司は語っていた。そして嗚咽にも似た胸のつかえが彼を襲った。それこそは、禁断の舞。そうだ、余流の能楽とどこが違うというのだ。
「娘さんを、ですか」
何事もないかのように、佐和子が訊く。
「そういえば、満千留さん、彼女の一番弟子の美命さんのことを本当の娘のように思っていたって」
私、美命さんの舞を見て思ったんです。命は、こうして後世に受け継がれていくんだな、と。それが伝承の本来の美しさではないでしょうか……?
まるで穏やかに夢見るように話す私の口調。自然と脳裏にユウシロウの姿が蘇る。
「ですから美命さんも、ただ筑紫舞の伝承者であるという使命以前の何かに突き動かされて、舞を舞っているんだと思います」
それはきっと、お母さんの記憶(おもいで)――。
どうしてか、私の目頭に涙が浮かぶ。
「佐和子さん……」
朴の思いは本物だった。例えこの場の会話が偽の仮面を被った、単なる記号以前の何ものでないとしても。
貴嶋満千留を介して生まれる、このかけがえのない幸福感。それが、彼女が本当に満千留の実の娘であるからなのだとしても。
「そういえば佐和子さんは、満千留さんにとてもよく似てらっしゃいますね?」
えっそうですか? その時、私は単純にこれも朴流の御世辞なのだと思っていた。
「美命さんにも、いずれまた……、今度こそ本物の筑紫舞を拝見させていただきたいと思います」
そう言って朴は去った。そのどこか爽やかな振る舞いが、まんじりともしないままだった私達の沈黙に何かを残していった。
4.
「空知のおじ様、やはりお兄さまは……」
早朝、目が覚めてから、しばらくしてユウシロウの姿が見えないことに気付いた美鈴が尋ねた。
しかし昨日、空知の部屋で対話していた時から、いずれ遅くない時期に兄の旅立ちの日が来ることは、既に悟っていた。それでも――。
「美鈴殿……ユウシロウ殿は、あまり御家族に心配をかけぬうち、家に戻るようにと」
「はい、でも……」
空知が告げたユウシロウの言葉に従わないわけではない。けれど。やはり私は……、ふと一言一言、大切に置くように呟く。ユウシロウお兄さまと先生のことが、気にかかるのです。そう半ば独り言のように呟く美鈴を、空知は見やった。
痩せ細った華奢な肩が微妙に震えている。それでも蒼白だった頬には、どことなく淡い桜色の気色が見て取れた。若干俯いた美鈴の瞳は、それでもどこか一点を見定めるように静かに揺れていた。
「伊集院殿とユウシロウ殿の絆――それは、美鈴殿とユウシロウ殿との絆……」
えっ。その言葉に美鈴は顔を上げた。しかし空知のその言葉が告げる意味は、既に美鈴の中にそっと息づいていたものでもあった。ただ、それを不意に空知の口から語られたのが意外だった。
伊集院先生……、佐和子先生は、ユウシロウお兄さまにとって。
その先は本当は美鈴自身にも、よく判らない。それでも、どこか遠くで二人は強く繋がっている気がした。私自身がお兄さまを、とても大切に思っているのと同じように。
……だから、お兄さまは筑紫へ行かれた。
私はただ、そんなお兄さまの帰りを一人待っていることしか出来ないの?
――来るな、美鈴。
ただ、そんな兄の声が遠くから聞こえるだけだった。それは最愛の妹を気遣うユウシロウの心の声に他ならなかった。
でも違うの、お兄さま。私はお兄さまのことだけじゃなく、どこかで先生のことが……。
そう、とても気になって仕方ない。昨夜、二人のことを思っていたら、急に胸の奥がずきりとして。それは不意に訪れた胸騒ぎのようなものだった。いいえ――本当は、もっとはっきりと。確かに美鈴は、その瞬間、何かを感じ取ったのだ。それは、とてもとても哀しげな予感。よくは分からないけれど、どこかそんな悲痛な感覚にも似ていた。まるで遠い星の彼方で超新星が弾け飛んだような、ほんの一瞬の傷(いた)み。
「先生、お兄さま……」
本当は私も行きたい。美鈴は兄を追って遥か筑紫の地まで行くことのできない、そんな自分自身の不遇を悲しく思った。
「美鈴殿、」
そんな小さすぎる一四歳の少女の憂いの表情を、空知には、ただ黙って包むように見詰めることしかできなかった。
その日の内に、美鈴は豪和邸に戻った。
しかし父である乃三郎を残して、兄たちの姿はいつのまにか消えていた。いや。それぞれに忙しい身である一清や清継、清春の三人の兄たちが揃って家にいることは、むしろ稀にしかなかった。それでも美鈴には、そのことに妙な違和感があった。やはりユウシロウが筑紫へと赴いたのと何か関係があるのでは? やはり、また何かの実験を……。
だが、美鈴が危惧したその思いは決して間違ってはいなかった。ユウシロウが九州へ向かったのは、佐和子に会うため。そして、それだけではない何かが、まるで暗雲が立ち込めるように二人の周りに漂っている気がしてならなかった。それはやはり、昨夜感じた異様な胸騒ぎと無関係ではないのだろうか。そう、きっとお兄さまは、先生を救うために。
「お父さま……」
いつになく乃三郎が庭に出て、虚空を眺めているのが気にかかった。佇むその姿は、まるで置き捨てられた人形のようでもあり、枯れ果てた巨木のようでもあった。いつのまに、父は老いてしまった。そんな虚しさが急に胸に押し寄せ、しくしくと痛むような喪失感とともに、それでも大切にしたいという切なる思いに美鈴の心は、しばし絡め取られるのだった。
「美鈴、今戻ったのか?」
「はい、お父さま」
不意に一人娘の存在に気付いた父に答える美鈴。そんな何気ない会話にも心が傷む。
乃三郎は無断で外出していた娘を特に叱るでもなく、それでも、そんな父の様子に美鈴は思わず、ごめんなさい、声を上擦らせる様もなくそっと謝った。それは、必ず家(ここ)へ戻ってくると信じていてくれる、そんな父への感謝の気持ちでもあった。
お父さま……、けれど再びそう声を掛けるも、そのあとが続かない。しかし、とうに緩やかに凪いだ水面のように、乃三郎は思い出すようにゆったりと言葉を紡いだ。
「ユウシロウのことか……、」
その瞬間、びくっと震える肩。そんな美鈴の様子を顧みることなく乃三郎は続けた。
「お前たち兄妹(きょうだい)は、これからもずっと兄妹だ。だからその変わらぬ絆は、どんな困難にも打ち勝つことが出来る――」
「お父さま……」
確かにユウシロウは余流ただ一人の伝承者だ。だが、それとて今ここに生きている、たった一人の人間の前には、何の意味もない。違うか? そう語る乃三郎の言葉は、確かな説得力に満ちていた。美鈴はただ黙って、その寂しげな背中にそっと頷いた。
一瞬、遠い筑紫の地が急に美鈴に近づき、すぐ目の前に拡がった気がした。やはり人と人との絆は、遥か時間と空間をも越えてしまうのだろうか。次の瞬間、美鈴は父に問うていた。
「伊集院先生……、」
ん? 父が振り返ると同時に、美鈴はしっかりと顔を上げて訊いた。
「先生も、やはり筑紫にいらっしゃるのでしょうか?」
やはり気になるのか。そう答える父に頷く。どうしても、先生のことが他人事と思えなくて。だが、ある意味、双つの意味合いによって、美鈴のその思いは少しも間違ってはいなかった。
天孫降臨。その伝説は、確かにかの地が遠い神話の血を引く場所であることを示していた。そして神とは類稀なる力を持つもの。いや尋常ならざる無窮の力であればこそ、人はそれを畏(おそ)れた。神話の時代は、人知の及ばぬ、その禁じられた聖域に人が踏み込むことはなかった。だが一度(ひとたび)その力を欲する欲望に駆られると、人は人ではなくなる。そうだ、餓沙羅鬼……。
「ユウシロウが舞を舞うのは、ただその神事を行い、伝承を伝えていくことだけではないのかもしれぬな――、」
およそ豪和の歴史を、その背に担う総代とも思えぬ独り言を乃三郎は呟いた。
「我々はただ、その一人の人間の思いと行動を、こうして黙って見つめていることしかできない。だから、祈りは存在しているのかもしれないな」
お父さま……、私は、お兄さまのために、ここで一人お祈りしていることしかできません。それでも。
「先生とお兄さまのために、私は祈りたい――」
そう信じている。ただそれだけの思いが、父と娘をかの地へ繋いだ。例え豪和という業に自らを窶(やつ)していくしかない人生でも。己自身の愚かな行為に気付き、後悔し、果てしのない懺悔の海原へと追い込まれていくだけの旅路であっても。
美鈴もまた父と同様に、庭の松の木の深緑の向こうに拡がる薄青い空を仰いだ。
*
「それにしても兄さん、本当に伊集院佐和子が我々豪和の……、」
清春が危惧するのは当然と言えた。たとえ豪和と言えども、やはり我々だって人の子だ。今さら何を、と長男で今や豪和のナンバー2としての実力を持つ一清には揶揄されるだろうが、それでも、もし佐和子が本当に妹なのだとしたら。二つ下の清春には姉ということになるが、それでも例え産みの母親が違うとは言え、彼女が本当に自分の肉親なのなら。
「ユウシロウだって、僕たちの弟じゃないか」
そう事も無げに言ってのける次男の清継は、典型的な科学者だった。実験で得られるデータによって科学が新たな領域へ進むためなら、おそらくどんな犠牲も厭わない。確かにそこまで非人間というわけではないが、こと豪和の人間ともなれば、そういった倫理観がどこかで次第に薄れていくのだろうか。
その点で言えば、清継はまだ真っ直ぐに長男の一清の思惑に則って行動しているのかもしれなかった。兄の理想が自分の研究と重なるのであれば、それに異議を差し挟む余地などない。何よりTA開発によって過去の遺物から取り出した人口筋肉が、その科学の新たなる進歩を担う発端となるのならば。
純粋な会社人間で、豪和においては政治工作や情報のリーク解析など、実質的な対外交渉を担っているとはいえ、三男の清春には、そんな二人の兄たちの姿は一種異様に思えたかもしれない。だが、どんな言い訳をしても、自分とて豪和の人間として、その片棒を担いでいないとは決して言い切れないのだ。そう、今さら……何を躊躇う。
「罪の意識、か」
ふと清継の呟いた言葉に、思わず清春は兄の横顔を見やった。
どうして我々豪和は、いつもこんなことばかりしているんだろうな……、不意に漏らした深い溜息とともに吐き出された言葉。
自衛隊輸送機に自機とともに同乗しているユウシロウ。その専用機を追うようにして同様に北九州へ向かっている機内の中で、二人の兄弟は一瞬、当たり前の人間としての感情(おもい)に立ち返るのだった。
――それでも、とうに我々には後悔の二文字は許されないのだ。そう、それが豪和という宿命そのものなのだから。
美鈴が立ち去ったすぐあと、鬼哭石の郷の一角に黒いリムジンが停車した。
その車から降り立ち、空知検校の屋敷を訪れた、ある一人の男。オールバックの髪型の広い額は、いかにその人物の知性が鋭いものであるかを伺わせた。ふ、鬼哭石の郷、か。我々がこんな鄙びた歴史の辺境に未だ囚われているのは……、それもすべて餓沙羅鬼のため。その意味では、どれほど一大軍需産業として、際限なく進み続けるこの文明社会に契合しようと、豪和という一族は降り積もる過去の澱を拭い去ることもせず、その膨大な時の蓄積をこそ己自身の糧として今に生きているのだ。
一清がここを訪れた目的は二つあった。一つは空知から事の真相を暴き出すこと。そしてもう一つは、これから共に北九州は筑紫への同行を同意させることであった。
無論、餓沙羅の舞の修行は一定期間、その神事の前には常時行われていたのであるが、何しろ今回事は急を要する。当然、郷で悠長に修行している暇はないということだ。そのため急遽ユウシロウを、まず一路九州へと向かわせた。神事と並んで行われるTA走行試験。一見して無関係の事柄が一つに繋がっている。過去と未来の結合。だから空知をいわば連行という形でも、我々と同行させる必要はあったのだ。
「これはこれは一清殿、お久しゅうございます」
そんな白々しい挨拶を交す空知のどこまでも温厚な表情に、玄関先で一清は思わず鼻で笑った。老いているとはいえ、この老人はやはり油断ならぬ。検校という名を認(したた)めているだけあって、伝承という名の澱が降り積もった砦の囲いの中で、じっと息を潜めて生きてきた。まさに生きた化石だ。
「空知検校、つい昨日まで、こちらにユウシロウと美鈴が来ていたようだが、」
おお、そうでしたな。あくまで、そんな悠長な調子を崩さぬ相手に苦笑いする。
……どうでもよいがユウシロウ、やつは我々の思惑通り、今北九州へ向かっている。ほう、それはまた御苦労ですな。相変わらず、空知は素知らぬ振りで鷹揚に構えている。
「ところで検校、余流の淵源は、その北九州は筑紫にあると――、そもそもこれは、我が豪和の古き縁起に描かれている伝承通りなのだが」
まさに狙い定めたようなシナリオだが、そこには当然、閾(しきみ)も存在しているはずだ。
――なぜ、白村江の戦いにおいて筑紫王朝は滅びたのか? 空知検校、貴方は伊集院佐和子の実母である、貴嶋満千留について本当のことを知っていたはず。だからこそ父、乃三郎と彼女との間を取り持つような真似を、いや父が彼女から佐和子を貰い受けた後、行方不明になった満千留を一時、本州から逃したのもすべて……。
「はて、何のことでしょうかな?」
相変わらず、白を切り続ける空知。しかし一清はふっと不気味に笑うと、一瞬押し黙った。
「卑弥呼の国、邪馬台国は、筑紫にあったのだという一説がある――……、」
その瞬間、一陣の風が双方の間を通り抜けていく気配がした。実際、開け放された玄関口には、冷たい外気以上の何かが漂っていたのではあるが。おぞましくとも見据えずにはいられない、そんな目に見えぬ闇が。
まあ、そんなことはどうでもよい。我々豪和が司っていた余流能楽の淵源が筑紫にあろうとも、別段驚きはしない。要は〝力〟さえ取り出せれば、全てはどうでもいいこと。だが、いずれ貴方にはユウシロウと佐和子の子を、その余流の伝承に則って教育して貰わねばなるまい。……その最後の一節に、空知は細い目をさらに細くさせ、巌(いわ)のように沈黙した。
「――それは、またもこの空知に、新たに芽生えた命を犠牲の種にする手助けをさせようということですかな」
一清は、やっと引き出したその本心に口元だけでニヤリと笑った。
……無論、ユウシロウには、まだまだ役立って貰わねばならぬ。だが、いずれ先々の「保険」は必要だ。それに、それ自体がもし只者ではないとしたら……、やはり二人は、思わぬ落し種を産んでくれるということになる。
筑紫舞の宗家は、余流の淵源にして遠い先祖。その義理で行ったというだけではない、そう満千留には、それだけの力が眠っていたということなのだ。それを餓沙羅鬼の神事の犠牲にしてはならぬという、その心理が無意識のうちに働いたのだろう。だが、今回はそういうわけにはいかない。佐和子自身のものと、そしてその佐和子に出逢ってからというもの、一時保留となっていたユウシロウ双方の力。その融合が貴嶋満千留の持つものと同等、いやそれ以上の作用がないとは言い切れない。
「空知検校、なぜ私自身が直々に貴方を迎えにあがったのか、どうかその理由(わけ)を思い出していただきたい……」
異様な一清の眼光に射竦められ、空知はかつて弟子の一人として修行を行った、まだ歳若い彼自身の姿を脳裏に蘇らせた。嵬としての素質を見出せず、結局は失意のうちに修行を中断せざるを得なかった、その苦悶の表情を。
なぜそうまでして、この男は己自身の野望を遂げるために、ここまで冷酷になれるのか。だが、最早そんなことは、敢えて尋ねる必要もなかった。いつかその野望は、餓沙羅鬼の焔に包まれ炎上し、いずれは――しかし預言者でも何でもない空知には、それ以上のことは語れなかった。
*
……あの時、一体私はどうしたというのだろう。
不意によみがえる記憶の中で、私は確かに舞を舞っていた。ユウシロウと同じ――。
でも確かにそれは怖ろしい体験であったはずなのに、不思議と恐怖は感じなかった。だって、少しだけユウシロウに近づけた……そう、少しだけユウシロウの気持ちに近づくことができた。あんなに、離れていても近くに感じていた彼の、けれど私は、やはり傍にいてはいけない存在だった。なのに。
身体と心を包み込む、この例えようのない幸福感、そして思慕。それは何もかもを超越するような至福に満ちた感情だった。忘れようとすればするほど、彼を想う気持ちを停められない。もしも、それが許されざる行為であるなら、どうか早くこの身を――。
私は穢れた女。餓沙羅鬼の焔(ほむら)は、ユウシロウのように舞を舞う者の元へおとなう。ならば私はいつか、その焔に焼かれる運命なのだろうか。そう、ね。多分私は、ユウシロウを庇うためなら……そう、きっと。
そんなとりとめのない思いに息を吐くと、薄明に染められた初冬の空は、今にも白いものを舞い躍らせてくるような冷たさに満ちていた。南国であるはずの福岡だが、ここ北九州は特に山脈に遮られることもなく、それだけに日本海から直接吹き付ける北からの冬の寒さは、当然この地にも本州同様にもたらされた。その空気の冷たさに、思わず人の体温が恋しくなる。優しくやわらかく……瞬間、〝あの時〟の彼の温もりを人知れず思い出す。
そんな私を傍らで見つめていてくれるはずの鷹水。そして私の舞を見て、言葉を失った貴嶋宮司。
――お願いだから、そんな風に私を見ないで。
それでも、その何かを守りたいと願う思いは、きっと私がユウシロウを守りたいと思う感情と一緒なのだ。まるで砂の城のように海の波に浚われる、儚げな存在。けれどその砂の城は、崩れ流されるために存在しているのかもしれない。ただ形を持たぬ、「無」そのものに還るために。ならば、私は……私は、ユウシロウと一緒に。
「佐和子さん」
不意に背後から声を掛けたのは、貴嶋宮司だった。
〝あの瞬間〟青ざめた彼を襲ったのは、確かな恐怖だった。何かを消し去ってしまうかもしれない、恐怖。
あれほどまでに、まるで罪悪感にも似た、もしかしたら後悔の念に晒されていたのかもしれない貴嶋氏。でもそれは、私自身が望んだことだったかもしれない。もしかしたら、私はあの舞を――そう筑紫舞、そしてユウシロウの余流の舞に本当の自分自身を感じたのかもしれない、だから。
「満千留も、そうでした……」
「え?」
ふと言葉を紡ぐ宮司の表情は穏やかに、在りし日の人のことを思い浮かべるままに、ただ凪いでいた。
「まるで半ば筑紫舞を舞うために日々を過ごしていたようなのに、不意に満千留は、」
あれはおそらく、恋……きっと誰かを想って物思いに耽っていた姿だったのかもしれません。
その貴嶋氏の言葉に私はとっさに頬を僅かに紅(あか)らめる。けれどそれは、とても優しい恥じらいだった。
「ですから、どうか。どうか佐和子さんも、後悔だけはなさらぬよう……」
「はい」
よもや貴嶋満千留が自分の実母だとは思いも寄らぬまま、私は頷いた。
穏やかだが、確かな思いやりに満ちたその言葉に、私の中に再び確かな核のようなものが生まれる。それは、ただ誰かをしっかりと抱きしめたい思い。そう、かけがえのない大切な誰かを。果てしのない絶望以上に。もしもそれが許されることならば、私はユウシロウを――ユウシロウを、やはり守りたい。