※この作品はR-18です。

櫻ノ舞 【gasaraki 外伝】   作:ミナモトルカ

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第九章 古(いにしえ)の約束

1.

 

 遥か昔、奈良に平城京の都が造られるより二四〇年も以前、ここに倭国筑紫王朝が形作られた。そしてその前身であると言われている邪馬台国。まるで漠然と伝説の巫女、女王のように思われている卑弥呼――もし、その不思議な力がこの日本、倭の国を作ったのだとしたら。そんな荒唐無稽な話は、科学万能の時代には無論受け入れられないかもしれないが、それでもその決して目には見えない真実にこそ、世界の、物事の真理が隠されていたとしたら。

 福岡と大分とに跨る北部九州の最高峰、英彦山(ひこさん)。北岳・中岳・南岳の三峰からなる標高一二〇〇メートルの頂は、かつて修験道の霊場として栄えた。古事記にて天孫降臨の舞台として描かれた地である。『筑紫の日向の高千穂の霊(く)しふる峯』――そう謳われた山々に雲間から差し、降り注がれる後光のような光輝(ひかり)を眺めながら、一人鷹水は思った。

 ……もし、佐和子が無意識のうちに舞ったという舞と、ユウシロウのそれとが同様のものであったら。

 それより一体、貴嶋満千留という筑紫舞の舞い手は何者なのか。まるで降って涌いたように、彼女はこの地に現れた。その血を色濃く受け継いでいるはずの佐和子。彼女が、あれほど執拗にユウシロウという存在にこだわるのは。嫉妬などという性質のものを越え、二人が織り成す不可思議な磁場に、既に鷹水自身が取り込まれようとしているのかもしれなかった。

 奇しくも同じ頃、昨日貴嶋神社を訪れた朴も、同じ伝説の伝わる峰々を茫洋たる思いで見詰めていた。

 古(いにしえ)の時、北九州は初めて日本という国が大陸文化の洗礼を受けた地。おそらくそれにより物質的なものばかりでなく、もっと根源的な何かが、その時代の奔流の中、人知れず生み出された――。そう考えることはできないだろうか。あながちやはり、卑弥呼の奇跡は本物であったのかもしれない。ふと神話と現実が、いきなり二重構造の螺旋を描くDNA遺伝子の鎖のように絡み合い、まるで今に続いているかのような錯覚に溺れかける。

 それはおそらく昨日、貴嶋満千留の血を引く伊集院佐和子に出会ったからだろうか。

 なぜ評議員メスが、ここ筑紫にて日本古来の伝承文化について何らかの真実が掴めると考えたのかが、今にして理解できた気がした。いや、実際メス自身がそう告げたわけではない。むしろそれは、朴自身の勘のようなものだったのかもしれない。その勘、一種のインスピレーションのようなものを辿った先に、偶然、彼女はいた。国際ジャーナリズム団体のエージェント鷹水誠司の婚約者。シンボルという組織に属している以上、その網目のように張り巡らされた情報の波の中で、点と点を結ぶ線を見つけてしまうのは致し方ないことだ。

 それでも当然、朴は元より評議員であるメスを含めたシンボル自身でさえ、今はまだ何も知らなかった。特自と日本の軍需産業の一角を担う豪和の者が、よもや運命のTA起動実験を行うために、この地に向かっているなどと。

 

 なぜ突然こんな本州の西南の果てでTAの走行実験を行うのだろうか。特自、特務自衛隊隊員や作業員の誰もがそう思っただろう。だが、その疑問について口を差し挟む者は誰一人としていなかった。それが現、特自がほぼ豪和に従事するような形でTA実験に参画している実態そのものだった。

 そしてむしろ疑問に思うべきは、そのTAパイロットである隊員の一人、豪和ユウシロウの存在であった。彼はまだ若干一七歳。そして何よりれっきとした民間人なのである。実際、豪和の四男坊であるという事実を除けば、不可思議に思うことが何一つないわけではなかった。むしろ……。

 相変わらず無愛想な現隊員たちの中で奇異な視線を向けられながらも、ユウシロウの視線の先が求めるものは、今自分が向かっている北九州の空にしかなかった。ただ無言でじっと一点を見詰める眸。その氷の張った透き通る鏡にも似た水面のように凍りついた眼差しの奥に、確かに宿るあたたかな光。

『佐和子先生……』

 もしユウシロウが私の元へ向かっていると知ったら、私はやはり彼を追い返そうとするだろうか。それでも、そんなユウシロウの真っ直ぐな思いが、私はやはり嬉しかった。きっと……、それでも、だとしても私は。貴方はもう、あの舞を舞ってはいけない。だから、その代わりに私が。ただ愛しいと思う人のために、生きることができるのならば。それはきっと、本当の意味で生きたと言えるのではないだろうか。

 

      *

 

 陸上自衛隊、西部方面隊管内、第四師団。その司令部である春日市に位置する福岡駐屯地。早朝、福岡空港にて、その地に降り立ったユウシロウは、他の隊員達と共にそこへ向かった。やはり何か胸騒ぎがする。時前に受け入れ態勢を整えていた駐屯地内へは、何の問題もなく入ることができた。それでも……。

 特務自衛隊、蕎導団第三実験中隊。その隊長である速川中佐も、実は同様にこれまで以上の事の異常さを感じていた。

 確かにTA開発の先導者である豪和の下で実験開発を続けてきた中で、ある種異常でないと感じることの方が少なかったのは事実だった。

 本当になぜ、わざわざ北九州まで出向く必要性があるのか。TAの走行実験なら、これまでどおり豪和市に特別に設えられたシュミレーター訓練場や、あるいは関東圏内の演習場でも出来るだろう。しかも今回、豪和を通じて上層部から発令された指令にも首を傾げた。普通、走行実験として考えられるとすれば、その実行場所は、佐賀の大野原演習場か西日本最大の演習場でもある大分の日出生台(ひじゅうだい)演習場、もしくは福岡県内であれば久留米市の高良台演習場などが候補として挙げられただろう。

 だが豪和が提示してきた実験場は、福岡県内のとある山間部であった。確かに元々狭隘な都市部戦に特化したTAならば、ある程度の場所さえ確保できれば森林の生い茂る山間部でも、さして問題ないかもしれない。それにTAの存在については未だ世論に晒されておらず、実際その開発訓練も極秘裏に行われ、容易に人目に晒してはならぬものであるということは、これまでも重々実感してきたとおりだ。だが。

 速川はふと思い出したように、数名の隊員たちの中で沈黙を守り続ける豪和の御曹司でありTAパイロットである豪和ユウシロウを見やった。

 若干一七歳。しかも未成年である彼は同時に民間人でもある。絶対的に我々とは違うのだ。だのに……。

 今回も彼は何の意見や疑問を差し挟むことなく、まるでそれが当たり前であるかのように豪和の意思に従った。それは確かに実験中隊の我々そのものの姿かもしれなかった。けれど不思議なことに、今の彼にはこれまでとは明らかに違う、確固とした意思のようなものが、その瞳に感じられるのだ。

 数ヶ月前、盛夏の頃、一旦豪和(いえ)に戻ったと思ったら突然、二週間ほど実質訓練に戻らない時期があった。しかしそれも、その後の実験成果の進展ぶりを思えば、何の問題もないことだった。そうだ。我々実験中隊の者にとって彼の存在は、TA開発という、しかるべき当然の責務によってのみ容認されるものでしかなかった。

 本当に、ただそれだけの繋がり。

 ――豪和大尉。

 しかし少年は速川の思惑など知る由もなく、ただ一人異質な積荷の部品の一つのように輸送トラックに平然と乗り込むのだった。

 

「本当に、どういう任務なんでしょうね、今回の実地演習は」

 思わず本音をさりげなくぶつける隊員の一人、池口洋輔の言葉に速川は振り返った。

 ……確かにそれは今、誰もがこの場で問いかけたい疑問だ。それでも、ただ黙々と作業を続ける隊員たちの中で、この池口の本音は、暗黙のうちに口にしてはならぬもののようにも感じられた。

「そうだな。しかしTA開発自体が豪和主導で行われている以上、それに従事する我々には何一つ意見することは出来ないことなのかもしれない」

 自分でも酷く消極的な物言いだと思う。しかし事実、それが今の実験中隊の現状だった。豪和という、一企業にして一種強大な力を持つ存在には敵わぬ――いや元々その任務そのものに対しては従順な、我々自衛隊員にとっては意見してはならぬ現実なのかもしれない。

「豪和、ねぇ……」

 それでも、どことなく不服そうに、池口はトラックの窓外を見つめるユウシロウに、ちらと目をやった。

 豪和の御曹司がなんで。もう幾度となく胸の内で繰り返してきた疑問を、再度池口は反芻した。確かにユウシロウはTAパイロットとして、ずば抜けた資質を持つ存在だった。同様に試験段階からTAに乗っている池口だから解る。自分はここまで来るのに三年はかかった。しかしユウシロウは僅か一年で、まるで既に自分の手足のように苦もなくTAを操っている。それなのに自分は、人口筋肉を主動力とするこの鉄の塊に、未だ逆に使われているような感覚さえ覚えるのだ。

 こんなもの、普通の人間が乗りこなせるもんじゃない――おそらく誰もがそう実感しただろう。実際、走行途中、強壮剤のようなものを体内に注入されなければ到底、最後まで乗りこなせない。その尋常でない体力(そして精神力)を必要とする二足歩行型兵器に、この華奢な少年は、まるで汗一つかかず搭乗しているかのように見える。いまや一大軍需産業としての実績を誇る豪和でもあり、このTA開発は特自が参画する以前から、ある程度の段階まで開発が進められており、そこに当然大尉も加わっていたのかもしれないが。しかし、だとしたら……。

 ふと、悪寒めいた感覚が背筋を這い上がる。

 本当になぜ、正規の隊員でもない、しかも若干十七歳の未成年の少年が……大の大人でさえ根を上げる、こんな殆ど拷問のようなこの実験機の操縦に同調できているのだ。それが豪和の四男であるという点も、池口には腑に落ちなかった。まったく、どうにも解せないことばかりだ。

 北九州という本州の西南の果て。どこをどう間違って自分はこんな場所に来ているのだろう。何となくだが、何かの目に見えない力に操られている気分になる。それは確かに――。この実験中隊に関るようになってから豪和の掌の中で踊らされているように感じてきた、その酷く絶望的に抗えない現実に、池口はまたも絡め取られていっているような錯覚に陥るのだった。

 

      *

 

 福岡駐屯地に入所した翌日、ユウシロウは迎えに来た兄、清継と共に車に乗り込んだ。

『入所早々、早速お出迎えですか』

 そんな皮肉交じりの隊員の一人、池口の含みありげな言葉が無言の背中を追いかけてきた。そして、それ以上に平静を装う速川の一瞥が何かを言いたげな眼差しを含みユウシロウに問いかけた。本当は何一つ知らずに、すべてを解っているような素振りはできない。おそらく速川の思惑がそうであることに彼自身も気付いていたが、それでも豪和について全てを詳(つまび)らかにするというわけにもいかなかった。それは暗黙の了解。

 その彼を今まさに呑み込もうとしている闇。それがこの筑紫の地にも息づいていることは確かだった。いや――。

「既に空知検校も目的地へ向かっている」

 清継の言葉が、ただ意識の表面を上滑りしていく。しかし空知が直々に鬼哭石の郷を離れ、ユウシロウを追ってここ筑紫へと足を踏み入れているそのことが、何かの真実を無言で語っている気がした。御師匠……。ユウシロウの脳裏に、ただ黙々と穏やかに一清の命に従う空知の姿が映る。それは豪和という呪縛に常に付き従い、己の使命を全うする老齢の意思でもあった。そしてそれは、――そうだ。俺自身の姿でもある。

 伝承は語る。それそのものに操られるようにして、ユウシロウの身体は常に動いた。その内実で蠢き躍動する人工筋肉の調べ。それは同時に遥かな刻(とき)に忘れられた哀しき魂の叫びでもあった。その断片、いや本流であるかもしれぬ縁起がここにも息づいていた。否、それはユウシロウを待っていたのだ。

 そのために我々はオマエを彼女に逢わせた――そんなはずが。だのに俺は、彼女が誰なのか知っている自分を知っている。お前は、誰だ。遠い記憶の彼方を辿るのももどかしく、ユウシロウは己自身に直接問うた。しかし、漠然と拡がる予感は彼自身を亡羊と包み込むばかりで何一つ答えようとしない。ただ身を裂くような哀しげな感覚を、彼は確かにその身に覚えていた。

 

 そこは渓流が眼下を流れる断崖の只中にあった。

「ここは……」

 そうだ、石舞台だ。ユウシロウの呟きの矛先を代弁するかのように清継が続けた。そこはまるで鬼哭石の郷の石舞台そのものだった。近くにダムが建設されているようだが、そのため立ち入り禁止区域にもなっており――滅多に人が訪れることのない山間の秘境、とでも表現すればよいのだろうか。そこに人工的に造られたのかそうでないのか、その巌が穿たれた石の能舞台はあった。

 実験機材はまだ運び込まれておらず、いずれ訪れるだろう豪和総研の研究員たちの喧騒も、未だなかった。まさに嵐の前の静けさ。いや祭り、というべきか。そのマツリを彼自身の身が執り行う瞬間が次第にやってくる。ただユウシロウは黙ってそれを待つことしかできなかった。そう……それが、今までの俺自身。

「ユウシロウ殿……」

 無言で舞台中央に立ち尽くすユウシロウの背後で人の気配がした。それは半ば一清に連行されるようにして、この地に飛んだ空知検校その人であった。そうだ、俺たちは傀儡(くぐつ)。誰かに操られることでしか己自身を生きながらえる術を持たぬ――。その悲しみを空知は知っていた。そして無論、ユウシロウも。

 北九州のこの地においても、その事実は変わらなかった。むしろ、その悲しみの淵源がここにこそあった。そしてそれは、伊集院佐和子との絆。

 沙耶……。その幼い少女の瞳を彼は知っていた。遥か遠い過去(むかし)、この地で出会ったひとの……妹? いや、彼女は身代わりだった。卑弥呼? いや正確には日の巫女だ。その女帝が身罷り日食が起こった。違う、人々の安寧を約束する人柱として……、彼女は葬られたのだ。

 その未来を知っていた彼女の、遠い嵬の同胞たち。それは単なる記憶装置、そして追跡子(トレーサー)だったのかもしれない。それが今も俺たちを遠く操る。なぜ彼女がそのひとの身代わりになったのか――今となっては、もう何一つ知るべくもない。だが。

「ユウシロウ、ここがお前の舞台だ」

 そう、真の――その確信と共に見据えるゾッとするほど冷え切った眸が身を貫く。

 まるで石の墓場だ。一清の視線を受けて立ち尽くすユウシロウを、それでも空知は穏やかに包み込むように凝と見詰めていた。

 

「で、俺たちは何処でTAの演習を行うんですか?」

 古賀市と若宮市にまたがる西山訓練場にて普段通りの基礎訓練を繰り返す数日のうちに、たまりかねた様子で池口が何気なく口を開き尋ねた。

「まだ正式な日時と場所は明らかにはされていない」

 そう答える速川自身、池口のみならず目に見えるような隊員たちの疑問を肌で感じていた。いつ通告が下ってもよいようTAの整備と搭乗員の体力維持のための身体調整は滞りなく行われている。ただそれも来るものが来なければ何の意味もない。入れ替わるように連日、同じ豪和一族の清春氏が駐屯地に顔を出しているようだが、その間、豪和大尉、豪和ユウシロウの姿はないままだった。まるですべて示し合わせたかのように。

 本来なら必要とすること自体がおかしい、その民間人の少年の存在。だが実際は、ユウシロウ本人がいなければ、この実験訓練そのものが成り立たない事実を速川は知っていた。どうしてそんなことが……、最初は己の目を疑った。無論、他の隊員たちの士気にかかわる問題でもあるだけに、詳細は一切伏せていた。

 何より豪和が自分たちの身内――それも未成年の――を実験に差し出す理由、それを探すことの方が困難であっただけに、ある意味で腑に落ちる側面があったことは確かだった。その彼が豪和の兄に連れられて去ってから、既に数日が経過しようとしていた。一体何のために? むしろその疑問は、この実験中隊の福岡行きそのものにこそ存在していた。

 常に豪和は豪和の都合で物事を運んでいる。それは何も今に始まったことではなかった。だから突然、中隊の九州行きが決まっても、そして未だ何の通達が本部からないまま、豪和の御曹司だけが何処かに連れて行かれたとしても、何一つおかしくはない。

「豪和……か、」

 速川自身も、漏らしたその呟きに、今ここに自分がいる理由を探していた。

 

  2.

 

 あれから一週間が経ち、だいぶ体調が元に戻った私は、それでも鷹水の勧めもあって、しばらく貴嶋家に留まることになった。勿論、貴嶋宮司自身もそれを快く了解してくれた。自分の家だと思って、いつまでも居てくれてかまわない、そのくらいの気持ちで、まるで身内のように受け入れてくれる貴嶋氏に、むしろ申し訳ないくらいだった。

 でも、いつまでもこのままここにいられる訳でもないことは私自身悟っていた。鷹水は一人、私を残して取材と称した調査に出掛けた。やはりシンボルの動きも気になる。そして何より最重要項目となったのは、まさかの豪和と特自実験中隊の福岡入りが昨日伝えられたことである。単なるNPO団体とはいえ、私たちの情報網は常に密に刷新されていた。専用パスワードで組織の者のみ入ることのできる情報サイトを経由して様々な報告を知ることができた。

 ――ユウシロウ。

 私は彼がここ北九州に来ていることを知った。やはり予感は的中した。彼が、今近くにいる。なぜか例え遠く離れていても、私たちは不思議に互いの存在を感知し合えていた。それでも、同じこの筑紫に今足を踏み入れているのだという、その実感は、互いの温もりそのもののような安心感と、そして同時に不可思議な不安感を胸に生じさせた。

 ユウシロウ、やはりあなたはここへは来てはいけない。

 だから私は彼より一足先に、この地に足を踏み入れたのだろうか。彼の行動そのものを停めるために。けれど決してそれだけではない事実を後になって私は知るのだった。

 

 豪和と特自が動いたことは、同時に私たちの行動に関しても転機が訪れたことになった。いずれ私は、ここを離れなければならない。それだけに気にかかるのは、やはり美命さんのことだった。あれから未だ心を閉ざしたまま、彼女は何かに怯えるように部屋に引き篭ったままだった。

「美命さん……」

 どうしてあの日、彼女が私を筑紫舞の舞台に誘ったのか、無論そのことも気にはかかっていた。そして何より――私自身、どうしてあの舞台で筑紫舞を。目覚めてしばらくは記憶自体が混乱し、その瞬間のことを思い出すのも難しかった。しかし恐る恐る記憶を辿ってみる。そうすると、やはり脳裏に浮かぶのはユウシロウの顔だった。どこか心配げな、その表情。でもまだ私は、その時の感覚そのものに潜む、狂おしい過去の記憶そのものには再び触れられないままだった。

 それでも本当の別れが来る前に、私はもう一度美命さんと話したかった。

 

 ――おかあさん、お母さんはどうして、行ってしまったの。

 本当は、そう問いかけるのが怖かった。お母さんが本当の自分の母でないことくらい知っている。それでも美命は、母のことを唯一の拠り所としていたのだ。貴嶋満千留――筑紫舞の宗家、そのただ一人の伝承者。だからお母さんの舞は、私の命。私が守らなければならないもの。でも、あのひとがやって来て、私は何かを悟った。

 お母さんによく似た、綺麗なあのひと。優しく微笑んだ瞬間、お母さんが帰ってきたような気がしてドキリとした。でも本当は、貴方のことが憎かった。大好きで、でも、とても苦しいくらい……。

 あの日、お母さんに本当の娘がいることを私は知った。お母さんの、たった一人の愛娘。じゃあ、私は? やっぱり私は、お母さんとは血が繋がってないんだって実感した。それでも一生懸命お母さんの舞を習ったら、お母さんの本当の娘になれる気がした。ねぇ、お母さん。そうでしょう?

 でも私は口が利けないから、お母さんに直接そう尋ねることはできなかった。ううん、違う。むしろ自分が口が利けないことで私はどこか安心していた。だって口が利けたら、真っ先にお母さんにそう尋ねてしまうもの。……本当は私は、本当のことを知るのが怖かった。

 貴方はどうして、そんなに優しく微笑んでいられるの?

 

      *

 

 福岡市内に事務所を構えるFOIJ福岡支部には特自の福岡入りのニュースに関する憶測が密かに飛び交っていた。

「なんでも極秘命令だそうだ――もっとも、こうして我々に勘付かれている時点で既にアウトだろうがね」

 再び舞い戻った鷹水に支部長がそう語りかけた。

 やはり豪和は佐和子のことについて真実を知っているのだろうか。むしろ貴嶋満千留のことを彼らが知らないはずがなかった。何より佐和子は豪和乃三郎の実の愛娘なのだから。ありていに言えば隠し種、愛人に産ませた子、ということになるだろうが、事はそんな俗事ではない。まさか――満千留が豪和の縁起の祖、筑紫舞の伝承者であり、両家のルーツが同じものであることを知っていてなお、惹かれてしまった関係なら、何という悲劇だろうか。

 福岡駐屯地と西山訓練場を拠点としている特自に今時点で主だった動きはなかった。特自本部のサーバーに極秘裏に潜り込ませた探索網からの情報にも特に変化はない。

「一体豪和はここで何をしようとしているんでしょうか、鷹水さん」

 おもむろに若い所員の一人にそう尋ねられた鷹水自身が、同じメンバーでもある佐和子の件について、その詳細を明らかにすることを躊躇っていた。しかし、それも時間の問題だ。おそらく豪和は、もう一度佐和子をその懐に取り込もうと画策しているのだろう。そして、あわよくば。

 実質的なTA実験部隊である特自がユウシロウを伴い福岡入りしたということは、豪和がここ筑紫の地のどこかでTAの機動実験を行うつもりであることは明らかだった。まさか……。

「筑紫舞の、いや余流能楽の神事をここで行うつもりなのか……?」

 鷹水は、ぞわりと腹の底からのぼって来る悪寒を抑えることができなかった。

 やはり佐和子には、このことを知らせるべきではないのか。しかし最早それが無駄なことであることを鷹水は誰よりも深く悟っていた。何より無意識のうちに舞を舞ったという佐和子とユウシロウの間に、真に妨げる壁など存在していないのかもしれない。

 

 

 あらためて空知とこの地で相対すると、ユウシロウは漠然とした奇妙な感慨を抱く自分を発見していた。

「御師匠……僕は自分がここへ来なければならないのだと強く思った。だから来たのです」しかし、

 空知自身までもが――それも半ば一清に強引に連れてこられた。そこにはやはり何かの秘密が隠されているのか。

「ユウシロウ殿が仰りたい旨は、この空知、よく存じておる所存――ですが、今こうしてこの地の空気に触れ、あらためて余流の子孫としての命を再び実感したようなもの」

 ふと細い眼差しをさらに細くさせ、空知検校は渓流近くの枯れ木立の間から覗く薄蒼い空を仰いだ。鬱蒼とした静けさを纏う初冬の森林の清浄な空気が、殊更にユウシロウの精神を研ぎ澄ませる。

「この地に古くから伝わる舞――筑紫舞と申すものがここに存在しております」

 おもむろに続ける空知の話に、ただ神妙に耳を傾ける。

 それは我ら傀儡(くぐつ)の民が漂泊の旅路の端々で各地に伝えていったものの源泉。いわば、それは余流の母。無論、それらは全く同じものといったわけではなかったが、同様の目的で王権に利用され、流派としては別々に伝えられていったのだろうが、それでもその魂が伝える根本は、ほぼ同じものだといえる。

「ですから、この空知もユウシロウ殿同様、自らの意思で参ったのでございます」

 その言葉にあらためてユウシロウは目を見開く。

「この筑紫の地に自らの源流を今一度、見定める――そして、佐和子殿も」

 その名に再び瞠目するも、しかしユウシロウ自身、すべて感知し得ていることだったのだと、あらためて思い返す。

「佐和子、先生……」

 やはり先生は、ここ筑紫に。まるでお互いに遠い故郷に帰ってきたような思いに囚われ、ユウシロウはそっと目を伏せた。

 

 

「筑紫野市内の古墳跡に作られた貴嶋神社……」

 そこが貴嶋満千留の生まれ故郷だった。そこに佐和子自身が帰っていることは、彼女の姿を見かけたという町民の話からも推測できた。

「本当はそこで面白いものが見られたのかもしれないな、」

 ふと一清は旅先の余興を楽しむかのような面差しで、ふっと口元で笑った。

 ユウシロウら特自の部隊と、ほぼ同時刻に先に現地入りした次男の清継は、筑紫の閾(しきみ)と推測される山間の石の能舞台の調査と実験を始めるに当たっての現場の整備、そして三男の清春は単身、福岡駐屯地に赴き、実質的なTA演習のオブザーバーとして師団司令部への説明など具体的な実施日に関する各種調整を行っていた。

 だが本来の意味で――、我々豪和の者が総代を除いて、ここ筑紫に集まったというのも一つの因縁か。一清にはそう思えてならなかった。どちらにしても佐和子の動向は、いつ何時でも掴めている。同様に鷹水誠司らジャーナリズム団体の連中が探っているこちらの動向も、ほぼ同じようなものだろう。今さらながら自衛隊の機密性は一体どうなっているのかと目を疑いたいところだが、むしろこれまでもそうだったように、敢えて彼奴らにこちらの内部情勢について親切に教えてやっているようなものなのだ。

 それもこれも、そこに伊集院佐和子が、いや貴嶋佐和子がいるからこそ。

「……いつでも、好きな時に迎えに行ってやれるわけだ」

 我が愛しき妹よ。例え異母兄妹(きょうだい)とはいえ、確かに豪和の血で繋がっているのだ。それは忌まわしい血の繋がりかもしれなかった。だとしても、一清には何よりそれが強い絆であると実感できた。そう、情というもので縛られた“肉親”であるという事実よりも。

 

「そうか、ユウシロウはまだ何も知らないんだったな」

 無論、それは伊集院佐和子のことである。福岡駐屯地にて清春と落ち合った一清は、その弟の言葉を聞いて一人ほくそ笑んだ。

「そうだな……、やつに教えてやってもいいが、無駄に騒ぎを広げることになっても拙いだろう」

 貴嶋満千留に纏わる佐和子自身の出自、真のそれを知ってユウシロウがおとなしくしていてくれる保証はなかった。一清は以前、ユウシロウが清春と清継、そして自らに放った言葉を思い出した。〝俺は人形じゃない!〟――その激しさはヤツらしからぬものだった。それを誘発させた恩人でもある、佐和子の真相(こと)を知ったら。かつてのユウシロウの言葉そのものの事態を招くことは、やはり避けておきたい。

 そう、嵬は嵬として、その力を吸い上げるものの意思におとなしく従っていればよい。それがお前の宿命なのだ、ユウシロウ。

「姉さん、か……何だか唐突にくすぐったい感じがするけど」

 突然二つ年上の姉ができたという、その事実だけなら清春のその言葉そのものに純粋に頬を綻ばせることもできただろう。それでも、そんな温かな感慨は、もはや我々には許されぬものなのだと知る。そのことを一時思い出したのか、清春は急に口を噤んだ。

「カズ兄さん、本当に伊集院佐和子を万が一の時のユウシロウの代わりにするつもり?」

 ああ、そうだ。それを実行に移して何が悪い。一清の貼り付いた能面のような無表情には、そんな無言の言葉が現れていた。

「……所詮、代替品。とは、無論思ってはいないさ。何しろ彼女は、我々豪和の大切な長女なのだからな」

 その地の底から響くような底冷たい声色に、清春は一瞬我を失った。

 

      *

 

 それはまるでシンボルの物言わぬ介入に異議を唱えるべく決行されたもののようでもあった。

 しかし、当のシンボル自体が豪和の二足歩行型兵器の存在を知り得ているのかは未だ定かでないにしろ、実質乗り込んだ福岡の地に、その足跡が既に残されていたことは特自も豪和自身も現時点では知る由もないことだった。

 その男の嗅覚は根源的な豪和の力の源へと早くも触手を伸ばしていた。

「日本……」

 今さらながら朴は、ここ北九州がこの国にとって特別な場所であることに思い至った。そう古代、卑弥呼の時代。大陸から渡来した民族はいつしか対馬、壱岐を基点に対岸の島国へと足跡を伸ばした。その海域の倭国圏にて栄えた渡来系海人は、自ら持ち得た高度な技術と知識とで次第に土着倭民族を圧倒していく。記紀神話にて自らを天津神と称した人々である。

 そして全てを呑み込む血の混淆……、渡来系、土着倭人共々いつしか和合し、幾星霜もの歳月を経て一つになっていく。それは大陸側、半島の民族であるかつての新羅、百済、そして現在の大韓民国人である朴自身も何ら変わらない。だから何とはなしに海の向こうに拡がるこの国に尋常ならざる親近感を覚えるのか。兄弟国、実質的な外交面においても、日韓は穏やかな友好関係を築き今に至る。

 だが古(いにしえ)の時代、それは確かに一つの侵略行為であったのだ。強者が弱者を屈服させ領土そのものを収奪する。その善し悪しを論ずるより以前に、そうやって時代を経るまま世界地図はいつしか新たに構築されていく。当然、日本という国もそうやって出来上がった。最早かつての縄文人の面影はアイヌや沖縄に残された若干の少数民にしかない。

 それでも確かにこの国はこの日本列島で栄えた。血は血と交じり合うことで、その生を強くする。異なる種族の結合。確実に何かの化学反応がここで起こった。海……。

 朴はあらためてその海原に隔てられると同時に生を繋いだ潮の道のりを思った。その人々が渡来人であったのか土着倭人であったのか定かではない。しかし、海人の血を受け継いだ漂泊の民は確かにいたのだ。福岡、そして韓国と日本が芸能の才で如実に結ばれていたのは何かのサインだったのか。芸能、つまり神楽はそのまま神へ捧げる祀りへと転じる。祀り=政(マツリ)ゴトであり、信仰や神事は端的に言って政権を維持するための支配者側の表向きの言い訳でしかない。

 いや――、実質的に豪和はその神事によって何かを為そうとしている。それは目に見える力だ。決して人の心を惑わす類のものではない、〝それ〟を地上に顕現させようとしている。

 シンボルの評議員メスはそれをナダ・プロジェクトと呼んだ。そうだ、シンボルも豪和と同じものを……。

 朴の思考を遮ったのは懐に忍ばせた携帯端末だった。

「……特自が動いた? それで豪和は?」

 複数配置された末端エージェントの一人からの報告。それはまるで迫り来る嵐の前触れのように鼓膜に響く。やはり彼らの神事は体と心、二つを一つとする二重構造を成していた。

 

 その道は、海を辿る道しるべのように海岸沿いに続いた。そして、いつしか山間へと分け入っていった。

 嵬の道……それは、まるで獣道のように幾重にも道なき道をゆく、その者たちしか知らぬ道。関東から京都へ、そしてここ筑紫に至るまで。だからユウシロウには、ここがどこなのか解った。一見して何の変哲もない森林地帯。だが確かにそこは誰も近づけぬ急峻な山岳地帯で、そこには人の侵入を拒む無言の磁場が潜んでいた。ただ鬱蒼と草木が生い茂る険しい山間部に僅かばかり開けた細長い渓流――TAの視点は常に全高四メートルの高さから周囲を見渡す。巨人の視点。それでも奥深い山々は彼らをその懐から容易に逃がそうとはしなかった。ただ深層に分け入っていく動脈のように、その河川は山奥の上流へと向かって続いていく。否、それは彼らがやってきた道筋だった。

『フォーカス1、豪和大尉。上流A地点に敵、歩兵陣営を確認。フォーカス2とともに、そのまま叢林に潜伏してください――』

 耳元のヘッドセットを介して指揮車両オペレーターからの指示が届く。しかし、半ば〝そのもの〟と一体となった精神(こころ)には、既に周囲の渓流の水音しか聞こえない。いや、それは川の流れの音だったのか、それとも……。ドクドクと脈打つ鼓動が常に彼自身を圧迫する。ここがどこなのか、ただそのことだけが脳裏で別の情景を映し出す。確かあれは――マツリの前日だった。マツリ、祀り。そこで彼は舞を舞う、そのことだけのためにあてがわれた命。その〝戦い〟を勝利へ導くために……巫女となるシャーマンの宴。

 その少女は、そこに一人佇んでいた。誰にも顧みられることもなく。

「……どうしたの? どうして兄様はそんな悲しそうな顔をしているの?」

 兄ではない。けれど幼い彼女は自分のことをそう呼んだ。彼女は弥呼姫、女王卑弥呼の妹だった。……そうだ、弥呼姫には妹などいない。史実では、そういうことになっている。それでも卑弥呼の弟には妹がいた。夫であるとも、弟であるとも言われている。しかし呪術を執り仕切る女王に成り代わり、その片腕となって実質政権を動かしていた弟には、弥呼姫だけが全てだった。

 お兄さまは、沙耶がいらないの……。悲しげな表情で呟いたのは少女のほうだった。

 

「刹也、あの娘とはあまり関らないほうがいい」

 そう雇い主のイエに出入りする行商の男に言われた。この男は何かにつけ、声を掛けてくれる。自分のような、ただ無為に生きているだけのような存在にすら、明るい笑顔をくれる。いや、本当は知っている。己自身の命は常にクニの命運を占う神事のためだけにあるのだと……そして餓沙羅鬼を呼ぶため、いずれは。そのことを知ってか知らずか、男の差し障りのない一抹の笑顔は、抑揚のない声と無表情に降り積もる侘しさを忘れさせてくれた。

 それでも、ずっと少女のことが気にかかっていた。あの子は、もしかしたら。

 だから男にそれとなく止められても、少女のことを思い出すことを止められなかった。

「兄様(あにさま)、やっと笑った」

 その時の少女の零れるような笑顔を自分は今もはっきりと覚えている。

 実の兄から虐げられ、あまつさえ――少女は卑弥呼の身代わりとなった。そうだ、あの日蝕の日。

 ……沙耶は、ずっと待ち続けていました。兄さまのことを。だから、兄様が笑ってくれるなら、沙耶は好きなだけ、兄様の言う通りにします。……そうでしょう、兄さま。

 少女はもう自分と兄の区別がつかなかった。精神を侵されてなお――けれど、彼女は確かに自分のことを見つめていた。

 弥呼姫は孤独な女性だった。そして己同様、所詮クニの先行きを占う道具でしかなかった。それでも姫を慕う民草は絶えなかった。彼女の身は既にこのクニと一体だった。だからこそ人々の人望を集め、その力と威光によって人々を導く希望でなければならなかった。だが、それ自体が弥呼姫を縛り苦しめた。女王であると同時に巫女である彼女に人としての自由はない。いや、既に姫は人ではありえなかった。

 その意味では、彼女は自分とどれほどの違いがあっただろうか。ただ神に近しい姫と、人以下と称される自分。それでも同様に人ではないと、揶揄されていることは間違いなかった。その決して出合うことのなかった人と出逢った――そして時を同じくして、それはあの沙耶という少女との本当の出会いでもあった。

 

 

  3.

 

 一清が貴嶋紀仁と連絡を取ったのは、まさにその日のうちにだった。

 その男のことを知らぬわけではなかった。いや、むしろ……佐和子と満千留のことを言うならば「その家」について何も知らぬとは白を切ることなど出来ない。そして佐和子をそれと知って実家(いえ)に招き入れた己自身の罪でさえ、どうして免れよう。そうだ、自分は彼女を豪和に売ったのだ。貴嶋にとって豪和は一つの枷でさえあった。満千留を渡すことはなかったが、それでも佐和子は……。常に己自身の半身を囚われているような、その忌まわしい枷。

「……夜分恐れ入ります、豪和です。ええ、そうです――」

 電話の相手は何がしかを躊躇しているような様子だった。それでも、そんなことは構うことではなかった。ただ実妹(いもうと)を迎えに伺うだけなのだと、そう一清は相手に手短に伝えた。

「早朝にもお伺いしたいと……実妹がお世話になり、大変恐縮しております」

 こともなげに、そう鋭く重い声色で慇懃に礼を言うも、絶句した後ただ一言観念したかのように、……わかりました。そう呟いた貴嶋の言葉を聞くと、思わず口元に笑みが浮かんだ。

「豪和さん、佐和子は……佐和子を、どうなさるおつもりですか?」

 それは、老宮司の精一杯の反論の言葉だった。

 知れたこと――それでも、その半ば非難の色を帯びた言葉が、貴嶋氏の口から出たことが意外と言えば意外だった。おとなしく我々に従っているだけかと思えば。

「養女(むすめ)さん、そう、美命さんとおっしゃいましたかな……そちらの舞も、ぜひ近々拝見したいものですな」

 その名を出した途端、相手が再び押し黙るのが分かった。そうだ、どうとでもなる。豪和の息が一度かかれば、決して逃れられぬと解っていればこそ。一清にとっては、まさに赤子の腕を捻るようなものだった。

「では、明日(みょうにち)」

 そう一言だけ言い伝え、一清は携帯を切った。

 

 英彦山にほど近い山間部に僅かに開けた渓流沿いで、その起動実験は行われた。

 周囲は千メートル級の急峻な筑紫山地が連なる、まさに秘境といった形容が相応しい奥深い山岳地帯だ。直方市で遠賀川から分かれた彦山川がさらに幾つもの支流に分かれ、次第に細くなり、その山々に吸い込まれていく。その峠を隔てた向こう側は既に県境を超えた大分県に入る。むしろ大分の日出生台(ひじゅうだい)演習場からの方が近い気さえする。

 まったくもって、なぜこんな面倒な手順を踏んでまで、しかもまるで時間稼ぎか何かのように、隊員達にその意図を知らせず、実際の演習時期をずらすような真似をするのだろう。やはり今回の件には何か目に見えない思惑が潜んでいる気がしてならない。それはおそらく速川中佐も如実に感じていることだろう。

 本当に何かのメリットがあるとは到底思えぬその実験に参加した隊員の一人、池口洋介は、ただただ首を傾げるばかりだった。むしろメリットよりデメリットの方が大きい。確かにこれまでの走行実験は、あくまで限られた場所でのみ行われた限定的なものばかりだった。だから今回の実験は、もっと範囲を広げ――というのも素人考えなら思いつかないことではなかったが、かといって突然、行動範囲を拡げ難易度を上げられて山岳地帯というのも解せない話である。

 確かに将来的には山岳地帯でのTAの必要性も出てくるかもしれない。ただしそれも極めて限定的に、という鉤カッコつきであるだろう。様々に状況を変え、想定されるあらゆる環境下での訓練を繰り返す、といったこのTA開発の基本的な趣旨も解らないではないが。

 どちらにしても今時点の段階では、実験中隊のTAの習熟度自体が、まだそこまで飛躍的に進んでいないことは誰の目にも明らかだった。それを考慮してかせずか、実際の演習場所には、ほとんど谷底のような渓流の際に僅かに開けた川沿いを選んでいる。しかし、だったら……わざわざこんな場所まで足を運ぶ必要性があるのだろうか。

 それでも、やっと始められたTAの機動走行実験だ。現実的には余計な疑問を差し挟んでいる暇などなかったのだが、それでもやはり気になって仕方なかったのは、彼が同じ小隊を組むユウシロウのことだった。

 TAの演習プログラムは基本的に四名二組が、それぞれにA小隊、B小隊を組んで相互に四機ずつで行動する。どちらかがフォワードなら一方がバックアップ。敵に突っ込んでいく先攻と、それを補佐し援護する後攻。一番解りやすいのが、そういったそれぞれの役割分担である。

 だが、その日のユウシロウは、少し様子が変だった。慣れない見知らぬ場所で、しかもこんなワケの解らない実験に挑んだための緊張からだろうか。それなら自分だって少なからず同様なのだが、その自分以上にTAの操縦に関して余裕で上を行っているはずのアイツにしては……。

『――豪和大尉、聴いてるか?』

 おもむろに通信機越しに声を掛ける。しかし、返事がない。指揮車両に筒抜けなのも構わず、池口は再度、ユウシロウに喋りかけた。

『おい、大尉!』

 池口さん……、やっと腑抜けたような声がヘッドセットの耳元に届く。どことなく心ここにあらず、そんな感じもした。

「作戦の途中だが、ちょっと訊いてもいいか?」

 自分でも、こんな時に何を突然言い出すのかと思ったが、この際だ。訊いておきたいことくらい、思い立った時に訊いておかないとな、そう自分自身を無理やり納得させて話しかける――、何をです。という、はてなマークを思わず浮かべている様子の相手に構わず、

「……大尉は、他に何かやりたいこととかあったんじゃないのか?」

 そう唐突に問われて一瞬、返答する言葉に詰まる。

 しかし、黙ったままのユウシロウに業を煮やし、だから……、ほら、色々あるんじゃねぇの、大尉くらいの年頃にはさ。とは言っても、相手は豪和の御曹司。それに話に聞くところによると、IQ二百は裕に越えているらしく、とっくに高校を飛び級して大学も卒業してるとか、なんとか。

 それでも、エリート部隊である特自の隊員同士。なら、相手だって自分たちと何ら変わらないはずだ。一応、防衛大は出ているものの、池口は実はスポーツ万能の特技を活かして体育教師になりたかった。高校野球で甲子園にだって出たかったしな。

 それが今やワケの解らない鉄の塊に乗せられて、今度はこんな九州の北の外れに飛ばされちまった。それも、極秘で行われる走行実験は未だ目下、目的不明だしよ……。

 速川中佐の叱責が飛ぶのも忘れ、池口は続けた。

「大尉はよ、もうちょっと自分の意見を言わねえと、周りに流されるまんまになっちまうからな」

 何言ってんだ、俺。と思いつつ、やはりユウシロウのことが時々放っておけないと思えてしまうのは確かだった。

『……池口、さん』

 ありがとう、ございます。しかし、そう朴訥とした相手の礼の言葉を聞いたのが、ユウシロウと言葉を交わした最後だった。

 

 特自の北九州でのTA起動実験が始まった。今頃、情報屋の鷹水はその一件に振り回され、奔走していることだろう。それも一つの計算のうち……だったのだが、当然やつはこちらの思惑でさえ、とうに勘付いているはずだろう。しかし、当人である佐和子自身は。おそらくはユウシロウの名を出せば、難なくこちらの言うことを聞くだろう。自らを省みず、その情の深さが仇となることも知らず。いや、おそらく知っていたとしても、ヤツのためなら喜んで自分を差し出すのだろう。くだらん女だ……。

 どちらにせよ、閾(しきみ)におけるTAの起動実験と余流の神事。その二つにユウシロウとともに佐和子の存在も不可欠だった。

 夜の闇は既に深く、異界へ繋がる入り口のように窓を隔て、ぱっくりと群青の帳が目の前に口を開けている。一清は無意識にその闇に手を伸ばしていた。福岡市内にある豪和インダストリーの事務室内。手元のコンピューター端末からは絶えず世界中の経済情勢が伝えられ、常夜灯のように青白く映し出されている。時刻は既に深夜を廻り、人の気配の途絶えた室内からは僅かに窓外の街の灯りが望めるだけだ。

 自分が世界の中心にいるのだと、容易に実感させることのできる同時平行的な感覚は、常にどこにいても人を時代(とき)の王者たらしめる。

 だのに「あなたは虚しくはないの、」そう語りかける真摯な眼差しが視界の隅に映る。ふ……、そう鼻先だけで笑う。一清の嗤いは常にどこか乾いていた。虚しい? そんな感情は既にこの心のどこにもありはしない。ただ淡々と永劫に満たされ行くは、豪和の業である嵬とともに歩む、この道だけだ。三界火宅の如し――何処までも自らを灼(や)くその業火の焔(ほむら)こそを己自身の友とし、生きるだけ。

 偽りの弟と本来の妹……、そのどちらもが、この野望を本来の形へと成すために必要なのだ。そのための憎しみの矛先となるならば本望。いや――。憎しみ。怒り。憎悪。それらは恐怖を呼び、ひいては餓沙羅鬼を呼ぶ。最早一清の嗤いは、止め処なく闇の深淵に吸い込まれていくばかりだった。

 

 もう一度、あの磐坐へ行ってみた。

「ユウシロウ……」なぜだか鼓動が早く、妙な胸騒ぎがする。

 どこかで啼く夜烏が夜の深みを増し、古墳の懐に抱かれた貴嶋神社の杜全体を深い水底へ沈めてしまったようだった。

 もう時刻が変わってしまった。それは夜半のうちに今日を明日へとすり替える、まるで周到な罠のようだった。それでも私は……。その明日が、必ず夜明けに照らし出される真実を信じている。太陽は必ず昇る。夜はそのための一つの儀式なのだ。それは試練を越えるための仮初の暗闇と静寂。〝偽りの闇夜〟――思わず突然「それ」が脳裏に浮かんだ。どうして……。

 あの磐坐は以前と何ら変わりなかった。ふと、あの時と同じようにその岩肌に手を触れる。そのあと、ふわっと肩にかかる絹衣の感触がして……、そして私は美命さんに連れられ、岩風呂に入ったあと。あれは確かにユウシロウの舞だった。何も考えないうちから手足が動いて、そして。

 卑弥呼はどうして、何の疑問も抱かずに自分を捨てられたのだろう……? 不意に浮かんだ問い。本当に信じる何かがなければ、それは到底成しえない使命だったはず。己自身よりも大事な何かに支配される。現代的な個などが存在しえなかった時代、それでも人は自分自身のために生きる本能そのものを持っていたはずだ。それは至極人間的な感情、思い、……愛情。だが個と対峙する他者、そしてその認識や概念は次第に国や世界そのものへと拡大していく。

 ――愛する人がいなければ、国や民でさえ救えない。

 だのに絶対的な孤独が彼女を常に周囲の世界から隔絶していた。その絶望を思い、思わず虚空に手を伸ばす。

 ユウシロウ……。既に月も沈み、本当の闇が辺りを圧していた。澄み切った夜気は身を切るように冷たい。せんせい、そんな所にいつまでもいたら、風邪を引く。ふと、その優しい声が聞こえた気がした。

『兄様……どうして、兄様は……』

 〝その人〟は確かに私の兄だった。けれど一度として私に振り向いてくれたことなどなかった。何度、その優しく包み込む声と体温を想像したことだろう。いつも、私は寒くて凍えていた。お願い、振り向いて。伸ばした手はいつでも虚しく落ちる。だからあの日、兄に初めて望まれたことが私は嬉しかった。それなのに。

「ユウシロウ……」

 思わずその名を呟く。寒い、寒いの、すごく。抱いて、私を抱いて欲しい。

 半ば朦朧とする視界の中で幻の兄の背中が、見知らぬ少女だった私自身から遠ざかっていく。兄さん……ふと七年前に家族もろとも炎の中に失くした、本来の兄のことが胸に蘇る。私は今、何をしているのだろう。それでも、あの瞬間から私のその後の生き方は決まったのだ。鷹水の力を借りて一人生き残った私。しかし豪和という、そのただ一つの仇の対象である業は、いまや私自身さえ呑み込みつつある。

 そしてユウシロウという、たった一つの真実に出逢った。なぜそう思うの? 今さらのように自分自身に問う。きっとそれは私自身にとって大事な何かだったからだ。ただとりとめもなく、そう思う。おぼろげな記憶。ゆらゆらと漂う霞のように、それは頼りないけれど、確かな確信が私を捉えて離さない。伸ばしたこの手に手を差し伸べてくれた、あのただ一つの体温の優しさを忘れない。

 けれど私は、結局“兄”の言うことを聞いたのだ。ユウシロウ――、刹也。彼が選んだのは、彼女だったから。“私”がみつけた温かな太陽は、無慈悲な月の陰に呑み込まれた。

『そうだ、沙耶――お前は日女(ひめ)巫女の身代わりとなるのだ……』

 思わず脳裏に響くその声色にゾッと寒気を覚える。そう、“兄”が私を迎えに来る……。

 

      *

 

 その時確かに、やめろ、と俺は叫んだ。鷹水は改めて自分自身の無力さを呪った。

 特自の動きを探っていて妙なことに気がついた。当然だがTAの輸送方法だ。自衛隊飯塚駐屯地のある飯塚市、そして田川市から南へ約二〇キロ、英彦山を越えた大分との県境近く。その近辺はある一説では邪馬台国が存在した場所であるとも言われている耶馬渓(やばけい)に近い。ただ急峻な山々が連なり、何があるとも特に感じられないその場所へ、しかし、どうやってTAを運ぶのだ。それを知るには、実際に豪和や自衛隊に気取られずに付近へ潜伏するのが近道だが。考えられるのは車道で乗り入れられる所まで輸送トラックで移動、そこからはそのまま操縦士がTAを動かす。当然、山間部では指揮車の移動も限られる。本当に疑問なのは、なぜそうまでして、そんな人の侵入を拒むような辺鄙な山奥で、わざわざ起動実験を行うのかという、その動機だ。

 だが、少なくとも餓沙羅鬼と嵬について少なからず知り得ている我々は、考えようによっては実際に実験に参画している特自より、豪和の真実に近しいと言える。山には独自の磁場を持っている場所も数多い。特に英彦山は霊山とも言われ、古くから修験道が栄えた場所でもある。その場所特有のパワースポットと呼ばれる所以である。実際には福岡と大分の県境未確定の山域とも言われている。天高く聳(そび)え連なる大地と岩石が、異様な力そのものを引き寄せていても、別段おかしくはない。その上人里離れ、殊更人目に付きにくいという利点もあれば好都合だろう。

 そしてシンボルの朴もまた、豪和と特自の動きに引き寄せられるようにして、その場所に赴いていた。

「さしずめ物見遊山、というところか」

 それでも、事は慎重に当たらなければならない。シンボルのエージェントである身は巧妙に隠されており、韓国の元ジャーナリストという肩書きは、せいぜい幾ばくかの人の興味という華を添えるだけで、特に検問に引っかかったりはしないだろう。山歩きの途中で道に迷った、とでも言い訳すれば難なく近くまで潜伏できそうだが。

 やはり噂は事実だったわけか……、朴は独自の情報ルートで豪和と特自のTA開発の計画実態にまで行き着いた。二足歩行型兵器といえば、各国でその概念研究が進められてはいるものの、未だプロトタイプの開発にまで実際に届いていない幻の机上計画でしかない。しかし既にシンボルは米軍の協力も得て、それを独自の高みにまで押し上げているのだ。無論これは極秘であるが。特にインヴィテイターと呼ばれる瞠(ミハル)という少女の存在が、それには不可欠なのだった。

 それでも未だ朴は特自と豪和のTA計画について評議員らに何も報告していなかった。それが本物であるか否かの判断についてもだが、もし日本の一私企業がそれを計画し、曲がりなりにも自衛隊がその開発実験に関与していると知れたら。シンボルにまず情報漏洩はありえない。いたずらに日本国内や世界の目にそれが晒されることは、おそらくしばらくはないだろう。それでも、もしそれがシンボル内部に明るみにされれば、是が非でも瞠を使って事の真否を確かめようとするに違いない。評議員メスは、それでも温情に満ちた男だった。だがシンボルという組織にあって、それは一つの致命傷でもあった。

 できれば朴は、その悲劇を少しでも遅らせたかった。

 悲劇、か……。考えてみれば豪和もシンボルも、同様に人をその目的のために利用し、無情にも犠牲にしているのかもしれなかった。豪和のインヴィテイター。それを追って国際ジャーナリストの鷹水や伊集院佐和子が現地入りしたのなら。真に知るべきは豪和や特自の二足歩行型兵器ではなく、理不尽な運命に翻弄される、その人間そのものなのかもしれない。

 

 TA演習は、のべ二日間に亘って山地に野営を組んで行われた。

「……ったく何の因果で、こんな人里離れた山奥で一夜を明かさなけりゃならないんだろうな」

 池口をはじめ、そんな悪態をつく隊員もいたが、TAの稼働時間の短さを考えれば妥当だったかもしれない。当然、整備班やもしもの際の救護班も必要最低限の人員が操縦士らに同伴。近くには国道も通っているが、それでも圧倒的な山岳地帯である。本来ならこんな任務、早く終えて本州へ帰りたいもんだがな……、それが皆の本音なのは、いざ知らず、誰も彼もが、その一種不気味な演習計画の無謀さに薄々勘付いてもいた。

 その昨夜のことを池口は思い出していた。眠れないままにTAの側に設営したテントを出ると、ユウシロウが一人夜空を見上げていた。

「どうした、お前も眠れないのか?」

 背後から近づいた池口の問いにユウシロウは振り向き様、顔を左右に振る。どことなくその不穏な雰囲気に、池口は再びこの演習計画の意味不明さを思った。ただでさえ晩秋の山間部は冷える。それが夜ともなれば、焚き火でも焚かなければ凌げない寒さだった。

 だがユウシロウは、そんなことはおかまいなしに降るような星空を見つめている。

「大尉、お前――」

 どうして……。ん? どうして自分は、自分たちは、ここへやって来たんでしょう……。ポツリと置くように呟くその短い問いかけに池口は、そりゃ俺だって知りたいよ、と内心思いながら、改めてしみじみと、そのどこか運命じみた疑問を自身も反芻した。

「そういや、速川中佐も似たようなことを言ってたな」

「速川中佐が?」

 何でこんな辺鄙な所へ、くらいは誰だって思うだろ。それでも中佐の妙に思い詰めたような神妙な表情を思い出す。それが、さっきのユウシロウの不安げな横顔とダブったのだ。おそらく隊を預かるトップの人間として、今回の任務には特に疑問に感じる部分が大いにあったのだろう。

 その速川中佐は下流に陣を敷いた指揮車両で待機。ただでさえ困難を極めるTA実験開発に初期段階から関っており、根っからの苦労人である。

「何だか俺たち、体のいいモルモットって所だよな」

「………」

 その池口の本音は的を得ていた。その操縦に馴染み習熟するのでさえ困難な、二足歩行型兵器。見れば見るほどロボットにしか見えないそれは、常に人の懐柔を拒む野生動物であるかのようだった。山岳地帯に潜む野獣。これ以上の絶妙のマッチングはない。それだけに、それを無謀にも飼い慣らそうとしている自分たちが、どこか滑稽に思えた。

「どうやらB小隊のやつらは、ぐっすり眠ってるみたいだな、」

 どこか皮肉めいた視線が隣のテントを見やる。慣れない場所でのTAの操縦で尋常でない疲労が溜まっていたのだろう。逆に眠れない自分たちの明日の二倍増しの暗澹たる重い疲労を思うと、今すぐ無理やりにでも寝袋に潜り込みたかった。

 それでも、どこかユウシロウの眼差しは冴え渡っていた。まるで夜行性の野生動物のそれのように、夜の冷気が殊更に神経を研ぎ澄ませているような……。

 その異様な眼光の鋭さを池口は奇異に思った。前々からおかしなやつだ、とは思ってはいたが。

 ――日蝕。あ? 再び口を開いたユウシロウの一言に池口は相手を振り仰いだ。

「明日、北九州で日蝕があるんですよね……」

 そういえば、そうだったっけか。その時間帯は避けて行動するように、というブリーフィングでの内容を思い出す。避けるも何も、TAの稼動時間帯に当たっているのが、そもそも妙だとは思うんだが……。どうやらそれも豪和の意向で決定したと言うんだから、速川中佐の苦悩も理解できるというものだ。

「北九州で日蝕といや、邪馬台国の卑弥呼だな」

 見かけによらず、そんなことまで知っていた自分に呆気に取られる。北九州か畿内説か。そういった邪馬台国に纏わる論争が考古学界で起こっていることくらいは新聞記事やニュースなんかで見聞きしていた。卑弥呼……邪馬台国。すると、さらに考え込んだようになった重い表情のユウシロウを見て、池口はさらに怪訝に思った。

 唐突に、まるで日蝕の日に合わせて今回の起動実験が組まれているような気がしてきて、どことなく怪しげな雲行きが漂いつつあることを池口は今さらながら悟るのだった。

 

  4.

 

 “なぜ、突然……”

 ユウシロウは自分が再び実験中隊に戻されたことを訝しんでいた。餓沙羅鬼の神事は、もうすぐそこまで、という所に差し掛かってきていた。しかし、その稽古の最中に土壇場で自分は特自に呼び戻された。無論、TAの起動実験は用意周到に仕組まれた表向きのものでしかなかったかもしれない。それでも一つの神事として、それらは対を成すものであった。豪和にとってTA開発も、そして餓沙羅鬼を呼び出す神事も、そのどちらもが重要であることに変わりなかった。

 “もしかしたら……!”

 ユウシロウは自分がここへ来る前に見た夢を思い出していた。それは愛しく懐かしい人の……夢。

 来てはダメだ、そう何度も叫んだ。それでも、その人は……。

 そろそろ夜明けが近かった。結局、眠れぬままテントの中の寝袋で横になりながら、目は薄明に冴え渡るばかりだった。妙な胸騒ぎに誘われ、半ばもどかしげに寝袋から出て、テントを開ける。あたりは真っ白な朝靄に包まれていた。その風景を何処かで見たような気がした。それでも、その記憶は文字通り靄に包まれたまま、その詳細をつまびらかにしようとはしなかった。

 池口は傍らで小さく鼾(いびき)をかいて寝ていた。それを横目で見やった後、ユウシロウは一人外に出た。

 整備班のテントの傍らに鎮座するTAは、さしずめ巨大な象のようだった。今はその鉄の塊も昏々と眠り、その懐の人工筋肉も唸ることすら忘れ、ただ忘却の時の彼方へ過ぎ去る、物言わぬただの物体でしかない。

 しかし、それにいつの時も縛られている自分自身を感じる。それは遠い過去へ連なり、そしてまだ見ぬ未来へも続いている。その狭間の吹き溜まりのような場所で出逢った人。どこかで自分はその面影を憶えていた。だから――、それは、求められた感情。いいや、違う。

 その愛しさは拒むことのできない遠い場所へ続いている。そして、そこで自分は確かにこの手を差し伸べた。哀しみに裏打ちされた感情。それは幾多の魂が繰り返し囁き続けた、生きたいと願った思いだった。生きたい、愛されたいと。

 自分が選ぶのが誰であろうと、その〝思い〟は確かに存在した。遥かな時さえ超えて――。

 “佐和子、先生……”

 だから、自分は守らねばならない。かけがえのない、その人を。そうだ……、己自身の命さえ、引き換えにしても。

 

      *

 

 黎明――いつでもそれは、生と死の狭間で生まれる。

 いつしか静寂を引き裂き、白い薄明があたりを染めると、すべての生命が目覚め始める。杜に集う鳥の声。水のせせらぎ。晩秋の空気は殊更に引き締まり、それでも次第に光を投げかける東の空が、ゆっくりと今日という日の訪れを再び告げる。生まれ変わる、新しい命の息吹きとともに。

 “また……あの夢を見た”

 幼い少女が蹲り、泣いている。擦り切れた裸足、冷たい指先。髪を撫でてくれる人もなく、ただ一人。

 どうして、いつも届かないの。胸に湧き起こる不思議な痛みが、思い出したように、そう呟く。せっかく愛してくれた人の手をすり抜けて、それでも私が求めていたもの。何を引き換えにしても、手を伸ばさなければならなかったもの。……守りたい。

 その感情はただ、無性に一人掻き抱いた胸の中で静かな炎を燃やしている。それは、守って欲しい。……愛して欲しい。その感情の裏返しだったのかもしれない。――だとしても。私自身が唯一、この命をかけて守りたいものがある。それは、きっとすぐそばにあるかもしれないのに。

 ……届かない。

 それでも、そんな諦めも絶望さえ越えて、私は彼を守りたいと思った。ユウシロウ――。

 

 例えそれが一つの記号でしかないのだとしても、命は常に守られねばならない。

 鷹水はいつの日も、そう考えていた。それが彼をジャーナリストという道を選ばせた直截的な動機だったかもしれない。世界各地には理不尽な事実が数多く存在する。そして、そのほとんどが国家という体制と力を持つ一握りの人間の都合で蔑ろにされ続けている。固く権力という砦に隠蔽された、その真実を明るみにする、それが彼らの組織の第一の存在意義だった。

 それは暗黙のうちの無理解。畢竟、この世は悲惨な弱肉強食の世界だ。何かに光が当たれば、何かが闇に沈む。人は平等などという権利は、その世界の真理からすれば、儚い幻想でしかない。誰もが自らが生きるために誰かを犠牲にする。それも無意識のうちに、だ。誰も好んで悪者になりたくなどはない。だから無関心という仮面を装う。それが完全なる悪である、という真実にも気付かず。 

 それでも、その世界の均衡を保つためには、目を瞑らねばならぬ現実もある。誰一人不幸にならない世界など、この世にはない。その他大勢が平穏に暮らし生き続けるために、暗黙のうちに存在する贄。その一握りの犠牲によって、この当たり前の社会は平静を維持し、存在し続けられるのかもしれない。

“俺は一体、誰を犠牲にしようとしているんだろうな”

 思わずついてでた疑問に、答えてくれる者はいない。それでも問わずにはいられない。命を守りたいと願った自分自身が、酷く滑稽に思える。善と悪。そのどちらもが当たり前に存在する世界。そこで呼吸する者は、一体善なのか、悪なのか。

 

 その男の周囲には常に一つの翳が取り巻いていた。

 それは世界そのものを拒んだ妄執に囚われた怜悧な気――それでも、そのものをよしとしてそこに存在する、男自身が翳そのものだったのかもしれない。

「日蝕、か――」

 それはおそらく天が仕組んだ神の悪戯かもしれなかった。あの眩しく絶対的な太陽が、一瞬でもこの世の摂理を離れ、月に隠される。それほど面白いものはなかったかもしれないが、真に面白いのは、そんな一介の天体現象に人心を惑わされ、政治をも左右された、遥か古(いにしえ)の人々の心理であろう。

 一清は一人ほくそ笑んだ。天は我に味方した、などと大昔の武将ならば、大笑いしたことだろう。だが彼は、それを一笑に付した。……西暦二四七年、三月。日の入りの日蝕が起き、卑弥呼は没した。そして翌、西暦二四八年、九月に日の出の蝕によって卑弥呼の宗女である壹与(とよ)という娘を女王に立て、邪馬台国は再び復活した。因みに世に言う邪馬台国、という呼び名は誤りだ。実際は邪馬壹国(やまいこく)。最もこれについても考古学者の間で諸説あり、であるが。

 どちらにしても卑弥呼は故意に殺害されたのだ。そんなことは古の世ならば、五万とある話だろう。例え為政者であろうとも、その政権に翳りが現れれば臣下の態度は豹変する。残酷なものだな、人間というものは。

 自らが生き残る、そのためならば人はどんなことでもする。そうだ、それが所詮この世の真実なのだ。例え一時、政権をこの手にしたとて、いずれその栄華は時が来れば脆くも崩れ去る。まさに時と世は無常なり……。

 “さて、今回の皆既食は一体誰を犠牲にするのだろうな”

 まるで人事のように胸中で呟いた、その眼差しには誰一人映ってはいなかった。

 

 結局、そのことを佐和子自身に伝えることはできなかった。それでも……。

「おはようございます」

 未だ朝靄の消え残る晩秋の早朝、境内の落ち葉を掃き集める背後から声を掛けられ、貴嶋は振り返った。

「今日も早いですね」

「ええ、何となく目が覚めてしまって」

 そんな何気ない会話でさえ白々しく感じられる。それでも貴嶋は笑みを絶やさなかった。その娘が自分の娘同然であると知りながら、それでも穏やかな笑みを絶やさなかった。

「佐和子さん、」

「はい?」

 静かに会釈したあと、その場から去ろうとした佐和子を貴嶋は思わず呼び止めた。

「いつか……」

 そう、いつかまたここへ寄った時には……、そう言い掛けたが言葉が続かなかった。

「いや、なんでもありません」

 何とはなしに微笑を返す。それでも、どこかで私には解っていたのかもしれない。それが貴嶋宮司の精一杯の私への心遣いだったのだと。

 

 

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