Metro2033 -影を見る者- 作:きゃすたー(7mg)
罪状は一面に掲載されています。
なんとも先行きが不安ですねえ(プレモルなう)
モスクワのメトロを歩き渡り、既に二十年が過ぎた。
二十年だ。
愛した女がいた。頼れる友がいた。背中を預ける相棒がいた。
二十年だ。
愛した女を失い、頼れる友を失い、背中を預けた相棒を見捨てた。
まだ若いころの私は読書好きな青年だった。ロシア国防軍で銃を手に、愛する祖国と家族のためにこの命を使うことを正しいことだと信じていた。酒もあまり飲まなかったし、煙草も普段は吸うことはしなかった。
あの日、世界の終わりを見届けたあの日。彼女と彼女の胎に宿った新たな命の火は、最終戦争という大火に飲まれて消え去った。残ったのは私だけ。メトロの天井を仰ぐだけの日々が始まった。
同じ国防軍の部隊で酒を酌み交わした戦友の叱責で、自らの為すべき役目を見出すことができた。私が逃げ込んだ駅、ポリャンカの人々のために再び銃を手に取った。
しかしその戦いもほんの数年で終わりを迎えることとなった。失ったものは計り知れず、そして私にとって拭い去ることなどできない“
一人生き残り、また一人だけ生き残り、そして三度、たった一人生き残ってしまった。
属する駅も持たず、ただふらふらとトンネルを彷徨う日々。ポリスで出会ったミラー大佐、私がかつて配属となった大隊の指揮官に誘われてオーダーに籍を置いたものの、未だに特定の駅というものは持たないままだ。
ミラー大佐は頑固さに『ダイヤモンドのような』という形容を付け加えたような人柄だが、その根っこは常に自らが守るべき人々、メトロの住人のためにという意志に基づいている。苦難にあっても打開策を講じ、現実を見据えて適切な判断を下せる人物だ。政略に長けていることも彼の立場をより堅固なものとしている要因だ。
オーダーという後ろ盾を得て、トンネル廻りは一層熱が篭り始めた。オーダーのパスポートの効力には何度も世話になった。今まで入れなかった路線や駅にさえ足を伸ばし、トンネルの闇を目を凝らして見つめ続けた。
そうしているうちに、闇というものが一体何なのか、あの“人影”が何なのかを理解するに到った。トンネル内で起こる摩訶不思議な現象を肌身で感じ取り続けるうちに、冴え渡るような何か、覚醒と言ってもいいほどに今までの苦悩が立ち消えていった。
悔恨は消えなかった。だがウジウジと恋に悩む青少年のような優柔不断さは消えた。
そんな折に、一人の少女に出会った。
ノサリスの返り血で濡れ、襤褸切れを纏い、幼い割れ目から真新しい白濁とした液を垂れ流した、虚ろな瞳の少女。
足元には自身の二倍はあろうノサリスの亡骸が頭にいくつかの穴を開けられて転がっていた。
少女の手に握られたリボルバー。後に、ハンターという男から預かったと彼女は言った。
自らの名前さえ忘れてしまった空虚な少女に、私は新しい名を与えた。
ラスヴェート、夜明けを意味する言葉。最初はラテン語でアウロラとしようかとも思ったが、既に神亡き世界にその名は相応しくない。
彼女には大人のような知性があった。とはいえ幾度もの陵辱と“躾”のせいで人格はボロボロになっていたようだ。まるで男のような口調で喋るかと思えば、歳相応の少女のような無邪気さで喋りかけてくる。
子供のような、大人のような。そんなちぐはぐな少女。まるでパッチワークでできたかのような人格を正しく矯正し、穴だらけの部分を埋め、正常な人格として機能させるまでには多大な苦労があった。
他人の軍用弾を盗んだ男を躊躇無く撃ち殺した。飛び散った脳漿や肉片を見ても、お気に入りの絵本を読んでいる子供のように笑ったまま、盗人の手に握られた軍用弾を持ち主に返していた。
数人のレンジャーを相手に情事を繰り広げていたこともあった。たった十四歳にも満たない少女が、まるで淫魔の如き恍惚とした笑みを浮かべて吐き出される精を浴びていた。
部屋の中でラーカーを“ヒラキ”にして腑分けしていた。何をしているかという問いに彼女は「生体調査」とまるでお茶を飲んでいるように言ってその胃をナイフで掻っ捌いた。鼻歌まで歌いながら。
数年をかけ、ようやくそれなりにまともな人格ができあがってきた。
ミュータントの解剖もしなくなり、見境無くレンジャーを“食う”こともしなくなった。罪を犯した人間を見ても興味なさげにあくびをするほどには落ち着いてきた。
小柄ながらすらっとした体躯。均整の取れた肢体。腰まで伸びる艶やかな黒髪。黄色人種の中でも色白な肌。確かな膨らみをもった胸と少し小ぶりな尻。
食生活に気を使ったお陰か義娘は健やかに、しかしさらに男を惑わす色香を備えて成長してしまった。
「ストーカーになりたい」
何を突飛な。気は確かか。そう思ってしまった。
私の教育のどこが悪かったのだろうかと三日三晩悩み、ついには押しに負けてしまった。
見かけに見合ったはつらつとした雰囲気の美しい少女になったというのに、どうしていつもこう突飛な、かつ周りの人間を困らせることを言い出すのか。
苦労して育ててきた娘が家を出たいと言い出したときの親の気持ちを、今になって味わうことになるなど思ってもみなかった。
グリゴリーに預けたのが十五歳。一年で基礎を終え、レンジャーとしての認証を得た。
知り合いのストーカー、ナンバー持ちのある男に預けたのが十六歳。彼が素直に賞賛するほどに、彼女は地上に適応してみせた。
オーダーへの加入試験のためにポリスを訪れたのが十七歳。卓越した射撃技術とストーカー仕込の隠密行動技術でミラー大佐に加入を認められた。もちろん薪集めを受けた。
そしてハンザのストーカーとして、オーダーの戦士として独り立ちを迎えた十九歳。思えばもう長い年月を彼女の面倒を見ながら過ごしてきた。
一人歩き出した義娘に会うことはまた少なくなるだろう。トンネルの歩き方を短い期間だったとしても、教えられただけでも十分だ。もう思い残すものはない。
しかし野盗がドライ駅を占領してしまうとは誤算だった。ここの敵を排除しなければ武器弾薬を運ぶキャラバンが被害に遭ってしまう。
空気圧式クロスボウのポンプを動かし、更に空気を圧縮する。流石はアンドリューだ。これだけ加圧しても空気が漏れない。いい仕事をしてくれる。
ダクトの隙間から銃を構え、暗視スコープごしに暗闇を歩く敵を見据える。緑色の視界に白い光が映っている。一度スコープから目を離し、近くの木箱に載せられたランプが照らす範囲から外れるのを見定め、再び覗き込む。
トリガーに指をかけ、レティクルを野盗の頭に合わせる。息を静かに深く吐き出して止めると、呼吸によるブレが無いことを確認してトリガーを引―――待て。
本能的に感じ取った何か。野盗の背後に迫る何者かを暗視スコープが捉える。
小さい。男に比べてかなり小柄だが怯む気配もなく、忍び寄っていく。逆手に持たれたナイフが男の首を刺し貫き、崩れ落ちる体を受け止めて音の発生を防ぐ暗殺者。動脈から血が噴出さないようにナイフを刺したまま、ホームの下の線路へと転がす。
装備はよく見えないが、野盗とは違って戦闘服を着ているのはわかる。ランプの火を吹き消そうとした暗殺者の顔が、僅かに照らし出されてすぐに闇に消える。
「――ハァ、相変わらずのお転婆ぶりだ……」
ラスヴェート・ロマノフスキー。愛しい義娘であり、オーダーの仲間であり、ハンザのストーカー。
その顔を、私は決して忘れたりはしない。私が育てた大切な義娘を、忘れたりはしない。
第五話 業
待てどもブルボンが来る気配は無い。こうしてダクト内に潜むこと三時間。カーンの姿さえも確認できない。
ヒマだし部屋に戻ってオナるのもいいかも――
「止まれ止まれ! 誰だテメエは…おい、誰かライトをよこせ!」
……真下で怒号が響いてる。もう少し先のダクトの換気口から見てみよう。
逆さになった視界に映るのは両手を挙げたコート姿にニット帽を被った男。ライトで照らされた…ってブルボン!?
何やってんだかあのオッサン! ここまで来て何てヘマしてんだよ!
「おお…これはこれは! …ペテン師ブルボンじゃあねェですかい!?」
「どの口で言ってやがる!? ボスに会わせろ。ビジネスの話がある!」
「ボスゥ? 知らねえなぁ…」
「ぐっ!?」
ブルボンの腹に野盗の放った強烈なレバーブローが突き刺さる。
「はっ! もちろん…」
「がっ!」
「居ますぜェ!」
「ごはっ!?」
腹、顎、そして腹を蹴り上げられるブルボン。膝から崩れ落ちるブルボンに更に蹴りが加えられる。
「おい、その辺にしとけ! コイツをボスのところまで引き摺っていく気か?」
「……来い、続きは後でしてやる」
眼前に銃を突きつけられたブルボンは忌々しげに両手を頭の後ろに回し、そのままホームの奥へと連行されていく。
「………ブルボン…」
影が、濃い。ただ濃密なだけじゃない。まるで鍋で煮詰めて濃縮したような影が、ブルボンの体にとんでもない量で蓄積されている。あれだけの影はそう溜まるものではない。ましてや昨日私が影を抜き出した後だ。
………一体何をしたっていうんだ、ブルボン…。
ビジネスの話があるとか言っていたが大方ホラだろう。詐欺師ブルボンを知る相手からすればこの上なく胡散臭い。だが実際に美味い話だったりもするのであいつら悪党からすれば信憑性は半々というとこだろう。
上下反転の世界だが、僅かな光がダクトに入り込んだときにその光が反射した。ブルボンが這い出てきたであろうあの格子付きのダクトからだ。つまりあそこには誰かが居るということだ。それが私にとって有益か、そうでないかは今はわからないが。
「何か置忘れが無いか調べてみろ。ヤツの持ち物が見当たらない」
「ああ…」
ダクトを覗き込む目だし帽を被った野盗。ライトを当てることもなく、大雑把に見渡しているだけだ。
「ネズミ以外何も無いぞ」
「よーし、じゃあ行くか」
さて、どうやら野盗どもは警戒態勢を解いたらしい。だがブルボンのせいで多少なり緊張感が残っている敵が居るかもしれない。
「敵なんて居るわけがない」という思い込みこそが暗殺者の大きな味方になるというのに、その絶好のシチュエーションを正面から叩き壊してくれたブルボンおじさまには今度お礼に軍用弾をプレゼントしよう。そうしよう。
そうと決まれば行動開始だ。静かにダクトを這って進み、ブルボンが出てきたダクトのあるホーム側へと移動する。列車の上に出ると静かに格子を外し、敵の姿が周囲に無いことを確認して車両の上に降りる。
するとちょうど目の前にある別のダクトの格子が開き、そこから一人の男が這い出してくる。周囲を見てはいるが、暗闇にまだあまり目が慣れていないらしい。わずかなランプの明かりから逃れるように私が乗っている車両の中に静かに隠れるように足を踏み入れる。
足音を殺して車両の最後尾へと移動する。そっと身を乗り出して車両の中を確認すると、先ほどの男がカラシニコフを手に息を潜めているのが見える。
末席とはいえオーダーだ。この程度の暗闇は暗いと言う内には入らない。
静かに列車の淵に手をかけ、音を殺してぶら下がる。着地するときの姿勢一つで音は消せる。
サプレッサーをつけたカラシニコフ2013を構え、男の後頭部へそっと押し付けて囁く。
「騒ぐな。動くな。抵抗するな。そのままゆっくりAKを置いて両手を挙げろ」
カチ、と相棒のセイフティを解除する。
「質問に答えろ。
「お、女…?」
驚いたような声色で男がつぶやく。ごり、とさらに銃を押し付けると、彼は息を呑むようにして押し黙った。
「質問に答えろ。二度は無い」
「ええ、
「……ここで誰かと合流するというのは聞いているか?」
「…あなたが?」
「
「………
敵ではないらしい。今のところは、だが。
「次の質問だ。お前、人殺しの経験は?」
「………ある」
「どれくらい?」
「…八人ほど……」
八人。なんとも微妙だ。声の感じではまだ若いようだし、駆け出しの旅人か。声が震えている。人の命を散らすというのは彼には非常に堪えたらしい。
「ブルボンを野盗から助けなければならない。できるか?」
「……多分」
「多分じゃダメだ。アレは小悪党だけど、今はまだ有益に分類される人間だ。あいつを待つ人が居るんだ。死なせるわけにはいかない」
「……………わかった…」
どうやら覚悟は決まったらしい。ならばまずは自己紹介だ。名前も知らないのでは背中を預けることさえ不安になる。
突きつけていた相棒を下げると被っていたバラクラバを脱ぎ、素顔を顕にする。彼は信じられないという顔で私を見る。
「私はヴェート、ラスヴェートだ。コムソモーリスカヤのストーカーだ」
「僕は……アルチョム。博覧会駅出身…」
アルチョム。頭一つほども背丈が違う上に、暗がりの中で顔はしっかりとは見えないが、割と顔立ちの整った青年だ。純朴で素直そうな雰囲気からするに、きっと駅の外というものをあまり知らないのだろう。
「…どうしたの?」
「いや、その……ストーカーに女性が居て、しかもこんなに可愛いなんて……」
「…随分言ってくれるね。ストーカーが若い女じゃ不安?」
褒めたつもりが予想だにしない鋭い返しが来たらしく、アルチョムは言葉に詰まる。もちろん狙って返したんだけどね。
平時であれば嬉しいものだけれど、この状況下で素直に喜んでいられるほど子供じゃない。
「………キミは、こういうのに慣れているのか?」
「当然だね。少なくともアルチョムよりかは多く殺してるのは確かだよ」
「…怖くないのかい?」
「怖いさ。死ぬのが怖くない人間は居やしない」
「じゃあどうしてストーカーに…」
「…シッ」
アルチョムにジェスチャーで伏せるように指示し、私も車両の床に腹ばいで身を隠す。ちらちらとライトが埃の舞う車両の中を照らし、歩哨が歩いていくのが音でわかる。
一度通り過ぎて奥まで行ったらしく、再び車両の中をライトが走るって過ぎ去る。どうやら見つからなかったようだ。
「急いだほうがよさそうだね。いいかい、アルチョム? 暗闇は私達の味方だ。暗闇に紛れて音もなく敵を殺し、闇の中に引きずり込んで隠す。闇に紛れて近づく、すり抜けるでもいい。とにかく暗闇は私達にとって有利だ。物音で気を引かないように気をつけて。あいつら大音量で音楽を流しているし賭けで騒いでいるけれど、近くで物音がすればそれは聞こえてしまう。もし暗闇が無いなら電球やランプを消して暗闇を作り出すんだ。ただし消すときには気をつけて。誰も見ていないことを確認してから消すんだ。灯りを消すには灯りに近づかなきゃいけないからね」
「り、了解」
「あと、リボルバーはある?」
「うん。少し古いけど…」
差し出されたリボルバーを手に取る。ランプの灯す僅かな灯りに照らしてみると、妙な既視感が私を襲う。
リボルバーのグリップを握る。シリンダーから弾を取り出し、空のまま銃身に装填する。トリガーに指をかける。撃鉄に親指をかけ、引く。
カチ、とシリンダーが回る。滑らかに、よく手に馴染む感触。恐る恐る覗き込んだグリップの底に刻まれた、“ハンター”の文字。
慣れ親しんだ、八年以上を共にしたリボルバー。確かに私はウルマンを通じてハンターに渡すようにと頼んだ、ハズだ。それが何故、どうしてここにある!?
「アルチョム、コイツは誰から?」
「そのリボルバーはハンター……ああ、父の親友のレンジャーから貰ったんだよ。駅にノサリスが侵入したとき、銃が手元に無くて……ハンターは予備にもう一つリボルバーを持ってたんだ」
廻り廻って結局また一度私の手に収まることになるなんて、このリボルバーも随分な奇縁があるらしい。
だが今はアルチョムの武器だ。これから先は隠密行動だ。ちょうどいいものもあるし、労いも兼ねて予備のサプレッサーをプレゼントしよう。
「はい、これで音は消せるよ。ただしマズルフラッシュは完全には消せない。二人以上の敵が居るときは私と合わせて始末するように」
「……いいのかい?」
「必要だからだよ」
「ありがとう」
……よく臆面も無くこんなに真っ直ぐな顔ができるものだよ。つい顔を背けてしまったじゃないか。
ああもう、とにかく今はブルボンを助けるのが先決だ。
「……歩哨がもう一度来たら仕掛ける。お手本を見せるからよく見てて」
先ほどの歩哨がまた姿を現す。ランプの脇を通って最後尾を確認し、再びランプの横をすり抜ける少し手前、木箱の陰になって灯りが遮られる場所で背後から忍び寄る。
足の先に全神経を集中させる。音を立てず、気配を悟られず、静かに息の根を止めるために。
投擲用のナイフを右手で逆手に持ち、少し身構えるように腰を落として歩を進める。一歩ずつ、一歩ずつ忍び寄る死の気配に野盗の男は気づいていない。
全身の凝りを解すように肩を揺らす野盗のすぐ後ろ、背中は目の前に見えている。
右腕を張り裂けんばかりに振りかぶり、野盗のジャケットと首の間。動脈を傷つけないように繊細な手つきで、しかし大胆に首筋にナイフを叩き込む。ドッ、と鈍い音を伴ってナイフが動脈を避けて肉を裂き、脊髄にまで達したと感触で理解する。
「お、っ、ごっ……」
断末魔の声を漏らし、男が倒れそうになるのを全身で抑え込み、静かにホームの下の線路上に捨て去る。
隠滅したらあとは我々の領域を広げるだけだ。ランプの火をフッと吹き消し、相棒のカラシニコフを構えてホームの前方を警戒しながらアルチョムに合図する。
「出てきていいよ。ホームのこちら側の歩哨はあいつだけみたいだし、静かに進もう」
返事がない。一体何だっていうんだ。
「アルチョム?」
「……躊躇いは、無かった?」
「…最初は躊躇ったさ。これは人を殺せるものなんだって思うと、どうしてもね。だけどそうも言ってられないんだ、このメトロじゃあね」
「………やらなきゃ、やられる…」
「そういうこと。もし銃を手に取ることをしなかったら……私は生きてはいないんだから…」
あの娼館から逃げ出して、自由を掴むために人を殺した。私の意志で、私の選択で、私は自ら人殺しの業を背負うと決めた。
ただ飼われて生きるだけの、死んでいないだけの無意味な生。私の意志も私の選択も無い空虚なままで終わりたくなかったから、私は殺すことを決意した。
「これ以上の質問は受け付けないよ。まずはブルボン。その後でなら聞いてあげるよ」
「…わかった。どうすればいい?」
「私が先導する。敵もおおよそ片付けていくから、基本的に指示があるまでは隠れて。手を借りるときは言うよ」
「了解」
遠くホームの向こう側には土嚢らしきもので作った即席の陣地がある。ランプが照らす範囲には二人…いやさらに歩哨が一人。しかも割りと注意深い。できれば早めに始末しておきたい。
駅のホームを隔てる壁にはところどころに灯りが灯されている。同じような小さなランプだが、発見されるリスクがあるうちは消さないほうがいいだろう。
アルチョムと共に線路へと降り、静かに足音を消して歩いていくと鼻を突く悪臭が漂ってくる。木の板を組み合わせた簡素な足場に仕切りのような板。そして真ん中が開いた床の下には古ぼけたドラム缶。
どう見たってトイレだ。しかし誰かが用を足しに来るのを待っている暇は無い。
「う、うぅー、は、腹が……」
「どうした? 何か悪いものでも食ったか?」
「じ…実はさっきのキャラバンから奪った干し肉を食ったんだが…」
「だーからやめとけって言ったんだ。さっさと行ってこい」
「ああ、スマン…」
駆け足で暗闇を走っていく野盗の男。僥倖だ……どうやら腹痛に悩まされているらしい。
「アルチョム、さっそく仕事だ。あいつの腹の痛みを止めてやれ」
「それは……」
「殺せ、って言ったんだ。できないなら置いてく。足手まといだ」
ぐっと苦虫を噛み潰したような苦悶の表情で、アルチョムは先ほどのトイレへと向かう。
さてこちらは目の前の二人だ。ぶらぶらと手持ち無沙汰にしているだけに見えるが、片方はそれなりに気を張っているらしい。ヘッドランプがせわしなく動いている。もう片方はソファに座って足を投げ出してウトウトしているようだ。オマケに背を向けているのは好都合。
歩き回っている歩哨が暗がりのホームに僅かに歩み出た瞬間、線路からホームへと登る小さな段差を足場代わりに歩哨の腕を掴む。
突然のことに驚いた歩哨はその目を恐怖で見開き、私を見る。
引きずり込んだ彼の首元へ正面からサバイバルナイフをずぶりと沈める。気道を塞がれて声さえも出せないまま命の火が一つ消える。野盗の死体はそのまま線路へと静かに落とし、先ほどのヤツと同じようにホームの下の隙間へと放り込んでナイフを抜く。
ホームに上がると音楽に聞き入っている髭面の野盗の男に横合いからナイフをその左の首筋に突き刺し、まどろみから永遠の眠りへとご招待する。幸い木の板が影になって、野盗の男の姿はホームの反対側からでは足しか見えないだろう。
そそくさと壁から吊るされたランプの火を落とす。一直線のホームを分断するように設けられた木製の小部屋を伺おう―
プシュ、という微かな音が聞こえた。
まさか、私以外にも侵入者が居るのか?
意を決して小部屋へと踏み込む。カラシニコフのレーザーサイトが捉えた先には一人の男が力なく立ち尽くしている。
「……死んでる…」
立ってなどいなかった。それはまるで磔のように木の壁に打ち付けられた男の死体。それも真新しい。金属の矢が深々と突き刺さった喉元からは血が流れ出し、ポタポタと床に血の池を作っている。
「カハッ…」
最期の足掻きか、男が血の混じった咳を吐き出して事切れる。そっと首に指を添えてみるものの、脈はもう無い。
極消音、金属の矢、つまり
男の死体は喉を矢が貫通して息絶えている。空気圧で金属製の矢を射出するのがヘルシングというボウガンだが、これだけの貫通力を発揮するには割と近い距離からでなければならない。
血の滴る金属のボルトを抜くと、男の体が重力に従って壁を背にして座り込むように倒れる。
男のジャケットの裾を使ってその血を拭い、矢の後端を手近なランプにかざし、目を凝らして意識を集中させる。矢の後端から1センチほどの部分が緑色の塗料で着色されている。
このヘルシング専用のボルトはお高い。なにせ一本で軍用弾一発だ。普通にばら撒いていたのでは軍用弾を撃っているのと大差ないのだが、矢は折れていない限りはこうして死体や壁などに突き刺さったものを再利用できる。回収するための目印でもあるのがこの塗料だ。
「………カーンのいじわる」
どこから見ているのかは知らないが、素直に顔を出せばいいのに。
「ヴェート」
微かな呼び声に振り返ると、そこにはアルチョムがサプレッサー付きのリボルバーを手にして、表情を強張らせて立っている。
「終わった?」
「………一発で」
「そう。優しいんだね、アルチョム」
「……人殺しに優しいも何も無いよ」
「アルチョムは優しいよ。少なくとも無慈悲というわけじゃない。死を悼むことができるんだから。行こうか、この先はもっと居るみたいだ。気を引き締めて」
「あ、ああ…」
カタ、とドアノブを回してゆっくりとドアを開く。暗い闇が広がるホームの中央に焚き火が焚かれ、通路にはランプが木箱を置き場にしていくつか配されている。電力が供給されているらしく、いくつかの豆電球が壁際に吊るされて足場を照らしている。
頭上からはコト、コトと足音が響く。見張り台のように木材で足場が組まれ、その上を歩哨が巡回しているらしく、ヘッドランプの白い光がホームを行ったり来たりしている。
ホームはホームで土嚢と鉄筋やゴムタイヤなどを使ったトーチカが焚き火より手前に敷かれ、奥まったところには一際明るいライトで一角が照らされている。
だがこ中央に詰めている奴等は暢気にカードゲームに興じている。
「ワオ……ちょっとした防御陣地だよこれ」
思わず息を呑む。ここで見つかれば一斉に上から正面から銃弾の洗礼を浴びることになる。さらに騒ぎを聞きつけた奴等が後ろからやってきて詰みだ。
顔を覗かせて見ていると、一つ向こうの通路から歩哨が一人姿を現す。そのままホームを横切って立ち止まってあくびをすると、再び元来た通路へと引き返していく。
「……次にあいつが往復したら私があの電球を消す」
「見られるんじゃあ…?」
「かもしれないけど、奴等は敵が来ないと思って気を抜いてる。電気を消すくらいの時間ならあるさ」
正面には別の扉。左手にはホームが伸び、右手には左右からホームの真ん中を空けるように土嚢が積み上げられて壁際に電球が取り付けられている。木箱などもあることから物置代わりなのだろう。
上の歩哨を始末するにも、あの電球を消しておかなければやりにくい。幸いにも奥まった角に一個配されているだけで、こちら側までは照らせていない。
アルチョムの腰ほどもある土嚢を乗り越えると、そこには一人の野盗がしゃがみこんで工具箱を漁っている。土塁で見えなかったとは、この低身長が怨めしい。
「うん? 今何か…」
野盗の男がこちらに違和感を感じて振り向こうとするよりも早く、私の手が口ひげを生やした男の口を塞ぐ。それと同時に喉仏を貫いて細身のナイフが走る。
「―――ッ―! ンゥゥ! ――ゥ…」
男を押し込むように倒し、ナイフを更に奥へと進める。ビクビクと痙攣を始めた彼の体の上から退くこともなく覆いかぶさったまま、すぐさまナイフを引き抜き、血塗れのままに電球から伸びる配線を断ち切る。
フッと掻き消えた光。高鳴る鼓動。私の胸の下では反比例するように彼の心音が小さくなっていき、私を見る瞳からは生気が抜けていく。
プシュゥ、という炭酸ガスの抜けるような音が耳に届く。小さく短い断末魔が真上から聞こえて天井に銃を向けてみると、上を照らしていた歩哨のヘッドランプが消えている。
大方ヘッドランプごと撃ち抜いたのだろう。相も変わらず変なところで器用な人だ。
「ん…? おいマルコヴィッチ! ……くそっ、またサボってんのかあいつ…次にやらかしたら鉛玉をケツに叩き込んでやる。電球ももう数がねぇってのに……クソッ!」
先ほどの巡回の男が消えた電球を見て何者かを呼ぶが、それに応える男は既にこの世の者ではなくなっている。返答などあるわけもない。
苛立ちながら線路側の通路へと入っていった男を排除するようにアルチョムに指示する。
不安そうな顔はしてはいるが、仕事は意外とスムーズだった。まずホーム中央の敵が視線を逸らした瞬間に通路へ駆け込んでランプを消し、次いで何事かと振り返った男の胸にサプレッサー付きのリボルバーを二発。慣れてはいないのだろう。だが才能はある。殺しの、だが。
アルチョムが安全を確保した場所へ闇を伝って移動する。ライターで照らし出してみたところ、木箱が敷き詰められて道が塞がれているように見えるが、僅かな風の流れがある。
ゴト、と二人がかりで人間大はある木箱を動かしてみると、人一人が通れるかという通路が延びている。同じような見かけの箱ばかりが積まれているし、さながら中は小さなメトロだ。危険度は段違いのものだが。
手探りで少しずつ進むものの、段差などがある上に真っ暗だ。頭をぶつけないように静かに、足場の感触を確かめつつ歩を進める。
不意に目の前を赤いラインが走る。ふらふらと現れては消え、現れては消えるそれはまさに銃に取り付けるあのレーザーサイトだ。
アルチョムも息を呑み、リボルバーをそっと抜く。指先のジェスチャーで貸すように伝えると、グリップを握り締める。
かつて共に戦った相棒の感触を確かめるように、アイアンサイトから覗き込みつつ角を左に覗き込む。
チリチリと皿に載せた蝋燭が灯りを生み出し、それに照らされて男がうつらうつらと頭を上下させている。膝を抱えるように座り込み、眼の焦点はどこか遠い。ゆったりとした手つきで銃を手にしようとした男の眉間に銃口を突きつけてトリガーを引く。
至近距離で放ったお陰で音は小さい。狭い空間だが響くこともなかった。
小部屋で座り込んでいた男が持っていたのは通常は二連装であるデュプレットを改造し、銃身をもう一つ付け足して無理矢理四連装にしたものだった。もしこれが放たれていたら、今頃私はミンチになって転がっていたことだろう。………股がひゅんとする。
しかしあの感じは眠気というよりも――
「これは…灯りかな」
「待て……っ、あっ、…はぁっ……んあっ…」
「うっ!? な、なに、が……目の前が…クッ…」
視界が揺らぐ。やっちまった…! コイツはそういう類のキノコを粉末にしたヤツだ!
思い出した! あの娼館で何度かコイツを嗅がされて狂わされたっていうのに…!
「あっ、アルチョム…! はや、く…はぁっ……んあっ…そ、そとに…!」
上か下かもわからない。前に進んでいるのか、這っているのかもわからない。
ぐちゃぐちゃに乱れたブラウン管のテレビのような世界が回る。
「ヴェート…もう大丈夫……抜けたよ…」
「んっ、ふあぁっ…も、もう…イ…んぁっ…!」
まずいまずいまずい! 男はただ幻覚を見る程度で済むのだろうけど、女にコレはダメだ!
カラダが熱い。熱が篭ってる。モスクワは一年中雪景色だっていうのに! トンネルの中も寒いはずなのに! カラダの奥底から沸いてくる熱が止まらない。
炉心が燃える。アルチョムの中で眠る“影”がくっきりと浮かんでくる。欲しい、欲しい欲しいほしい!
布擦れだけで気が狂いそうだ! 打ち込まないと。打ち込んでほしい。クスリを。精液を。私のナカに!
「く、クスリ…んっ……ポーチ、の…はぁっん…! よ、四番の…」
「ど…どれだ…どれだ…! こっ、これで合ってるか?」
吐息が甘く感じる。匂いで頭がクラクラする。欲しい、けどダメだ。今はまだ、そう今は!
「ぐうっ…! ハーッ! あぁっ…!」
右手に持った小さな注射。その先端を自身に突き立てて少しずつ流し込む。ふわふわと浮いたような高揚感が一気に反転し、フリーフォールの如き爽快感が全身を冷やしていく。
空になった注射が力なく垂らした手から転げ落ちる。行為の後のような気だるさが全身を包む中で、ようやく冷静さを取り戻した思考で状況を整理する。
アルチョムが燭台と間違えて幻覚剤に火をつけてしまって、どこをどう歩いたかもわからないが迷路を抜け出して、薬を打ってどうにか落ち着いたところだ。
たった一瞬だけしか嗅いでいないのに、下着がびしょびしょだ。下手をすると戦闘服さえも濡れているかもしれない。本来ならあれは少しずつ火に注いで燃やしていくものなのに、アルチョムはまさかの全部だった。
お陰で一瞬で媚薬効果が全身を回ってしまった。しかも初対面の男の前でだらしなく色狂いのような顔を晒していたのだと考えると死にたくなる。
「………あれはね、少量だけなら精神高揚効果があって有益なんだよ。だけどいっぺんに燃やしたり狭い場所で一度に吸うと、こうなるんだ」
「…す、すみません……」
「…知らなかったのを責めたって仕方がないよ。次が無いように、気をつけて」
「はい…」
それにしても危なかった。ブルボンの救出さえ忘れてアルチョムを“貪り食う”ところだった。ただでさえ歯止めが利き難いし、快楽に対しての嫌悪感を失くすように仕上げられた私にアレはまずい。
……思えばこういうクスリの回った状況で流されなかったのって初めてな気がする。貴重な経験なのはいいけどこんな形で得なくてもいいだろう!
「もう、大丈夫?」
アルチョムが尋ねる。戦士に対する声色とは違って、一人の女の子にかけるような優しい声で。
「平気。あとちょっとだから、急ごう」
「無事でいてくれ、ブルボン…!」
ブルボンが溜め込んでいる“影”。……あれがもしも、長年私が検証して考察してきた通りだとすれば…。
いや、今は間に合わせることだけを考えよう。彼の命数が尽きてしまう前に、あの“影”を少しでも抜き取らなければ。
彼はまだ、死ぬべきではないのだから。
METRO2033の書籍をポチりました(事後)
今から到着が楽しみで仕方がないです。
本編主人公のアルチョム君、もといアルチョムさんはゲーム中では独白以外では声が聞けないので、小説を読んで人物像をしっかり固めていきたいです。