Metro2033 -影を見る者- 作:きゃすたー(7mg)
やっぱり表現しきれない部分なども多いので、物語の裏側を知るためには必要になるはず。
誰かが私に精液を注ぐたび、その人の中に見える黒い影が私に乗り移ってくる。
ちょうど私の胸の辺りにまで集まってきて、心臓の鼓動に合わせて少しずつ私に溶け込んでいくそれは果たして何なのか。そう考えたのは十三歳、私のお腹の子の父親と交わっていたときだ。
私が抜き出したその“影”を、こっそりと他の誰かに移したことがあった。行為の最中のこと、私の舌に己の舌を絡めて濃厚な口付けをされたときだ。
その日の行為を終え、店を後にしようとした彼はドアを突き破って現れた青年にAショット―拳銃型散弾銃―で撃ち殺された。なんでも撃ち殺した男は、彼に妻の命と全財産を奪われて、奴隷として働かされていたらしい。
次に“影”を移したのは、私を売り飛ばした憎き男の相手をさせられたときだった。
“炉心”からあふれ出る“影”を唾液と共に流し込んだ。
翌日、彼はラーカーの餌になっていた。四肢を食い荒らされ、目玉を食いちぎられ、無惨な姿でトンネルのエアロックの外で転がっていたという。彼は反抗する奴隷の四肢を切り落として性奴隷として売ったり、眼を潰して逃げられなくするなどしていたらしい。
そうして何度かして繰り返して、気づいたことがある。
“影”が濃くなった人間は死が近づくということ。そしてその死は己の“業”に報う仕打ちを与えられるということ。
つまり私は他者の“業”を“黒い影”という形で見ているのではないかということだ。
そしてそれは子供も大人も男も女も関係なく、大なり小なり存在している。そしてその中でも特に影が濃く映えるのが、野盗などの犯罪者。そしてその次にストーカーやレンジャーだ。
とりわけ“殺し”に関わる人間ほど、その影は濃いものとなる。それは銃や刃物といった武器に宿っていたり、フィルターやヘッドランプなどの道具、果ては場所そのものが“業”を溜め込んでいることさえある。
もしかすると付喪神というものは、そうした“業”を溜め込み続けた道具の末路なのではないだろうか。この超常現象の跋扈するモスクワメトロに生まれて、確たる理由などないのにそう感じてしまった。
カーンは私の見解について、「トンネルの“闇”というものが行き場を失った人間の魂の複合体なのだとすれば、“人影”はさながらそれらの人々が生前に負っていた“業”の姿だと言える」と言っていた。
トンネル内に現れる黒い人影。触れればあちら側に引きずり込まれるとカーンは言っていた。
つまり、彼らの“業”は精算されることもないままに、トンネルの闇として留まり続けているのだ。そしてそこへ足を踏み入れた者は、彼らの仲間入りを果たすことになる。
ブルボンはおそらくそういう類の場所に足腰までどっぷり浸かってしまったのだろう。それもとびきり凶悪な場所だ。彼の体の中で蠢く“影”の気配は尋常ではなかった。おそらく一人で立ち入れば私やカーンでさえ飲み込まれる。
一体どれほどの思念と影が溜まった場所へ踏み込んだのか小一時間問い詰めてやろう。
助け出したときに生きていれば、だが。
第六話 トンネルの闇に
木箱の迷路を抜け、ホームの最奥へとたどり着いた。ようやく、だ。
しかし目の前には歩哨が一人。そしてこの区画の入り口同様に木組みの足場が設けられ、その上にも見張りが一人居る。
最奥への入り口のドアには青白い光を放つ蛍光灯がある。そのまま進入しようとしても足場からそこが丸見えだ。排除するしか進む道はない。
プシュゥ、とまた発砲音が聞こえる。足場からこちらを見下ろしていた見張りはカーンの手によって駅のタイル壁に磔にされてしまったらしい。ならばこちらも迅速に動かないと。
暗がりの倉庫から静かに歩哨ににじり寄る。バスタードを腰に提げ、警戒心はまったくと言っていいほどに無い。
「――フッ! むっ、グッ…!」
後ろから首を締め上げ、二度三度とわき腹をナイフで刺していく。ドス、ドスと何度も打ち付けるたびに野盗の男がびくん、びくんと痙攣し、ついには動くこともなくなった。
飛び散った血液を避けつつホームを確認する。焚き火の前で居る二人の男は異変に気づいていない。くだらない話をして暖を取っている。
奥の扉へと視線を戻そうとして、何かが目に映る。
「ノサリス…?」
反対側のホームに佇む車両。そのドアの開いたところに転がる影を注視する。
「………ちょっと待ってて、アルチョム。ノサリスがいる」
「まさか…」
「いや、あのサイズはノサリスだけど、もしミュータントが生きているならあの野盗どもは今頃大慌てだ。おそらく始末したノサリスを放り込んであるんだ」
「何のために…?」
「ラーカーを釣るためさ。釣果は無いみたいだけどね」
「……死体を餌にしている、のか」
「そうだよ。ノサリス以外にも、人間の死体でもいい。特に子供や赤ん坊のような柔らかい肉はあいつら好みだよ。実際、それを見たこともある…」
「なんて…なんて下衆な…」
「………確認してくるよ。誰も来ないか警戒していて」
「了解」
ホームを静かに、しかし音を立てずやや駆け足で横切る。床に開いた穴を避けて通り抜けてホームを再び警戒するも、男達は気づいていない。
真っ暗なホームの車両の前でライターをつける。僅かな灯りが金網で封じられた車両の中で腐敗の始まったノサリスの死体を照らすが、それ以外には何も無い。
「……っと、これはいい」
ホームの壁に立てかけているままの銃剣付きシャンブラーを手に取る。
状態は良好だ。何かの影も無い。アーモリー製の刻印があることから、おそらく商人がこのシャンブラーを他の駅に卸すために持っていたのだろう。
再びアルチョムが警戒している倉庫区画へと戻ると、彼にシャンブラーを手渡す。
「これは?」
「リボルバーショットガン、通称シャンブラー」
「……デュプレットはどうしようか」
「置いていけばいいよ。
「ユージーン……すまないがこれは置いていくよ。ありがとう」
アルチョムは名残惜しげにデュプレットを開いて、装填されたショットシェルを取り出す。
愛着のある武器なのだろう。私だってハンターから預かったリボルバーを肌身離さず持ち歩いていたし、オーダーの加入試験でも使っていた。カラシニコフ2013はミラーおじさんから合格祝いとして受け取ったものだ。アンナがムスッとした顔で睨んできたのも懐かしい。
少し、無神経だったかもしれない。思い出の品を棄てろと言われれば私だって嫌だと言うのに。
「……ごめん、大切な人の物だったのに」
「え? ああ…いいんだよ。また会ったときに謝るさ。ユージーンはいつだって陽気な男でね。ショットガンを置いてきた程度じゃ怒らないよ。その代わりウォッカをせびられそうだけどね」
「いい友人だね」
「自慢の親友だよ。それで、このシャンブラーは? 確かリジスカヤ駅の守備兵も持っていたけど」
「これは六発まで装填可能な回転弾倉式のショットガンだよ。使い方は単純。構えてトリガーを引くだけ。だけど気をつけて、リロードが意外と手間なんだよこれ」
「……どうするんだろう」
「貸して。いいかい? フルリロードするにはまず銃を右手で持って、弾倉の左上に一発装填してコッキング。その後二発目、三発目、四発目、その次に左手に持ち替えて下から五発目、六発目を装填する。敵が多いなら最期の一発だけ残して、リロードの際に五と六は装填せずに、三発撃って左手で三発リロードってするとコッキングの手間が省けて使いやすいよ」
「……なんというか、手間がかかるね」
「仕方ないよ。オートマチックショットガンが欲しいなら
「ひゃ、百発……」
そりゃあ唖然とするのは当然だ。何せ百発と言えば軍用弾さえ払えばなんでもできるキタイ・ゴーロド駅でプチハーレムプレイができる。高級娼婦なら一人を半日は好き放題にできるだけのものだ。
………なんで娼婦換算なんだよ。他にもあるだろうに。食事代やら酒やら、例えるものはいくらでもある。
ああもう、これもそれもあれもアルチョムのせいだ!
アルチョムがあのキノコの粉末全部燃やしてしまうからいけないんだ!
「ああ、あとはコレ」
「…赤いショットシェル?」
「こいつは“ドラゴンブレス弾”っていうんだ。中身に燃焼材の入ったショットシェルで、こいつを撃つとシャンブラーがミンチメーカーから即席の火炎放射機に早変わり。ただし射程は短くなるから要注意だよ。他にもスラグ弾なんかもあるんだけど、ドラゴンブレス弾の手持ちはあと二十発しかないから、六発分だけあげるよ」
「ありがとう。助かるよ」
「どういたしまして。それじゃあ……行くよ」
この区画内に残っているのはあと二人。焚き火の横で緑のボロいソファに座っている男と、彼の傍に立って談笑している男だけだ。
「アルチョムは右の立ってる男を狙って。私は左のソファの男」
「了解。タイミングは?」
「合わせる。好きなタイミングで撃って」
膝立ちになってカラシニコフを構え、ダットサイトの光点をソファに腰掛ける男の後頭部に定める。あとはアルチョム待ちだ。
パスッ、パシュッ、と二つの発砲音が連続して鳴ると、サイトに映る野盗たちは永遠の眠りの中へと導かれる。
アルチョムも一発で仕留めている。いい腕だ。
「上出来」
「……素直には喜べないけどね」
後顧の憂いは断った。後はこの奥だけだ。
足音を殺してドアに耳を当てて中の様子を探る。
「一緒に来たのは誰かって聞いてんだ! 答えろクソ野朗!」
まずい。これは非常にまずい。ドアの外にまで漏れるほどに野盗のボスはおかんむりだ!
「クッ、ブルボン!」
「已む無しか、行こうアルチョム」
ドアノブを静かに回し、僅かに扉を押し開けてすり抜ける。
丸腰のブルボンにソビエト連邦の軍用コートと帽子を被った男が銃を向けて怒鳴りたてている。部屋の灯りは二箇所だけだ。奥の篝火と手前のランプしかない。
ブルボンも両手を壁につかされたままだし、このまま気取られずに野盗のボスの背後に回りこめる!
薄暗い部屋の隅に積まれた木箱の傍に膝立ちで陣取り、カラシニコフ2013のストックを肩に当てて構える。ダットサイトですぐ目の前の男の頭に狙いを定め、静かに息を吐いて止めて手のブレを抑える。
「答えろ! でないと殺すぞ! 隻眼の奴か!? それともあの偽善者か!?」
よし、今なら―――ガゴン!
時が止まるような悪寒。音はどこから聞こえてきた? 私のすぐ左、そう私が入ってきたドアからだ。つまり、そこにはアルチョムが居る。
野盗のボスも、私も、アルチョムも一瞬の思考停止に陥る。
「だっ、誰だお前は!?」
「アルチョム!」
「ごはっ!」
唯一ブルボンだけが状況を飲み込み、野盗のボスの手に握られたリボルバーを払い、男をソファに向かって蹴り飛ばす。
ゴトンとソファに背中からダイブしたボス。その隙を付いてリボルバーに手を伸ばすブルボン。そのままカチリとリボルバーの撃鉄を起こし、狙いを定める。
野盗のボスは転がっていたAKを掴み、ブルボンに向かって銃身を起こしながらトリガーに指をかける。
何が起こるのか。理解してしまう。時間の流れが遅くなるような一瞬の間に行われる高速の思考が答えを導き出す。その解答を現実のものにするわけにはいかないと、思考よりも速く体はカラシニコフのサイト越しに野盗のボスの姿を再び捉える。
パシュッ、ドドンッ!
床に仰向けで息絶える野盗のボス。蒼白で立ち尽くすアルチョム。そっとカラシニコフ2013から零れ落ちた空の薬莢が立てた、チリンという音は―
どさっ、とブルボンが崩れ落ちる音でかき消される。
「ブ、ブルボンッ!?」
「…ぅ……ぁ、……アル…チョム…」
腹と胸から血を流すブルボン。呼吸も難しいらしく、ひゅうひゅうという音が彼が呼吸する度に漏れ出す。
「……ブルボン…」
「…う、ヴェー…ト……」
カーキ色の戦闘服の膝が朱に染まる。そっとブルボンの額に手を当てると、祈るように、幼い子供に言い聞かせるようにつぶやく。
彼は間も無くメトロの闇に溶け込んでしまう。彼の魂は彼で無くなり、このメトロで消えていった命の一つになってしまう。
「……大丈夫、ここに居るよ…」
「ヴェ…ト……ハァッ……カーン…に……済まない、と…」
「大丈夫。大丈夫だよ」
「………ぅ……ヴェー、ト…」
震える手でそっと私の頬を撫でるブルボン。するりと零れ落ちるように、その手はメトロの薄汚れた床に落ちていく。
詐欺師、ペテン師と呼ばれた小悪党ブルボンの命は、トンネルの闇に消えた。
最早戻ることはなく、そして二度と救われることのない、この世界に消えた。
彼が背負った“業”が魂と共にメトロの闇に還っていく。ここにあるのは既に抜け殻だ。感傷に浸っている場合ではない。まもなく野盗どもが押し寄せてくるだろう。
カタン、という音に振り返るとそこには養父がダクトからぶら下がる姿があった。
何者かとAKを向けようとしたアルチョムに右手を差し出してカーンが制止する。
「まず武器を下ろしなさい、若者よ」
民族風の毛皮のコート。その下には薄汚れた元は赤色だったろう布を纏い、白髪と無造作に伸ばした髭が特徴的な男。腰には散弾銃のショットシェルを備えたベルトが巻かれ、コートの内側からは小振りの鉈のようなナイフが顔を覗かせている。
「哀しいが、彼のような男には予想外な末路ではない」
「なっ…」
「詐欺師、ペテン師と呼ばれた男だ。……悪党の一角であることには違いない」
「それでもブルボンには確かに善人のような心だってあった…! あなたが何者だろうと、彼を裁き、断じることなんてできやしない!」
「………なるほど。うちの義娘が入れ込むだけはある。正しく、そして真っ直ぐな意志だ。青さは抜けていないようだが」
「娘…?」
「なんだ、説明してなかったのかヴェート」
アルチョムが私を見る。猜疑と不信の眼差しだ。カーンという男はその喋りと言い回し、そしてその価値観からよく変な目で見られる。そして私が義娘だとわかったときも、彼を見るような眼が私に向けられる。もう慣れたことだが。
「ブルボンの救出が最優先だった。余計な話はしなかっただけだよ。……救えなかったけどね」
「ヴェート、お前のせいではない。そして若者よ、キミのせいでもない。いつか起こるだろうことが、たまたま今日だった。そう考えなければ知った顔ぶれの死から生まれる悲しみに飲まれるだけだ。私もそう考えるように努めている」
今日だった、か。なあブルボン。あんたはどこで今日死ぬかもしれないような“業”を背負ってきたんだい。
「野盗の仲間が異常に気づくまでにはあまり時間がない。すぐにでも離れよう。無駄な流血は避けるべきだ。私はこれからカース駅に戻る。この駅の湿度ではリウマチになってしまうからな。彼と同じ道を歩みたければ残るといい。いくぞヴェート」
そっとブルボンの瞳を閉じてやると傍らに置いたカラシニコフ2013を拾い上げる。
長い付き合いではなかったけれど、深い間柄ではなかったけれど、知人の死というものは相変わらず慣れないものだ。
………行こう。ここに居てもできることはない。
「アルチョムはどうする? 元々ブルボンの護衛だったんでしょ?」
「……僕はポリスに行かなきゃならない。ブルボンとはその途上で利害が一致しただけだった。僕はここで、終わるわけにはいかない」
「賢い選択だ」
部屋の奥、野盗のボスのベッドがある一角の隣にある一つの扉。そこを開けたと同時にけたたましく入り口のドアを叩く音が聞こえる。
「ボス! 侵入者です! 仲間が半分もやられてる!」
「早くここを開けてくれ! ブルボンはどうなったんだ!?」
「……急ごうか。ドアをまず塞ごう。時間は稼げるだろう」
念のために近くの木箱を移動させてドアを塞ぎ、カーンが先導するように前を進む。
蜘蛛の巣の張った薄暗い通路。遠くで電球が僅かに光を放っているものの、せいぜい道がぼやけて見える程度の明るさしかない。
通路はコンクリートに変わり、空気もそれに伴って変わっていく。天井を伸びる配管と送電線に導かれるように奥へと進む。
重く、圧し掛かるような空気。濃密な死の気配。カーンは平然としているが、私は正直嫌な予感しかしない。アルチョムはというと知識が無いなりに何かを感じ取っているらしく、せわしなくシャンブラーを向けて警戒しながら私たちの後についている。
「ここを歩く者は誰も居ない。人も、獣も、ネズミでさえも避けて通る」
鋼鉄の扉の先には地下鉄の路線が目の前を横切って走っている。左を見れば錆びたエアロックは木箱と土嚢で塞がれ、トンネルの壁には黒い染みが広がっている。
右手に伸びるトンネルは重苦しい闇が待ち構え、線路と平行してバルブのついたパイプや、途切れた送電線がトンネルに沿って伸びている。それを遮るように築かれたバリケード。トンネルの天井にまで達するそれは古タイヤや木材で固められ、中央に人が一人通れるだけのスペースしかない。オマケに血痕らしき染みのついた麻布が散らばっている。
むしろ整備され、整ったレールが走っているトンネルのほうが少ない。どこの駅も自らの住処の保全と維持で手一杯で、トンネルに気を遣う余裕が無いからだ。
送電線や電信が機能している駅が一体どれほどあるだろうか。それほどに駅の人々の暮らしというものは逼迫している。
浄水器が壊れたら? 飲めるのは汚染された水だけだ。
発電機が故障したら? 駅はランプの僅かな明かりに頼るしかなく、闇が駅を多い尽くす。
銃弾が尽きたら? もはや、迫る死から逃れる術は無いに等しい。
そんな明日の生活さえも不安になるような駅など、このメトロにはいくつもある。
ハンザほどの規模を持つ組織―最早国家と言ってもいいが―ならトンネルの維持も可能だが、小さな駅や同盟では難しい。トンネル内が蜘蛛の巣だらけで、おまけにノサリスが頻繁に襲撃してきたり、アノマリーがわんさか現れるようなトンネルだって存在する。ここもその一つであるには違いないが。
これが、このメトロにおける“普通の”トンネルなのだ。地上同様に荒廃し、コンクリートの壁さえ崩れ、時に天井に大穴があいていたり、土砂が体積してレールが埋まっていたりする。
そしてところどころでノサリスなどのミュータントの被害者や、撃ち殺されたミュータントの死骸が転がっている。それが、この滅亡した世界におけるメトロの“いつもどおりのトンネル”なのだ。
「奴等は我々に気づいている」
「ヤツら…?」
「心配しなくていいよアルチョム。じきに分かるさ。………生きて通り抜けられれば、ね」
「二人とも、パイプに近づいて耳を当ててみなさい。ただし、長く聞いてはダメだ」
カーンの言葉に従って耳を近づける。アルチョムは左耳を、私は右耳を。必然向かい合うようにして顔を合わせるようになる。
お互いの顔がヘッドランプで照らし出される。思えばはっきりとした彼の顔を見るのは初めてかもしれない。
美青年、ではない。少年でもない。どこにでもいるような旅人の青年という印象。やや短めに揃えられたダークブラウンの髪。青みがかかった瞳。端整な顔立ちながらやや伸びた無精髭が野性味を醸し出す青年。
彼の表情が緊張で強張ると同時に、私にも“彼ら”の声が聞こえ始める。
「……フ………ウフフ…」
女性のような。
「クク……ハハハッ…!」
男性のような。
「……………ママ…?」
こども――
「ヴェート!」
ばっ、とパイプから耳を離す。
息が荒い。心臓の音だけが妙に強く聞こえる。額を流れた脂汗が頬を伝ってトンネルへと滴っている。
「……感受性が強いのも考え物だな。よく感じ、捉えられる分だけ引きずり込まれるのも早いのかもしれん」
「…らしいね。………眼のよさが命取りにならなきゃいいけど」
「ふ、二人とも…今のは一体!? たっ、確かに人の声が! 声が聞こえた…!」
「落ち着くんだアルチョム。ここでは決して自分を失ってはならない。気を鎮め、そして意識をしっかりと保つんだ。ヴェートも同様だ。辛いかもしれないが、私に従って進めば問題無い」
「了解」
「………了解」
答えを聞けず渋々と受け答えるアルチョム。当然だろう。この偏屈オヤジはどうしたって人からのウケが悪い。
「この声については人それぞれだ。ある者はトンネルの声だと、ある者は自らの精神状態の不安定さからくるものだと考える者も居る」
「…トンネルの声………ただの与太話なんじゃあ…?」
「アルチョム、与太かどうかは生き延びてから考えればいい。今は進もう。………できれば早く安全な場所に出たい」
「ヴェート……大丈夫かい?」
「……ちょっと、キツいかな」
体を襲う寒気に身が縮むようだ。耐えられないわけじゃあないけれど、あまり長く居たいとも思わない。“炉心”に火を灯せば凌げるのだろうけど、彼の前でやってしまえば私は彼の中で“異常者”に認定されたっておかしくない。
………何を考えている? 嫌われたくない、だって? 何を今更! 私は生き残るためになんだってやってきたのに、何故アルチョム一人に嫌われるのを怖がっているんだ!?
「…私はここを知っている。逆もまた然り。………注意しなさい、このトンネルは危険だ。ライトを点けたままにしなさい。さもなくば永遠に闇を彷徨うことになる」
カーンがバリケードの鉄格子の南京錠を外し、トンネルに一歩を踏み出す。
薄くもやがかかったようなトンネルを三人で進む。レールの真ん中でうずくまるように、腐乱死体が転がっているのを避けて通る。
“人影”が居る。それもとびきり濃密で、ぼやけることなくくっきりと見える。相当にヤバイトンネルに入ったらしい。
横転して壊れたエンジン付きのレールカー。それも機銃を搭載した二人乗りのタイプだ。その搭乗者らしい防護服姿の死体と、アーマーを装備した男が近くで転がっているが、服の下は既に白骨化している。かなり古い死体だ。
「“誰”という言葉は、ここでは意味を持たない」
すすり泣く男の影が、悲鳴を上げる女の影が、遺体の傍で佇んでいる。
何かに驚き逃げ惑う男。その影が消えた場所には、一体の腐った肉塊がある。近くには麻布で覆われた“ナニカ”がこんもりとした山を為している。
それらを回避して足を進める。光を放つキノコが僅かな灯りとなってトンネルを照らしているものの、足元は覚束ない。
崩落によって埋まったトンネル。その土砂を貫く通路のように、錆びた車両がトンネルの奥へと続いている。
車両の連結器に足をかけて車内に入り込むと、中は蜘蛛の巣が張っていて視界が真っ白になっている。
「ママ」
座席に座る少女の影が。
「ねぇ、ママ」
扉の前に佇む少年の影が。
「ママってば」
「お母さん?」
「ママだ」
「母さんだ!」
前から後ろから上から下から現れた影が私を呼ぶ。呼んでいる。わたしを。ははおやを。
………寂しかったんだ。ずっと一人ぼっちで、守ってくれる人ともはぐれて、影になってもずっと探していたんだ!
声が聞こえる。わたしを、おかあさんを探して、こどもたちが待っている。
きっと、あの子も、ワタシをまッてイる。
「……ヴェート? どうしたんだい?」
「…さみしい……声が…お母さんを……」
「カーン! な、何かおかしい! ヴェートが、何だかわからないけど、何か変だ!」
いけない。ワタシはこの子たちのははおやなんだ!
「アルチョム、今すぐ彼女を抑えろ! 気をしっかり持つんだヴェート!」
「ヴェート! 正気に戻ってくれ! カーンが、君の父さんが心配している!」
「はなしてっ…! あの子たちが! 子供達が待っているのよ!? 私を、お母さんをずっと待っていたのよ!? ワタシをこどもたちのところに行かせて!」
明るい車内。ある少女はベルベットで飾られた座席に座り、ある少年はつり革で遊んでいる。眩しく煌く電灯と、その下でワタシ待つ子供達が見える。仲良く手を繋いだ姉妹。まだ幼い妹を抱きかかえる男の子。冗談を言い合ってふざけている兄弟。ああ、彼らはずっとワタシを待っていた。
この暗闇の獄中でずっと! 母親をまっていたんだ! 生きてる。生きている! みんなここに居て、今も母親を待っている!
「ハァ………まったく、手のかかる…娘だッ!」
「グッ…!」
「カーン!?」
息が詰まる。何かが胃からこみ上げてくる。景色がぶれる。子供たちは――
「…ゴホッ! ゴホッ!」
「………眼は覚めたか?」
「うっ…く……父さん…?」
ブツッと電源の落ちたテレビのように視界が暗闇に変わる。先ほどまで見えていた彼らは、ただの影に戻っていた。
………飲まれかけた。私の一番の“古傷”を抉ってくるとは、やってくれる…!
「……ありがとう、父さん。…お陰で彼らの仲間入りをせずに、済んだ……ごほっ…」
「カーン、何も女の子の腹を殴らなくたって…!」
「クレムリンを知っているかアルチョム?」
「……それとこれにどういう関係が!」
「クレムリンの先端の星にはルビーが仕込まれている。それを見たものはまるで引き寄せられるようにクレムリンに足を進め、そして中に入って戻らない。そのためストーカーはクレムリン周辺では常に二人組みで行動する。一人が見てしまったら、もう一人が殴ってでも正気に戻してやれるように、だ」
「ヴェートがその催眠状態だったと?」
「当たらずとも遠からず。トンネルの闇は常に生者を手招いている。まして彼女はそれをよく見て聞くだけの力があり、そしてそれの影響を受けるだけの傷を持っている。……この闇は危険だ。私でさえ、古傷を刺激されているのだから」
カーンも影響を受けていないわけではないらしい。………なのに私のことを案じて正気に戻してくれる。私だけじゃなくアルチョムにだって気を配らなければいけなくて、余裕は少ないはずなのに。
………迷ってはいられない。こんなところで朽ち果てるわけにもいかない。
「父さん。“火”を使うよ?」
「……好きにしなさい」
足元に転がったままの相棒を拾い上げる。ごめんよ、手荒い扱いをしてしまった。今度アーモリーでピカピカに磨いてあげるからな。
「………アルチョム」
「…なんだい?」
「できれば、怖がらないでほしい」
いまいち飲み込めていないアルチョムをよそに、左手を開く。握っては開き、握っては開き、感触を確かめる。
意識を静かに研ぎ澄ませ、私の中に眠る“炉心”を呼び覚ます。燃料はもちろん、吸いだしてきた“業”だ。ヒトに生まれた“業”を吸い取ることに快楽を覚えた私はきっと、いつかその“業”そのものになってしまうのかもしれない。
ちり、と弾けるような音が手のひらで生まれて、ぼうっ、とバスケットボールほどの火が手のひらの上に浮かぶように現れる。
列車の中の影を打ち払うように光を放つ紅い炎が、私の手の中で揺らめく。
「…………あ…あぁ…」
アルチョムは、やはりそういう反応だ。自らの正気を疑い、そして私が何なのかという猜疑の目。受け入れられないと拒絶する瞳。もう慣れたものだ。だけど、哀しく感じるのは何故だろう。
「
「こんな……こんな、こと…が…」
「有り得ない存在であるミュータントが現れて既に十五年以上だ。放射能の影響を受けているのはミュータントだけではなく、我々人間だってそうだ。有り得ない、という言葉こそが有り得ない」
「………どうにかなりそうだ」
「気持ちはわかる。私も最初はそうだった……さて進むとしよう。火が我々を守ってくれているが、早く抜けるに越したことはない」
手のひらで踊る炎で蜘蛛の巣を焼き払いながら列車の通路を進んでいく。カリカリとセンサーが音を立てて“彼ら”の存在を知らせている。
列車を抜け、再び線路に下りてトンネルを走る。コンクリートを貫通して天井から伸びる木の根をキノコが照らし、不気味な雰囲気が漂い始める。
これがもし平和な世界で見る光景だったなら、幻想的だとか抜かすこともできるのだろうけれど、死と闇が包み込むこのメトロでは不吉以外の何も感じない。
「待った!」
「父さん?」
「今すぐ線路の脇へ退くんだ!」
「了解! 急いで、アルチョム!」
「ああ、今度は何が!?」
相変わらずの荒廃したトンネルを進むうちに、音が聞こえ始める。コトン、コトン、ゴトン、ガタン、ゴトンと次第に大きくなる音と共に、青白い二つの光が線路に沿って走り抜けていく。
うっすらとした影が象るのは、電車だ。ライトの光さえ、そして乗っていた乗客さえも影は再現している。
「………もう、何がなんだか…!」
キィー! と響くブレーキの音。そして爆発音のような激しい音が響き、電車は消え去った。消え去った先にあるのは先ほど通り抜けた列車だ。乗っていた乗客はおそらく全て死に絶えたのだろう。
つまりあの電車の中で見た子供たちは………だめだ、考えてはいけない。また飲まれたら今度はカーンに子供殺しの業を背負わせてしまうことになる!
そうなればきっと私は、あらゆるヒトの“業”を溜め込んだ私は、このメトロに於いて最悪の“人影”として留まってしまうだろう。
「このトンネルでは過去が幾度も繰り返されている。その時ここを歩いていた不運な者は過去に取り込まれてしまうのだ。適切な知識が無ければ死んでしまうが、娘や私のようにそれを知覚できる者は回避できる。それでもトンネルの闇の“誘い”に引っかかりかねない。厄介なトンネルだ」
「………あんな惨劇が、何度も繰り返されるっていうのか…」
一度火を落とし、歩きながらカチンカチンとダイナモを回す。半分ほどに減っていたメーターが目一杯まで戻ったのを確認して再び腰に提げて、左手に新たに炎を生み出す。
私が再び火を灯すと、カーンとアルチョムも自分のダイナモのグリップを握って充電を行う。どうしてか、このダイナモのグリップを握るたびに心が落ち着くような安心感が生まれる。それは私だけではないらしく、アルチョムもカーンも明るくなったライトを確認してため息を吐く。
「うっ…!」
思わず目を背けた。今までに見てきた影など比べるべくもない、強烈な濃い“人影”が列を成して佇んでいる。銃を持ち、軍用ヘルメットを被り、その顔はガスマスクで覆われていて、アーマーの形状さえも確認できるほどに濃密な“人影”たち。
彼らの足元の水溜りにはさらに繊細な影が映っている。口ひげの男、AKを構えた男、ショットガンを構えた男。彼らの、生前の姿さえもが顕現してしまっている!
「………昔、ここで激しい戦闘があった。駅の防衛側…ツルゲーネフスカヤのレンジャーたちは未だにこの先の駅を守るために留まっている」
それは実に勤勉なレンジャーたちだことで! 私の“火”で照らされていても姿が消えないほどだ。どうやって通り抜ければいい?
「……ついてきなさい。私の後ろから離れないように、肩を掴んでおくんだ。あまり影を見ないように視線を外しておくといい」
右手でそっとカーンの肩を掴む。アルチョムが左手でカーンの肩を掴むのを確認して、カーンの肩を二度叩く。
ゆっくりと歩き出すカーンに合わせて歩を進める。影に近づくほどに、ガイガーカウンターはカリカリと激しい音を立てて警告を発してくる。
ぼそぼそとカーンが呟く。祈るように、懺悔するように、静かなカーンの声だけが響く。
祈り始めてすぐに、後ずさるように兵士の影たちは道を開ける。まるでそれが当然であるかのように、線路の脇に立ち、カーンを見るように一列に並んで私たちを見送る。足元しか見えなかったが。
カーンの祈りが終わり、不意に肩の荷が下りたような気配に振り返るものの、そこにはもう影たちは居ない。
「………これ以上は来ない」
「何故わかるんです?」
「……個人的な理由だ」
アルチョムの問いに、カーンは言葉を濁した。珍しいこともあるものだ。普段は常に客観的なモノの見かたをする父が、私的なことだと言い切る姿が新鮮に見える。
若干ながら圧力の消えたトンネルを進む。相変わらず死体やそれを覆い隠した麻布などが転がっているが、飲み込むような圧迫感は襲ってこない。
「……昔、ここで戦闘があったというのは言ったな」
「ええ。たしか激戦だったと…」
「…そうだ、その戦いに私も参加していた。………防衛側として」
「………そんな! じゃあカーン、彼らは…! あの人影たちは!?」
「彼らが死んだとき、私は………一人生き残ったのだ…生き残ってしまったのだ…」
これが、カーンの“業”なのか。たった一人、死んでいった同胞の血の池の中に、カーンは今もたった一人佇んでいるのか?
違う、そうじゃない。これはカーンが背負うべき“業”じゃあない。なのにカーンの背中にはあの“影”が見える。カーンが背負ってしまった“業”が彼を死へと手招いている。
「カーンがもしその時、ここで死んでいたら」
「…ヴェート?」
「私は、生きてここに立っていない。カーンが生き残ったのには意味がある。必ず、大なり小なりの意味があるハズだよ。……それでも意味が見出せないっていうなら、私を助けるために生き残ったんだって考えて欲しい。私が今日、ここであのトンネルの闇に飲まれないようにするために生き残ったんだって。ね、父さん?」
「………いい娘だよ。私のような偏屈の娘というのは勿体無い」
カーンの強張っていた表情が緩み、僅かな笑顔が浮かぶ。応えるように精一杯の笑みで返す。
「…本当に親子なんだね」
「フッ……子がいるというのはいいものだぞアルチョム。いずれ君も知ることになる。親の喜びと、そして苦労を」
「そうだよ。偏屈で屁理屈で変人の中の変人だけど、大好きな父さんさ。血は繋がっていないけど、そんなものは私たちには必要ないんだ」
「義理の親子、だったのか…」
「確かに娘の言うとおり血は繋がっていない。だが、何か別の部分で私たちは実の親子のように繋がっている。言葉では表現しきれない、何かだ」
アルチョムもどこか懐かしいというような笑みを浮かべている。さっきまで変なモノを見るような目を向けたことだってあったのに。
私たちはただの親子だ。ちょっとだけ、他人には見えていないものが見えているだけで、あとは普通の親子なんだから。
「さて、気を引き締めていこう。闇は消えたがミュータントは消えない。ここから先はまた別の脅威が待ち受けているぞ」
カーンが背嚢からぶら下げていたAK74を手に取りコッキングレバーを引く。その顔つきは先ほどまでの穏やかな父親の顔ではなく、戦士の顔だ。
眉間にシワをよせ、鋭い視線と敏感に敵の気配を感じ取ろうとする意志が見える。彼の実力はオーダーの中でもトップクラスで、最上位はハンターだが、その次にはカーンの名が挙がるほどだ。トンネルを一人流離う男はやはり地力から違うようだ。
「アルチョム、シャンブラーは使えそう?」
「なんとかね。うまくやってみるさ、ミュータント相手なら躊躇う必要なんてない」
「上々だよ。………レンジャーの素質もあるかもね、アルチョム」
「……それでも、人を撃つのは…ミュータントを撃つのと違うよ」
「アルチョムらしいね。でも、撃たなければやられるなんてざらにあるよ。………撃たなきゃならない時だけでもいいから、躊躇っちゃダメ」
「……留め置くよ」
そう言ってアルチョムは精悍な顔つきでシャンブラーを構える。しっかりとグリップを握り締め、左手を銃身に添えて周囲の変化を感じ取ろうとする意志が現れている。
歩き出した二人の背中を見て、違和感を感じる。先ほどまであった“影”が、“業”が見える際の陰影が消えていく。今までこんなことはなかったのに。
何故、どうしてなのだろう? 私は特別これといったことはしなかった。なのに何故?
晴れ晴れとしたような足取りで二人が進む後ろで、私だけが疑問を抱えて重い足を引き摺っている。
ゲーム序盤の相棒、ブルボンさんの死亡シーンです。
ブルボンは死んでこそアルチョムにとって意味がある人物だと思います。
彼との旅と死からアルチョムは一角のレンジャーとしての成長を見せる切欠になっている。ゲームをプレイしているとそんな気がします。
そしてカーンさん(パパ)の登場です。
ゲーム中でのカーンは頼れる変人という具合ですが、当作品では親バカ属性も付与されています。よーしパパ、娘のためにがんばっちゃうぞー的な感じでさらに無双になる、ハズ。
冷徹なまでの暗闇の恐怖と、ちょっとだけ覗く人間味の温かさ。
それがメトロ2033だと思います。
ストーリーが落ち着いたらちょっとした解説も予定しています。
※銃剣付きシャンブラーはリメイク版であるメトロリダックスでは出てきません。