Metro2033 -影を見る者- 作:きゃすたー(7mg)
アルチョムから見たカーンとヴェートの二人です。
追記
UA数:2033を突破したことを嬉しく思います。
今後ともモスクワメトロを、人の闇と影とほんの少しの希望の灯の世界をよろしくお願い致します。
そして素晴らしき原作小説とゲームに賞賛を。
戦闘の爪痕は僕の想像していた以上の、惨たらしく、壮絶なものだった。
駅のホームには銃を持った兵士の死体はもちろんとして、頭を食いちぎられた幼い子供や、腸を赤子ごと引きずり出されて食われている妊婦、四肢を噛み砕かれた老人まで、多くの人がノサリスに食われて息絶えていた。
カーンと共にトンネルを爆破するためにホームを駆け抜けていく。ただその間に垣間見ただけだというのに、これだけの人が死んでいた。ミュータントの犠牲になっていた…。
どうにかトンネルを爆破して防衛陣地に戻ってみれば、シャンブラーを引っ提げた陽気な男は立っていなかった。死体となって横たわり、その胸には彼の相棒であるシャンブラーが手向けられているだけだった。
喉笛を噛み切られたのだろう。抉れるようにぽっかりと開いた傷口からは未だに少しずつ血が流れ出していて、土ぼこりでくすんだ大理石のホームの床に滴り落ちていた。
脊椎にまで到る傷。肉はごっそりと骨ごと噛み砕かれ、気道までもが顕になっている喉。
まだ、真新しい傷口だ。
―また、間に合わなかった。
もう、彼はあの陽気な声で語りかけてはくれない。
―だが、彼がこの駅の最期の犠牲者になった。
彼の被っていたバラクラバは脱がされ、火傷と切り傷だらけの雄雄しい頬にはルージュのくちづけが残っている。彼の健闘を讃えるためか、彼が安らかに闇に溶けていけるように願ったかはわからないが。
俯いて胸から提げた十字架を握る彼女の姿。戦闘服の左腕の部分は丸ごと引き裂かれていて、腕に着けているプロテクターが顕になり、そこには二つの牙の痕がくっきりと残っていた。
うっすらと血が流れていた。赤い、赤い血が、十字架を握る彼女の肘を伝って流れていくのを見て、僕はどうしてか安堵していた。
彼女が血を流して初めて、僕は彼女が“ただの”人間なのだと、納得できたのだろう。
第十話 戦いの果て
「希望の社、と呼ばれる場所だ。ヒトはいつの時代、どんな場所でも、死を悼み死者を弔う生き物だ。ここには彼らの骨も、遺品も無い。だがここには彼らへの祈りが満ちている」
いくつもの送電線やパイプラインが走る縦穴。ホームの壁が崩れた場所から足を踏み入れたそこは天井についた一つの電球と、無数の灯火によって煌々とした輝きを放っている。
この灯りの一つ一つが死者たちだ。そして壊れた配電盤や電線など、いたるところに写真が張られ、灯りが燈されている。
カーンは一つの灯りにライターで火を起こし、そっと新たな灯りを彼らの中に加える。
「ヴァレンティン………生きてまた…ウォッカで乾杯しようって言っただろうが…」
グリーンの戦闘服の袖で涙を拭いながら、オレゴヴィッチ―オレグ―が彼に向かって悲しみで上ずった声を上げる。
マラートもロマノヴィッチも涙は見せていないが、その沈痛な面持ちは彼らの心を代弁している。
「………また一人、勇敢な若者が眠りについた」
カーンが彼のドッグタグを天井に伸びるパイプのバルブに提げる。そこにはいくつものタグが同じように並び、そこに彼も新たに加えられるのだ。
深々とした縦穴に、カーンの祈祷が始まる。一体何時間、いや何分だったのか、もしかしたら一日中祈っていたのかもしれない。そんな錯覚を起こすほどに、祈祷の間はただただ雑念の無い時間が流れている。
チョルヌイ、アレクセイおじさん、ハンター、ボリス、ユージーン…ブルボン…大切なことも何もかも投げ捨てて丸裸になったような清清しさ。空虚感とさえ言える、だが確かに違うとも言えるような心持ちで祈祷に聞き入る。
「カーン、アルチョム、ラスヴェート。貴方達にまず感謝を。本当にありがとう……お陰で駅に残された人たちは生きることができる。俺達では到底守りきれないものを守ってくれた。駅の全住民を代表して礼を述べさせてもらう」
祈祷が終わるなり、コサック帽を被ったロマノヴィッチが駅長のような堂に入った姿勢で敬礼をする。
その姿は正に駅長、だ。僕の義父、アレクセイおじさんが公務などで演説をする際によく見る顔。
「ロマノヴィッチ……私はかつて友と交わした約束を貫いたに過ぎない。彼が為せなかったものを、道半ばにして力尽きた彼に代わって為し遂げた。たったそれだけなのだ」
「それでもだ。カーン、あんたが彼と友人でなかったなら、俺達はきっと今頃ミュータントどもの餌に成り果てて、駅はまさに地獄と化していただろう。……そしてあんたは彼との約定を守ってくれた。だからこそ今の俺達があるんだ。ありがとう、カーン」
「フッ………彼には私から伝えておこう。もう心配はいらない、と」
「よろしく頼みます。そして、ヴェートお嬢さん」
彼に名前を呼ばれたヴェートは手にしていた十字架を離して姿勢を正し、聖堂で祈りを捧げる修道女のような笑みを戦士の顔に変えて彼を見る。
「私も大したことをした覚えが無いよ。私は私の恩人の力になりたかった……それだけ、だよ」
彼女が謙虚に見せているわけではない。事実、彼女はそう思っているのだろう。
誰よりもメトロの民を守りたいと願う少女、ラスヴェート。ハンターのような荒々しさは無いが、力無き人々のために銃を手に取るその姿はまさに本物の戦士の姿だろう。
「私はカーンの娘だけど、養子なんだ。私を大人になるまで引き取って育ててくれたその恩に報いる…そう思って私はここに来たんだ。……あんまり力になれた実感は無いけどね」
「………子供が親の心配をするのは病気と葬式、それと死に際の時だけでいい。お前は私の子供なのだ。甘えて迷惑をかけても苦にはならぬよ」
「……じゃあお言葉に甘えて今度のお土産は博覧会駅産のキノコ茶で」
「自費で払え。もう大人なのだろう?」
「ちぇー、ケチ」
ぷい、と仰々しくふてくされたヴェートに背嚢から取り出した自分の手持ちのキノコ茶を差し出す。いざというときにはこれを売って旅費に当てようと思っていたけれど、彼女が欲しがっているのならあげてしまおう。
彼女への信頼の意味もこめて。
「……いいの? 絶対返さないよ? 一日で飲みつくすかもしれないよ?」
「いいさ、ヴェート。君にはトンネルでもドライ駅でも助けられたからね。そのお礼だよ」
心当たりがない、という風に首を傾げる少女。腰に若干届かない長い黒髪を揺らし、黒真珠のような黒い瞳を細めて、凛々しい顔を思考で歪めている。
彼女にとっては気づきもしない些細な一言だったのかもしれないけれど、それは僕にとって重大な意味を持った言葉だ。
『血は繋がっていないけど、そんなものは私たちには必要ないんだ』
彼女がカーンと義理の親子だと知ったとき、彼女が言った言葉。その言葉はまさに僕のためにあったのかもしれないとさえ思えている。
アレクセイおじさんは僕を育ててくれた義理の父だが、僕は面と向かって“父さん”と呼べたことがない。親しい人で、僕を育ててくれた大切な家族だと思っているのに、だ。
カーンとラスヴェート、二人の間には血ではなく、もっと別の何かで繋がれた絆のようなものがあるのだ。
僕は今まで一歩を踏み出す勇気が無かっただけなのかもしれない。分け隔てなく、よそよそしさも無い彼女のように、普段アレクセイおじさんが僕の部屋のドアを開けてくるように、自然のままに向き合えばいいだけなのかもしれない。
酒場で一杯ウォッカでも飲みながら議論をしたり、射撃場でお互いの銃の腕前を競ってみたり、トンネルの警備計画書に二人揃って向かってみたり。接点なんていくらでもあるじゃないか。
ポリスへ辿り着いて再び博覧会駅に戻ったとき、僕はアレクセイおじさんを…父さんと呼べるようになっているだろうか。
わからない。だけどこの旅は確実に僕の中の何かを変えている。今まで見てきた駅の中だけでは知ることのできない、本だけでは体感することのできない現実の酸いも甘いも知ることで何かが変わっているのだ。
『自分の感覚を信じるんだ、アルチョム』
何故かこの言葉が特に頭に残っている。彼女やカーンが持つ何かに影響されたのか、それともこれは僕が持っていた力だというのだろうか。それもわからないままにトンネルを歩いていた。
目の前で起こる超常現象と、人の身では為しえない光景を前にして、思考が止まりそうになっていた。もう何がなんだかわからなくなり、彼らを信じるべきか、自らを信じるべきかで頭を抱えていた。
いっそ彼らに背を向けて走り去ればいいとさえ思っていたけれど、結局は彼らの言葉を受け入れてこのカース駅まで辿り着いた。
自信の感覚を信じる。直感のことか? それとも予感か、又は自らの選んだ選択肢の正しさか?
答えは―――でないままだ。だけど何か、心にまとわりつくようなもやは消えた。
ポリスに行かなければ、ハンターの意志をミラーという人物に伝えなければ。それをなさなければならないと思った僕は、博覧会駅をキャラバンと共に出て、リガ駅をブルボンと共に抜け出し、ドライ駅であの親子と出会い共にカース駅までやってきた。
この任務の、彼に託された使命の重要性はきっと、僕自身が感じたものだ。
………一時はどうなるかと思ったけれど、僕はまだ生きている。なら、ポリスへ向かう。
ハンターのメッセージを、彼の信頼するミラーという人物に届けるために。
「スパシーバ……アルチョム。気前のいい人は好きだよ、私」
笑みを浮かべ、ヴェートはキノコ茶の入った袋を大事そうに腰のポーチにしまう。たった500グラムしかないが、博覧会駅産となれば軍用弾二十発にはなる上質なものだ。
「いやぁ、やっぱりアルチョムは太っ腹だね! カーンみたいな放浪者とは違うよ、うん!」
「そうか。なら前に約束した銃器店探しの件は無しだ! あそこには私一人で…」
「うげっ……そ、それはちょっと…」
「大丈夫だ! デザートイーグル用のマガジンが見つかったら持って帰ってくるとも! ただしマガジン二つ分で売りつけるがな」
「何それ!? 自分の子供にモノ売りつけて稼ぐなんて!」
「すまない、父さんは放浪者である故に収入が少ないものでな」
………親子だ、うん。確かに親子だ。親子の姿の一つ……なんだよね、これは。
お互いに遠慮なしに言い合ってるけど、まあこれも親子のコミュニケーション……のはず。
「ハハハハ! この親子にかかりゃあ静かな墓地も喜劇の舞台だな。あいつらも向こうで腹を抱えて笑ってるだろうさ」
「プッ……クク…ああ、そうだな………見てるかよヴァレンティン?」
「マラート、オレグ、お前らももう少し静かにしたらどうだ?」
「フッ……まあいいじゃあないかロマノヴィッチ。こうして笑うことができるというのは、人にとっては何より大切なものだ」
笑う。ああ、なんて単純で、だけどどんな励ましの言葉よりも自身を奮い立たせてくれるものなんだ。
ポリスへの道が閉ざされたのではないかとさえ思ったが、ここはツルゲーネフスカヤ駅だ。メトロの一路線の駅でしかない。ポリスへと辿り着く道は、決して一つではないのだ。
まだ、僕は前に進むことができそうだ。
「……そうですね。笑う、というのは再び前を向く勇気が湧いてくるようです」
「そうだろう、アルチョム。止まりさえしなければゆっくりでもいい、前に進むことができる……と、どこかの哲学者だったかが言っていたが、さて誰だったか…」
「とりあえずご飯! ご飯を食べれば皆笑う!」
小柄な身でありながら、戦闘服の上からでもわかる豊満な胸を張ってヴェートが言う。
自信満々に“今自分良いこと言ったぞ!”とでも言いたげな顔だ。
今の彼女を見ているとその有り様はあの狼のような雄雄しさは無く、じゃれつく仔犬のような素直さと愛らしさを感じる。
「よし、串焼きの用意をしよう。駅の今後を決めるにしても、まずは疲れた体を癒すことからだ。すまないがカーン、もう少しだけ手を貸して欲しい。この駅がどう動くべきかを決めるためにも、だ」
「無論だ。私は友との盟約に於いて、そして自身の信念に基づいてここに居るのだ。遠慮は要らんよ」
「感謝する。さ、駅の上階へ行こう。幸い食料庫のエリアは被害がないから、浄水施設も生きたままだ。マラート、オレグ、俺はお客人を案内してくる。お前達は動けるやつと仲間達を弔ってやってくれ。それと、ノサリスのクソッタレどもの死体を片付けておくこと」
「ゲェッ!? た、確かにミュータントはホームにはもう居ないが……お、俺達が片付けるのか!?」
「おいマラート、お前……仲間達をノサリスどもと同じ場所で眠らせたいのか?」
「………任務了解! 行ってくるぞ」
「ああ、気をつけてな」
オレグの一言でマラートの顔つきは戦士の表情に立ち戻っていた。それもそのはずだ。ミュータント……血も涙も無い無慈悲の捕食者と、それに立ち向かって散っていった仲間を同じ場所で眠らせるなんて、彼らに申し訳が立たない。
僕達の駅だってそうだった。そのままにしておいたのでは腐敗してしまうし、それに釣られて新たなミュータントを呼び寄せかねない。だから、確保することのできた遺体は火葬にする。もちろんただ火をつけるのではなく、それ専用の焼却炉が作られている。
だが、そんな設備がある駅はどれほどあるだろう。僕の住んでいた博覧会駅は豚肉やキノコ茶で、辺境の駅ながらそれなりに裕福な生活だったが…。
「すごい……本当に生きてる…」
彼の言葉は正にその通りだ。食料生産を行う施設は今も無傷のままで残っている。
かつてのモスクワメトロの駅が持っていた美術館のような姿は影も形も無いが、この駅の生命線、食料の供給を行う設備は死に絶えていないのだ。
だがそれだけではだめだ。既に駅は半壊している。食料は供給できても、居住区や行政区そしてメトロのトンネルは崩壊し、最早首の皮一枚で繋がっているに等しい。
そしてその狭い区画には、ほんの僅かな、二十人にも満たない人々がこれから先の恐怖に怯えている。
「……マーマ、お父さんは…?」
「大丈夫よ。きっと大丈夫だから…」
愛する父親の帰りを待つ母子が。
「ロマノヴィッチ…む、息子は…!? セルゲイは無事なのか…!?」
「隊長、あいつら……ユーリやヴァレンティンは…」
「後で仔細を伝える。ノサリスどもは追い払ったが、これからを議論しなきゃならない。すまないがもう少し待って欲しい」
大切な仲間や子を気遣う人々が。
「もうダメだ……終わりなんだ…! ダニール…イサーク…キール……みんな、皆死んじまった…! くそっ……ううっ…グスッ……くそっ…」
全てを失ってしまった人が。
頭をそり上げ、レンジャーのグリーンの戦闘服と防弾ベストに身を包んだ男はギターをかき鳴らし、人々を慰めるための鎮魂の響きが駅を一色に染めている。その痛々しく折れた右足を駅のタイルの上に投げ出したまま。
ゆったりとしたテンポで、一つ一つの故人の思い出を振り返るような、彼らの存在を自らに刻み込むように、ギターを弾く音色に混じって嗚咽と涙が流れている。
歩いているだけでもこれだ。駅の通路、その一角でしかないというのに、これだけの悲しみが人々を覆いつくしている。
これが、絶望なのか。
チョルヌイの侵攻を防げなくなったとき、博覧会駅…僕の故郷もここと同じような命運を辿るのだろうか。彼らはノサリスという既知の相手だったが、僕達の駅は更なる脅威に晒されている。
チョルヌイ…ダークワンとも呼ばれることのある新種のミュータント。彼らが博覧会駅を突破したら、それに続いてアレクセーエフスカヤ、リジスカヤ……そして平和通り駅だ。環状線を基点にして、彼らがこのメトロを蹂躙してしまう。
そうなれば、このメトロは破滅あるのみだ。最早未来など無い。一刻の猶予さえない。
だけどこの小さな駅は僕を含めてたった七人しか戦える人が居なかった。それでも力を合わせてこの窮地を乗り切ることができたのだ。
ポリス駅のミラーという人物……彼の持つ影響力がどれほどなのかは知らないけれど、人の力は個々は弱弱しく頼りないかもしれないが、それを結集したときの力は運命という大河の流れさえ押し曲げることができるのかもしれない。
「こんな片隅ですまないが、ここで待っていてくれ。少しは静かだし、マットも敷いてある。ゆっくり休んでくれ」
「スパシーバ、ロマノヴィッチ。マットもーらい!」
「やれやれ……お転婆娘が迷惑をかけてすまないな」
「はははっ、お嬢さんのお陰で俺達は全滅の憂き目を見ずにすんだんだ。マットでも毛布でも、欲しいものがあれば言ってくれ。水が必要ならあの浄水器のを自由に使ってくれて構わない」
一人分のマットに手足を投げ出し、少女はごろんと横になる。破れた左腕とそこから流れた血は痛々しさを見せているが、彼女は到って平気そうに左手にスキットルを持ち、右手であけて口をつける。
「あー、一働きした後はやっぱりこれだよね」
「あぁ…同感だ。やはり煙草はいいものだ…」
「カーン、吸わないんじゃなかったの?」
「子供の娘が真似をしたら大変だからな」
「うっさい、もう吸ったことあるし」
浄水器の傍に置かれた薬缶を一度洗浄し、新たに水を注ぐ。ぶつけたり落としたりしたのか、ボコボコに歪んだ薬缶だが穴は無い。
それを篝火の灯ったコンロの鉄板の上に置き、近くに置かれている木箱に腰掛ける。
「……ねえアルチョム、なんでまだキノコ茶持ってるの」
「うん? まあ道中でお金に困るとアレだからね。それに一応はお茶の商人をしています、というカムフラージュも兼ねて持ってきたんだ」
「…意外に強かだね」
「僕は、どちらかというと臆病なほうだからね。それにキノコ茶はやっぱり博覧会駅産だよ。他の駅のものを父が持ち帰ったときに飲んだこともあるけど、あんな不味いお茶を飲むなんて僕にはできない!」
「……も、もう500グラムほど…」
「これは売り物です」
「うぅー…」
しゅん、と尻尾の垂れた仔犬のような少女。人懐っこいその姿を見て、あの日駅の警備隊長が保護した仔犬を思い出す。随分隊長が可愛がっていたっけか。
「アルチョム、あまり娘に餌付けしすぎないようにな。この子は見た目は仔犬だが中身は狼だ。容赦なく毟り取られるぞ」
「私も毟り取られたクチさ」とカーンは木製の椅子に腰掛けて続ける。
「それはそうと、ここからポリスへ向かうというのは生半可な道ではないぞ」
「ええと…ああ、これだ。ツルゲーネフスカヤの近くにはチスチェイエ・プルドイ駅やスレテンスキー・プリヴァール駅がありますから、ここからトルプナヤ駅に出て、ツヴェノトイ・ブリヴァール駅に乗り換えて、そこからチェーホフスカヤ駅を抜けて行こうと思っています。レッドラインではスパイ容疑がかけられてしまいかねないので…」
「いや、それはだめだ」
カーンははっきりと否と告げる。何故、と僕が問いただそうとするよりも先にカーンの口が開く。
「現在のプーシキンスカヤ、トヴェルスカヤ、チェーホフスカヤ駅はファシスト……第四帝国が支配している。彼らは“
「ち、チョルヌイ……禁止…?」
「そうだ。ノルマン人やフィン人のような北欧系はまだ通行できるからいいものの、それ以外の東洋系や南欧系の人種、アフリカ系民族などはしょっちゅう彼らの“浄化”の対象になっている。君はスラヴ系の特徴が見て取れるから、いきなり撃たれることはないだろうが、すんなり通れるとも限らない」
つまり、僕はいきなり殺されることはないが、他の人間なら即座に撃ち殺されるということだ。
マットの上で気だるそうに寝転がるこの少女など、一目瞭然だ。
黒い髪はスラブ系にも居る。まだいい。瞳は黒。珍しいだけと言えばそれで済む。だが彼女の肌の色は、黄色人種のものだ。
彼女が彼らの前に姿を現したなら、きっと彼女も“黒き者”として容赦ない銃撃の雨に見舞われてしまうのだろう。
……こんな世界になってもまだ、人は人を殺し足りないとでも言うのか!
「どうすれば、ポリスに?」
「スレテンスキー・プリヴァールはこのツルゲーネフスカヤからは距離があるし、レッドラインの奴らが通路を塞いでしまっている。故にリュビリーンスコ=ドミトロフスカヤ線に乗り換えてチカロフスカヤ、クルスナヤ経由で東西線…アルバーツコ線に乗り入れることはできない。
レッドラインはまず不可能、そして第四帝国も難しいだろう。しかしキタイ・ゴーロド駅へ向かうにはリジスカヤ線側のトンネルは危険だ」
「何故です? 一直線で向かえるのでは?」
「確かにそうなのだが」とカーンは続ける。
「この先のトンネルはツルゲーネフスカヤ駅とキタイ・ゴーロド駅を結んでいるが、そこはこの駅が整備をする力を失ったため悪路もいいところだ。照明も何一つ無いし、おまけに時折“トンネルの闇”が現れる。不要な危険を冒す必要はない。一度抜け道でタガンスカヤ線に乗り換えて向かうべきだ。
キタイ・ゴーロド駅を抜けた先にはタガンスカヤ駅がある。ここは人の往来が多い路線だ。照明もいくつか機能しているしな。そしてハンザの環状線駅に繋がってる。そのまま時計周りにパヴェレツカヤ、ドブリニンスカヤ駅へ出てチミリャゼフスカヤ線へと乗り換えてポリャンカ駅、その次がポリスだ」
カーンが手持ちの地図を指し示して教えてくれるものの、これは厄介なルートだ。電車が走っていたころなら数十分で到着できるような距離だというのに、この2033年のモスクワは駅を二つ抜けるだけでも一日かかることさえある。
急がなければならない、というのは理解している。だけど急いて事を仕損じていたのでは本末転倒もいいところだ。
リガ駅、マーケット駅、ドライ駅、そしてカース駅……ほんの一日でここまで走り倒したのは今までに無い。休んでおくほうがいいだろう。
運ばれてきた豚肉の串焼きを頬張る。その隣ではヴェートも、そしてカーンさえ肉に噛り付いている。その上ペースも速い。
肉を食ってキノコ茶を飲み、肉を食ってウォッカを飲む。ひとしきり食べ終えて満腹になったのか、二人とも満足げに息をついてカーンは煙草を、ヴェートはウォッカに口をつける。
「ふぅ…」
「はぁ…」
どうやら二人ともなかなかの健啖家らしい、というのは身に染みてわかる。二十本以上用意された豚肉の串は僕の目の前で焼かれている三本しか残っていないのだから。
ちなみに僕は今二本目を食べ終わったところだ。……あの二人だけでどれだけ食べるのだろう。彼らが博覧会駅に来たときを想像してみると、寒気がする。
空になったウォッカの瓶と吸殻の山、そして豚肉を焼いた鉄串で埋め尽くされるのではないか。
もしかすると彼ら親子は“チョルヌイ”以上に深刻な、駅を―食料的な意味で―破滅に陥れる存在なのではないだろうか。
いや、たった二人で駅を陥落させるなど不可能だ。だが、食料が枯渇するとどうなるか。
「……カーン、ラスヴェート」
もしかすると彼らなら、このトンネルに跋扈する超常の存在を受け入れている彼らなら、チョルヌイ―ダークワン―のことを話せば協力を得られるのではないだろうか。
いや、だめだ。彼らはきっと説明すれば理解してくれる人物なのはわかる。だからこそ、言うわけにはいかない。彼ら親子はこのメトロで生活する一組の親子。たったそれだけだ。
放浪者の親とストーカーを生業とする娘という、奇妙な親子ではあるだろう。けれどそんな二人は血の結びつきよりも確かな信頼で親子として繋がっている。
「タガンスカヤへ抜けるにはどうすれば?」
「希望の社があっただろう? あの下には狭いものだが通路が通っている。あそこからタガンスカヤ線の路線内に行くことができる」
「わかりました。先を急ぐので、僕は…」
「待ちなさいアルチョム。時計を、見てみるんだ」
「あ……23時…」
「そういうことだ。今向かったところでキタイ・ゴーロド駅もクズネツキー・モスト駅も夜間のため閉鎖されている」
しまった。時間の感覚さえはっきりとしていないなんて。
音も無く回る秒針だけが、この暗闇の世界でも時が流れているのだという実感を生み出している。たった一日の出来事のはずなのに、どうしてこうも一日を長く感じるのだろう。
「ああ、違うよそれ。夜でもキタイ・ゴーロド“には”入れる」
「には?」
「あいつらは基本的に軍用弾さえ払えばどうとでもなる。まあ入れるからといって安全かどうかは別だよ。あの駅の夜の顔は、まったく別物だからね。身包み剥がされて死にたくなけりゃあ、朝を待つほうが無難なんじゃないかな」
要するに、キタイ・ゴーロド駅っていうのはとんでもないとこらしい。
下手をすれば駅内で殺されてしまうかもしれないほどに。
「ヴェート、アルチョム、二人ともゆっくり休むといい。私はこれからロマノヴィッチと今後の方針について協議してこなければならない」
「…了解、急がずゆっくり寝てるよ」
カーンは疲れも眠気も見せない様子ですっと立ち上がる。自らの背負っていた背嚢とAK74を手に、ふらつくこともなくしっかりとした足取りで向かっていく。
小さなランプの明かりで照らされた一角にはヴェートが寝転がる一枚のマット―少し大きめのサイズだが―とセットらしい毛布がある。
食料庫の一角、おそらく駅員の詰め所だっただろう一室が片隅にあるだけで、その先はただの壁で行き止まりになっている。
たったこれだけのスペースが、この食料庫のエリアだけが、カース駅に残された人々の領土なのか。
「さてと、じゃあさアルチョム」
マットの上で寝転んでいた彼女は起き上がり、僕を指差す。
「服、脱いで」
「あぁ……えっ!?」
「…いや、何もしないって。その服、よく見てみなよ」
ランプの明かりで照らし出された自分の手足を見ると、全身に血しぶきの飛び散った痕が残っている。既に黒ずんできてはいるが、戦闘中に浴びた量はなかなかのものだったらしい。
「あぁ…確かにすごいやこれは…」
「だから脱いでよ。洗濯しなきゃあ駅の警備員がゾッとしちゃうよ?」
「確かに。それにヴェートのも…」
彼女のカーキの戦闘服は脱ぎ去られた防弾ベストにべったりと血糊が付き、そこで途切れるように彼女のズボンにまで垂れている。
「そういえば、その左腕は?」
「ああノサリスめ、二度も左腕だけ噛みやがるんだもの。お陰で弱っていたところからビリビリだよもうっ」
ゆっくりとプロテクターで保護された左腕を挙げてみせると、左腕の布地は肩より少し先から丸ごと引き裂かれて、跡形もなくなっている。
「ほらほら脱いで。代わりの服くらいはあるでしょ?」
「まあ、一応は」
「じゃあ濡らしたタオルでいいから全身拭いて着替えてて。私は洗濯してくるから」
急かされるように服を脱ぎ、血染めの防弾ベストとシャツ、そしてズボンを手渡す。
だが、彼女は動こうともしない。
「……下着もなのかい?」
「当然だよ」
有無を言わせぬ威圧感に屈した僕の
さっさと新しい下着に履き替えて木箱の上に置くと、彼女はこちらの了承も待たずにそれを掴み取って、着替えでも入っているのか、背嚢とは別の小さな袋を手に食料庫の奥へと去っていく。
手際よく体を水に濡らしたタオルで拭いていく。顔から足先まで、丁寧に、しかしすばやく。
彼女が戻ってくる前に終わらせ、着慣れた下着と青いシャツに袖を通し、皺の寄った土色の分厚いズボンを履いてベルトを通す。
一本煙草を取り出し、ライター―機銃弾を改造したお手製の―で火をつける。
一息紫煙を吐き出すと、カーンが使っていた灰皿に載せる。ゆらゆらと登る一筋の煙。不確かなゆらめきは、まるで人の命のようにメトロの天井に向かって霧散していく。
いろんなことがあった。身近な人の死や、今までには無い経験ばかりだった。
人を撃ったことも、初めてだった。この行いは“罪”だと知っているのに、忌避しているはずなのに、自らの役目のために他者を犠牲にして僕は進んできた。
野盗は確かに他者から奪うことでしか生きることができない。そうしなければ生きることができなくなった人たちの集まりでもある。食い詰めた人、追放された人、駅を失って行くあてのない人など、様々だっただろう。
彼等は元はメトロの駅の民の、その一人だった。そして今このカース駅の人々も同じような運命が待ち受けているのかもしれない。命を奪われる側から、命を奪って生き延びる側になってしまうのかもしれない。
どうすればいいのか。僕にできることは、銃を手にミュータントと戦うことだけなのか?
アレクセイおじさん、義父は駅の重役として他の駅との交渉などにも携わってきた。義父のような交渉はできなくても、何か彼らにできることがあるのではないだろうか。
しゅる、と布擦れの音ではっと目を開く。煙草は灰が灰皿に落ち、火は既に消えていた。
「………起きてたの?」
目の前には一糸纏わぬ裸体を晒した少女が立っていた。じと、と僕を見る目には僅かに怒りが見て取れる。手にしたタオルで体を拭き終わったところだったのだろう。
白い替えのパンツを手にしただけの歳若い少女。腰ほどの長い黒髪は闇に溶けることなくゆらめき、瞳はメトロの仄暗さの中でも光を帯びている。
東洋人の背格好に対してやや大きめの乳房。重力などものともせず、その存在は彼女が胸を張らずとも見て取れる。腰はすらりとくびれを帯び、尻は小ぶりながらみずみずしさを感じさせる。
足は細くもなく、しかし頼りなさを感じることはない。猫や狼といった身軽な動物のように細いが、しっかりと引き締まっている。
その二つの足の間にあるのは毛の生えていない股座。甘く誘うような香りを感じる。いや、実際にそんなニオイはしていないだろう。だけど彼女を見ていると、引き寄せられるような何かがあるのはわかる。
誘蛾灯を思い出す。光を目指して集まる蛾のように、これは男を引き寄せているものだ。
凛とした彼女の表情は羞恥で赤く染まり、今までのどの表情よりも雌の色香を醸し出している。
「……アルチョム? じっと見ないでよ…」
息が一気に荒くなったのが自分でもわかる。心の中で何かの欲望が弾けるように、鎌首をもたげて表れようとしている。
彼女を抱きたい、という欲望を、ならない、と推し留める理性の対立が激しくなっていく。
ヴェート、ラスヴェート=ロマノフスキー。彼女の魅力的な肢体を存分に味わいたいと願う僕と、倫理観とが正面から殴り合いを始めている。
「……明日は忙しい。早く寝ようか」
どうにか、勝った。人類の目覚めたもの、理性と知性は性欲という本能に勝利できたのだ!
「そうだね。明日はアルチョムにとっても、私にとっても重要な日になるしね」
下着を履いてさっさと寝巻きに着替えるヴェート。薄いピンクのパジャマなんて一体どこから仕入れてきたのだろうか。まさか荒廃した地上を漁って手に入れたのか。
「おいでよ、アルチョム」
「いや、僕はここでいいよ」
「ポリスに行くんならしっかり寝ないとだめだよ。ただでさえ今日は疲れてるんだから」
「いいんだ、ヴェートが使いなよ」
むう、と不機嫌さに顔を歪めたかと思えば彼女が僕の手を引く。
まるでハンターに手を掴まれたときのように、抵抗さえできないままにマットの上に組み敷かれる。
転がされた僕の右隣に彼女が入り込むと、一枚の毛布を引っ張って僕達二人の上に乱雑にかぶせる。
温かい。人の温もりが、すぐ傍にある。このしばらく感じることのなかった、人肌の優しさが染み渡るウォッカのように僕を温めていく。
モスクワの死の大地を抜け、背筋の凍えるようなトンネルを歩き、身近に迫る死の恐怖に晒された僕の体。その中で張っていた緊張が、ぷつりと途切れるような気がした。
「ふふっ、これで寒くないでしょ」
無邪気に笑う彼女はそっと足を絡めて僕を抱き枕のように抱きしめてくる。だめだよヴェート、それじゃ誘っているのと同じじゃないか!
息を呑む。押し当てられる乳房の感触と柔らかい肌触り。彼女の香りに包まれている自分。小さな体でミュータントと戦い続ける少女の存在が、先ほど駆逐したはずの欲望をよみがえらせていく。
ああ、神様! どうか僕が朝まで過ちを犯さずに居られますように!
ある兵士の名言:「犬…犬は嫌いだ」
私は仔犬なら好きです。大型犬? じゃれついてくるのは嬉しいですがデカイのできついです。老骨にはこたえるのです。
ヴェートちゃんは仔猫系なのか、それとも仔犬系なのか。
雪原に佇むサイベリアン(猫)の写真がどうしようもなく可愛いです。