Metro2033 -影を見る者- 作:きゃすたー(7mg)
日増しに寒さが増しているので、皆さんも夜はウォッカであったまりましょう。
ああ、久々にウォッカ専門バーに行きたいなあ。
追記:路線名間違ってたので修正
キタイ・ゴーロド駅。かつて駅の中で勃発した派閥の対立は、今となっては静かなものだと商人やコムソモーリスカヤの遠征部隊からも聴いている。
ただ、それはあくまで表向きの話であるのは間違いないだろう。あの駅に根付いている問題は非常に根深く、戦前の話にまで遡らなければならない。
戦前に勃発した第一次・第二次チェチェン紛争。いや、もっと以前のソヴィエトの、さらに以前の時代にまで到るのかもしれない。黒海とカスピ海の間に位置する北コーカサスをめぐるロシアの歴史はかいつまんだ程度しか知らないが、北コーカサス系の人々とロシアの主要な人種であるスラヴ系の人々の間には深い溝どころか底なしのような谷が横たわっているのだ。
このモスクワメトロの6号線―リジスカヤ線―と7号線―タガンスカヤ線―の交わる駅、キタイ・ゴーロド駅には戦争以前の禍根が今尚息づいている。チェチェン人やコーカサス系の人々が住むタガンスカヤ線側のホームと、スラヴ系の人々が住まうリジスカヤ線のホームに分かれて、かつてのチェチェン紛争の続きが未だにここで行われているのだ。
おまけに人種間対立に加えてならず者も集まっているものだから、危険度で言えばマフィアの支配するヴェニス以上とも言える。何せ相手はいくら軍用弾を払っても許してはくれないのだから。
そんな治安の悪い駅に溢れるものといえば、ゴロツキ、薬物、そして女だ。私はそこで春を売る少女であったし、後に死を振りまく毒婦として生きもした。
一歩近づく度に足取りが重くなる。闇が足かせになっている。私の心が、記憶が、進むべきではないと叫んで足を鈍らせる。
それでも進まなければいけない。乗り越えていかなければいけない。そう、決めたのだから。
第十三話 己が闇
カッ、とライトが向けられる。前を見ることさえ難しい、眩しい光が浴びせられる。
「おい! そこで止まれ! 両手を挙げてゆっくり前に進め!」
アルチョムも私もさっさと銃を腰に提げて両手を挙げて敵意が無いことを示す。ライトが落とされると、彼らの言葉に従って少しずつ歩哨が立つ木組みの監視所へと近づいていく。
「パスポートを出せ」
戦闘服の胸のポケットから一冊の手帳を出し、AKを構えた歩哨に手渡して一歩後ずさる。
またか、というような表情でアルチョムも同様に手渡した後、歩哨の突きつけるAKに急かされて共に“審査室”に通される。
薄い木の板で仕切られただけの簡素な審査室。そこの椅子に腰掛けている小太りの男は私達のパスポートを開き、顔をじっと見てくる。
「お前、女か」
「ああ、女だ」
「東洋人か?」
「むしろそれ以外にどの人種が当てはまるのさ」
「……
「三発だろう? もちろんあるよ」
腰のポーチに提げた袋からバラした軍用弾を三つ、彼の前のブリキの四角い空き缶に入れる。
チッ、と舌打ちした男はアルチョムにも同様に尋ねる。
「
「何故増えてる…!?」
「十発だと言ったはずだ。スラヴのクソ野朗どもは常に通行料十発だ」
アルチョムには理不尽だと憤る様子が表情に表れている。
まあそういう反応が妥当か。いきなり銃をつきつけて値切ったりし始めないだけまだマシだ。ここで問題を起こせば中に入る前に終わってしまう。あのままでは軍用弾十発を値切った対価は己の命になってしまう。そんな不等価のレートで支払うのは御免こうむる。
「私が払うよ。彼はお茶の商人だから、この先何かと入用なんでね」
クリップでとめられた五発の軍用弾を二つ、空き缶にコロンと入れる。金を持ってると思われかねないが、どうせ通り抜けるだけだ。必要なものだけを6号線のホームで買ったら、あとはさっさと7号線の出口へ向かえば良い。
男はさっさとパスポートを私達に返すと、歩哨に預けてまた審査室の椅子に腰掛ける。
「こっちへどうぞお嬢さん。あと、変な真似をするなよイワン」
あからさまなこの扱いの違い。同じ有色人種故の連帯感から来るものなのかは私には知る由もないが、アルチョム、というよりも白人系に対する敵愾心は見て取れる。
大人しくしている分には殺されることはないだろう。ある程度落ち着いているという情報はデマではなかったようだし、見る目は鋭いものの今のところ手出ししてくる様子もない。
コンクリートのスロープを登って駅のホームへと入る。ハンドカーやトロッコの荷降ろし用の人力クレーンを避けて、7号線のホームへと踏み入れると芳しい、懐かしい香りが鼻をくすぐる。
一件のレストラン。そこらへんにあるような雑多な食堂とは違い、木材を丁寧に加工して組み上げた、一件の家とも言える建物が堂々と構えている。
硝子窓から中の様子をちらりと眺める。歳月を経た今も相変わらず繁盛しているらしい。
真っ白な壁紙と赤い絨毯を照らすお洒落なランプ。アンティークの小さなサイドボードが壁際に置かれ、そこでは蓄音機の上でレコードが回っている。丸いテーブルに敷かれたテーブルクロス。その上には白磁の食器に盛られたロシア料理が並び、ナイフとフォークを使って豪勢なコース料理を味わう客の姿がいくつか見られる。
ああ、無性にキノコと豚肉とビタミン剤以外の食事をしたくなる。肉料理なんて贅沢は言わない。せめて焼き魚と味噌汁、あとは水茄子の漬物―特に祖母が漬けてくれたもの―とか、新鮮な鶏卵を薄口の醤油と溶いて、炊きたての白米の上にぶちまけて食べつくしたい。
キタイ・ゴーロド駅の地上、マロセイカ通りはかつて商店街が立ち並んでいたと聞く。きっと腕の良い料理人も、この商店街のレストランなどから流れてきたのだろう。
この駅は南北に伸びる巨大な駅で、地上にはスタラヤ広場という広場が左右の道路に挟まれるように南北に伸びている。その地下にこのキタイ・ゴーロド駅が存在する。
地上からの入り口はいくつもあるが、その地上口は強固なエアロックと警備員―しかも火炎放射機付き―に守られていて、レッドラインも第四帝国も手出しがしづらい。とはいえ少数の人員なら
それでもこのキタイ・ゴーロドは独立駅として、ハンザにもレッドラインにも、第四帝国にも屈さずに生き延びている。
そしてそれは、ハンザのストーカー“17番”の名も、スパルタンオーダーの証明も頼りにすることができないということでもある。
「とりあえず、ご飯にしようか」
「………ほ、本当に入るのかい?」
「当たり前だよ。せっかくの旅なんだから、もっと良いものを食べられるなら食べておかないと損だよ。男の子なら初めて訪れる場所っていうのはいろいろ興味があるでしょ?」
「それはそうなんだけど…」
「じゃあご飯にしよっ。たまには地上で食べたころのような食事もしなきゃあね」
店の前に掛けられた黒板には今日のオススメ料理が書かれている。このメトロで作れる食材というものは非常に限られたものしかない。故にそのオススメ料理は私がここで暮らしていたときと何一つ変わっていない。
カラン、とドアベルが来訪者を告げる。すぐさま執事服を身に纏った青年が現れると、私たちが戦闘服姿にも関わらず嫌がる素振りもなく、むしろ積極的に奥のテーブルへと案内する。
当然だろう。戦士というものはいつの世でもそれなりに高給取りだ。何せ命を賭けて民の危機と真っ先に相対するのがメトロの戦士、兵士の役目なのだから。
兵士には戦場に向かう時が来る。自らの献身が大切な家族と同胞を、仲間を救うのだと信じて銃を手に戦場を駆ける。自らの命を
もし私達が彼らの行いの意義を忘れてしまったら、彼らの戦いは、散っていった命は、無為だ。地上を取り戻すために、人類の存続のために戦った彼らの尊厳を貶めるだけだ。
常人には為せない尊い貢献。
ストーカーは荒廃した地上へ登り、旧世界の遺産と資源をメトロへと持ち帰る。それは常に死と隣り合わせだが、彼らが居なければメトロは立ち行かないのだ。
レンジャーはメトロの駅を襲う野盗やミュータントを駆逐し、人類の砦に住まう人々を守る。自らの意思で戦う者も居れば、役割だと割り切った者もいるだろう。だが、彼らが戦って駅を守っているという事実は何も変わらない。
オーダーはメトロそのものを守る。メトロの存続の脅威となるミュータント調査し、時に排除し、メトロに住まう人類を守護する存在だ。時に地上へ登り、ストーカーと共に失われた技術や旧時代の遺産を取り戻したり、その在り方はまさに人類の存続のために戦う者達だ。
いずれも、常に死と隣り合わせの危険な任務を帯びた者たちだ。故にそのリターンというものはそれなりに大きいものになる。自らの命の対価が
執事が引いた木製の椅子にアルチョムと対面するように腰掛ける。背もたれには彫刻が施され、しっかりとニスが塗られた椅子。果たしてこれだけで何十発分になるだろうか。
青年執事の後を継ぐように現れたウェイターにビール二杯をまず注文する。メニューは、まあ以前に利用したときとそう変わらない。
「アルチョムは何にする?」
「豚肉のコトレータと…あとはチェブレキとサラート・オリヴィエを」
「フォルシュマークとピロシキ、それとバーバ。ああ、
「なんでまた
「見ての……いや、食べてからのお楽しみ、さ」
ビールを注いで戻ってきたウェイターに御代の
「ヴェート、僕が払うよ」
「いいよ。私が誘ったんだから」
「……ならせめて半分は持たせてほしい。ドライ駅で助けられたお礼も兼ねてね」
「必要だったからしたまでだよ。言ったでしょう?」
「じゃあトンネルで助けられた分、ということでどうかな」
「…そっちも大して助けた覚えが…」
「いいや、助けられたんだよ。きみに、間違いなく助けられたんだ」
ウェイターが持っていたマガジンを二つ取り上げて私の目の前に滑らせると、自身のものを代わりに手渡し、困惑したウェイターをそのままさっさと身振りで下がらせる。
「…意外に強引だよね、アルチョムって」
「世話になってばかりは申し訳ないという、男のちょっとした意地と見栄だと思って忘れてほしいのだけどね」
くすり、と彼が微笑む。……きっとあのときアルチョムが言ったソフィアという女性も彼のこういうところに惚れたのかもしれない。
「はいはい。そういうことにしておくよ」
テーブルに次々と運ばれてきた料理を残さず平らげた後には、至福の料理に恍惚としたような表情で煙草を吸うアルチョムの姿がある。
中でも
久々に味わう旧時代の食事だ。懐かしい味に昔を思い出す。きっとここの常連客というものはそういう感傷に浸ることができるからこの店に足を運ぶのだろう。
カラシニコフ2013をビニールの薄いシートで包むと、背嚢の中へと押し込む。生憎とこの銃は稀少さと高価さゆえに、この治安の悪い駅では目立ちすぎる。シャンブラー程度がこの駅の風景にはピッタリだろう。
改めて駅のホームへと足を踏み入れると、他の駅とそう変わらない光景が広がっている。真っ白なアーチ状の天井は煤などで汚れているが、シャンデリアがまだ生きている上に水銀灯の輝きが駅のホームを明るく染めている。
停車したままの列車を改造した商店、宿、そして活気に溢れる住人。マーケット駅とはまた違う喧騒が駅の中に渦巻いている。
そしてそれは、タガンスカヤ駅へ向かうトンネルのエアロックから聞こえている。
「………嫌な、予感がするなあ」
ぎゃあぎゃあと騒ぎ立てる自由商人や旅人たちがエアロックに詰め掛けているのだ。どうせ何かしらよからぬ事が起こったに違いない。
覆面をした、呆れたようにAKを構える駅の歩哨の男に尋ねる。
「そこの警備員さん、この先で何があったんだい? タガンスカヤへ急がなければいけないんだけど」
「んん? お前さんたち、クズネツキー・モストから来たのか?」
「ああ。それで一体何だいこの騒ぎは?」
「実はこの先のトンネルで野盗が出たんだ」
ああ、なら排除して進めば良い。どの道ハンザへ出るのだから途中のトンネルを掃除するのも悪くは無い。
「そう。じゃあ開けてくれないかな? 野盗なら撃ち殺して進めばいいだけだし」
「バカを言うな! 野盗といっても疫病に冒された野盗だよ。このモスクワメトロの地下で、疫病だぞ?」
「……そいつは不味いね」
モスクワメトロは閉鎖された地下空間だ。こんな場所で疫病が発生しようものなら、メトロ全域を飲み込むのは時間の問題だ。しかし疫病に対する薬やワクチンを製造する技術を持っているのは片手で数えられる駅だけ。つまり、この先のトンネルが通行止めなのは、そういうことなのだ。
「だろう? だからタガンスカヤへの道は完全に閉鎖されている。野盗どもが駅へ近づけないように機銃陣地も設置し、火炎放射機も備えてある。俺達にできるのはこの疫病が治まるのを待つことだけだ。潜伏期間は一週間ほどらしいから、そうだな、二週間もすれば通れるようになるさ」
「なんてことだ…! これじゃあポリスに向かえないじゃないか…!」
「イワンめ…口を閉じろ。俺はお前らを恨んじゃいないがな、それでもお前らのお仲間が俺達の同胞を傷つけたことは忘れちゃいないんだ」
覆面姿の歩哨は口を開いたアルチョムにすっとAKのマズルを向ける。腰溜めのままで狙いもつけてはいないが、その意思と口調は敵意で満ちている。
「行こうアルチョム、道は一つじゃあない。まだアテはあるさ」
彼の表情は冴えない。そりゃあ出だしからこんな躓き方をしたのでは、幸先が不安なのも当然のことだろう。
人気のまばらな、駅のホームの片隅に腰を下ろして腰に提げたメトロの路線図を取り出す。
「さて、道は三つある」
「……どういうルートなんだい?」
「一つはリジスカヤ線へと出て、ヴェニス―ノヴォクズネツカヤ・トレチャコフスカヤ駅―を経由して環状線オクチャブリスカヤ駅に出て、ドブリニンスカヤ駅からポリャンカ駅を経由していくルートだね」
「二つ目は?」
「キタイ・ゴーロドからこのまま戻ってクズネツキー・モスト駅を超えてプーシキンスカヤ駅、チェーホフスカヤ駅を経由してポリスへと向かうルート」
「………第四帝国を、通るのかい?」
「君は通れるかもね。でも私はきっと、そこで終わりだ」
もちろんそのルートを進めば、私はきっとこのまま彼と永遠の別れを迎えることだろう。どうやって殺されるのだろうか。頭を一発、ならまだいい。
首吊りか、電気椅子か、それとも体を拘束されてネズミに少しずつ齧らせてじわじわと嬲り殺しにされるのだろうか。いや、案外生きているかもしれない。
その場合は、この胎に望まぬ子を仕込まれて身一つでトンネルに放り出されるのだろうけど。
「ヴェート、三つ目は?」
「………地上を、通る」
「正気、なのかい?」
「到って正気だよ。これを見れば理由はわかると思う」
メトロの地図の下から取り出したのは一枚の航空写真。それも、モスクワの市街が映された鮮明な地図だ。
「旧時代の地図…?」
「そうだよ、ここがキタイ・ゴーロド駅。このスタラヤ広場の北端、イリンカ通りに接する場所から地上に上がり、イリンカ通りをそのまま西へ向かうと赤の広場だ。そのまま大統領官邸を超えた先にはボロヴィツカヤ駅、ポリスの四駅のうち一つへの入り口がある」
「赤の広場を入れてもそう遠くにあるわけじゃない…進めるのかい?」
「もちろんだよ。ただし、キタイ・ゴーロドから直線で結んでおよそ2キロ圏内だけど、その2キロは果てしなく遠い2キロだ。クレムリンの赤いルビーはもちろん、あの辺りは頑丈な建物が多いからそれがそのままミュータントの巣になってたりする。分の悪い賭けだけど…通れないわけじゃあない」
アルチョムは息を呑んで私を見る。彼が疑うのは当然だろう。クレムリンだけでも危険だというのに、それを乗り越えた先にある駅へと向かうと言うのだから。
私だけならば、逃げに徹すれば通り抜けられるだろう。図書館への潜入も何度かこなしているし、クレムリンの前の武器庫への侵入もこなして生還したのだ。
しかしアルチョムは未だに未熟な、そして半人前のレンジャーだ。筋はいいが心構えや経験、土地勘も無いままに地上に出てしまっては、ただのミュータントへのごちそうだ。その上クレムリンに向かうまでに、テアトラリナヤ駅、革命広場駅、オホトヌィ・リャド駅というレッドラインに近い駅の地上を通らなければいけない。奴らのストーカー部隊に見つかれば面倒だ。
「地上は、今の僕には危険すぎる。しかしカーンは何故ヴェニスを経由したルートではなく、タガンスカヤを経由するルートを教えたんだろう?」
「簡単だよ。ヴェニスはキタイ・ゴーロドと同じく治安が悪い。それにヴェニスは“地底のヴェニス”と言われるほどに浸水被害が大きい場所なんだ。水に溢れるその様からヴェネツィアに例えられたってわけさ。そしてその先のトンネルも……同様に水浸し。進もうにも舟を借りなきゃいけないし、ミュータントだって出る。だからオススメできないってわけ」
「なるほど…リジスカヤ線も、ザモスクヴォレツカヤ線も?」
「ザモスクヴォレツカヤ線……2号線トンネルは通れないわけじゃあないんだけど、ミュータントが巣食ってて到底通り抜けられる道じゃないってカーンが言ってたっけ。どちらにしても危険は最大級ってことだよ。8号線のカリニンスカヤ線でタガンスカヤ駅と繋がるマルクシスツカヤ駅も疫病騒ぎで閉鎖しているだろうし、そちらに出ることもできない」
「……抜け道は無いんだろうか」
無いわけじゃあない。だけどそのためには死の淵へと足を踏み入れなければならない。
もちろん、私もアルチョムも、双方共倒れになりかねない危険な賭けだ。
「方法が無いわけじゃあ、ない」
「その方法は?」
「………本当に聞く?」
アルチョムは息を呑み、意を決したのかゆっくりと頷く。
よほどポリスへと急がなければならないのだろう。その眼差しと表情には苦悩が表れ、しかし心の底でくすぶる使命感が彼を突き動かしているのかもしれない。
「ザモスクヴォレツカヤ線の駅、第四帝国のトヴェルスカヤ駅から南へ下る路線を進んでレッドラインの三駅、そしてモスクワ川までの区間のどこかに分岐点がある、らしいんだ」
「らしい? それに……分岐点? 一体どの路線への?」
「それがわからないんだよ。噂ではその分岐点の終着地点には車両基地があって、そこから付近を走る六つの路線へ乗り入れる秘密の路線が存在しているんだとか。荒唐無稽な話ではあるけれど、このモスクワメトロはその始まりは昭……じゃない西暦1935年のソコリニキ線、そして38年のザモスクヴォレツカヤ線から始まり、2013年まで延伸が行われていたんだ。
およそ70年以上もの歳月をかけて建設された12本の地下鉄路線。その地下は最早迷宮っていうよりも古代遺跡のようなものだよ。どこにどんなトンネルがあって、どこに通じているのかも定かじゃない道はいくらでもある。地図は多くの知識を与えてくれるけれど、それは全能というわけではないよ。
地下鉄建設の際に急遽掘られた横穴や、他の路線から列車を引き込むための隠された路線、緊急時に列車を退避させるための退避路線。考えればいくらでも図面に無いだろう道が可能性として浮かんでくるし、その分だけメトロには謎の線路や横穴が山のように存在している」
そう、ただ駅と駅を移動するだけなら待てば良いだけの話だ。だがこちらは生憎急ぎの用事だ。一刻も早くポリス駅へ向かうことがアルチョムの役目であり、それを手助けして共に進むのが私の役目だ。
そしてこれは自ら買って出た役目。なのにストーカーの知識とオーダーの技術を、可能な限り絞り尽くして出せる案がこんな噂話を信じて進むしかないという結果なのが少しばかり哀しい。
「………さあ、どうする?」
「……少し考えさせてほしい。僕の命だけじゃない。君の、ヴェートの命も懸かってるんだ。よく考えてから答えたい」
「構わないよ。ただし時間は有限だからね。長くても一晩だ」
「…わかった」
「じゃあ私はリジスカヤ線側に行ってくるから、そこの電車で宿を取っておいて」
アルチョムを残し、一人リジスカヤ線側へと歩を進める。一晩で彼の決心がつくといいのだけど。
きっと彼は初めてなのだろう。自身の判断が仲間の命を左右するという責任感。自身のミスが仲間を危険に晒すという不安感。そして、自身の命運さえも左右する選択について、じっくりと考えるということ自体が。
私だってそうだった。この駅で、かけがえの無いものを喪って、しかし手に入れた確かなものが存在している。
ホームを隔てる検問所で最初に立ち入ったような“審査室”に誘われるよりも先に
彼らにとっては
リジスカヤ線側のホームはタガンスカヤ線側とそう変わらない光景が広がっている。
明るい水銀灯の光とシャンデリア。煤けた彫刻の目立つアーチ。ざわざわと騒がしい商店。飲んだくれが集まる酒場には下着姿同然の、けばけばしい化粧をした若い女が男に声をかけている。
隣の一両の列車から甘い声が漏れ聞こえ、昼間から公然と性行為が行われている。数年ぶりとはいえ、キタイ・ゴーロド駅らしいといえばらしい光景だ。
娼館街を抜けてトンネルに程近い人通りの無いホームの端、そこの車両の一つの前で立ち止まる。娼婦たちが住まう列車の最後尾の一両の側面には綺麗に等間隔で並んだ弾痕が斜めに走っている。もちろん内側から木の板が打たれて中は見えないが。
かつての、我が家。苦渋と辛酸を舐めさせられた日々。正直で穢れを知らぬ少女たちが囚われた鳥籠。細々とした、しかし大切な仲間が、家族が住んでいた列車。
「お姉ちゃん、だあれ?」
振り向けば、そこには一人の少女がテディベアの人形を手に私を見ていた。
白い肌。くりっとした青い瞳。まだそう長くは無い金色の美しい髪を自然のままに流した幼い少女。疑うことを知らない穢れ無き子供が、私を見上げてきょとんとした顔をしている。
「ああ、ゴメンね。お姉ちゃんはちょっと、知り合いの人を探しているんだ」
「そうなの?」
「でも、もう居ないみたいだから……私は行くよ」
私のお腹ほどの背丈しかない少女の前でしゃがみこみ、目を覗き込む。青い、青い瞳。少し痩せたような頬をしてはいるものの、今のメトロの子供は大抵がそうだ。栄養バランスの取れた食事などできないこのメトロでは、よくいる子供だ。だが、将来は美人になるだろう。
「元気でいるんだよ。小さな
ごり、と後頭部に当たる冷たい感触。丸みを帯びた形状の、人差し指の先ほどの大きさのものが私に死を告げにやってきたらしい。
「ナターシャ、中に入っていなさい」
びく、と身を振るわせて少女は逃げるように車両のドアの隙間から中へと駆け込んでいく。
背中越しの冷たい、抑揚の無い声の主に怯えたのだろう。こうなってはもはや両手を挙げて降参するしかない。
「動かないで。こっちはいつでも貴女を撃てるのよ」
「………怪しい者では…ああ…この格好じゃ疑われても仕方がないですね、マイヤ姉さん」
ぐり、と更に銃口が食い込むように押し付けられる。後頭部で一本のポニーテールにまとめているリボンに指をかけて引くと、するりと解けた黒髪が銃を覆い隠す。
「イリーナ、リーリヤ、エレオノーラ」
「貴女、何者なの? 答えなければ…」
「私は、
女が、ぎりり、と銃握を強く握る。彼女が力を込めるあまりに震えは止まらず、しかしそれは銃そのものが私を殺したいと飼い主たる女の手を振りほどこうとしているようにさえ思える。
「………いいわ。中へどうぞ」
「ありがとう、ございます」
髪を束ねていた青いリボンを手に立ち上がる。後頭部に押し当てられていた銃が退けられると同時に、振り向く。その先にはまだ、銃口が私に向けられている。
ごつん、と眉間に押し当てられる銃口。リボルバーを手に上品な黒い修道服に身を包んだ、皺の目立つようになった壮年の女性。しかしその凛々しさは老いを感じさせず、エメラルドグリーンの瞳には確かな力強さを感じる。
「七番……いいえ、貴女を今すぐ殺したいわけじゃない。だけど返答次第では生きて帰れると思わないことよ」
「承知しています」
「……フンッ」
数秒の視線の交錯の後、リボルバーがようやく眼前から退けられる。僅かにトリガーを引くように見せる指先の動きに、心拍は今までにないほどに高鳴っているらしい。背中を冷や汗が伝う。気を抜けば奥歯をガチガチと鳴らして失禁してしまうのではないかというほどの、煮凝りのように凝縮された濃密な殺意を目の前で叩きつけられたのだ。
列車の中は板で仕切られ、何も変わった様子などない。いくつかの衣装ケースと化粧箱、そして着替えが詰まった棚が置かれ、二人分の毛布が車両の席に畳んで置かれているだけだ。
ぎし、と軋む椅子。まるで私の心の軋みのようにさえ感じる。
薬缶にかけた水がお湯に変わると、彼女がようやくその重い口を開く。
「彼女たちのことは、あなたがよく知っているでしょう?」
「あの後に、彼女たちは……どうなったんですか?」
「それを聞いて何になるの? 貴女は共に生きようと誓い合った姉妹を逃亡の最中で見捨てた。あなたが、一番に姉妹を愛していたはずのあなたが…――あの子たちを裏切るだなんて!」
「………それ、は…三人が、言ったのですか?」
「ええそうよ! 自分達は貴女に唆されて逃亡に加担したと言っていたわ! それこそ死の間際までずっとそう言っていたわよ! 今度顔を合わせたら必ずその脳天に44口径弾を撃ち込んでやると、ずっと笑顔を浮かべて貴女を憎み続けて、そして死んでいった!」
死んだ?
「教えてあげましょうか? あの子たちがどれだけ貴女を恨んだのか、憎んでいたのか!」
私達の母親の代わりでもあった人が、慟哭と共に私の頬に、平手を見舞う。
パシン、と重い一撃が私の頬をぶつ。そうだ、私達はこの人の平手と温かい抱擁と共に育ってきた。娼婦として生きるしかできなくなった私達をなんとしてでも生かそうと、何度もぶって、何度も抱きしめて支えてくれた。
客の癪に障ることのない接し方を、客の喜ばせ方を、主人の怒りを買わないための方法を。私達がこのキタイ・ゴーロド駅で物以下の存在に成り果てても、どうにか生きていけるように知識と技術を教えてくれた女性。教えることは性行の技術と世渡りの方法。倫理など通用しないこのメトロでは、生きる方法こそが重要なのだ。
「イリーナは見せしめに殺された! あの子を閉じ込めた檻に、生け捕りにしたノサリスを放って見世物にされたッ! 腸を引きずり出され、それでも生きているあの子は痛みと苦痛に叫びながら助けてくれと貴女を呼んでいた! それを嘲笑う観衆を見て、死んでいくあの子を見るしかできなかった私の、あの子たちの苦痛が貴女にわかるの!?」
右の次は、左だ。そう、彼女はいつもそうやって私達を叱りつける。
「リーリヤはナターシャを産んでから病で死んだわ。死に際に貴女に会いたいだなんて言って泣き喚いて! 姉妹を見捨てた貴女を口では憎いといいながら未だに慕っていたのよっ!!!」
嗚咽交じりのヒステリックな声と共に、再び右頬を彼女の平手が打ち抜く。
「………エレオノーラが教えてくれたわ。“逃げ延びた者を恨め。恨みは、生きる糧になるから。そしてまた会おう”……ええそうね、恨みは確かに生きる糧になる。私がこうして老いさらばえてもなお生きているのは悔恨のお陰よ。だけど彼女は二日前にファシストに連れていかれたわ! あの子は、スラヴ人じゃなかったからッ!!! どうしてっ……ああっ…どうして、もっと…早く……うっ…うっ…!」
左の頬に、母の弱弱しい手が触れる。
『最期は、一歩間に合わなかった……いつもあと一歩が遠いのだよ』
不意に、カーンの言葉が脳裏をよぎる。カーンもきっと、多くのものを取りこぼしてきた人間の一人なのだろう。そして今、私も臆病さゆえに大切な人を取りこぼそうとしているのだ。
戦う力を手にして、経験を積み、それでもなおキタイ・ゴーロドへ向かうことをしなかった自分の臆病さが憎い。もっと早ければ、もっと私に勇気があれば!
…今私の手に残っているのは、糸だ。未来に、それを手繰る先には果てしない苦難と危険が待ち受けているが、乗り越えた先にあるものは私が決して取りこぼしてはいけないものなんだ。
だが、そうなると彼は、アルチョムは―――どうなる?
私が離れて、一人でポリスに辿り着けるのか? こんな八方塞の状況で? 不可能だ。
だけど今動かなければ、私に残された大切な姉妹を、地の底でめぐり合った姉妹の最期の一人を亡くすことになる。
私は、何だ?
―スパルタンオーダー、No.1337、“
なら、為すべきはメトロの民のために戦うことだ。彼が、アルチョムが持つメッセージというものがどれだけのものなのかは知らないが、ハンターが託したということは非常に重要なメッセージであることは確実だ。
私は、オーダーだ。
―大切な姉妹さえ守れない。情けないオオカミ。
嫌だ。そんな終わりは嫌だ。
私を逃がすために自ら囮となったリーリヤの献身を!
―自らが足手まといだと察して残った幼い少女の命を。
私を庇って足を撃たれたイリーナの犠牲を!
―痛みを堪えて留まり、銃を撃ち続けた姉を。
姉妹を置いて去る私の背中を押してくれたエレオノーラの友情を!
―必ず再び会おうと誓った四人の契りを。
今すぐにでも助けに行きたい。だけどアルチョムが抱える問題はメトロそのものに関わっている恐れがある。
守りたいものは二つ。だけどこの体は、一つだ。一つしかない。手に入れられるのも、どちらか選んだほうの一つだ。いや、選んだところで為しえなければそれは無為だ。何も、残りはしない。
альтернатива―二者択一―が私に囁く。
どちらかを今すぐ選べと、背中ごしに、ナイフを突きつけて語りかけてくる。
あとがき書こうと考えていたら、たまらずウォッカを開けてました(事後)