Metro2033 -影を見る者- 作:きゃすたー(7mg)
気づけばお気に入り登録も80件になり、掲載も半年以上となりました。
書き始めたころは「こんな作品誰得だろう」とか思いもしましたが、励ましのお言葉や感想などを頂けたことを感謝しております。
お気に入り登録をしてくださっている皆様、評価をして頂いた方、読んで頂いた方々へ感謝を。
そして原作者のドミトリー・グルホフスキー氏とモスクワメトロに最大の敬意と感謝を。
そして、ようこそ――――
「…………ここは、どこだ……?」
狭いパイプを這って進み、ようやく抜け出たかと思えば崩落寸前の状態で留まっているコンクリートの通路に出た。
カリ、カリと不吉の音が響く度に不安が掻き立てられる。だけど風は間違いなくこの先から吹き込んでいる。それだけが唯一の、そして自らの進むべき道だ。
「よっ、と……ぬ、ぐっ、ヌゥゥ……!」
胴体が通るくらいの狭い隙間を抜けると、どさり、と転がるように受身をとって着地する。NVGの見せる緑の世界に、平行して走る二本のラインが延びている。一定の広さを保った、真っ直ぐに伸びるそれはまさしく、トンネルだ。
「ぬ、抜け出た……!」
カラン……カラン……。どこからか聞こえてくる鐘の音。まさか、という予感が脳裏を過る。
チチ、チチ、とネズミたちが一目散に逃げていくトンネルの天井からは空き缶が吊るされ、即席の感知トラップが仕掛けられている。
静かに、足音を殺して進んでいくと木組みらしいバリケードが組み上げられている。だが設置されている銃座は黙したままで、グリップを握ったまま人が事切れているだけだ。
胸元を探ると、ドッグタグが残ったままになっている。タグをそっと懐にしまい、更に先へと歩を進める。ここがどこなのかという考えよりも、一体何が起きているのかが重要なのだから。
緑色の視界の中では死体がどうなっているのかは判別できない。NVGを外してライターに火を灯し、そっと死体の様子を観察する。
「……食いちぎられてる…それにこの臭い糞尿も……まさかノサリスが迫っている……?」
予想したのは最悪の事実。今まさにこの先で、ミュータントに襲われている人々が居るのではないかということ。
少し考えればわかる話だ。今しがた僕が出てきた通路はノサリス程度なら余裕で通れるだけの広さがある。そしてあの通路の通じる先には車両基地だ。あそこで繁殖したノサリスが通路を通してこの先へと進出しているのだとしたら、その数は半端なものではないだろう。
ライターの火を落とし、再びNVGを目覚めさせる。トンネルに沿って少しずつ、周囲への警戒を緩めることなく歩いていく。再び目の前に木組みのバリケードが現れ、それを避けて通ろうと横に一歩動く。
「うわっ!?」
パシャッ、という音を伴って視界を真っ白に染める光が浴びせられる。
「人間……? ……う! 動くな! そのまま大人しく両手を挙げろ!」
目を閉じたというのに未だにチカチカとする視界。手の感触だけでNVGを取り外すと、うっすらと目を開ける。
サーチライトで照らされた僕に銃を突きつける数人の男。僕の旅の仲間だった彼、ブルボンの遺したカラシニコフが取り上げられる。
「……どこから入ってきた? 大人しく吐けよ、言い訳も無駄だ。この先は無人駅だけだからな」
「僕はポリス駅へ向かう途中で仲間とはぐれただけです。名前はアルチョム、お茶の商人をしています。内ポケットにパスポートがありますから確認してください」
覆面をした男がAKをこちらに向けながら、懐のパスポートを取り出す。それを背後の野戦服姿の男に手渡すと、彼は僕とパスポートを見比べて頷いた。
「ハン、ター……?」
「ん? 生憎だが私は君の言う“ハンター”という人物ではないのだ。私はマキシム・コマロフ。この分隊の司令官だ」
ハンターに瓜二つ、と言える姿をしたマキシム隊長はきっぱりと断言する。
「そう、でしたか。すみません、知人によく似ていたもので……」
「フム……まあ世の中には自分に似た人物が三人は居るという。こんなこともある、というところだろう。彼を解放しろ」
司令官らしい男の一声で周囲の兵達はカラシニコフやシャンブラーを僕ではなく、その奥に続くトンネルへと向けて警戒する。サーチライトもトンネルの先を照らすように向けられる。
「さて、本来なら君が何故ここに居るのかをしっかりと確認されるのだが……今は非常事態だ。俺達は今最悪の状況下にある。君も同様にな」
「……ノサリスの襲撃、ですね」
「その通りだ。ここで何をしているかは問わん。昔からそうだが、兵の数というものは多いほうがいい。見たところ……駅のレンジャーか。大人しそうな顔だが、戦士の顔をしているな」
「先ほど機銃を持ったまま息絶えていた人を見ました。……それほどまでに状況が悪いのですか?」
「そうだ。既に駅は住民の退避が行われている真っ最中だ。駅へは誰一人入れない。俺も、兵士も、お前もな」
「わかりました。それなら僕も手を貸します」
「……すまないな」
「気にしないでください。それにきっと、僕の尊敬する人や……彼女たちなら……スパルタンオーダーなら、きっとこうするんだと思います」
「恩に着るぞ、若いの。ここから俺達は戦場を共にする仲間だ! 俺達は『地下の子供たち』と呼ばれるパヴェレツカヤ駅のレンジャー部隊だ。よろしく頼むぞ、アルチョム」
「はい、司令官!」
そう。きっとオーダーの彼らならこうするだろう。僕はポリスを目指さなければいけないのはわかっている。だけどむざむざ死ぬつもりなんてない。彼らのあり方は諦めない意志というものが常にあった。それを目の当たりにして、身を以って教えられたばかりだ。
死地にあっても生きることを諦めないことを。
絶望に抗うことを諦めないことを。
希望を繋ぐために、最善を尽くすことを。
マキシム司令官は指揮をとりやすいように木製のスロープの上に陣取り、土嚢に脚をかけて、さながら中世の騎士のようにカラシニコフを手に声を上げる。
「戦友よ! 我々はあとしばらくここで憎きミュータントの攻撃を食い止めねばならん。諸君らに嘘はつけん……、激しく、そして厳しい戦いになるだろう。
だが駅に残してきた愛する者たちを思い出せ。友を、伴侶を、父や母や子供たちを! あのバケモノどもを通せば、彼らがその歯牙にかかることになる。一匹たりともバケモノどもを通すな!」
すう、とマキシム隊長は息を吸いこみ、カラシニコフを掲げ、雄叫びを上げる。
「戦闘準備! ヤツらに……男の戦いを見せてやれぇっ!」
「ウオオォォォッ!」
「やってやる……! やってやるぞっ!」
「ウラアアァァァ!」
拳を突き上げ、銃を掲げ、人類としての誇りを掲げる。
戦士達は各々の得物を手に、トンネルへと向き直る。瞳に宿ったのは、まさしく炎のような気迫だ。覆面の下に隠れて表情が見えなくとも、ノサリスの返り血に濡れていようとも、大小の傷をいくら負うとしても、彼等は戦うことを諦めないだろう。
兵士たちは駅のエアロックのすぐ正面、上下線のトンネルが交わる分岐器のある広大な空間に散って銃を構える。重装備の歩兵に、寝起きのようなラフな格好に軍用ヘルメットを被った者まで、見た目は様々だが彼等は駅を守るために銃を手に警戒心を働かせている。
そう、彼らの意志は唯一つ――――家族と仲間を守らんがために。
「機銃手は弾幕を張って敵の侵攻を押さえ込め! 索敵と警戒を怠るな!」
「Да!」
「前衛はバリケードを乗り越えてくる敵を仕留めろ! 後衛はカラシニコフの洗礼をヤツらにくれてやれ!」
そうだとも、彼らは諦めなかった。ノサリスの大群だって、きっと退けることが――
「……ま、マズイ」
背筋を這うように広がる悪寒。肩を何かが掴んでいるかのような圧迫感。これはそうだ、どこかで、いつだったか……そうだあのトンネル! カーンやヴェートと共に歩いたカース駅へのトンネルで味わった、あの恐怖!
「ん? どうしたんだ若いの?」
コサック帽を被った老兵が怪訝そうにこちらを見る。
彼等はまだ気づいていない。不吉な風が頬を撫でていることを、既に足元にまで
パリンッ! トンネルに提げられていた電球がショートを起こして破裂する。
バチバチッ! 電球が不気味な七色の光を発して放電を起こし始める。
薄いもやのような、嫌な臭気を伴った風がトンネルの奥から吹き込んでくる。
「お、おいっ、どうなってんだよこれは!」
「なんだか知らんがろくでもないことになりそうだな……」
「ユーリィ、変なことを言うなよ!」
広がっていく。不安が彼らを包み込んでいく。戦意が、闘志が、削られていく。
ジーンズにノースリーブのシャツを着ただけの兵士も、白髪の立派な老兵も、得体の知れない“何か”の存在を感じ取り始めている。
ひんやりとした寒気のするはずのメトロのトンネルに、生暖かい風と共にもやが立ち込め始める。
「アノマリーです! 注意してください! ここから先は例え死者が蘇ったのだとしても不思議じゃあない!」
「ウソだろ!? あんなもの御伽噺か何かだったんじゃないのかよ!」
「もうだめだぁ……おしまいだ……」
「戦え! 臆病者! アノマリーがなんだ! ノサリスがなんだ! 野郎ぶっ殺してやらぁ!」
「落ち着いて、大丈夫です! マキシム司令官、今すぐ照明を増やしてください。無ければ焚き火やランプでも構いません! とにかく明かりを絶やさないでください!」
「フム……生憎と我々はアノマリーに対処する方法が無い。アルチョム、アノマリーに対する策としてそれは確かに効果があるのだな?」
「はい。実際に戦友のオーダーの兵士が“アノマリーが近いときは常に明かりを絶やすな”と忠告をしてくれましたので」
嘘は言ってない。確かに僕はアノマリーへの対処法として、明かりを絶やしてはいけないとカーンから教わった。……もっとも、その教えを一番に受けている彼女がそのようにしているから僕はそれに倣っただけなのだけれど。
「よし、フョードルとミハイルはすぐに松明と薪を用意しろ。電球やランプでは壊れてしまえば終わりだが、火なら簡単には消えない。各員、明かりの近くから可能な限り離れるな! ランプやライトを持っている者は出し惜しみをするな!」
司令官の指示が飛ぶや、彼等はすぐさま残っていた松明や薪を用意して火を灯していく。
等間隔に置かれた松明と空間の中央に設けられた焚き火。光が照らす範囲はそれほど広くはないものの、炎の温もりは兵士たちの心に少しばかりの余裕と安心感をもたらしてくれている。
「……来るぞ!」
誰が発したか、その一言を皮切りに最悪の防衛戦が幕を開ける。
第二十四話 光明
「……どこまで続くんだか」
トンネルをひたすらに歩き続けるだけ。その作業がただただいつまでも続いていくような感覚に陥っているのは確かだ。
何の変化も無い真っ直ぐなトンネルが続き、同じように真っ直ぐにレールが延びている上を、どこまでも真っ直ぐに歩いていくだけなのだから。
ノサリスの襲撃も無く、アノマリーの出現も無い。ラーカーが徒党を組んで襲ってくるわけでもないし、正体不明の謎のミュータントに出くわしたわけでもない。かといって自らと同じ人間に出会うことも無い。
トンネルを歩く。歩き続ける。いや、本当に歩いているのだろうか。もしかすると私は立ち止まったまま、前を見据えたまま呆けているだけでしかなく、自らが“先に向かって進んでいる”と錯覚しているだけなのではないか?
歩く。あるく。あるく……? 歩くというものは、いったい、なんだったのか。私は、歩いているのか。私とは……あたしは……?
「うん? これは……」
不意にライトの照らす先に今までとは違うものが現れる。灰色のきめ細かな質感のセメントで固められた地盤。ついさっきまでの土壁と木組みの坑道とはかけ離れた、車両が通れるほどの広さのメトロのトンネルへと景色が切り替わる。
作業用の機械やトロッコがそのまま残されている小さな駅のホームへと昇るものの、駅の壁は華やかなメトロの地下鉄駅とは違って、コンクリートの打ちっ放しの壁をしている。
「なるほど、この坑道はあの車両基地へのルートの一つだったんだ。建造途中で戦争が起こったせいで作りかけのままで放置されたのか、それとも財政的な理由で中断されたのか……」
賭けには勝った。人の手が入った通路が自らの進むべき方向から伸びてきているということは、あちら側には出口があるということだ。
「あった! 地上への通用口!」
埃っぽい駅のホームを歩いていくと、人一人が通れる程度の階段が上階へと伸びている。照らした先の階段は右手に曲がっていてその先はわからないものの確かに上へと向かって伸びている。
これは運がいい。地上に出れば自らが今どの地点に居るのかがはっきりとわかるだろう。
足音を消して静かに階段を一歩ずつ踏みしめて上っていく。左手にナイフを持ち、右手にカラシニコフを手に、逸る気持ちを堪えて登っていく。デザートイーグルの弾が切れてなければそちらのほうがベストなのだけれど、背に腹は変えられない。
モスクワ地下鉄公社のシンボル、赤い“М”のマークがペイントされた、鉄の扉の
半開きのドアを覗き込んでそっとカラシニコフを突き出し、敵を刺激しないように気配を殺してドアの先の部屋を警戒する。
薄暗い部屋の中に頑丈な木の板で目張りした窓の隙間から光が差し込んでいる。ボロのソファと小さなテーブルが目に留まる。人が居たのは確かなようだ。
ガンッ! 衝撃と共に視界が揺れる、盾代わりのはずの鋼鉄の扉は、手を出した先には存在していない。黒い人影らしいものが私に向かって何かを振り翳す。
盾代わりのはずの鉄扉を逆に押し込まれてしまうとは、と考えた次には、ギンッと甲高い音を立ててナイフが振り翳された何かを咄嗟に打ち払っていた。左手はそのままにナイフを構え、右手に持っていたカラシニコフは背中へと振ってフリーハンドに。
逆手に持っていたナイフを手首のスナップで順手に握りなおし、人影に対して振るものの、その手はその男の右手に阻まれて彼の首を捉えることはない。けど、想定どおりだ。
半身のまま、左半身を盾に踏み込んで距離を詰める。狙うは右の拳の一撃。左手のナイフは囮だ。身体の捻りと勢いを籠め、下腹部に目掛けて右の拳を振りぬく。
「……ヌッ!」
私と同じように左手にナイフを持っていた男は即座にナイフを捨てて右側へと重心をずらし、空ぶった私の右腕をその左手で掴み取る。
みし、と鈍い感触。見れば右腕をへし折らんばかりに、彼の膝蹴りが私の腕を打ち抜いていた。
「ぐへっ!」
その次の瞬間には、ごりっ、と肘鉄が脳を揺さぶる。
体格差はまるで子供と大人さながらだ。私が160cm手前なのに対し、相手は190cmは確実。彼は肘を突き出すだけで、私の急所を捉えられる。
取られた右腕を軸に、身体がぐるりと、広がる視界が、世界が一周する。
「ぉ…りゃぁっ!」
打ち付けられた痛みも忘れ、えびぞりのように身体を跳ねさせて鋼板入りのブーツで蹴りを見舞う。
「……ぐぅ……っ!」
くぐもった、苦悶の篭った吐息が聞こえる。手ごたえありだ。
疲弊感を忘れ、痛みを畏れず、地につけた左手を軸に身体を捻って、全身を振りぬいて脚払いを仕掛ける。
尻餅をついた彼に向けて、決して手放さなかった左手のナイフを大きく振りかぶる。
弧を描き、鈍い残光を伴って走る軌跡はしかし――彼に届かない。
身体の前で両腕を交差させ、私の腕を推し留めることで彼は私のナイフの一撃を回避してみせた。
僅かな光で照らされた、彼の顔が、顕になる。
「――――じゅう、ばん?」
「まさか、ラスヴェート?」
頬を走る一本の傷跡。左眉を裂いて走る古傷。ブラウンの髪と翠の瞳をした、四十台半ばほどの顔立ちの男は、確かに私の知る人物の中で一致する。
「ハンザのストーカー、十番がなんで――」
「シーッ」
声を殺すように、というジェスチャーに従って息を殺す。今まで彼にのみ向けていた警戒心を周囲へと向け、ナイフをシースにしまってカラシニコフを両手で構える。
こちらへこい、と手招く彼に従って先ほど私が入ってきた鋼鉄のドアの奥へと入っていく。埃まみれの駅のホームに再び戻ってくるなり、私の頭に彼の拳骨が振り落とされる。
「いたっ!」
「こっちも同じだ。盛大に腹を蹴りやがって。この前から傷めてるってのに……いてて」
「こっちはファシストに殺されかけて、おまけにノサリスに腕をかまれるわ脚をかまれるわ、その上二日以上何も食べてないんだよ! なのに容赦なく肘鉄はもらうわ右腕に膝蹴りまでもらうわ! 散々だ!」
「そうか。で、何でお前がここに?」
「……ポリス駅に向かう途中でファシストに捕まって、逃げてきたらここに出ただけだよ」
どうしてここにいるのか、と旧知の間柄―師弟というべきだが―に話してみると、彼は一際険しい顔をしてうんうんと唸り始める。
「ふーむ……知人をポリス駅へ送る途中でねぇ……。ま、お前が受けた仕事だ。俺は深くは詮索しない。だがな――」
「“無茶が過ぎる”でしょ?」
「……そうだ。今のこのご時勢にファシストまで相手にしていちゃ、いくらお前がオーダーのお墨付きを貰っているほどの兵士でも、命がいくつあっても足りんぞ」
「命を賭けるだけの大事なものがあった――それだけだよ」
「……傷を見せろ。治療もろくにできてないまま戦うなんぞ、無謀もいいところだ」
十番、ハンザのストーカーの番付の最上位クラスに属する腕利きのストーカーだ。チームを率いての戦いも、個人としての戦闘力もかなりのものだ。その昔空挺部隊に居たというウワサもあるほどの戦上手と言われている。
彼の治療の手際はそこらへんのメディックが舌を巻くほどに整然と、的確で手早い。
ランプの明かりだけだというのに有無を言わさず素っ裸に剥かれて、あっという間に全身の傷を応急処置されてしまったのだから。
「さて、これで一通り終わりだ。あとは本職の医者に診てもらってゆっくり治療しろよ」
「……どうだった?」
「何が?」
「私の身体」
「――正直言えば、ひどいな。擦過傷や切創はもちろん、打撲やノサリスによる傷……それ以上に疲労がひどい。今のお前は満身創痍というのがピッタリだ。俺が部隊の指揮官だったらまず休ませる。それくらいには酷い。
どうせこの数日間、戦うばかりで十分な休息が取れていないんだろ。自身でも気づけない疲労というものは、思わぬところで自身を窮地に追い込んでしまうものだ。若いからといって無茶を続けていては、ここぞというところで力を発揮できず野垂れ死ぬだけだ」
「そっか……」
無理も無いだろう。あれだけ犯されて、死の淵に立たされて、それでも尚足掻いて生き延びたのだから。この程度の代償なら安いものだ。
「そういえばここはどのあたり? できればポリス駅が近いと嬉しいんだけど」
「ここは環状線ドブルィニンスカヤ駅に隣接する駅だ。俺達は通称として“ブラック”駅と呼んでいるが……どうやらこの駅は建設途中で放棄された駅のようでな。あちこちが未完成だったりで、誰も住んでいない無人の駅だ」
「つまり、どこの駅にも繋がっていない……?」
となると地上を行かなければいけない。だというのに私の手元にはフィルターはおろかガスマスクさえ存在していないのだ。これでは地上に出る以前の問題だ。
「そういえばさっきの部屋は密閉してあるとはいえ地上部に存在しているんだぞ。浄化装置で多少は空気が綺麗だが……うまく呼吸もできない中でよくあれだけ動けたものだ」
「ああ……それでかな。道理で若干息苦しかったわけだね」
「無茶をするなと何度言えばいいんだ?」
「痛いってば」
ごつん、と三度頭を揺さぶる衝撃が突き抜ける。というかあの状況でマスク無しで行動していたのは貴方も同様のはずだぞ十番。
さて、どうやって地上を突破したものか。それ以前にどうやってガスマスクを調達するべきか。
「それで、どのくらいの距離にあるの?」
「距離にすればドブルィニンスカヤまでは1000メートルも無い。だがこの辺りは核戦争の影響で表層部の地形が変わるほどの被害を受けている場所だ。
この“ブラック駅”に浄化装置をつけたのも第四帝国のヤツらさ。おそらくここを地上の拠点にする腹積もりなのだろう」
「……一難去って、というやつかなぁ」
はぁ、とため息を吐くと同時に再び腹の虫が鳴る。どうやったってこればかりは抗えない。空腹とは生命が生命である限り必ずつきまとう現象なのだから。
「仕方の無いやつだな。ほら、食っておけ」
立ち上がった十番から、ぽんと投げるように手渡されたのは一つの缶詰。ラベルも何も無いものだが、食料であるには違いない。
「中身は豆だ。味付けも特にされちゃいないから味気ないが、それなりに栄養もある。さっさと食ってしばらく寝てろ。その間にガスマスクを確保してきてやる」
「スパシーバ。これでどうにか戦えそうだよ」
「それと、クレイモアを設置しておけ。あとは簡易のトラップなんかもな。自分が食事中にノサリスの餌に変わるなんざゴメンだろう?」
「当然、私は食われる側なんてイヤだね。食べるほうが好きさ。男だろうが女だろうが」
「黙れクソビッチ。さっさと罠を仕掛けて缶詰食って一人で喘いでから寝てろ。それとな――」
「……なに?」
「そういうセリフをお前が言うときは、大抵は気丈に振舞っているときだ。自分を奮い立たせて、必死に自分を取り繕って、“自分は大丈夫だ”と自らに言い聞かせているだけでしかない。
いいか、恐怖を御するのはかまわない。だが押し殺すのはやめろ。それが続けばいつかは恐怖を殺すことが日常になり、そしてできもしないことをできると思い込んで蛮勇に走る。自らが万能だと思い込んでしまう。
恐怖心ってのはな、センサーだ。警戒し、察知し、危険を回避するためのセンサーだ。それがあるからこそ俺達ストーカーは地上に出ても生きて帰ってくることができる。
ストーカーの師匠として、今一度だけお前に言っておく。“欲を出すな”、“危険と思ったら引き返せ”、そして――」
彼は仰ぐように地下鉄の天井を見上げ、一息だけ間を空けて、宣告する。
「――“恐怖を忘れるな”」
どこか憂いを帯びた、しかし感情の揺らぎにも似た光を持つ翠の双眸が私を見る。
それだけを告げて彼は背を向けて階段に脚をかける。コツ、コツとブーツの反響する音が地下のひんやりとした空気を振るわせる中、彼の言葉が
「……恐怖を、忘れるな」
恐怖。乗り越えるべき自分自身とも言えるもの。
私は今までずっと竦む足を奮い立たせ、震える腕を鎮めて銃を撃ち、見たくも無い光景でも目を凝らして必死に乗り越えてきたつもりだ。
敵の屍を踏み越え、人智の理外にある存在の中を踏破し、恐怖に震える自分自身を叱咤して乗り越えてきたはずだ。そうして私はオーダーとして、一人前になれたのだと思っていた。
けど心のどこかで、私は恐怖を忘れていたのだろうか。
カーン、アルチョム、そしてカース駅の戦士たちと共に駅を救った事実。
愛する妹を救うために、己の身を投げ打った行動。
車両基地の戦い。死の淵にありながら生を掴み取ったという結果。
確かに私は、己を省みなかった。ストーカー見習いとして師事し、オーダーの戦士として認められ、幾多の戦いを乗り越えてきた自信があった。できる、と思って進んできた。
だけど今思い返せば、どれも一人では為し得ない戦果だ。最初の戦いでは仲間達が居た。二番目の戦いでは囚われた末に陵辱された上に、妹共々メトロの影に消えるところだった。三番目に私の道を切り開いてくれたのはパヴェルの持っていた爆薬だ。
どの戦いにも、仲間が居た。共に血を流し、命を賭して戦う仲間が居た。同じ志を持つ戦友が。
思えばアルチョムには何度も助けられている。最初は人殺しを忌避する青二才だと思っていたはずなのに、いつの間にか彼はこの旅で成長し、一角のレンジャーを名乗っても違和感がないほどにまでなっている。
技術では私が上だろう。格闘になったって負ける気はしていない。だけど彼は私よりもずっと強い意志と覚悟で恐怖を御してきたのではないか。
私は恐怖を隠し、押し殺し、意味を間違って捉えたままにここまで来た。十番にそれを指摘されるまで、気づくことさえできなかった。
もしかするとカーンだけは、以前からそれに気づいていたのかもしれない。
カース駅で彼は『間違ってはならない』と私に忠告した。それでも彼が“何に対して”なのかを
言わなかったのは何故なのか? 私が一角の戦士として育ち、自らの欠点に気づくことができると思っていたからなのか?
私は、もっと誰かを頼るべきだったのだろうか。
「みゃーお」
不意に届いた、鳴き声が、思考を散り散りに裂き絶つ。
「……ああ、猫か……」
ふぅ、と胸を撫で下ろす安堵感。まさかこんなに近くまで接近していたことにさえ気づけないほど考え込んでいたなんて。
「みゃーお……」
「ダメだよ。これは塩気が強いから、お前が食べたらお腹をこわしちゃうよ」
すりすりと頬を寄せてくる猫。クリルアイランドボブテイルだったか。ボリューミーな長い毛、黒と茶の虎縞模様のその猫は尻尾を私の腕に摺り寄せ、人懐こい姿を私に見せる。
「お前、ひとりぼっちなのかい?」
そっと喉を撫でると、ごろごろと気持ちよさそうに唸りを上げる。目を閉じてリラックスした様子で、あぐらをかいて座る私の膝の上に丸まってあくびをする始末だ。
ぽつり、ぽつりと言葉が漏れ落ちる。誰に対してでもない、自分自身に向けて。
「私はね、ひとりぼっちになったんだ。だけど大事な家族ができた。二人は死んでしまったけど……妹と、あとは義理のお父さんができたんだ」
そう、大切な家族。姉妹。父親。姉妹は既にたった一人を残し、逝ってしまった。父親はもう五十台に差し掛かったころだろうか。白髪も多くなってきたのを覚えている。
駅を失い、奴隷として売られた私が出会った希望。それはお互いに依存しているだけの関係性でしかなかったのかもしれないけれど、そこに愛情が芽生えたのは事実だ。
心をすり減らした私たちが、“自分”を保つために他者を求めた。そして全てを失った私を救い上げてくれたのがカーンだった。
「私は、ひとりぼっちはイヤだな。そのくせして一人でも生きていける、やってみせるって張り切って、結局自滅してさ……」
ストーカーとして十番の下で修練を積みオーダーとして認められ、一人前になった。けれど私は未だ半人前でしかなかったのだろう。
例えスパルタンオーダーであろうとも、人間だ。ヒトがヒトである限り、個人で為すことのできる限界は必ず存在する。それを乗り越えるのが仲間という存在であり、チームというものだったはずだ。
だけど私は自分自身を冷静に振り返ることができなかった。漫画やアニメのヒーローのようなものではなく、自分が矮小な人間でしかないということを理解できていなかった。
運命は人間に対して残酷なもので、ヒトが一人でそれに抗うことなどできないのだと納得できていなかった。そうして突っ走った結果、第四帝国に囚われてしまったんだ。
「やっぱり人は、一人じゃ生きられないんだよ。月並みな三文小説によくあるでしょ? “人は一人じゃ生きられない。だから肩を寄せ合って生きるんだ”ってさ。月並みで、ありきたりで、だけどどんな映画よりも王道的で、正論で……それを思い知らされたんだ」
猫はあくびをするだけで、何も応えない。まるでベッドで眠るように私の膝の上を占領してくつろぐだけ。自由きままで、枷に縛られない――――だけどそれは最も過酷な生き方だ。
「……お前は、強いんだね」
どんなに強くても、どれだけ逞しくても、人は人を求めるのが
それは一人では為し得ないから、一人では立ち続けられないから、一人では未来を繋いでいくことができないから。
人は人と出会い、子を成し、自らが親から受け継いだものを子に受け渡す。そうして積み重ねられた歴史が、一人一人の足跡が一つの大きな束になって、世界の未来に繋がっていくのだろう。
このモスクワメトロには絶望しかない。ここに希望は無いのかもしれない。
それなら――――希望を見つければいいだけだ。新しい希望を。一人では見つけられないなら、多くの仲間たちと共に。
「おい、戻ったぞ――」
たたた、と小さな影がランプの明かりの中から逃げていく。僅かに見えたのは毛むくじゃらの、縞々の模様の尻尾が特徴的な猫の姿だ。
「まったく、警戒心を持てと言っただろうに」
コンクリートの壁を背にうつらうつらと舟を漕ぐ少女。黄色人種の肌と黒い長髪の女は戦闘服のズボンを履いてはいるが、上半身は黒いインナー姿のまま眠りこけている。
年相応の無邪気な寝顔を見せる少女。先ほど告げた訓告さえ無駄に終わったのかと思いきや、ぴく、と彼女の右手に握られたカラシニコフが動く。
「……んぁ、十番?」
「暢気なものだな」
「んー……あー、なんだか少し楽になった気がする」
「だろうな。あれだけ眠りこけてりゃあな」
「まあね。で、マスクとフィルターはあった?」
「ほらよ。第四帝国のものだが質はいいほうだ。これでドブルィニンスカヤ駅まで突破できる」
嬉々としてマスクを受け取るや、少女は戦闘服の上着を着こんで銃を提げてマスクを被る。そこに新しいフィルターをはめ込み、カラシニコフの初弾を確認してブーツを確認するようにとんとんとつま先でコンクリートの床を叩いてみせる。
「やれるな?」
「やるさ」
その言葉にはどこか先ほどまでの彼女とは違う何かを感じさせられる。自信満々であることに変わりは無い。だが彼女は“
“できることが当たり前”ではなく“やってみせる”という意思へと変化したのだ。自らの背負ったものに気負うことのない、自然体の戦士の姿へと変わりつつある。自らの意識を縛る枷のようなものが、今の彼女にはおそらくだが――無い。
きっと彼女に必要だったのは、きっかけだったのだ。
成長できる素地は確かにあっただろう。だがいくら訓練を重ねようと、いくつ実戦を重ねようと、辿り着けない境地ともいえるものが戦士には存在する。
言葉では表現できない、一つの悟りとも天啓ともいえる、威風のようなもの。ハンター、カーン、ミラー大佐……一流の戦士の持つ、カリスマとも呼べる何か。それは各々によって異なるものだが、確かに存在する何かなのだ。
彼女を弟子として、そして離れてから一年以上も見えたことはなかった。
だが彼女はこのメトロで、少しずつだが、確かな成長を見せているのだと気づくことができた。
「先行する。後に続け」
「
彼女がオーダーでさえなければ、パートナーとして組んでもいいと思えるほど。
ごめんなさい、エロいシーンはもちっとだけ先になるんじゃ。