とある佐天の百合洗礼《レズテスマ》 作:エステル
◆ 8月16日 午前7時00分 ◆
8月16日の朝は2人の部屋にも平等にやって来た。生まれたばかりの太陽が、ダブルベッドに仲良く肩を並べて横たわっている白いバスローブ姿の少女達に、新しい朝のエネルギーを問答無用で浴びせかけている。
2人の少女が目を覚ましたのは同時だった。観念的に意識がシンクロナイズしていたからでも、AIM拡散力場がどうのこうのといった小難しい理由ではない。ただ単に、佐天が朝7時に目覚まし時計をセットしておいたからだ。
「おはようございます……」
朝日に目を細める美琴の無防備な横顔に向けて、佐天は眠そうな口調で挨拶した。
「……おはよう」
美琴は訳も分からず返答する。象牙色の天井に視線を預け、自分の置かれた状況を整理してみた。制服は脱がされバスローブを着ている。下着は取り換えられていなかったが、全身を汚していた土埃や血液は綺麗にふき取られていた。指先を顔の前に持って来て、能力の有無を確かめようとして……やめた。どんなに惨めな状況だとしても、寝起きの数秒後に絶望する必要はないのだ。
「御坂さん、窓の所で気絶しちゃったんですよ。余計なお世話かと思いましたけど、スカートもブラウスも汚れてましたし、クリーニングに出しときました。予備のはしわくちゃになっちゃうといけないし、バスローブに着替えて貰いましたが……お、怒ってます?」
黙り込んでしまった美琴に佐天は恐る恐る聞く。美琴はただ、状況整理を終えて頭を空っぽにし、ベッドの感触を感じていただけなのだが。
「佐天さんこそ、怒って帰っちゃったかと思ったわ」
美琴は天井を見たまま呟く。佐天も同じで、美琴の方に体を傾けようとはしなかった。彼女は佐天を犯そうとしたのだ。
「まあ、一応居たりします」
敵意も好意も感じない、ごく中立的な声で佐天は言った。事実をありのまま確認するように。
「私のこと、許せない?」
「許せませんよ」
拒絶の表明とは裏腹に、佐天の言葉には怒りは含まれていない。それが不思議だったので、美琴は佐天の顔を見るために首を傾けた。佐天は意図的に避けたのか偶然なのか、両手の反動を使って身を引き起こし、そのままベッドから降りて大きく背伸びをした。長い黒髪が、割れた窓から吹いてきた風でサラサラと揺れている。
「こんなこと言ったら、キモいって思われるかもしれませんけど……」
佐天は黒髪を風に乗せ、くるりと、ダンスのステップを踏むみたいに振り返った。
「あたし、御坂さんにレイプされること自体は嬉しかったんですよ」
佐天があまりに爽やで無垢な笑顔で言ったので、美琴はその被虐的な言葉を理解するのに10回は反芻しなければならなかった。キモいとかそういう問題じゃない、この子はちょっとおかしいんじゃないだろうか、と美琴は心配になる。7通りの意味で。
「昨日は怒ってたじゃない」と美琴は怒り気味で言った。
「言ったじゃないですか、あたしは御坂さんのこと好きなんですもん」
好きな人にレイプされると言うのはどういう感覚なのか、レイプされたことない美琴には想像もできなかったが、佐天には嬉しいらしい。だったら尚更筋が通っていない。
「だって触らないでって……私のこと嫌いだって……」
「ですから、あたしはですね……」
どちらかと言うとお道化ていた佐天の眼差しが、すっと、静かに化学変化を起こす。明らかに重大な意思の発露を予期させる動き。日常から非日常に切り替わる真剣な目。美琴にとって――何度か事件に巻き込んでしまったものの――日常の象徴だった佐天。彼女がそんな本気の顔を浮かべたこと自体、激しく心を揺さぶる。昨日、スキルアウトから助けられたときに感じたのと同じような感情を伴って。
スズメの群れがやってきて、破壊された窓の端から端までずらりと整列する。小鳥たちは胸いっぱいに新しい空気を吸い込んだ。
「御坂さんをレイプするのが、嫌なんですよっ!」
鳥の唄が部屋いっぱいに広がった。牧歌的で賑やかな囀りだった。彼らは知っているのだろうか。世界がもう終わっていることを。
「御坂さん、嫌がってました。本当はあたしとなんかキスしたくないのに。でも能力の為に、我慢して破廉恥な事しなきゃならないんだって。そんなの……あたしには耐えられません。女の子の初めてがそんな風に奪われるなんて。あたしの大好きな御坂さんが、しかも自分のせいで、嫌な思い出を一生引きずっちゃうなんてっ!」
もしも世界がこんな風に優しければ、どれほど素晴らしいことだったろう、美琴はクスりと一度だけ笑った。世界はそんな風に出来てはいないのだ。美琴のクローンはたった数時間前に殺され、今日も新しいクローンが殺されるかもしれない。美琴には実験を終わらせる方法もない。そんな美琴にとって佐天の言葉は、生命の最期に与えられる、慈悲深い主の威光そのものであった。
「……優しいのね」
「そうじゃありません、御坂さんが好きなだけです」
「……ありがとう」
さて、時間だ。と美琴は思った。このまま微睡んで、夢の世界で無為な時間を過ごしている暇はない。こんな自分に向けて、よりにもよって自分が強姦しようとしていた相手から祝福を受ける資格は、御坂美琴にはあるはずがないのだから。
「だけど、もういいのよ。あなたの能力、私には効かないみたいだし」
殺されに行こう、と美琴は心に決めた。
美琴は気怠そうに身を起こし、最後に佐天に別れを告げようと顔を上げた……何か、何か不思議な形に、唇が動いた気がする。だけど美琴には、聞き取ることができない。
「今…………なんて?」
美琴は聞き返す。自分の発した言葉を一文字ずつ確かめるように。
「ですから、効きますよ?」
平然と、自明の理を告げるように、佐天はそんな言葉を口にしたのだ。
「効かなかったじゃない……!」
99%の怒りに1%だけ希望を混ぜた、美琴の震える声。今さら希望なんて与えられても、死ぬのが怖くなるだけ。意を決して作り上げた覚悟をぶち壊す所業。急に目の前の女が悪魔のように見えて、美琴は攻撃的な目で佐天を睨みつける。
「それは御坂さんがちゃんとチューしてくれないからですよ。嫌々やってもそりゃー効きませんって」
佐天はどこ吹く風で、見ようによっては小馬鹿にするかのように笑いかける。
「気休めなら聞きたくないわ。もし
「
「あっ……いや……上層部があなたの能力を掴んでるなら、そう考えるだろうなって思ったの」
動揺した口走った言葉を誤魔化したのは、優しさからではなかった。どうにもならないというのに、これ以上、あんな実験について1から説明するのが億劫だったからだ。
「発動条件があるんですよ」
佐天は人差し指を顔の横に立てて、初めて生徒を自分の得意分野に引きずり込んだ新任教師みたいに指を振った。
「まず、
佐天は都市伝説を話すときみたいに自身満々で言い放つ。
美琴は疑わし気に佐天を睨んだ。滅茶苦茶な言い分だったが、矛盾してない分疑える根拠もない。
「死ぬって……どうしてよ?」
「さあ、分かりません。女性の場合は、御坂さんみたいに能力が封じられちゃうだけで済むんですけどね」
「何よそれ……」
美琴は何かを振り払うようにごしごしと乱雑に頭を掻いた。今の美琴には、怒る気力だってひと摘まみほどしか残っていないのだ。
「だいたい、なんでそんな事分かるのよ」
「え……こういうのって普通自然と
「
冗談めいた笑みを浮かべながら、とぼけ続ける佐天。単に自分と性的な行為に及びたいだけなのかもしれない、と美琴はあらぬ疑いを抱く。
「でも、そうなるものはそうなっちゃうんですよ。"ある地点を越えた問題"に関してはトートロジーでしか説明できないんです。無神論者が物質の存在証明をできないのと同じです」
「だったら黒子はどうなの!? 初春さんや
「確かに黒子ちゃんは御坂さん狙いですし、あたしに特別な感情はありません。けど……プレイの一環だって認識でしたから発動したみたいです。白井さんは変態性癖ですからね」
「納得できないわ……」
それでも――もう一度だけ、試してみる価値はあるのではないか。創世記のヘビがイブを激しく誘惑し始める。しかし――性欲がない。美琴には佐天に対する性欲がない。それは佐天の魅力の有無に起因する訳ではなく、美琴が置かれた状況の問題なのだ。今の美琴は、佐天や他の女はもちろん、どんな男にも、あの上条当麻にさえ性欲を抱いてはいない。クローン達を無視して、暢気に性交している場合だろうか……そんな罪悪感。たとえそれが必要な事であっても、無意識レベルの後ろめたさで性欲が押さえつけられているのだ。
「何があったのかは知りませんけど……力が必要なら御坂さんが無理する必要はありませんよ。初春なら自分から迫ってきますし、白井さん変態なので我慢してくれます。ですから御坂さんは……」
「ち、違うの! そうじゃないのよ佐天さん。私は、あなたとその……あの……そ、そういうコトするのが嫌だったんじゃないの……!」
美琴は取り繕うように言った。佐天が寝ている内に事を済ませようと思ったのは、本当にただ知られたくなかっただけなのだ。
「あなたに貰った力で……自分が最低のことをするから……だからあなたに押し付けたくなかったのよ……! 私はあいつらと同じクズで、どうしようもない最低な人間なんだから……」
性交――それは、佐天の未来を血で汚すことを意味しているのだ。そのような複合的な事情により、美琴は性欲を抱けないでいる。
「はぁ……御坂さんは本当に成長しませんね。努力で
佐天は肩を竦めて盛大にため息を吐く。普段の美琴ならブチ切れて電撃をお見舞いするところだったが、今は罵倒を甘受する他ない。
「教えてください。何があったのか」
またしても真剣な目。もうどうにでもなれ、と美琴は思った。そんなに知りたいなら知りたいだけ教えてやればいいのだ。美琴はベッドから立ち上がると、改めて指先の間に電流を走らせる。パンと軽い爆発音が鳴って、スズメたちが一斉に逃げて行った。美琴はドカっとソファーに腰かけて、応接テーブルに置いてあった佐天の
「知るなら覚悟しなさい」
自分が知り得る限りのあらゆる情報を、携帯端末のストレージに電気的にぶち込んだ。
◆
佐天はソファーの向かい側に座り、馬鹿げた計画を詳細を噛みしめるように目を閉じていた。泣きも笑いもしなかったし、ショックを受けて茫然自失となっている訳でもない。ただ目を閉じて、物言わぬ銅像のように考え込んでいる。
「結局。ソレを見てアンタは私が心配だと思ったの? 私を許せないと思ったの?」
痺れを切らしたのか、美琴も挑発するみたいに言った。佐天には、クローン達が世界征服を目論んでいるなどと、大嘘を教え込んでいたのだ。その時は美琴自身も信じていた訳だが、事実を知れば温厚な佐天だって自分を責めるに違いなかった。
佐天はそれでも無反応だ。うんうんと唸っているから、眠り込んでいる訳ではない。
「どっちでもいいか。最初から佐天さんに許して貰おうなんて思ってないもの。アンタに性欲があれば力が得られるってんなら―――上等じゃない」
美琴は自分の感情にリミッターをかけている良心や羞恥心と言ったものを踏みにじる。佐天涙子を友人でも後輩でもなく、ただ一人の性的な対象として捉えるように努めた。
冷静に考えたら、中学生の女子2人がバスローブ姿で朝を迎えると言うのは、相当にいかがわしい状況なのではないか。一旦そういう感情が引き出されてしまうと、黒子に股間を埋められ白目をむいてよがり狂っていた初春や、佐天が自分と同じ姿をした人間と既に性交している光景が、怒涛のように溢れてくるのだ。
その上で、この女をどう扱ってもいいのだ、と美琴は思った。美琴は何でもできるのだ。誰にも文句は言われない。黒子が初春にやったように、あそこを舐めさせることだって出来るのだ。しかもそうすることで……美琴は絶望的な状況を突破する大いなる力を得ることが出来るかもしれない。出来なかったとしても、死ぬ前に一度くらい、そういう行為を経験したってよいのではないか。この機会を除いて――美琴に残されたわずか1日にも満たない人生で――二度とチャンスはやってこないのだ。つまりこれが最初で最後の――美琴は生唾を飲む。佐天の耳にも聞こえる大きな音で。
「ア、アンタを犯して力を得てやるわ。私にはそれしか残されて居ないんだからッ!」
一人でヒートアップする美琴。佐天はくわっと目を大きく開いて、直球ストレートの視線で美琴を正面から縫い付けた。その目は佐天の心理を雄弁に語るようでいて、美琴には何一つとして具体的な意味を読み取ることができない。当然のことだ。何を考えているのか分かる人間などいない。対象の感情を自らに保存された記憶データと照合して推測しているにすぎない。対象は認識に従わねばならない、コペルニクス的転回。だが地球はもちろん、太陽も銀河も回っているのだ。
「その前に、お風呂入ってきていいですか?」
「……はい?」
美琴は険しい表情で固定されたまま、小首をかしげて聞き返す。
「これから御坂さんにレイプされるんですよね。だったら、ちゃんと歯磨きもして身だしなみ整えとかないと。……そうだ、服はどうしましょう? 初めてがバスローブってのは、ちょっとないですよねぇ。と言っても制服しかないですけど……」
「……え、ちょっと待って」
佐天は堰を切ったように猛烈な勢いで喋り出した。美琴の制止などまるで聞くつもりはない。
「あー! いいこと思いつきましたよ御坂さん。このホテルって結婚式場あるじゃないですかぁ。ウェディング・ドレスとかレンタルできませんかね? あたし的にはちょっとなーって感じですけど、御坂さんの初めてなんですから御坂さんの趣味に合わせますよ。あたしも一応処女ですけど、完全に初めてって訳でもありませんし」
「い……いやぁ……さすがにウェディングドレスは私も……」
「ですよねー。音楽とかどうします? あたしの携帯、
「そ、そうね」
「それと役割決めた方が良いですかね。レイプってんですから、御坂さんが攻めるんですか? あたしは御坂さんはどっちかというとネコだと思うんですけど。でも白井さんの扱いとか見てるとちょっとタチ入ってますよね。短パンですし」
「ですからその……佐天さんは一体何をおっしゃっているんでしょうか?」
美琴は思わず敬語になって、捲し立てる佐天に恐る恐る伺う。
「女の子にはいろいろと準備が必要って話です。せっかくだから朝ごはん食べてからにしましょうよ。だって御坂さん、昨日からほとんど何も食べてないでしょ」
「は……はぁ……そうね。って――いやいやいやいやいや! おかしいでしょ! 私、佐天さんをレイプするのよ!?」
「はい」
佐天は、美琴が何を焦っているのか訳が分からないと言ったように頷いた。
「……私は……あなたを傷つけて、裏切って、友情を踏みにじったのよ!?」
「いや、別に傷ついてませんけど……御坂さん、何言ってるんです?」
「でも……あなたの力を、人殺しに使おうと思ってるのよ、アンタ本当に分ってるの!?」
「だって
至極当然な解答。あまりにも正論過ぎて、美琴は自分が何をそんなに悩んでいたのか理解できなくなってしまう。
「えーっと……ごめん、ちょろっと頭がこんがらがってるみたいだわ」
美琴は本当に混乱していたのだ。今回ばかりは、良い意味で。深くドロドロとした闇の中で宿命的に滞っていた思考が、強烈な日差しによって地上へと昇華していく。問答無用で、一切の猶予もなく。美琴は全身を白日の下に晒され、その熱に浮かされて混乱しているのだ。
「じゃーその間にお風呂入っちゃいますね。どうせなら一緒に入ります? 知ってると思いますけど、ここのお風呂総大理石でジャグジー付きなんですよ!」
「あ、後で入らせていただくわ……お先にどうぞ」
◆
佐天は美琴と入れ替わりにバスルームから出ると、まずコンシェルジェに電話を掛けた。交渉は難航するかと思われたが、意外にもすんなりと了承が取れた。それから、美琴が置いていた予備のブラウスとスカートに手早くアイロンをかけた。常盤台の制服は布が少ない分柵川中学のセーラー服より楽なのだ。完璧に仕上げた制服を折りたたんで、美琴のいるバスルームに新しい下着と一緒にそっと置いた。もちろん短パンも。
美琴が清掃を断っていたからか、真新しいシーツがドアの横に置いてあった。シワ1つない熟練したベッドメイクを済ませると、佐天は髪留めをして自分も制服姿に着替えた。自分の下着は持って来ていないので、勝手に美琴の物を使わせてもらう。シルクハットをかぶった謎の生物が描かれているパンツだ。サイズも丁度いい。
いくつかのタオルとティッシュ・ペーパーを、ベッド脇のテーブルや応接机に分散して置いておいた。またコンシェルジュに電話をして、CDとアイスペールにいっぱいの氷を手配した。冷蔵庫からミネラル・ウォーターとコーラとシャンパンと引き抜いてその中に突っ込みグラスを並べた。これだけで1万円を超えていたが、そんなの知ったことではない。これから行うのは女の子の一生に一度の神聖な儀式なのだ。花瓶の置台を1つ拝借して窓際に持って行くと、その上に備え付けの聖書を置いた。素晴らしい眺望だ。
部屋の中を片付けてしまうと、佐天は思い出したようにレモン・キャンディーを放り込んだ。借りて来たクラシックのベスト盤をプレイヤーに入れて、タイトルも見ずに再生ボタンを押した。ヘンデルの『われは知る、わが主は生きたもうことを』が流れて来た。佐天が変えようと思った時、丁度美琴が風呂からあがって来た。昨日の死人みたいな姿と比べると、大分普段の美琴に近づいてる。
佐天は朝食に誘おうかどうか迷って、ベッドにちょこんと腰かけた。佐天はとても緊張していて、それを紛らわすために忙しく動いていたのだ。食事が喉を通るとは思えなかった。
「準備万端です。御坂さん、どうぞレイプしてください!」
「そ、そうね!」
美琴は左右の手足を同時に動かし、何もない所で5回もつまづきながら、やっとの思いで佐天の隣に座る。この短時間の間に何があったのか、石みたいにガチガチに固まっている。
「あ、あの……その……どうやればいいのかしら?」
美琴は声を裏返えらせ、膝の上に置いた手をプルプルと震わせながら訊いた。
「好きなように犯してください!」
美琴の緊張を解すために佐天は笑いかける。この状況では逆にプレッシャーだ。
「好きなようにって言われても……ほら、一般的にはどうするのかなーとか……あ、あるじゃない!?」
「普通はキスからですかね。あっち行きません? 窓際に立って……朝日を背にしてキスとか、どうです?」
佐天はさりげなく右手と美琴の左手を絡め、美琴を窓際まで連れて行った。学園都市の向こう、スカイツリーまで見渡すことが出来る。ここに誘ったのは、ファースト・キスと同時に花火を打ち上げる演出の為だ。佐天は基本的にエンター・テイナーなのだ。
美琴はしばらく景色を見下ろしていた。絡めた手は小刻みに震えていた。佐天は始め、それが緊張によるものだと思っていた。けれども美琴は一向に顔を上げようとしない。
助かる。これですべてが終わる。美琴には、この時何となく分っていた。佐天は嘘をついていない。自分は強大な力を得ることが出来る。
"加害者"
「ダメよ」
美琴は閉じた喉から捻り出すように言った。
「ダメって……この場所ですか? それとも夜じゃないとダメとか……? でも次の実験は今日の、」
「やっぱり私には、佐天さんに優しくしてもらう資格なんてない……!」
性交。昨日、佐天涙子は
「あの娘は……あの娘は私が殺したのよ……ッ!」
甘美な誘惑を焼き切る様に、美琴は全力で吠える。クローンが自らを実験動物と称したところで、痛みと苦しみが消えるはずがない。9982号がどれほどの苦痛を味わったのか、それを想像するだけで、美琴は今すぐにでも命を絶ちたかった。それがせめてもの償いではないかと思った。たとえ最良の未来を導くとしても……美琴に佐天の好意を受け取るような資格が――ある訳がない。
「……私のせいで9982人の
許されないことなのだ。9982号を差し置いて、自分だけが幸せになることなど。御坂美琴にとってこの世界は、既に終わってしまっているのだから。
「ねぇ御坂さん……『カラマーゾフの兄弟』って読んだことあります?」
不意に、佐天は注意深く言葉を選ぶように囁いた。
「……ロシア文学なら一通り読んだけど」
意図の不明な質問に、美琴は反射的に答える。ちなみに美琴はロシア語が読める。ドストエフスキーもツルゲーネフもトルストイも、美琴は原書で読んでいるのだ。正教への理解が乏しい美琴が、どこまで彼らに寄り添えたのかはさて置き。
「
佐天はほどんど囁くように言った。主人公、アレクセイ・フョードロヴィチ・カラマーゾフの言葉を。
「あなたじゃ……ない……ですって……?」と美琴は唸る様に呟く。
「あなたが
今度はアリョーシャとは正反対に、腹の底から力の限り声を響き渡らせた。ガラスが震えるくらいに強く、激しく。
一瞬でも気を緩めれば泣き崩れそうな顔で、美琴は佐天と目を合わせた。天使――そんなものが実在するとすれば、きっとこんな優しい笑みを浮かべているのだろう。美琴の顔面は蒼白になった。沈黙は1分にも及んだ。こんな仕打ち耐えられない。自分一人が他力本願の救いを求める事など、絶対に許されないと思ったから。
「ちがう……私が自分のDNAマップを……」
美琴はそれ以上言葉を続けることが出来なかった。佐天はもう笑ってくれなかった。糾弾するような目で美琴を睨みつけた。
「
いっそ糾弾されていい、美琴は本心からそう思っていた。でも佐天は何かが乗り移ったかのように、理解不能な宗教的物言いで攻撃する。
「悪魔崇拝って……何よそれ……あたしが、悪いって言いたいの?」
悪人だ。それ自体は美琴だって認めている。でもそれは……
「その通りです。御坂さん、あなたの思想は悪魔そのものです。あの娘は"あなたが殺したんじゃないッ!"」
その人物は佐天涙子であって佐天涙子ではなかった。美琴の脳には進行中の現象を佐天涙子として解釈する機能しか備わっていなかったというだけで……
「うるさい……あたしが……」
それでも美琴は反逆を続ける。佐天の唇が近づく……間に会わない。身を引く美琴。丁度その時、プレーヤーはハイドンの『天は神の栄光を語り』に切り替わった。
「……んっ!」
瞬間――地球の中心まで撃ち貫く極大の稲妻が、天空から渾身の力を以て振り下ろされた。
「えっ……なになになになになに、なによこれーッ!!」
唇の感触はほとんど分からなかった。触れたかどうかも分からない。たったそれだけで、拳大に圧縮された銀河で殴られたような凄まじい衝撃が、美琴の脳を押し潰すように揺さぶったのだ。一撃のもと、あらゆる感情が消滅し、破壊しつくされ、一切の原型を留めることはできなかった。同時に、御坂美琴の14年の人生の全てが、目の眩むような閃光と共に鮮明に再生され、物理的な現象として美琴の脳に焼き付けられた。
「今の……えっ……今のが……嘘でしょ……」
火災報知器が鳴り響いていた。美琴は何度も言葉を飲み込み、しどろもどろになって感嘆符を並べる。
それだけではない。幸福――圧倒的な幸福感が美琴を包み込んでいた。全世界のあらゆる憎しみが浄化され、創世と同時に約束されていた永遠の調和が果たされたような、有無を言わせぬ暴力的幸福。論理と感情の両方を完全に打ち砕き、ただ純粋な愛によって世界が祝福される感覚。まるで――――――――――
「ふぁぁ……すごい……これが、女の子同士のキス……」
気が付けば美琴はその場に膝立ちになり、天を見上げて夢見心地で呟いていた。
初春が狂うのも無理はない――美琴は彼女の嫉妬を心から理解し共感する。これは宇宙的規模を遥かに超えた祝福。まともな人間の身に耐え得るものではない。これを手放すことが出来るだろうか? 佐天涙子は誰にも渡さない――たった一度のキスを経験した美琴すら、そんな風に思いかけているのだから。同時に美琴は、佐天の味を知った初春を、純粋にテクニックのみで篭絡した黒子に、恐怖とともに畏怖を覚えてしまった。
「い、今の何ですか!? あたし……何したんですか!?」
けたたましく叫ぶ警報器。誘爆を起した打ち上げ花火が、ホテルをとり囲むかのように一斉に炸裂した。佐天は聖書とアイスペールを抱えて右往左往しながら、飛び散って来た火花が引火した床に氷を擦りつける。
一人で桃源郷に辿り着いた美琴は、佐天の腕をおもむろに掴み、近くにあった2人掛けソファーへと押し倒した。
「佐天さん…………いいでしょ?」
「これってまさか……み、御坂さん、鏡見てください、鏡ぃー!」
佐天は呂律の回らない舌で悲鳴を上げながら、自分を見下ろす美琴に、鏡の代わりに持っていたステンレス製のアイスペールを掲げる。そしてもう片方の手で、聖書のページを乱雑に捲った。エゼキエル書――佐天はそのページを広げて、異形と化した美琴の姿を仰ぎ見る。
「『おのおの四つの顔をもち、またそのおのおのに四つの翼があった』……!」
佐天は熱に浮かされたように呟く。美琴の頭の周り、羽の生えた3つの生き物の姿があった。カエルの顔――ゲコ太だ。見たことのない黒猫の顔、そしてキルグマーの顔が浮かんでいるではないか。カエルは鶏肉のような味がする、と言うことを佐天は思い出した。ならばゲコ太は鷲、黒猫は獅子、キルグマーは雄牛を意味しているに違いない。最後の1つは……美琴自身だ。
「『その翼は高く伸ばされ、その二つは互に連なり、他の二つを以て体を覆っていた』」
美琴の体からは純白の大きな翼が、2つは部屋いっぱいに羽ばたかせ、もう二つは体を抱きしめている。
「『この生き物の内には燃える炭の火のようなものがあり、松明のように、生き物の中を行き来している。火は輝いて、その火から、稲妻が出ていた。生き物は、稲妻の閃きのように速く行き来していた。私が生き物を見ていると、生き物の傍ら、地の上に輪があった』!!!
「
佐天はアイスペールと平行に、聖書を美琴に見せるよう掲げる。美琴の頭の上……天使の輪としか表現できない光輪が煌々と輝き、その間をスポークの役目を果たす空中放電が駆け巡っていたのだ。
「
ニコラウス・アーノンクールはウィーン・コンツェントゥス・ムジクスを音楽的な最高潮に持ち上げ、会場の熱狂が時間と空間と越えて佐天を突き動かしていた。聖書を天に掲げ、天地創造の感動に打ち震えながら絶叫する佐天。第三者が見ればカルト宗教に洗脳された哀れな信者であったが、今この部屋で、現実として天地創造が進行中なのだから仕方がない。佐天は世界が誕生するその瞬間に立ち会っているのだ!
「『
「佐天さん……ちょっと落ち着こうか」
佐天のあまりのハイテンションっぷりに、逆に恒常性バイアスが働いてしまったのか、美琴はやれやれと向かいに腰かけた。美琴が天使みたいな姿をしていたのは実のところほんの1秒にも満たない一瞬のことで、今はもう元の御坂美琴に戻ってしまっているのだ。
「す……すみません。いち都市伝説ハンターとして、伝説の瞬間に立ち会って気が動転してしまいました……! ああ御坂さん、あたしは御坂さんのお友達であることを改めて光栄に思いますよ、アーメン、アーメン!」
「いや、アーメンって言われても……」
佐天は未だに目を爛々と輝かせながら、大人気アイドルを見つめるように美琴をうっとりと眺めている。自分の能力が
「それで御坂さん、神様の答えってのは分かりましたか!?」
「ああ……うん。分かったことは分かったんだけど……」
「ぇええええええええええええええええええええ!! お、教えてください、『42』ってのは無しですよ!? それを知るために
美琴は曖昧な顔を浮かべて佐天を見つめる。美琴はケルブというよりも、ピラトにでもなったような複雑な気分だった。
「えーっと……あのですねぇ……ウィトゲンシュタイン曰く『語り得ぬものについては沈黙しなければならない』……なんちゃって」
「はい!? なんですかそれ、逃げるんですか御坂さん!?」
佐天は今にも食いちぎりそうな勢いで美琴に迫ってくる。昨日の迫り方とは明らかに意図が違う。知的生命体にとってその存在を規定する真理への欲求は、あらゆる低次元の欲求を超越し最優先されてしまうのかもしれない。
「マ……マタイ書13章34節! 『イエスはこれらのことをすべて、メタファーで群衆に語られた。メタファーによらないでは何事も彼らに語られなかった』」
佐天は福音書の該当ページを高速で探り当て、悔しそうに歯軋りをしながら美琴を睨む。
「ね? 神様本人だってたとえ話でしか真理を説明できないのよ。あたしみたいなただの中学生が、宇宙の真理を日本語で表現できる訳ないでしょ。元々日本語という言語にそういう機能は備わってないのよ!」
「むぅー……イエス様が言うんじゃ仕方ありませんが……あ、そうだ! それじゃ、ヘブライ語でお願いします!」
「いや……さすがにあたしもヘブライ語は話せないから! 仮に話せても佐天さん分からないでしょ!」
佐天はまだどこか納得できないと言った様子で聖書とアイスペールをテーブルに降ろし、よく冷えたシャンパンを2人分ワイン・グラスに注いだ。
「とりあえず、御坂さんの
「う、うん……これお酒よね?」
「乾杯!」
佐天は美琴の疑問も無視して、シャンパンを一気に飲み干した。シャンパンも葡萄酒の一種、人の子の血なのだ。美琴も雰囲気に押されて口を付けたが、舌がアルコールの刺激を受け付けず、ひと舐めしただけで応接机にグラスを戻した。口に残る薬品臭に耐えられず即座にミネラルウォーターで洗い流す。
「それじゃ御坂さん、エッチしましょうか!」
口内の液体を全部佐天にぶっかける美琴。突如話を蒸し返した佐天は、ビチョビチョにされたにもかかわらず、けらけらと無邪気に笑っている。
「今さっき、何が起きたのかもう忘れちゃったの!? 多分あたしのせいで避雷針が溶けて燃えちゃったのよ。もう消えちゃったみたいだけど。後なんかすっごい爆発してたし。あの爆発って花火だったのかしら……」
プロポーズを受け花火が上がる……美琴の乙女妄想を受けて佐天が手配していたわけだが、それどころの状況ではなくなったせいで当の佐天はすっかり忘れている。佐天はいつの間にか美琴の隣に移動すると、濡れた黒髪を肌に貼り付かせ、上目遣いで誘うようにクスクスと笑いかける。
「初春の時も火事になっちゃいましたからね。それじゃお風呂場でしましょうか、御坂さん?」
「だ、だからね佐天さん。変な意味に取らないで欲しいんだけど、初春さんと私じゃ出力が桁違いなのよ! 初春さんは火事で済んだけど、私の場合は本気で地球滅亡とかしちゃうかもしれないわよ?」
「そうならないように、努力して制御してくださいよ。だって御坂さんは努力家ですもんねぇ?」
佐天は美琴の顎を人差し指で持ち上げ、 生意気な顔でうすら笑いを浮かべる。見え透いた挑発。
先ほどの多幸感が尾を引いている美琴には、佐天の蠱惑的な仕草やほんのりと上気した肌が、つい数分前とはまるで違う意味を伴って見えていた。外見は虫と変わらないエビやカニを見て美味いと思えるのは、それを食べたことがある者だけなのだ。あの白く柔らかい肌に触れることが、自分の体にどんな変化をもたらすか。美琴は身を以て理解している。佐天の細長い人差し指が顔の輪郭ををなぞるだけで、むずむずとしたこそばゆい刺激が体の奥の方まで浸透する。
このままでは佐天の術中に嵌ってしまう。美琴は一人の女の子として、まだ譲れない最後の一線があるのだ。美琴は佐天の置いた聖書を引っ掴み、誘惑を振り切って元々置いてあった窓際の置台に設置する。
「あ、あたしはそういうことは、結婚してからじゃないとしないって決めてるの!」
女性の貞操がスーパー・マーケットの特売品よりも安売りされる現代日本社会において、御坂美琴のツンデレは古式ゆかしいキリスト教的貞操観念の裏返しなのだ。
「いや……だって御坂さん、さっきあたしをレイプするって言ったじゃないですか」
「それとこれとは話が別よッ!」
美琴は全身を面白いほど紅潮させて、甲高い声で叫ぶ。確かに先ほどまで、美琴は佐天と性的な行為に及ぶつもりではあった。けれども、それは妹達の殺害による精神錯乱を起こし、自分の理性が制御不能に陥っていたからに過ぎない。美琴の再編された乙女心は、
「あたしとせっ……せぇ……せ……せえ……せえ……せっ……あぅ……せっ……」
急性の吃音症にかかったみたいに、美琴は何度も声を詰まらせる。常盤台のお嬢様たる美琴に、そんな下品な言葉が発音できる訳ないのだ。
「セックスですか?」
美琴が20回程発音に失敗した単語を、佐天はあっさりと口にした。
「そ、その……あ、愛の営みをしたいのなら……私と結婚しなさいよっ!」
神の悪戯か悪魔の罠か、ハイドンは図ったかのようにメンデルスゾーンへとバトンタッチする。
『結婚行進曲』。
出来過ぎだ。美琴の精神が世界を直接改変しているとしか思えない。あるいはもっと具体的に、CDプレイヤーを電磁的に改変して『結婚行進曲』を流しているのだ。佐天は後者の解釈を選んだ。美琴ならやりかねない。
「御坂さん……あたしなんかでいいんですか?」
「さ、さあね! 早くしないと、私も気が変わるかもしれないわよ!?」
冷たい返事。しかし美琴がそんな高飛車な反応を佐天に向けること自体が、佐天を友人や後輩ではなく、一人の女性として意識している明白な証拠であった。かつてその感情は、ある特定の男に向けられていたものだと言うことを、佐天は女の直感で理解しているのだ。
行進曲の鳴り響く中、佐天は背筋をピンと伸ばし、一歩ずつ確認するように、美琴の向かいへと歩いて行く。結婚……いくら美琴がロマンチストでも、こんな唐突に結婚式が始まろうとは、佐天にも予測できなかった。
短くも濃い美琴との思い出が記憶から呼び起こされる。初春に誘われて初めて出会った日、美琴はファミレスで黒子と対面座位で抱き合っていた。上から目線のいけ好かない奴だと思っていた佐天を、一人の友人として認めてくれた美琴。それから
友達になっても、やはり自分には手の届かない雲の上の存在だった美琴……その美琴は、今は佐天の目の前で恥ずかしくて堪らないと言った風に頬を赤らめ、少し苛立ちツンとそっぽを向いている。
(かわいいのう……)と佐天は純粋に思った。
佐天は聖書に置かれた美琴の左手に、自分の右手を重ねる。『結婚行進曲』は少女の脈動に同期するように、壮大な主旋律に回帰する。
「主が……」
佐天が静かに口を開く。空を向いたままガチガチに固まっていた美琴は、自分の筋肉に直接電流を打ちこんで、強引に佐天と目を合わせる。
「天地創造を行ったとき、人をアダムとイブとにお造りになりました。ですが、最先端科学技術を用いれば、イブとイブにより、一体となることも可能です。 『そこでイエスは答えて言われた、"あなたがたには、天国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていない"』」
当然のことながらキリスト教は同性結婚を認めていない。それは旧約時代、モーセの律法以来の慣習だ。
使徒パウロはコリント書にこう記した。『信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である』と。それにここは学園都市。天使の降りる街。この部屋こそが少女達の教会であり、彼女こそが新たなる時代の司祭なのだ。そんな風に聖書を曲解しつつ、佐天は続ける。
「『しかし、あなたがたの目は見ており、耳は聞いているから、幸いである』。故に、『"彼女ら"はもはや、ふたりではなく一体である。だから、神が合わせられたものを、人は離してはならない』」
佐天は恣意的に抽出し組み合わせた異端的引用を終えると、新しい地球の空気を入れ替えるように大きく深呼吸をする。
「あたしは……」
さしもの佐天も、この時ばかりは喉がカラカラに乾き、頬には赤みがさしていた。美琴の手はその後に続く言葉を予期し小刻みに震える。
「神の教えに従い、御坂美琴を妻として迎え、その健やかなる時も、病める時も、富める時も、貧しき時も、命の日の限り、あなたに対して堅く節操を守ることを誓います」
佐天は誓いの言葉を追える。一仕事終えたような、しかしどこか不安気な目で美琴の目を覗き込む。
緊張で目の焦点の定まらない美琴。訳の分からない冗談みたいな引用だったが、佐天は結婚を了承したのだ。美琴は、できることなら逃げ出したかった。それは佐天が嫌いだからでも、結婚するのが嫌なのでもなく、ただ単に、羞恥心で頭がイカレそうだったからだ。気まぐれに電撃の一発でもぶちかまし、全てを台無しにし無かったことにする……今が最後の機会だった。
「あ……あっ……私……はぁ……!」
もちろん引き返すことなどありえない。美琴は佐天を愛しているかどうかは、確信を以て宣言することはまだできなかった。それでも、彼女は自分の為に、人生の全てを捧げる覚悟をしてくれたのだ。それは今だけの話でもなく、昨日だってそうだったし、きっと、いつでもそうしてくれただろう。
「かっ、神様の教えに従いっ……佐天さ……佐天涙子を妻として迎え……その健やかなる時も、病める時も! 富める時も、貧しき時も……命の日の限り! あなたに対して堅く節操を守ることを、誓いますっ!」
その時、佐天の顔には今まで見たこともないような満開の笑顔が花開いた。多分自分も同じような顔をしているんだろうな、と美琴は思った。緊張の反動で顔の筋肉が緩みすぎて、気を抜けば涎まで垂れてきそうだ。
「指輪はありませんが……」
佐天はそう言いながら、聖書から手を離して、自分の髪飾りを外す。美琴もそれを真似するように、ショートヘアをまとめていたヘアピンを外した。解放された短髪が小気味良さそうに風にそよいだ。
「神よ、この髪留めを祝福してください。これを身につける者が互いに忠実を守り、あなたの平和と御旨のうちに留まり、常に互いの愛を育むことができますように。私たちの主イエス・キリストによりて」
佐天の手が伸びる。美琴はヘアピンを握りしめたまま、佐天が付けやすいように自ら頭を下げる。指先が髪を掻き分け、純白のお花が美琴の短髪に咲いた。美琴も同じように、佐天の長い黒髪に、自分のヘアピンを収めた。自分の象徴の一つが佐天の黒髪に収まっているのを見ると……佐天が自分の妻になったという実感が、猛烈な恥ずかしさを伴ってこみ上げてくる。
「それじゃ御坂さん、」
「美琴」
美琴は佐天を遮って、掠れるような声でそれだけを呟いた。それ以上言葉は必要なかった。妻を名字で呼ぶ新婦がどこに居よう?
「み……美琴さん」
「うん、涙子」
10年来の幼馴染を初めて下の名前で呼び合うように、2人は互いの名前を口にする。たったそれだけで、美琴は皮膚が発火寸前まで赤く染まってしまう。
「主の教えを守り、御言葉に従い、慎んで主の祈りを唱えましょう」
佐天は紅潮しつつも、あくまで結婚式の完遂を目的とし、厳かに神父役を続ける。新婦にして神父。それが佐天……もとい今の涙子なのだ。
「天にまします我らの父よ。願わくは御名を崇めさせたまえ。御国を来らせたまえ、御心の天になるが如く、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪を犯す者を我らが許す如く、我らの罪をも許したまえ。我らを試みに遭わせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄えとは、限りなく汝のものなればなり」
「父と、子と、聖霊の御名によりて、アーメン!」
美琴と涙子の声が重なり、メンテルスゾーンは行進曲の演奏をやめる。これにて2人だけの結婚式は終わった。誓いのキスはなかった。それは安全上の理由でもあったし、2人の厳粛な儀式にはキスは相応しくないと涙子が判断したからだ。
「さて」と涙子は言った。美琴が浸る余韻をぶち壊すように。
その視線に卑猥なものを感じ取った美琴は、聖書を両手で胸に抱いておずおずと後ずさりを始める。
「さっそく初夜の時間ですよ、美琴さん♡」
上条「学園都市230万人の最終目的……それは超能力のその先にあるもの、