「シトリーさんが仰った約束を破るつもりはありません。朱乃や白音がグレモリーさんの眷属にいられなくなる状態となれば別ですけど、こちらとシトリーさんのいる世界の行き来する方法は確立していますし。ですから……」
「ありがとう、空知さん。ふふふ、貴方の言葉を信じようと素直に思えてしまうのは、貴方の魔力や気をこの身で知ったからかしら。さて、問題は私と椿姫ですね」
ひろくんの言葉にシトリーさんは頷き、表情を柔らかなものへと戻しました。問題と口にしながら、彼女にはどこか余裕があります。
「バニングスさんに指摘される以前に私や椿姫が似たような感覚を覚えたこともあって、空知さんの施術にはご本人の自覚有り無しに関わらず、そういう危惧はあるのかもしれないとは感じていました。ねえ、椿姫」
「はい、お聞かせ頂いた話で私達の予想の裏付けが取れました。自分の心のこととはいえ、厄介なものです。今の話を聞いてなお、空知さんの施術を受けたいと思う自分がいますので……」
「空知さんに魔力や気を巡らせてもらった後は、快眠後の目覚めにとても良く似ていました。昨日はよく眠れましたし、身体の調子が整えられている証拠ですね。姫島さんや塔城さんも毎日この施術を受けていると考えると、肌艶もいい状態に保たれているのが納得できてしまいます」
来訪者の二人は怒るでもなく焦る様子もなく、魔力や気の循環が与える効用と副作用を天秤にかけ、どうしたものかと思い悩む様子がありました。
「俺は非難されるものだと、思っていました」
「そうですね。私がここで空知さんを責めて、何か私に利をもたらす交渉をしても良いのですが……。ただ、そうなれば友好的な関係を築きたいと願っていることについてはひっくり返ってしまいますよね?」
シトリーさんはひろくんの魔力や気の循環がひろくん自身を雄弁に物語っており、あの温かさを知ることで好印象を抱きやすくなるのは、魅了に似た効果を差し置いたとしても十分考える話だと言います。
「私も若手悪魔の中では魔力制御技術に優れていると評される者です。自分の中を巡る空知さんの魔力や仙術の『気』の力が自分にどのような効果や副作用をもたらすのか、ある程度分析は出来たのですよ。個人差はありますので、椿姫には思った以上に効果が出たようですね」
朱乃さんや塔城さんの様子を見ても洗脳されているわけでもなく、自分の意思でひろくんに付き従うことを選んでいるように見えますし……とシトリーさんは補足していました。
「欲望に忠実たれ……他勢力にも知られている悪魔の有名な行動指針です。そこまで大げさなものではないにせよ、魔力の流れを整えられてリラックスした状態に誘導された上で、房中術に似た効果により一種の催淫効果を与えられることで、空知さんへの好意を誤認してしまう……そんなタネが分かっているのであれば、あえて我慢する必要がどこにあるでしょうか。もちろん、空知さんが嫌だと言うのなら無理強いするものでもありませんが」
「シトリーさん、俺は……」
「ふふふ、言い淀むのも無理はありませんね。実際に貴方の施術を受けた感覚を知っているのは月村さんや姫島さん達であり、その彼女達が懸念を示しているわけですから」
仮の話だと前置きをして、シトリーさんはひろくんに自分が惹かれてしまったとするなら、ひろくんをシトリー家の入婿にするべくあらゆる手を使うだろうと言います。ただ、そうなれば困るのは私達であり、自分自身も容易く心を絡め取られるつもりもないのだと。
『会長も自信がおありのようですけど、大翔さんの魔力や気の力を相当低く見積もっておられますね。そもそも、誤認という時点で分かっていらっしゃらないですわ。それこそ、今の発言を恥じるほどに大翔さんに嵌ってしまいかねないのに……。うふふ、家を捨ててでも大翔さんの傍にいたいと訴える会長が見えるようですわ』
身勝手な言い分に聞こえて怒りを覚えかける私だったけど、彼女の自分の理性に自信を見せる態度であったり、ひろくんがそっと背中に手を添えてくれたり、朱乃さんの念話を聞いたりしたことでひとまず矛を収めることにした。だけど、彼女への警戒心は一気に強まる。理性的に見えようとも、彼女は純血の悪魔。人の常識がそのまま通用する相手じゃないんだ。
「そういう話になるならば、貴女達に魔力や気の循環を行うつもりはありませんよ」
「……ええ、承知しています。先程申し上げた通り、私は貴方達と友好的な関係を築きたいのです」
きっぱりと通告するひろくんに対して、シトリーさんは柔和な表情のまま。手を静かに胸に当て、瞳を閉じた格好で彼女は自分の考えを語っていきました。
「空知さんの施術が身体のみならず心も蕩けさせて好意を抱きやすくなってしまうというならば、それを含めて自分の心を見据えればいい話です」
「……えー、感情ってそんなもんかにゃ?」
「自分の中でどう思うかは別ですよ、黒歌。ただ、その心に素直に従うのではなく、間引いて動くようにするのです」
「……会長。それは個々の性格に加えて、幼少期から感情制御を訓練し続けて始めて可能になる話だと思います」
真羅さんの指摘に首を傾げているシトリーさんだけど、悪魔の貴族としての教育を受けてきていると聞いている。多分、私やアリサちゃんが旧家だったり家業の跡取りとして受けてきた教育の一環に似たようなものだろうけど、私はそれでも自分の心を押し留めたり表に出さないようにするのが精一杯だよ。出来ない時だってあったりするし……。
自分の心に湧き出た感情を間引いて考えるって、よほど自分の精神が強くないと出来る事じゃないと思う。あるいは、最初から感情が欠落してるとか……そういう話になっちゃう。
「シトリー、今まで婚約者に嫌悪感とか好意を持ったりとかなかったわけ?」
「黒歌。貴女も知らないわけでは無いでしょう。悪魔の貴族同士の婚姻は個人の感情が入る余地は無いのだと。私は両親から一つだけ条件をつけていいと言われ、せっかくなので私よりチェスの強い者という条件を提示したのですが、どうにもこの条件が厳し過ぎたようでして」
……何回やっても、どれだけ研究しても勝てない婚約者が敗北感に打ちのめされ、とうとう婚約解消を申し出てきたのだそうだ。シトリーさんとしてはチェスの条件は別として、両家の意向に従うつもりがあったものの、ご両親も婚姻にあたって条件を飲む約束をし、相手側の婚約者もそれを知った上で当初受け入れた経緯もあり、どんどん意地になってしまったのだとか。
「良くも悪くも誇り高い貴族悪魔といった方です。チェスについて条件を受け入れ、私に勝てなかった以上、負け続けたまま私を強引に妻にするわけにはいかないと。危ない局面も幾度かありましたし、その都度互いに研鑽をした結果、たまたま私に運があったということだと思っているのですが。彼には悪いことをしました」
「……ああ、色んな意味で打ちのめされてしまったわけね……ご愁傷様にゃ」
「あまりに男女の機敏について理知的に過ぎる、ということだそうです……今後の会長のためと、相手の方も私に助言を残してくれたのですがこればっかりは……」
彼女は冷静ではあるけれど、冷たいという印象を受けるわけではないよね。ただ、相手の人が居た堪れなくなっちゃうほどっていうのは……。
「うーん。優秀に見えるシトリーさんの隠れた弱点、といった感じだねぇ……私は恋愛に限らず、わりあい気分で動いちゃう人だから真逆だよ」
「アリシアさん。男女間の愛情や憎しみは理屈ではなく、まして家族愛とも違うものだと、それは分かっているつもりなのですが……頭でしか分かっていないというのは、姉にも指摘されているのです」
「うん、恋愛なんて感情に振り回されてなんぼだと思うし……ひーちゃんみたいな人が相手ならシトリーさんも話がしやすいんだろうけど。とはいえ、ひーちゃんも私達のことが絡むと行き過ぎるあまりに感情を殺したりしてるんだよー」
「黒歌ちゃんの追手が来た時なんかそうだけど、シトリーさんは見てないもんね」
「……今の空知さんからは想像がつかないほど、冷たく怖さを覚える顔をされていました」
私の言葉に真羅さんがその時の感想を口にする。ひろくんは苦笑いであの時はごめんなさいと謝ったのに対して、真羅さんは家族のことを思うが故だろうからと気にしていないと応えてくれていた。
「まぁ、それはそれとして……うーん、マッサージを受けるのは条件付きでいいとは思うんだ、私」
「話聞いてたわけ、アリシア? 大翔の施術が彼女の理性を凌駕して、コイツに惚れたらどうすんのよ」
「色々手はあるよ。例えば、房中術にも似た効果を発揮する『気』については使わないとかね。ひーちゃんの場合、魔力だけでも体調を整える力は十分あるわけだし。あと、これは最後の手段だけど、シトリーさんがひーちゃんを独占しようとするようなことになれば、関連する記憶をぼやかしてしまう方法もあるしね」
「……記憶操作、ですか? 仙術や精神干渉の魔法を組み合わせれば、確かに可能かもしれませんが」
「身体に染みついた感覚までは消しにくいし、消すまではやらない方がいいけどね。無かったことにするっていうのは予想できない所で変な影響が出かねないから、ぼかすことで詳しい内容を覚えていない夢の感覚に置き換えるほうがいいんだよ。詳しいことは思い出せないけど、とっても気持ちいい感じの夢だった……みたいにね。恐怖とかはフラッシュバックして何かの拍子で思い出したりするけど、気持ち良かったことは無理やり思い出さなくても、いい夢だったことは分かってるからそれでいいよね、ってなりやすいし」
……ああ、そうだった。私はひろくんの命や心を守るためなら、家族以外のどんな犠牲も厭わないと決めているけれど、そもそも紗月さんはそれをずっと貫いてきた人。最近は私がその役割を務めることが多いから、この一面を見せることが少なくなっていたけど……。そして、同じ身体を共有するアリシアちゃんも紗月さんの影響を強く受けているから、ひろくんやひろくんの大切な人達と敵対する相手には一切容赦することがない。
ほくそ笑むアリシアちゃんと紗月さんは一旦言葉を切って、間を取り順番に場の皆へ目線をやった後、再び口を開きました。
「さて、ただ『気持ちいい』という感覚なら忘れる必要はないよね。だから、ただの魔力や気の循環じゃなくて、そこに加えて互いの感覚を共有して制御が効かない状態を実体験してもらおうと思うの。理性ではどうしようもない感情や感覚の力があるってこと、体験してみる勇気はある? 記憶はぼやけたとしても身体で一度覚えれば、理屈が通じない体験をいうのを身体は忘れないから、理性的なシトリーさんの考え方も少しは変わると思うよ」
「あら、これは挑発されていると受け取ったほうがいいのでしょうか」
「どう受け取ってもシトリーさんの自由だよ」
「……やりましょう。空知さん、宜しくお願いしますね」
◇◇◇◇
アリシアさんの軽い挑発に乗る形で、私や椿姫を含めた女性陣はエステサロンで使うようなバスローブに着替えます。更衣室での着替えの際にあまりに堂々とされていたので、隠すつもりもなかったようなのですが……私と椿姫を除いた皆さんはローブの下は何も纏っていません。指摘した私にちょっとした対策なのだとアリシアさんは仰いましたが、何に対しての対策なのかはすぐに分かるとのことで煙に巻かれてしまいました。
さて、着替え終わった後はもう一度部屋に戻り、他の方々と一緒に空知さんを中心として円を作ります。円の下にはアリシアさんが作成した魔法陣が組まれており、後は起動させるだけの状態となっていました。
「ひーちゃんだけはちゃんと除外対象に出来てるし……よし、これでいいね。黒歌ちゃんのお陰ですずかちゃんの特殊能力に頼りっぱなしだった『感覚共有』も『気』を理解したことでこうやって魔法陣でも組めるようになったもんね。感謝感謝♪」
「いやいや、仙術系統の力を魔法の数式に書き換えられるアリシア達もたいがいにゃ。書き換えは大翔の力を借りずに、すずかとアリサとアリシアでやったんでしょ?」
「そうだよー。だって、私達が楽しむための目的だし、ひーちゃんの時間を取るのもどうかと思ったからー。それに魔法陣なら起動してしまえば効果時間の間は発動した人間も制御に手を取られないし、効き過ぎたと思ったら陣の外に出ればいいからねー」
軽い調子で話しているものの、アリシアさんの言っていることはそう容易く為せることではありません。そんな苦労を全く感じさせないような軽口を崩すことなく、アリシアさんは再度私や椿姫にも耐えられないと思ったら陣の外に出るように告げて、陣を起動させたのです。
「さて、この陣は起動した人の感覚を陣の中にいる人に共有させるものだよ。だから、すずかちゃんが起動し直せばすずかちゃんの感覚が共有されるし、シトリーさんがやったとすればシトリーさんの感覚が以下同文なの。ま、早速体験するのが早いのでやってみよー。ささ、ひーちゃん。私を膝の上に乗せて下さいな。あ、白音ちゃんはステイね」
「私は野生の猫なんかじゃ……あっ……」
塔城さんの抗議の声は自然と立ち消えてしまいます。そう、私も同じ感覚に囚われたから分かってしまう。空知さんの魔力や気がアリシアさんを巡ることによる、なんとも温かなあの包まれるような感覚だけではなく……お腹の最奥が突然強い熱を持ち、鈍い痛みにも似た感覚を持ち始めたのです。
私が知らない、初めての身体の反応。そして、この感覚をアリシアさんは当たり前のように受け入れているのに戸惑いを覚える間もなく、彼女が空知さんの胸に顔を寄せて彼の匂いを胸いっぱいに吸い込んだ途端、熱と鈍痛が一気に強さを増していったのです──。
☆次回予告風
理性の力を信じるソーナ・シトリーは自身の拠り所が音を立てて崩れていくのを痛感する。
自らが女であり、雌であることを意図せぬ形で無理やり自覚させられていく彼女は、
このまま堕ちて変質してしまうのか──!
『会長、堕ちてしまえばきっと幸せになれますから』
裏切りのユダ、椿姫の囁きが彼女を追い詰めていく……!
(なお、あくまで予告『風』であり、この通りになるわけとは限りません)