窓のそとから雨の降る音が聞こえてきた。
降水確率60%とテレビが朝から告げていた今日の曇り空は、昼を過ぎたあたりから崩れて遂に雨になった。
傘をさしたり、或いは小走りに雨を避けていく人を窓越しに見ながら、彼は手元の淹れたばかりのコーヒーに口をつけた。
疲れた顔をした青年だった。
よく見れば年齢は20代前半といったところなのだろう。だが、彼の顔には倦怠と、今までに負ってきた苦労の痕が皺としてありありと刻まれていた。
彼は力のない瞳で自分の店を見渡す。
薄暗い店内である。本来ならばこんな時間から電気を点ける必要のない日当たりのいい構造なのだが、今日ばかりはそうも言っていられないらしい。
飲みかけのカップをテーブルの上に置き、電気のスイッチを押すために立ち上がった。
きちんと整理して置かれたテーブルと椅子、メニュー表。ガラスケースに収められた複数のパン……
彼が実家の稼業であるパン屋を継いでから早くも一ヶ月近くが経っていた。慣れない接客業に当初は苦労をしたものだったが、もとから人と接することは苦手ではなかったために慣れるのに時間はかからなかった。
元より、地元に根ざした店である。来るのは常連の客が多く、難しいことはほとんどない。この頃では変則的に地元の高校にかよう生徒なども利用するようになっていたが、その扱いも大分わかってきていた。
新しい生活も大体のところで順調と言えた。
彼はつい先日まで、行く宛も定まらぬ旅をしていた。夢のために――当初はあった目的も、世間を知り、己の無力を知るにつれて、あえなく霧消した。故にその旅に目的地などあるはずもなく、その日その日をかろうじて過ごして行くだけの日々を送っていたのだった。
そんな折に親から1年間の期限付きとはいえど、店を任されたのは渡りに船だった。
特に楽しみがあるわけではない。だが夢に敗れ、途方にくれるばかりの日々より、今の生活は幾分ましである。
電気のスイッチに手を伸ばす。指先が触れるか触れないかのタイミングで、窓から差し込んだ光が、刹那の間店内を白く染めた。
続いて聞こえてくる重い轟に、彼は目を細める。
「春雷、か」
珍しいそれに関心のような感情を覚えながら、一度は止めた指先を強く押し込む。かちり、と乾いた音はすれども、一向に部屋の中が明るくなることはなかった。
訝しみながら複数回スイッチを押してみるが、やはり反応はない。どうやら先ほどの雷で停電が起きたらしい。
本当に珍しいことだった。
復旧をまつより他に為すすべもないため、彼はゆっくりと元の席へと歩いてもどる、そんな折だった。
来客を告げるドアベルの音が響いたのは。
「いらっしゃ、」
定型文となった挨拶を口にしようとして、しかしそれは言葉にならなかった。
開いたドアから、雨の湿った匂いに混じって流れ込んでくるものがある。
腐臭――
それも、この世のものとは思えぬ匂いだった。
血と汚物、汗、硝煙。肉体が、本能が忌避し、拒絶を起こす匂い。
体の芯から湧き上がる嘔吐感をこらえて息を吐き出すと、瞬く間にその匂いは消え去った。
もとよりそんな匂いなどしていなかった。
店に入ってきた男がまとった雰囲気が、彼の体にそう錯覚させたのだった。
改めて来客に目を向ける。
小柄な男だった。春も終わりに近づく季節には不自然な黒い厚手のロングコートを羽織り、フードまですっぽりとかぶった、不気味な姿をしていた。
雨の中をそのまま歩いてきたのか、コートを滴る水滴が彼の足元を濡らしていた。何故かそれはまるで血だまりのように見えて、ひどく不快であった。
「いらっしゃいませ。お好きなお席にどうぞ」
不信感を努めて顔に出さぬように、奇妙な来客に席を勧める。だが男は、彼の声が聞こえているのかいないのか、その場に立ち尽くすばかりだった。
「お客様?」
訝しんだ彼が近づく。
ふと、フードに隠れた男の顔が、にやりと笑った――ような気がした。
彼は自分の背中を冷たいものが走るのを感じた。
こいつは、違う。
目の前にいる男はこの世のものではない――
そう思うほどの恐怖を感じた。
「久しぶりだな」
そう言って男は、固まったままの店主の前で徐にフードを下ろした。
まだ若い。20にも満たない少年の顔、しかし、その年からは考えられないものがその顔には浮かび上がっている。死相などというものがあるのならば、まさにこれだと言わんばかりの業の深い顔つきをしていた。
口元を釣り上げて笑う彼の瞳――底が見えぬ程の黒。一体何を見ればそうなるのか、まるで死人の如き、光のない目。
「……てめぇは」
ようやく絞り出すように声を出すことができた。
店主の顔はひきつり、悲哀とも、憎悪とも、寂寥ともとれる、複雑な表情を浮かべていた。
「カタギに戻れたみたいだな、喧嘩屋」
少年はからかうような調子でそう告げる。
「……拝み屋」
対する店主は彼を真っ向から睨みつけ、彼のことをそう呼んだ。
これは語られることのない話。
知るものさえもいない、救いのない物語。
†
人生に必要なのは、立ち向かっていく気概。
そんな風に考えていたこともあった。
幾つもの失敗を、幾十の挫折を、幾百の困難を乗りきって未来を目指し、夢のためだけに駆け抜けて来た。
だけどそれは違った。
人生に必要なのは諦めと妥協。努力が報われることこそ少ないのだと、そう気がついた時には手元にはなにも残っていなかった。
夢を失ったのではない。
己の才能が夢を裏切っただけのことだ。
彼はそう考えている。
今にも消えそうな暗い蛍光灯に照らされた小さな部屋の中、マッチを擦ってタバコに火を点けた。
重い煙を肺イッパイに吸い込んで、一拍置いて吐き出す。
14歳の頃から吸い始め、6年間一日として欠かすことなく吸ってきたタバコの味は、いつもと変わらずに安心をもたらしてくれた。
「きょーちゃん!仕事だよ」
「うぃーっす」
店長の声を受け、彼は吸いさしを山盛りになった灰皿に強引に突っ込んで立ち上がる。
まだ若い男だった。20代前半から10代後半、顔立ちは決して悪くはないが取り立てて良いというわけでもなく、身長も体格も至って凡庸な、どこにでもいそうな若者だった。しかし、彼の顔に張り付いた気怠げな表情の裏側に時折見え隠れする諦観の相は、その年代の若者には些か不釣り合いなものであった。
「アユちゃん、今日はもう上がるから家まで送ってあげて」
「おっす」
「くれぐれも手は出さないでよ?うちの稼ぎ頭なんだから」
「へいへい。まぁその辺は信用してくださいよっと」
店長の揶揄を適当に流して、京助は店の裏手の従業員出入口に向かう。
扉の外で携帯を覗いていた女性が彼に気づいて笑顔を浮かべる。
「あぁ、きょーちゃん。送ってくれるんだ?やさしー」
「仕事ですからね。さ、さっさと行きますよ」
両手をポケットに突っ込んで、ネオンの輝く夜の街をいく。
よれよれの開襟シャツと汚れのついたスラックスをだらしなく着崩したその格好は、きらびやかな街の風景とはどこか不釣り合いであった。
彼は黙ったまま、女性のそばをつかず離れずの距離で歩いていく。
「ねぇねぇ、きょーちゃん」
「なんすか、鬱陶しい」
迷惑そうに目を細めて返すが、言われた本人は気にした風もなく、むしろ楽しそうに、
「何かお話しようよ。いっつも何も言わないんじゃつまんないって」
「お話?……俺は口下手でしてね。何か話題振ってもらえるなら話しますよ」
「話題ね……」
んー、と思案にしたかと思うと、
「きょーちゃんって彼女とかいるの?」
「残念ながらそういうものにはとんと縁がなくてね。……ってかあんた、言うに事欠いて初っ端の話題がそれかよ」
「もしかして今まで彼女とかいなかったの?」
「もしかしなくても、です。あいにくとお世辞にも良い見てくれでも性格でもありませんからね。」
自虐的に言いながらも、彼の表情は少しだけ暗かった。どうやら少しは気にしているらしい。
そんな心情を目ざとく悟ったのか、彼女は茶化すように、
「あぁ、そういえば、まだ童貞だっけ?なんならお姉さんが筆おろししてあげようか?もちろんお金はもらうけど」
「是非にも願いてぇところですが、あいにく金に余裕がなくてね」
軽口を聞きながらも、呆れたように溜息をつく。
女性と彼がそんな取り留めのないやりとりをしているうちに周りの景色は街から住宅地へと変わっていた。
「んー……?」
「……何すか?」
不意に女性が彼の顔を覗き込み、何やら思案げな表情を浮かべた。いきなりの事に彼も困惑していると、
「きょーちゃん、言うほど顔は悪くないのにねぇ。もうちょい楽しそうな顔でもすればマシに見えるのに」
「そうっすか?」
「うん。何だかいつも人生に疲れきってるような顔してるんだもん。折角若いんだから人生楽しまなきゃ」
女性にそう言われて、彼は曖昧な笑みを浮かべた。
別に人生に絶望しているなどという厭世的なことをいうともりはないが、人生の楽しみ方などというものも分からない。
それが分かれば今の職にはついていない。
「実際、疲れてはいますがね」
「あと、その性格」
「うるせぇ、余計なお世話っすよ。……齢、20を越えちまったら性格なんざ直しようもないでしょうに」
京助の言い方が面白かったのか、ひとしきり明るく笑ったところで、彼女は、
「あぁ、ここでいいよー。それじゃ明日もお願いね」
「うぃっす」
彼女がマンションに入るのを見届けて、彼はポケットから取り出したケースを探る。残されたタバコは後一本だけだった。
後で買い足しに行かなければ……そんな風に考えながら、虎の子の一本に火を点けた。
何口か煙を飲んだところでタバコを二指に挟んで、溜息をつく。
「おい。隠れてないで出てこいよ」
何気なく、それこそ独り言でも呟くかのような調子で告げられたそれに反応するものはない。
否――
彼らがついさっき歩んできた一本みちの、電柱の影からゆらりと姿を現した男がいた。
くたびれたスーツ姿はまさに通りすがりのサラリーマンと言った風、しかしその瞳はおよそ常人とは思えぬ程に血走り、何よりも彼の手には鈍い輝きを放つ果物ナイフが握られていた。
「あんたか。探す手間が省けたぜ」
タバコを口にくわえて器用に言うと、彼はその男に一瞥をくれた。
暗く、冷たい目。
「お前、アユちゃんとはどういう関係だ?」
「さぁな?どういう関係だと思う?」
軽薄な調子。煽るように言いながら、彼はそっと腰を落としていった。
男がどう動こうとすぐに仕掛けられる、そんな攻撃的な構えだった。
会話を通じながら、身の内から抑えられない欲求がこみ上げてくるのを感じていた。耐え難い、暴力への衝動。
「お、お前は!」
「俺のことより、あんたのことだ。あんた、そんな危ないもので何をしようとしてんだ?」
「僕は、僕はただアユちゃんに会おうとしてただけなんだ!会えば絶対分かってもらえる!」
深く吸いこんだ煙草の煙を、まるでため息でも付くかのように吐き出した。
話をするだけ無駄――
彼は男の言い分を聞く前から既に呆れているのだった。
そんな彼の態度をどうとったのか、男は震えるナイフの切っ先を青年に向けた。男は我を忘れているようだった。
小さくなったタバコを、吐き捨てる。
「弱ったな。そんなものまで持ち出されると――」
にぃ、っと彼の口元が左右につり上がった。
続いて彼の足元で、じりりと地面と靴底が擦れる音がする。それは何故か、雷の前触れを思わせるような音に聞こえた。
「手加減が出来ないじゃねぇか」
彼の顔に浮かんだ表情が、ひどく獰猛な微笑みだと気づいたときにはもう全てが遅かった。
数歩分はあったはずの距離が一息で詰められ、跳ね上がった右足のつま先が男の手首に打ち込まれた。
骨の砕ける音がした。
遅れてやってきた手の痛みに男が顔をしかめる。その時には既に青年は次の動きに移っていた。軸足をチェンジ、左足の膝が男の鳩尾に叩き込まれる。
びっ、と異様な音が響いた。
男は数歩、後ろによろめいて血の混じった吐瀉物を撒き散らした。膝は彼の胃壁を破っていた。
まさに迅雷の動きだった。
宙を舞ったナイフは街灯の光を受けてキラキラと輝くと、やがて青年の手の中に吸い込まれるようにして受け止められる。
「汚ぇな」
鳩尾を押さえてうずくまる男の頭を、思い切り踏みつける。
自らの吐瀉物に顔をうずめて、男は苦悶の表情を浮かべていた。
「これに懲りたか、ストーカー野郎。二度とうちの店の娘のまわりをうろちょろすんじゃねぇ。次は……」
す、と彼の目が細まった。
人の命など、なんとも思っていない、そんな暗く深い目をしていた。
「殺すぜ?」
後頭部を踵で思い切り踏みつける。
気を失ったのか、何の反応も示さなくなった男の頭を軽く蹴飛ばした。
――足りない
残ったのは寂寥感とイラつきだけだった。
自分が欲しいのはこんな瑣末な快楽ではない。求めているのはもっとひりつく様な、ギリギリの緊張だ。
物心ついた頃から喧嘩が好きだった。
イラついたから人を殴った。殴ったら殴り返された。だから泣くまで殴りつけた。
そうやって暴力を振るうことには特に抵抗はなく、むしろ楽しささえも感じていた。頭も悪ければ顔も悪く、運動も人より優れているという訳ではない、そんな彼にとって暴力が唯一の自己表現の手段だった。
暴力の中でこそ何も考えずにいられる。だが、この程度では、事が済んだあとには何も残らない。終わったことに安堵を感じるような――生きていることを感じられるような体験を、彼は求めているのだった。
これまでに渡る挫折の日々を、自身を取り巻く不安を、全て忘れ去ってしまえるような緊張感を欲しているのだった。
獰猛な獣のギラツキを目に宿したまま、青年は帰路に就く。
獣は名を、津田 京助といった。