自分が誰かもわからないまま
それでも
決して失われないものなど
あるんだろうか?
心も身体も
壊れてしまったとしても
*enough:充分な,必要なだけの
Ⅰ.欠落
最初からえぐりとられていたのだ
私には意志というものがない
なんのために此処にいるのかさえ
何の答えもない
ただなぶられるまま
抱きよせられるまま
棄てられるまま
何かを欲しいと思うことはない
ただひとつ
なにか求めるものがあるとしたら…
それがこの空虚を満たしては
くれないだろうかと
気がつくとどこかわからない処に寝かされていた。全身の痛みに気を失いそうになった。そこが病院で、私は患者で、身元がわからず、何故海岸に倒れていたのかも何もわからなかった。最も決定的な事由は私に記憶が欠落していたことだった。ただ若い男であることを除いては私が何者か誰も知らなかった。もちろん、私自身さえも。
なにもかもが空虚なとき、ひとはなににすがるのか? 拷問のような日々をどのように命を保つのか。喪失しか持たないのに。自分自身すらなくしたというのに…
病院での治療も、警察の身元捜索も、全くといっていいほど進展せず、気が狂うような心の煩悶が日々を増して正常な意識を蝕んでいく。ナースでさえ慰めの言葉を失うころ身体のあちこちにあった骨折だけは癒えてきて、歩行のリハビリのみが順調な進捗を見せ、私は車椅子から解放された。
過去の記憶が一切ない…
残酷なのは、過去を失った喪失感だけは忘れることが出来ないことだ。その喪失感がなければ私はこんなには苦しまなかったのかも知れない。眠りで意識がない時だけ私は安らぐことが出来た。それ以外は延々と続く、目覚めることのない悪夢の中で、絶望と悪寒に支配される。病院で目覚めてすぐに私はだんだんと眠れなくなった。唯一の逃げ場すら失われそうになる。担当医に睡眠薬をもらう。それはだんだんと強い薬になり、安定剤と精神薬がひとつづつ増えた。
人は空虚をどのようにして埋めるのか?
その答えは深夜の病室で静かに始まった。まるで磁石に砂鉄がやすやすと引き寄せられるように。安定剤と睡眠薬のカクテルにすっかり酔いが回ってくるころ、深夜のいつも決まった時間にそれはやってきた。
薬でモウロウとした夢のような意識の中で、半開きの唇の間に生温かい舌が押し込まれる。舌が抜かれ唇が吸いとられ、それが夢の中で永遠に続いていくか…のように感じ、身体の記憶が朝の目覚めの中で再現される。あまりにも混濁した意識には、これが現実か夢なのか判別が出来ることはなく、ただ圧倒的な融解感に痺れるだけの身体が、記憶のない絶望をその時だけ忘れさせてくれるようで、抗うこともないまま、されるがまま、ただ溺れた。今の自分に溺れるものがあることが、安らぎの代わりに心を満たすような
どれだけの時間かは知らない。いつも知らぬ間に眠りに落ちて、目覚めの中で不思議に快楽の残り香だけがただよい、日々の悪夢の苦痛のその上にその快楽の残像はたまらないほど切なく、ひとりでに自慰の回数が増え、それでもなにも満たされない自分に焦りがつのり、意識のある寝るまでの時間がますます辛く渇いていった。
そんな状態のさなかに歩けるようになってしまったことが、逆に私をある方向へと駆り立てていくことになった。
足首は痛みがありつつも、びっこをひきながら伝い歩きが出来るようになったある日、松葉杖で海岸に初めて出た。
此処に倒れていたのか…と思いはしたが、その記憶すらない。気を失っていたのを散歩中の誰かが通報してくれた。その誰かは警察もわからないという。私は病院の記憶しかない。全ての記憶が病院での暮らし。病院で産まれたみたいに。
不意に、深夜の淫靡な感触が身体にフラッシュバックしてきた。全身のおぞけ。そして融解感。気が狂うような焦躁が胸の中で渦巻く。下腹部の激しい灼熱感に突然襲われた。
ああ、ダメだ…
もう耐えられない…
手が自然に松葉杖を離していた。海に吸い込まれるようによろめきながら右足を引きずり、柔らかい砂の上を歩き始めた。
この灼熱感も焦躁も絶望もなにもかも全部、この冷えきった海の中で終わらせてしまいたい。命の火がこの身にあること自体、もう耐えられない。なんのために生きているのか、なにもかも欠落したままで…
少し笑った。これでは、生きて、いけない。
無理だ。そう、もう、無駄に苦しみたくないな。
毎日毎日、少しづつ気が狂っていく。苦しい。苦しいんだ生きていることが。
唐突に冷たさを足首に感じた。波が打ち寄せるところまで歩いたのだ。足が砂にめり込む。引きずった足を取られて身体が波の中に落ちる。一瞬で全身が波に覆われ、引き際に身体が持っていかれた。服の重さが身体の自由を奪う。口から潮の味が侵入してくる。冷たさと深さに私は微笑んだ。
秋の海。人影もまばらな…逝ける…
私は身体の力を抜いた。
絶望しているものには悪魔は優しいのに、私を誰も楽にさせてはくれなかった。海さえも。
突然誰かが私の手をつかんだ。
「バカなことするなあぁっ!」
そんなふうな叫び声を遠くで聞いた気がする。バカなこと…という言葉が可笑しく、私は水の中で少し笑った。今の私を誰が理解する? 誰が私を止められる? 死よりも辛い絶望から生還しろと言うのだろうか。そうでなければこの状態で生きていろと? あなたなら生きていけるのか? 私の手をつかんでいるあなたなら? 毎日毎日拷問に苦しんで、発狂しても死ぬことすらできない。
助けるな。この絶望がわからないなら逝かせろ。もういいから。
白衣が海風にあおられて海中に沈んだ。ナースじゃない。男だろう。しかしなぜ…
…温かい…素肌の感触?
きつく抱かれ、鼓動が互いの胸に響く。
低体温で全身の震えが止まらない。
だが温かい…
さっきまで自分を抹殺しようとしていたのに。
逝かせてくれと懇願していたのに。
この温もりが泣きたくなるほど、突き放すことができない
温かい…
震える身体がさらにキツく抱かれる。交錯する…死にたい…死にたい…
なのに…こんな誰かもわからない人肌でさえ突き放せない。
いや…手放すことができない。
こんな事が今の私には救いなのかと思うことにも、このぬぐいされない体温にも、
苦しみと切なさに涙があふれて止まらなかった。
あの日病院で目覚めた日から、私は初めて泣いた。涙と同じ塩辛さの中で。
私を海から連れ戻したのは、担当医ではなかった。それは私の骨折や脱臼を治療した整形外科の医師だった。彼は以前リハビリの専門病院に勤務していたらしく、リハビリのプログラムも普通の総合病院としては定評があるようで、彼の科はいつも外来患者であふれていた。
彼はいつも快活だった。患者にも同僚にもナースにも。だが私はその明るさを嫌悪していた。他の患者と同じように彼は私にも気軽に話かけた。いたたまれなさと戸惑いが同時に襲ってくる。私は黙ったまま頷く。または首を横に振る。それだけの応答…目も合わせずに。その明るい世界は、私には二度と戻っては来ないから。
彼の姿を見るだけで自分の闇と彼の明るさが無情なコントラストとなり、それは、お願いだから私の前には現れるなと耳を塞いで祈りたくなるほど苦痛に満ちた時間だった。よりによってその男が、私を海から引きずり出し、わざわざこの毎日の拷問の日々へと送り還してくれたのだ。
なんという皮肉…
ただ、一度だけ屋上から海を見ている彼に遭遇したことがあった。松葉杖で階段を昇る練習をしながら、私はその時なんとなく屋上まで出てみようと思った。
それは夕暮だったからかもしれない。逆光だったからか、後ろ姿だったからか…。だけど彼はその時、いつもの彼ではなかった。あまりの淋しさに彼は茫然としていた。少なくとも私にはそう見えた。あの快活さとの落差は一体なんだろう? なんの興味も持てない私の目に、しばらく焼き付いていたほど…
私は気づかれないようにそっと屋上から離れた。彼の淋しさはなぜか私にほんの少しの優越感をもたらした。そんな淋しいのにこの私に笑いかけるのかと。
眠りにおちる直前の深夜の魔界がまた、ひらく。ああ…きた。薬で薄れた意識の中に生暖かい唇の感触。なぶられるままに声もでないまま喘ぐ。舌がまたゆっくりと唇の間から押し込まれる。身体が動かない。声も出ない。そうなる時間をこいつは知ってる。消灯後の病室は暗くそいつの顔を未だにみたことがない。不思議なのは、犯すのは唇だけ、だということ。私の下半身は激しく反応しているのを知っているはずなのに、唇以外の身体の他の部分はすべてスルーし…
あ…また…なぶられる。舌をかきまわされ柔らかく吸われる。頭が痺れてくる。指で唇がいやらしくなぞられ、その指で歯をこじ開け口に埋めこまれる。一本…二本…と指が舌をこねまわす。それが執拗に何度も繰り返される。気が遠くなりそうな淫靡な指の動きに、薬のモウロウ感とは違う痺れが頭から身体中に広がっていく。こんなに感じてしまうもの? たった唇と舌を犯されるだけで、喘ぎ声が微かに洩れ始める。
あ……あ…あぁ…
いつの間にか毎日待ち焦がれてしまっている。そんな自分がいる。期待を裏切らずそれはやってくる。海で死にかけたあとも変わらずにやってくる。もしかしてあいつなのか? 私を死なせてくれなかったあの男、なのだろうか。私に人の体温を刻みこんだ、あの快活な好青年のふりをしている、あの…
架空線が初めて世に晒した処女短編小説(2010年)を、うちの避難シェルターことハーメルンにて一挙公開となりました。R仕様のため、もう元の小説サイトには戻れないかも…(*この短編が元になって書いたスピンオフで25万字の長編小説『失われた物語』(鬼畜なR-18)もそのうちこちらに避難してきます。いつか連載になると思いますが、お暇でしたらご閲覧下さいませ。宜しくお願い致します)。