※この作品はR-18です。

イナフ ー失われた物語ー   作:架空線

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Ⅱ.溺れる

 その答えはあまりにも意外なところからやってきた。

 

 その日ナースは夕方に呼びにくる。月一回のルーティンな診察日だ。内科の診察で夕方過ぎに検査室に入り、採血のあと頭部の脳波検査、その後私の担当医の行う脳神経と内科の診察となっていた。検査室を出る頃には外来の最後の患者も終わり、かなり特殊な診察や問診を行わなければならないような私のケースのために、第1診察室には私と担当医の二人きりになる。私の担当医は、普段あまり私に関わりたくないようで、顔を合わせるとしたらこの月一回の診察くらいだろう。普段はナースに日誌や行動記録をつけさせ、回診も毎日は来ない。いってみれば私はこの病院の厄介者なわけで、嫌がらせのように「早く出ていかないかな」というような態度を示しているのだろうと、彼の態度を見るにつけ、私は心苦しさを感じていた。

 いつものように無表情な顔をした担当医の前に腰掛け、いつものお決まりの触診が始まる。脈と血圧のチェック、瞳孔を片方づつペンライトで照らしたあと下瞼の血膜の色を指で確認する。

「はい、口を開けて」

 言われるままに口を開き、担当医が喉の奥を無表情に覗きこむ。ワゴンの拑子立てからステンレスの舌圧子をとりだし、もっと奥を良く見るために彼はゆっくりと口の中に金属片を滑り込ませた。いやな予感がしたのも束の間、口の中で金属片が舌をなぞりあげたその瞬間、真夜中にしかやってこないあの感覚が、舌全体に広がっていった。

 

 あ…うそだ…だってこんな…こんな異物でも…?

 

 金属片が左右に動かされるたびに、全身をゾクッとおぞけが貫いた。だめだ…耐えられない。口の中をそんな…あ…体が勝手にびくんと痙攣した。だめだ…これ以上続けたら…しかしその異常な感覚を、もう止めることはできなかった。

 口に差し込まれた一枚の金属片は、まるで鍵穴に差し込まれたカギだった。そして深夜にしか開かない魔界の扉の鍵が、夕暮れに弾けて飛んだ。扉がきしみながら大きく開いていくのが見えた。理性が完全に吹き飛んでしまうような激しい性感が全身を貫き、うめき声と共に、私は思わず舌圧子を噛み締めたまま首をのけぞらせ、気がつけば彼の指先からそれを奪い取ってしまっていた…。

「どうした?痛かったかな?」

 医者は抑揚のない死んだような声で私に問い掛けた。私は震えていた。口から舌圧子が唾液の糸を引きながら床に音を立てて落下した。

「どうした?」

 彼は項垂れている私の顔を両手で挟み込み前を向かせた。

「吐き気か?」

 何が起きたのかわかってしまう前にここから立ち去らなくては。それだけ思いつき、私は担当医にかすれた声で言った。

「もう…耐えられ…ないです…部屋に帰してください」

 その時だった。彼は私の顎を片手でつかみ言った。

「口を開けるんだ」

 彼は半開きの唇を無理やり押し開いた。診察用の薄いゴムの手袋を被った二本の指がゆっくり舌の上をまさぐり始めた。

「かはっ…」

 彼の二本の指は徐々に深く口の中にねじこまれ、私の口の中は彼の指でいっぱいに塞がれた。物をいうこともできずに、ただ彼の腕をつかみ、顔を逸らそうともがいた。椅子が傾いて床に身体が落ちる。彼は初めて私の目を見た。

 

 彼は笑っていた。声もなく、倒れこんだ私の口に指を埋めたまま。次の瞬間に彼は私の身体を押し倒していた。

「もう…だめだろう…こうされたら耐えられないだろう?」

 私はその時すべてを理解した。

 

 その日彼の診察室で、私は薬もなく正気のまま彼の愛撫に狂った。彼は逃げない私を見て言った。もうこれなしでは生きていけないよ。こんなに狂って恥ずかしくないのかな…奴隷だね…こんなに仕込まれて、逃げも拒みもしないで。ほら…またイクのか? こんなにどうしようもない奴隷は初めてだよ。そこに触りもしないのにひどいもんだ。こんなに漏らして…

 普段の無口な彼からはまったく想像も出来ないような嗜虐の言葉の囁きに、私は更に狂わされた。責め殺されたい。もっと喉の奥まで犯して、息を止めて、そのまま狂いながら逝きたい。

 彼の奴隷になる月日の始まりの日、正気で生きることの限界を静かに越えて行くのを、崩れおちる意識の遠くに幻のように感じていた。

 

 溺れていく自分を、どうかそのまま、何も言わずに見放して。

 誰にも救われたくなどない。

 誰にも救えはしない。

 永遠にひとり、ひとり、ひとり…

 一瞬だけなにもかも忘れることを少しだけ許して。

 99.9%の苦痛の中の、0.1%の忘却を、どうか私に。

 私に…

 

 嫌悪と狂気の間にあって、なにも他に人生が見当たらないとき、人は身体に寄り掛かる。

 

 せっかく歩けるようになったのも束の間、私の両脚はまるで生きるのを拒むかのように麻痺しはじめた。担当医が全ての秘密を身体に教えてくれた日から一週間もたたない日のこと。

 朝起きてトイレに立とうとした時、ふとした違和感が両足の甲に生じていた。爪先が垂れたまま上に持ち上がらない。ベッドから下りスリッパを履く。歩き始めるとスリッパはすぐに脱げてしまう。何度か繰り返しようやくトイレに辿りつく。しばらくして足首がほとんど自分の力では動かせなくなり、検査が何度か繰り返されたが神経的には何の異常もなく、リハビリを進めることが出来なくなる。松葉杖から再び車椅子に逆戻りしてしまうことになった。

 

 もう逃げられない。なんとなくそんな言葉が浮かんだ。夜の狂気が、次第にエスカレートしはじめていた。

 

 薬で朦朧としはじめると彼はやってくる。彼の処方する薬が増え始めた。私は逆らわずにそのカプセルを飲み下していつものように眠りにつく。考えてみればそれまでの薬が何の効果があるのかはっきり確かめたことなどない。もともと特定できるような処方のされかたをしていない。丸薬の包まれた薄い防水紙のパッケージは病院での院内処方であるため、コードも薬名もわからない。もしかしたら催淫剤かもしれない。私にはわかるはずもない。彼が口の中に指を入れる。いつものように全身に痺れが走る。私は喘ぎ始める。だがその夜はいつもと違っていた。

 

 声が出ない。

 

 まるで夢の中で叫んでいるように全く声が出なかった。彼は薬で声が奪われていることを執拗な愛撫で確かめながら、どこからか細いなにかを取り出した。視界にぼんやりと何かが映り、だが何かがわからないままだった。彼が私のパジャマのズボンを下げている。初めて下半身に触っている。私の中で何かを諦め、何かを期待し、もう戻れない地点を心に感じたその時、いきなり内腿に鋭い激痛が走った。

 何かを刺している。あまりの痛みに叫んでいた。が、叫んでいたはずの声は出ず、ただの吐息にしかならなかった。彼は笑みをうかべながら何かで内腿をえぐっていた。この痛みでも声が出せないのを確かめている。鋭い針のような? いやわからない。頭は思考がない。ただ激痛だけがある。叫ぶ形にだけ口が開かれて、息が漏れているだけ。何度も叫ぶ。声もなく。

 急に痛みが軽くなり、私の顔の上に何かがかざされた。開いた口の中に生暖かい液体がぼとぼと落ちてくる。血の味が舌の上に広がる。視界にぼうっと注射器のようなものが映っている。喉の奥に血の味が流れ込んでくる。次々と赤い液体が大量に口の中に流れこんでくる。飲み込まないと溢れてしまう。口にたまった血を飲み下す。そうするしかない。むせながら飲み下す。吐き出さないように彼が口を手のひらで塞ぐ。内腿が腫れたように疼く。血を抜かれたのだ。その自分の血を飲まされていた。そしてそんな責め苦にさえ悶え、激しい性感に痺れている自分がいた。

 

 口に異常に執着し、性的な興奮を得るフェティシズム。私は彼にされるがままにその餌食になっていった。一切の性的な行為のないまま身体の性感だけが研ぎ澄まされていく。そしてなぜか声を薬で奪われる無力感が、いつしか快感に変わった。足の麻痺は薬の副作用かも知れないし、私の無力感からくるヒステリー発作かも知れない。だが、何が原因かなどどうでもよかった。歩くことを奪われ、声を奪われ、飼い殺しになり、言いなりになり、非道な異常な行為をされるがままに受け入れ、壊される。朝になるとかすれた声が戻ってくる。壊れかけた精神と、あてのない生活と、失われた記憶と、愛のない暮らしと、決して愛ではない担当医の非道な行為が私に関わり執着している。だが、それでも今の私にはかすかな救いに似ていた。朝に戻ってくる声は私に自分が生きていることを思い出させた。意志のない者に声など必要ないのに。いっそ喉を潰して欲しい…と病室のベッドで人知れず嗚咽した。嗚咽の音だけが私の声の意味のすべてだった。その間に私の担当医は、私が被虐に完全に飼い馴らされるのを、ある行為のために待っていた。

 

 ある朝目覚めると、口の中に違和感があった。深夜の記憶がなかった。毎夜あるはずの狂宴の記憶が昨夜だけ無い。目覚めがいつもと違っていた。不意に私はそれに気づいた。

 口の中に何かが入っている…

 歯に固いものが当たる音がした。かすかに血の味。萎えた足を引きずってベッドの横の鏡の前に立ち、おそるおそる口を開けた。舌を動かすと、歯から骨を伝って、直接耳の中にカチリという音が響いた。よく見ると、舌の横に銀色の小さなリングが、左右に1つづつ埋まっていた。思わず指先で取ろうとする。取れない。しっかり舌の肉に食い込み、肉を貫き、輪が閉じていた。自分の指先で外せるような金属ではなく…唾液にまみれた自分の指先が虚しくリングの上を滑るだけ。

 

 ひとじゃない。家畜。

 かるいめまいがした。

 

 舌のリングが頬の内側をかすめる。ゾクッと全身に粟立つ感覚。こんな異物にまで毎日毎秒なぶられて生きていく。それでもなにもない。なにも私には…

 身体を支えられず床に崩れ落ちた。こんなになってもきっと夜になれば私は受け入れてしまう。あの男の非道な行為を、家畜の餌の時間のように唇から唾液を垂れ流して…

 絶望と愉悦が襲ってきた。発狂するかも…そうしたら…どれだけ楽になれるだろう…

 

 

 

 

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