少し虚脱したような青年医師の顔が珍しかった。
気を失って意識が戻り、酸素マスクと点滴が外された頃、彼の車で近所のMRIのある病院へ搬送されることになった。彼はあまり陽気ではなく、いつもと様子の違うのが私ですら多少気にはなったが、私の病院内での扱いを考えればそんな対応しか取りようはなく、きっと快活が取り柄の彼でさえ気が重いに違いない、と。
5分もかからずにその整形外科に着き、車椅子に私を乗せ慣れた足取りで検査室まで直接入って行った。知り合いなのであろう向こうの担当医にはつとめて明るく挨拶を交わし、前もって話が通っているらしくさほど説明もないまま私は検査室の奥のMRIに寝かされて検査の説明と注意を受けた。検査は時間もかからず済み、再び寡黙な彼に連れられて病院に戻った。元の病室にも戻り、また表面的には元の生活に戻ったかのような日々が始まると思っていた。次の日、整形の診察室で虚脱したような彼に会うまでは…
診察室のシャーカステンに並べられた検査フィルムを青年医師は眺めていた。私がナースに車椅子を押され診察室に入ると、彼はカルテに手を掛け言葉を探しているようだった。しばしの沈黙のあと、彼はこちらを見た。私と目を合わせずに…
「…もっと早く気づくべきだった…申し訳ない」
彼の言葉は謝罪から始まっていた。
「なにかありましたか」
私が気を遣うほど、彼は何かためらっていた。
「…いや…こんなことが病院で起こることが信じられないが」
彼は明らかに私に言いにくい何かをこれから説明しようとしていた。
「…君の最初のCT検査の画像」
「ああ、頭のですね」
あの元担当医の検査のことだ。
「…画像の一部が足りないことがわかった…故意にその部分が抜きとられていたんだ」
「それがなにか?」
「…昨日のMRIに…」
彼は大きく息を吸った
「…腫瘍が見つかった」
「え…」
「抜き取られたCT検査の画像に…写っていたはずなんだよ。ちょうどそこが足りないんだ…ちょうどその部分が一枚…」
彼はMRIの画像を指差した。そこには三日月の形の影が、まるで私を嘲笑うかのように写りこんでいた。
それから軽い虚無感と現実感のない感覚の中で、詳しい検査が行われていった。わかったことはそれが脳を圧迫して脚の麻痺が起こっていること。そしてやはり、悪性であること。入院してすぐの検査にもあったのだ。だからこそあの担当医は握り潰した? 私を他の医師に渡さないように? グレードは4。望み通り。こんなに早く願いは通じるものか…と、ぼんやり思った。
知らない過去。この病気も過去の闇から忍びよって来たのだろうか。病気を苦にして自殺未遂…そんな理由もある。私は記憶をなくすまえからとっくに絶望していた。そんな可能性もある。そうだとしたら、殺されなくともじきに死ぬだろう。私の見知らぬ恋人はそれすら待てず、私を手にかけたのだろうか?
…知っていたんだろうか、死期が近いことを。恋人が? 私は? 告知は?
すべてが憶測
憶測
憶測
憶測しかない
死も、憶測の中。
なにもわからないのだ。確かなことは本当になにもない。どんな衝撃的な事実も、私にはただの不確かな推測の種以上のなにものでもない。嘆く余地さえ与えられない。出来事が私には起きない。起きてもそれがなんの手応えも産み出さない。
私には人生が生まれない。虚脱しながらそう思った。感じたこと以外何もないのに、この身体すら失われる。身体が失われたあと、私は何者になるんだろうか。
抗ガン剤も放射線も手術も全て拒否した。出来れば苦しまないように安楽死させてほしかったが、医師が犯罪者になる。今死んだら…私は後悔するのだろうか? あれほど望んでいた死。それが今、目の前に届けられたのだ。まるで贈り物のように。少し寒気がした。これが死の恐怖…なんだろうか…怖いな…待ち望んでいたのに…怖いんだな。この感覚はどこからやって来るんだろうか。自分がこの世から消え去る恐怖。すべてが終わることの恐怖。誰かもわからない自分が、いなくなるのが怖い。ああ…死はこの手で抱くまで、本当の姿を見せないんだ。その重さをこの手で確かめるまで…
私は寒気の原因を辿った。死はこの意識を奪うのだろうか。自分という意識。毎夜毎夜眠りにつくように…永遠に途切れる意識…朝の来ない、永遠の眠り…?
私は不意に眠りの安らぎを思い出した。ああそうか…だから眠りだけが私の安息の地だったのだ。私は《私》という意識にあんなにも苦しんでいたのに。もし死が永遠の眠りならば、私は永遠の安らぎを得るのだ。私がなくなるなら苦しみも消え去る。
しかし…と、私はもう一つの可能性を思った。私という意識が死に奪われない、という可能性について。死んで意識が残るならば、私は永遠に生きる。肉体がなくても意識が生きる。それを古の人は魂と言ったのだろうか。
私は死の恐怖がどこからくるか少し理解した。死は《未知》なのだ。宗教や神話を信じなければ、死は謎に包まれた暗闇だ。科学は死のあと自意識がどうなるか語らない。それが多分すべての死にまつわる恐怖を産みだしているような気さえする。死がわからないから、死は怖い。だが静かに考えてみれば、生きる苦しみを恐れるなら、意識の死は苦しんだ者には優しい。もし消え去る恐怖があっても、消え去ったあとは苦しみも消え去る。もし意識が仮に残ったら…意識が消え去る恐れはなくなる。そうしたら生き続ける苦しみは、死のあとも続くのだろうか?
だが意識が残るならば、死ぬまでのこの鳥肌の立つような恐ろしさからは解放されるではないか。この恐怖から解放されたなら…
もう怖いものは、なにひとつなくなる。
私はその結論にしばし呆然とした。この手に抱いた黒くて重い《死》が、手のひらに乗った卵のようなそんな大きさに、いつの間にか変わっていた。