それ以来私の胸の中には、小さな卵が存在するようになった。その卵はそれ自身の存在として、私と死の関係の中の恐怖以外のなにかを暗示していた。死について寒気の中で考えたあと、私は死の怖さに集中することができなくなった。それは良いことなのか良くないのか私にはよくわからなかったが、少なくとも気持ちの奇妙な安定が私を包んでいてくれた。
私はこの架空の卵のことを、想像の中で考るようになった。卵は私のなかでなにか言いたげに存在していた。
ある日私は自分に残された時間があとどれほどあるのか考えていた。院長は言った。もってあと半年…でなければ3ヶ月。その時間が私にとって長いのか、それとも短いのか、普通の人生から大きく外れた私にはその時間の感覚さえ不確かだった。
私はその時「明日死んだら」という極論を考えてみた。明日私が死を迎えるとしたら、私は今日どのように過ごすのか。このままなにもせず一日をいつものように送る。もしそうしたら私は死の時に安らかだろうか?
私はその時心の中の卵が、後悔に疼くのを感じた。
いや違う。これは後悔自身だ。この卵は、やり残したこと、だ。そしてこれをそのままにして死ぬ時、これは《後悔》という名前に変わる。この私に「まだするべきこと」が残されている…!
確かにそれはひとつだけ、思いあたった。
病室に夕陽が差していた。青年医師が回診にやってくるとナースが伝えにきた。
あれ以来彼はやはり私には、いつもの快活さのない、沈痛な表情でむかいあっていた。医師の責任と病院の責任、そして医師としての良心、その上に医療の敗北…すべての交点に私がいるのだ。篤実な彼はこのトラブルの中で、医師としての挫折と悪夢を味わって、打ちのめされていることだろう。彼はもう私の目を見ない。
ナースがベッドを立て、私は上半身を起こして彼を待っていた。しばらくしてやってきた彼は、私のベッドサイドのパイプ椅子に腰掛けた。その姿は法廷に立たされた被告人のように、自責と諦めの中で微かにうつむいていた。彼は私に今のところの体調を淡々と問診したあとで、精神状態を尋ねた。
「…気持ちのほうは…なにかサポートする必要があるなら言ってもらいたいんだが」
私を見ずに彼はカルテに目を落とした。私は彼に話し掛けた。
「特にありませんが…ひとつだけ、先生に聞いてもらいたいことがあります」
彼は不意をつかれたような顔をして、黙って私を見た。
「…ひとこと…お礼がいいたくて」
それを聞くと彼は苦々しい顔をし、半分怒ったような口調で言った。
「なにをだい? 私に何のお礼を言われる理由がある? 冗談じゃない…こんなことになって…」
「…海で」
「…海?」
「私が死のうとしたとき助けてくれましたよね」
「……」
「私は本当に死なせて欲しかったんですが…先生に抱きとめられたとき、人の温かさと、私はこんなに苦しかったんだと気づいて……あの温かさが、記憶を失った絶望の中の私にとって、唯一欲しいと感じたものでした」
「…そんなつもりでは…」
「…ええ…わかってます。でもなにもかも望みを記憶と一緒に無くした私には、望むことがあったこと自体が思いもよらぬことで…それに気づいた時には逆に苦しかったです。あの担当医師にいいようにされていたのも…温かさを味わってしまった私の壊れた心には、あれも人の温かさの代わりにはなって…絶望の中ではきっとあんな魔界しか受け入れられなかったんだろうと…彼にも有り難いとさえ…今は思えます」
私は少し笑った
「…恋愛ではないです。彼にも、あなたにも。例え私が同性愛者だとしても…温かさは…人の存在そのものだから…」
「……」
「あの気持ちはこの苦しい時間の支えになりました。だから逝く前に…お礼が言いたくて」
「…わたしに?」
「ええ…ありがとう」
私は彼に笑いかけた。
「それが言えればもう…思い残すことはありませんから」
彼は窓の外を見つめていた。そして彼はつぶやくように言った。
「…私には弟がいたんだ…10年前海で溺れて死んでしまったが…」
彼は思いもよらないことを口にした。
「海で死なれるのは…もういやだ」
その時私は理解した。あの日の屋上の彼の姿を。大事なものを喪った空虚を。私はかいま見たのだ。今日のこの部屋のように、こわいほどの夕焼けのなかで。
「でも…海からは君を救ったのに…医者としての僕は…君を」
「いえ」
私は彼の懺悔をさえぎった。
「助けてもらいました」
彼は私を不思議そうに見つめた。
「いいや…私は医者としてなにもできなかった…それなのに君は…」
「先生…ただ生きていることだけが救いではないんです」
「なぜ…? 君は一体なにを得たんだ?」
私は答えた。
「…多分…自分自身を」
「…自分自身?」
「記憶でも地位やプライドや欲望でもない…ただの自分です。得たんじゃないんです…元々なんにもないんです」
それがこの病院での、短い暮らしの中で得た結論だった。きっと記憶が喪われない、以前の生活の中では辿り着くことはできなかっただろう。きっとやがて来る死も、受け入れることもなく…
「…でも…あの時は必要でした。苦しみ抜くには時間も支えも要ります。最近になって…気づきました。あなたから私は時間と支えをもらったんです」
「私が…君に?」
「ええ…あそこで死んでいたら…私は後悔したでしょう。多分死んでも海の中で温かさを求めて、寒さに震えながら幽霊にでもなってさまよっていたでしょう。絶望の中では多分…死んでも死にきれないと…今はわかるんです」
そして私はもう一度彼に言った。
「ありがとう…助けてくれて」
私達はしばらく互いに無言のまま見つめあっていた。しばらくして、彼がゆっくりと口を開いた。
「感謝するのは僕のほうだ」
そしてまた再び長い沈黙が訪れた。夕焼けが深い色に変わっていく。その中で彼の目が、少し潤んでいるように見えた。
生きる意味を、生きる目的を失ってもなお。
そしてこの身体さえはかなく消えかけようとしていても。
もうこれで思い残すことは何もない。
そう心の中で確かめたとき、この胸の中に、驚くほどの平安が満ちるのを苦しいほどに感じていた。この圧倒的な平安、そして理由のない絶対的な確信。静かな夕闇のかすかな光の中で、この身体がなくなることさえも、まるでおそれることがないくらいに。
もうなにひとつ、失われるものがないかのように…
〔完〕
ご閲覧頂き、ありがとうございました。
《お知らせ》
活動報告にも告知いたしましたが、この作品の長大なスピンオフ『失われた物語』(2013作品)を、1話あとがきの予告通りに元サイトからこちらハーメルンに避難開始となりました(それも大晦日に)。連載で5000文字くらいづつ1周間に1〜2話のUP予定です。感情の起伏の激しい愛したい愛されたいネジ曲がっちゃった人達と主人公の純愛物語。物語の主軸は最近“松×6”あたりで流行ってる兄弟・近親相姦ものです。不得意な方はご注意下さい。
『失われた物語』 http://novel.syosetu.org/71946/
ではご興味とお暇がありましたらご閲覧宜しくお願い申し上げます。