水平線に夕陽が沈もうとしている頃、赤色に染まった鎮守府を一人の艦娘が歩いていた。わずかに煤けた砲塔と焦げ跡のある特徴的な服装から、戦いを終えてきたばかりであると分かる。艦娘は物憂げな眼差しで、艤装を軋ませながら海岸沿いのアスファルトを歩いていた。
「くまのー!」
「あら。どうなさいました、朝潮」
大声で呼び止められた熊野は、分かっていたように振り向いた。
「反省会じゃちゃんと言えなくてさ……。ごめん! あの時ちゃんと旗艦かばえなきゃいけなかった! 魚雷の射線通ってるって分かってたのに、カ級からどうしても目が離せなかった」
「もう。その事はさっきみんなで話して、あなたは正しかったと分かったでしょう?」
「でも、旗艦を守るのが仕事って何度も提督にも言われてるのに、戦果欲しさに、私は……」
うなだれる朝潮の髪が、地面に影を伸ばした。
夕陽に照らされ小さくなっている朝潮に、熊野は努めて明るく言う。
「いいこと? 朝潮。私たちはチームですの。旗艦を守ること、敵潜を叩くこと、どっちもあなたの任務ですけれど、朝潮は今日二隻も敵潜を落としたんですのよ。魚雷一発にかまけてカ級を見逃してたら、逆に叱っていましたわ。魚雷の一発や二発、わたくしにお任せなさい」
にっこりと笑う熊野に、朝潮は顔を上げる。
「当たってしまったわたくしが言っても、格好がつきませんけれどね」
「ううん。ありがとう、熊野。私、ちょっとナーバスになってたのかもしれない」
「そうね。でも朝潮、覚えておいてね。艦娘は艦娘のために戦うのですわ。それさえ分かっていれば、海の上でもきっと迷いませんから」
その言葉に、朝潮はようやく笑った。
それから少し話し、朝潮は去って行った。ごきげんようの声も届かないうちに、朝潮が元気よく来た道を戻っていく。熊野は、朝潮が振り返らないだろうことを分かりながらも、その背中に左手を振り続けた。
その熊野の左手の薬指には、指輪が付けられている。熊野が朝潮、また他の艦娘に気を遣われる理由は、その指輪にあった。
誰にも聞こえないように溜息をつくと、もう夕陽が照らさなくなった道を歩き出した。
艦娘にとっての指輪は、朝野と同じ意味を持たない。年期を経た艦娘は、いずれ複数任命の秘書官を経験し、その後ほぼ自動的に与えられる。でも、熊野は特別だった。熊野はこの鎮守府の立ち上げ時からたずさわり、提督の秘書官として公私の苦労を常に共にした。提督が初めて指輪を渡したのも熊野だった。それを、みんな知っている。
加えて言えば、熊野に初めて愛していると言ってくれた男性も提督だった。それもみんな知っている。さらに加えれば、熊野が初めて体を重ねたのも提督だった。それは、みんなに知られていない。。
熊野も提督を愛している。提督は艦娘鎮守府を、艦娘のために築いた。その鎮守府をより良くすることが、熊野にできる愛情の表現だった。
(でも、時々でいいです。提督のお顔が見たいですの。声が聞きたいですの。手に触れたいですのよ)
軌道に乗った鎮守府を、提督は空けることが多くなった。その間は、秘書官長の長門が全体を差配し、秘書官を経験した艦娘が旗艦たることを期待されて、現場を支える。忙しい二人は、同じ鎮守府にいるのに、心を通わすのは手紙ばかりだった。
手紙が来ていないかポストを開く瞬間と、提督の手紙の中に自分への愛情と気遣いを発見したときと、そして何枚も用紙を無駄にしながら手紙を書き直す夜が、今の熊野のすべてだった。
(提督もきっと、私の顔と声と手に触れたいと思ってくれているはずですわ)
顔も見られない日がまた一日と増えていく。胸のきゅっとした痛みが日に日に増していった。でもきっと、愛する人と同じ目標に向かって頑張れることはとても幸せなことなのだ。
空には一番星が輝いていた。
「あー! ちょっと、熊野! やっと見つけた」
艤装を付けたままのシルエットで艦娘が一人駆けてくる。
「あらごきげんよう、鈴谷」
「ごきげんようじゃないよ。すっごい探したんだから! っていうかなんでまだ艤装付けてるのよ!」
「長門さんに顔を見せた後、明石さんに新兵装のお礼に行こうと思っておりますの。それにあなただって付けてるじゃありませんか」
鈴谷は現職の秘書官だった。秘書官が海に出ることは少ない。
「いやあ、もがみんがマストぶつけちゃってさあ、その代打」
「最上さん大丈夫だったんですの?」
「もう全然大丈夫。……っていうかていうか、そんなこといいから、急いで明石のとこに外してもらいいこ! うーん、予約の時間にちょっと遅れるかもだけど、まっ、いいっしょ! 報告なんか反省会長引いたとか適当言って、明日の朝一に報告書と一緒にすればいいって」
「さっきから、あなた急ぐとか予約とか何の話をしてますのよ」
「前から整体一緒に行くって言ってたじゃん。熊野行ったことないっていうから、わざわざ予約取ったのに覚えてないの? ひどくない」
「鈴谷。確かに行くとは言いましたけど、今日とは聞いた覚えがありませんわ。それに、帰還報告をしなければ長門さんはずっと待っておられましてよ」
「ながもん今日は工廠拡張に掛かりきりでちょー忙しいから多分部屋にいないよ。いたとしたって、ちょっとぐらい報告遅れることは誰にでもあるって! もうず~っと遊んでないんだしさ、たまには付き合ってよ熊野。ねっ」
提督と恋人になるまでは、もう少し鈴谷との時間があった。今はお互いに、その時間がない。でも、鈴谷にはたくさん助けてもらってきたのだ。一応、長門に帰着の連絡はいっている。
あとで、長門に怒られよう。
熊野は笑顔の友人を前にそう決めた。
「仕方ありませんわねぇ、鈴谷は。秘書官になったら甘えん坊も変わるかと思いましたのに」
「なっ、こっちが疲れてるかと思って気を遣ってあげてるのに、この熊野が!」
「ふふっ、冗談ですわ。参りましょう」
二人は、傍目からもとても仲良く見えた。
「ごめーんっ、おくれたー」
「いらっしゃい。今日はもう来ないかと思ったよ、鈴谷ちゃん」
その店は鎮守府城下町の商店街にあった。少し離れていたが、艦娘の脚なら楽しく会話していればすぐの距離にある。店内はは整体屋らしく、白を基調とした内装と間接照明が使われた室内には清潔感が漂っていた。
整体師らしき若い男が、笑顔で二人を迎えた。
「もしかして、その子が?」
「そ! 私の親友の熊野、よろしくしてね」
「熊野です。鈴谷がいつもご迷惑お掛けしておりますわ」
男はその挨拶に笑って、店長だと名乗った。
「鈴谷ちゃんから話は聞いてるよ。よろしくね、熊野ちゃん」
「こちらこそ、よろしくお願いしますわ。でも鈴谷、ひとに迷惑をかけるのは程々にするんですの。笑って流してくれるうちが華なんですわよ」
「え、なに。いきなり変なこと言うのやめてよね! 店長も笑ってないで否定してよ」
二人は男に個室へと案内される。どうやら店長自らマッサージをしてくれるらしい。薄暗い部屋に、間接照明に照らされた二つの寝台がぼうっと並んでいる。他にもスチーム美顔器や蒸しタオル器が置いてあるのが見えた。
「二人とも、着替え用意してあるけど、どうする?」
「あ、着替える着替える」
「いえ、わたくしは仕事を残してきてしまいましたので、遠慮させていただきますわ。服をかえてしまうと、気が抜けてしまいますもの。上着を脱ぐだけではいけませんか、店長さん」
「もちろん大丈夫だよ。でもシワになっちゃうかも」
鈴谷も同じく抗議する。
「そうだよ、絶対シワになるよ。着替えようよ」
「どうぞ私に構わず鈴谷はお着替えになって」
「一人で着替える訳にいかないでしょ~! もー熊野は、もぉ……」
「はいはい。どっちでも大丈夫だよ、鈴谷ちゃん。だから早く上着を脱いじゃってね」
不満を漏らす鈴谷を横目に、熊野は上着を掛けてもらった。一枚服が薄くなると、とたんに心細くなる。今更ながら、整体とは言え異性に体を触られる事実に緊張してきた。今まで整体に来たことなどなかったのに、他の艦娘の話を聞いてるうちに、身近なものと勘違いしていたのだ。
寝台にうつぶせに横たわると、男がバスタオルのようなものを体に広げていく。
隣に横たわっている鈴谷が、熊野を見た。
「熊野、もしかして緊張してんの?」
「し、してませんわ。話には聞いています」
「ずるいよなー、熊野は。みんなどこがいたい、ここが痛いってブーブー言ってるのに。言わないのは熊野とマッチョ組ぐらいで、ながもんや秘書官組ですら、みんな──」
笑っていた鈴谷が虚空を見て固まる。
「なんですのよ」
「八時から秘書官会議があるんだった」
「まだ全然時間あるじゃありませんの」
「それまでに資料つくっとけってながもんに言われてたの忘れてた」
「……はぁー?」
熊野は身体を起き上がらせ、目をむいた。
「ごめん、てんちょ! 私野暮用あったわ! キャンセル料ツケといて! あ、でも、熊野は残るから!」
「じょ、冗談ですわよね、鈴谷? あ、あなたが誘ってきたから、わたくし来たんですのよ? あなたが行くって言うからわたくし、仕事を放ってきたんですのよ??」
「ごめんごめん、今度埋め合わせするから!」
そう言ってる間にも、鈴谷は手荷物やら上着やらを引っ掴んでいく。
「ほ、本気ですのね? 本気で、私を置いていくんですのね?」
「いや、ほんっとごめん。でも、今回いちおー熊野のために店長によろしくお願いしてあるから。じゃ、店長、よろしくね!」
熊野は呆然と鈴谷を見送ってしまった。鈴谷と付き合ってきて色々あったが、ここまでなのは初めてである。なんと馬鹿馬鹿しいことであろうか。友人を想った自分は、なんと間抜けであったことであろうか。
「……なんというか、申し訳ありませんわ、店長さん」
「ううん、そうだね、僕としては貰うものもらってるからいいんだけどね」
店長としては笑うしかない。笑えずに苦笑いではあるが。
「こういう風になっておいて言うのもなんだけど、鈴谷ちゃん、結構本気で熊野ちゃんのこと気にしてたんだよ。全然一緒に遊ぶ時間がないって、言っててさ。だから、一緒に何かする時間が欲しかったんだと思うんだけども……」
「申し訳ありませんけど、ちょっと信じられませんわ……」
「そ、そうね。まあ、僕が言えるのは、熊野ちゃんの分も鈴谷ちゃんのツケだから、その分熊野ちゃんに精一杯整体を楽しんで言って欲しいってことぐらいなんだけど……どうかな?」
「それじゃあ改めまして、始めようか。この枕に肩を載せるようなイメージで、そう、胸のちょっと上ぐらいで、俯せになってね。手は組んでもいいし、楽にして。苦しくないかな? 胸が圧迫される感じはない? 少しでも痛かったらちゃんと言ってね」
熊野は顎の下に腕を組み、顔を少し突き出すようにして俯せになった。全身を覆うように大きいタオルが掛けられていく。
(どうしてこうなったんですの……)
本当は帰ってしまいたかった。だが、熊野のお人好しさが鈴谷の不始末を無視して、目の前の店長にさらに迷惑を掛けることを許さなかったのだ。
「うーん、熊野ちゃん。鈴谷ちゃんのいう通り、肩すごい緊張してるよ」
「ちょっと力が入ってしまって……。大丈夫ですから、どうぞお始めになってほしいですの」
もう、早く終わらせてもらうしかない。
心穏やかに整体なんていう気分では全くなかった。
「そうねえ。まず最初に、ちょっとだけリラックスしてもらおうかな。このまま始めてもきっと痛いだけだからね」
そう言って男が離れていく。
止めようかと思ったが、余計に時間が掛かるだけなので、もう黙ることにした。
後ろでマッチをする音がする。それから少しして戻ってくると、今度は脇に置かれていたスチーム美顔器を操作して蒸気を出し始めた。蒸気が少し顔に掛かる程度に飛んでくる。
「熱くないよね? じゃ、背中触るね」
傍に来た男の掌の底が、肩甲骨の内側に触れた。
「リラックスといっても、特別なことじゃないんだ。僕が背中を押したら、口から息を吐く。力が弱まったら、鼻から息を吸う。口からじゃなくて、鼻だよ。最初は普通に、だけど徐々に呼吸のテンポをゆっくりにしていく。いいかな?」
「どうぞですわ」
男の手が背中を押していく。苦しくはない。手が離れていくのに合わせて、鼻で吸う。蒸気が鼻の頭に掛かって、喉を濡らした。また息を吐く。吸う。今まで感じなかったアロマのにおいがする。アロマが、アロマの匂いが、妙に熱い。鼻から喉が、熱くなってくる。何度も背中を押圧されている内に、身体まで熱くなってきた。芯がぽかぽかして、頭がぽーっとする。息を吐く。吸う。それだけなのに。鼻で蒸気を吸う度に、頭クラつく。これは、錯覚だろうか。
「……変ですわ。本当に、気分が良くなって参りました」
「あはは。変じゃないよ。リラックスする香りを炊いたから。結構効いてるみたいだね」
「ええ、身体が熱くなってきましたわ…………あっ、うぁっ、ちょ、ちょっと」
男の親指がツボを突いていた。
「ふふ。緊張取れてるよ、熊野ちゃん。意外と敏感だね」
「もう、いじわるしないでくださいな。……ああ、でも、本当に身体が熱くなって、首とお腹がぽかぽかですの」
「そうだね。これからその血行がよくなった部分を全身に広げていきます。痛かったら弱くするから言ってね。気持ちいいぐらいじゃないと痛めちゃうから」
そう言って肩をもみ始めた。まだ頭がぼうっとしていたが、ツボを押されると幸せな感じが広がって気持ちいい。
「熊野ちゃん、肩すごい凝ってる。これ相当辛いよね?」
「そうでもありませんわ。艦娘というと重そうな艤装だと思うでしょうけれど、見た目ほどではないですのよ」
本当は、みんなと同じように、首がだるくて頭が痛くて仕方なかったときもある。
それでも、熊野は提督の熊野で、艦娘鎮守府の熊野だった。長門に言えばローテーションを緩めてもらえるだろうし、言えば秘書官に戻してもらえるだろう。だが、海域で指揮をとれる艦娘が一人でも欲しいときに、疲れたからといって旗艦任務から外して欲しいと言いはしない。提督が、艦娘達を誰よりも愛する提督が、艦娘を嗤う軍人達の間を頭を下げて回っている。その提督の留守を任されているときに踏ん張れなくて、何が艦娘だろうか。海軍省に体当たりして艦娘鎮守府をかばってくれている提督を気遣えなくて、何が恋人だろうか。
艦娘達はそんな提督を尻目に、ときに脳天気にはしゃぐ。でも、それでいい。艦娘が例え心の底では傷ついていたとしても、笑っていられる場所が艦娘鎮守府なのだ。
提督は誰よりも艦娘を愛している。
自分の体の痛みなど、愚痴にもならない。
(だから提督。愛しています)
ふわつく頭で、熊野は提督のことを想う。
信じるものに支えられる熊野の献身は美しい。しかし熊野は、自分の働きがそれだけ評価され、提督や長門も熊野がそう思うのと同じくらい、自分が誇りに思われていることに気づかなかった。そして、純粋な献身が誰かの嫉妬を買うということにも熊野は気付けなかった。
多分、どちらも熊野が自分で気づかなければいけなかったのだ。
「どうかな? 痛くない」
熊野は、気持ちよさそうに眼をうつろわせている。
「はあ。だいぶ気持ちよくなって参りましたわ。お上手ですのね、店長さんは」
「熊野ちゃんにそう言ってもらえると嬉しいよ。大丈夫そうだから、腰の方いってみようか」
男はそう言って、両の親指をずらしていき、熊野の細い腰を押した。
「ん、んんっ!」
今までの刺激とは違う、脳にビリッとした電気が走る。
「あ、痛かった? もしかして、腰痛めてたりする?」
「い、いえ、そんなことありませんわ。続けてくださいな」
男が慎重に腰を押していくのが分かる。しかし、それでも刺激を感じた。胃に熱い血が駆け巡る感覚。押される度に熱くなって、ぞわぞわする首筋を汗が流れる。
痛いわけではない。胸がきゅっと引き締まるような切ない痛さ、痺れ。
熊野は唇をかんで耐えた。
「うーん、ちょっと辛そうだね。もう一度、深呼吸してみようか。今度は腰を押して、離すから、それに合わせて息を吐いて、吸ってね。鼻だよ」
言われるまま、鼻で吸う。顔に当たる蒸気を吸い込むと、腰を押されたときと同じような甘い痛みがシクシクと胸に広がる。肺から息を吐いてしまう度に切なくなって、吸い込む度に胸が幸せになる。
やっぱり、変だ、これは。口の中もへんな味がする気がする。
(ああ、ちょっと、気持ちよすぎますわ……。胸がいっぱいで、頭がふわふわして……)
「どうかな? 押してみるね」
男の指がタオルの上から分かるぐらい熊野の腰に沈んでいくと、思わず切なげな喘ぎが漏れる。もう電気は走らない。ただ腰に指が沈み込んでいく感触に熊野の意識が集中する。腰がまるで性感帯だった。
何度も、何度も指が腰を突く。
そんな気はないのに、お腹から声が漏れる。
「はっ、はあッ……はぁっ……ん、はぁっ」
ただの指圧のはずなのに、指先がとてもいやらしく感じる。
エッチな気分になるところを狙って押されているような、そんな錯覚。
悶えそうになるのを、声をあげてしまいそうになるのを、食いしばって耐えた。
「うぅッ、うっ、……ぅ、んっ、ぁふッ、っ、あっ、て、てんちょう、さん」
変な声、聞こえてしまっていないだろうか。
「痛くなさそうだね。次は臀部にいくけど、びっくりしないでね」
(あ、ああ、待って、話を聞いて)
制止は声にならず、口からは絶え絶えの喘ぎが洩れるだけだった。
指が、尻肉に埋まっていく。タオル、スカートも貫いて直に触れられているような指の熱さ。下半身の大切なところを刺激する、男性の熱さ。指先が肉に沈んでいくほど、もっと指を欲しがるようにお尻が浮く。
いつの間にか、熊野の眼には涙がたまっていた。
「あッ、……ぁ……あぁっ」
男の掌が、お尻をとらえた。
「ぅ、あっ、ぁあああ……」
男の堅い掌底がお尻を押しつぶす。恥骨まで響く圧迫感。上からぎゅうっと体重を掛けられると幸福感としか言いいようがないもので胸がいっぱいになる。骨盤に肉が押しつけられると頭がおかしくなりそうだった。
「重くないよね? もうちょっとだけ、体重掛けるね」
「うっ、うぅっ、ううぅぅぅ……
ピチピチと股から溢れ出る感触。骨盤を通して恥骨に重みが掛かるとどうしようもなく溜息がもれる。熊野は、汗でびっしょりのシャツを寝台に押しつけて、男の指に敏感に反応するお尻が少しでも動かないよう、堪えるしかなかった。
「はっ、ふっ……こ、こんなの変ですわ。店長さん……はあ、わたくし、変なので、も、もう……」
「体がビックリしてるんだよ、熊野ちゃん。我慢すれば直に良くなるから」
「だめです。こんなの、だめですわ。ぜったい、へんです。あ、押さないで。お、お願いですから、おさないで」
「熊野ちゃん、本当に変じゃないんだよ。マッサージで気分が良くなっちゃうのは、決して珍しくないから」
「あ、あぁッ、お、お尻はもう大丈夫ですから、ほんとうに、んあッ、だっ、だいじょうぶですから……」
熊野は身をよがらせながら、それでも押圧しようとする男を、手で制した。流石に男もそれ以上続けようとはしなかった。
指はふとももに、そしてふくらはぎへと降りていく。身体は反応してしまうが、刺激は弱くなっていった。そうすると、尻に沈んでいく指の感触がすぐに思い出されてしまうのだから、浅ましい。僅かに冷静になった頭で、熊野は自分でも知らなかった物欲しさを恥じていた。
(ごめんなさい、提督)
提督の顔を思い浮かべると、一層情けなくなった。
男が足先までマッサージを終えると、熊野に一声掛けて寝台から離れていった。影が衝立の向こうに消えたのを見計らい、そっとスカートの下に腕を入れる。瞬間、血の気が引いた。ショーツは雨に濡れたようにビショビショだった。スカートまで濡れていないのが不思議なほどだった。
タオルがずり落ち、自分の身体が露わになる。シャツは乱れ、ブラが透けている。淫らな刺激に興奮したお腹が、汗をにじませて上下している。
そして、徐々に冷たくなっていく下着がひどく堪えた。
本当に、何をしているのだろう。わたくしは。
(こんな部屋によく知りもしない男と二人きりで、タオル一枚で、情けなく発情して、下着をこんなにしてしまって……)
情けなさに涙が出そうになる。
帰ろう。帰って、長門に顔を出して、鈴谷を叱って、提督が帰っていないか確かめよう。そして、明日も何事もなかったように過ごす。何事もなかったように、海に出るのだ。死ぬほど浅ましい自分を呪うのは、一人天井を見上げるときでいい。
(よし、熊野。決めましたわ。そうしましょう。……でも、普通にマッサージされていた筈なのに、こんなになってしまうなんて……。とっても、ショックですわ…………)
決心と落ち込む心の混在が、熊野の混乱を表していた。
それでも心を奮わせて、衝立の向こうの男に声を掛ける。
「あの、店長さん、わたくし」
男が戻ってくる気配がしたので、慌てて胸元までタオルを掻き上げる。
気まずそうな熊野の顔を見て、男は察した。
「え、あ、帰る? 気を悪く、しちゃったかな」
「いえ、そうではありませんけれども……もう帰らなくては、なりませんの」
男が、一瞬熊野を見た。
「実は、鈴谷ちゃんが言ってたんだ。熊野ちゃんが仕事に根詰めて自分の体を労ろうとしない。今度連れてくるから僕にマッサージしてやって欲しいって。鈴谷ちゃんはああいう子だし、今日もああだったけど、でも、いつも熊野ちゃんのことを話してたんだよ」
「そうだったん、ですの」
鈴谷のお調子者な笑顔が思い浮かぶ。
「ごめんね。結構気合い入れてやったつもりだったんだけど、気を悪くさせちゃったなら仕方ない。熊野ちゃんにも、色々話してくれた鈴谷ちゃんにも申し訳ないな」
「いえ、本当に違うんですのよ。ただ、ちょっと、わたくしの方が……」
「ねえ熊野ちゃん。できれば、もう少しだけ続けさせて欲しい。もちろんどうしてもとは言えないけど、でも、もうちょっとだけ時間をくれないかな」
ここで熊野が気を悪くしていないと言っても、通じないだろう。
「結構、強引ですのね、店長さん」
「そうかもしれない。ただ、鈴谷ちゃんがいつも話している子はどんな子なんだろうと思ってた。それで鈴谷ちゃんが連れてきた子がかわいい子で、働き者で疲れているって話を聞けば、誰でも頑張ろうって思うさ。違うかな?」
男の話を聞いている内に、熊野は心を決めていた。
鈴谷はあの通り抜けているが、いつも熊野の傍にいた。いつも、そんなに多くはない楽しいことを、一緒に分かち合ってきた仲だ。
(本当に色んな人に気を遣わせるんだから、鈴谷は。でも、いくら偉そうにしたって、いつも何かしてくれる鈴谷に、わたくしができることも実はそのぐらいなのです)
熊野は、自分のそばにいる人たちに、少しでも報いたかった。
人に報いることで、艦娘熊野は支えられている。
「分かりましたわ、店長さん。もう少しよろしくお願い致します」
男は、冷えてしまった蒸しタオルを手に持ったまま、安心したように笑った。
掛けタオルがずれていないかもう一度確認してから、仰向けになる。熱いタオルが目蓋を覆い、スチームが顔が当てられた。
男が掌を指圧し始める。提督以外の男性に触られるのにも、いい加減慣れた。
それよりも、顔に当たる蒸気が少し増えたような気がする。なぜか、なぜなのか、水蒸気を鼻から吸い込む度に頭がクラクラしてしまう。風邪をひき始めの、ウィルスが頭に回ってしまったときのような酔った感覚。
「店長さん、蒸気、少し離してもらえないかしら……」
「ああ、ごめんごめん。ちょっと近かったね」
男が動いてできた風の流れが心地いい。でも、蒸気の当たる量は減った気がしなかった。
胸で変な気持ちが渦を巻き始める。鼻で息する度に、考えてはいけない淫らな期待が胸で膨らんでいく。男の親指が二の腕を優しく押すごとに、お尻を潰れたときの感触が蘇る。
いつの間にか息が荒くなっていた。
熊野は考えるのをやめ、鼻で息をするのもやめた。空いた掌で寝台を掴み、ただ時間が過ぎることを考えた。。
「熊野ちゃん、なんか、すごい力入ってるんだけど、大丈夫?」
「ええ、だいじょうぶ、ですから……そのまま続けてくださいまし」
「でもこれ、始める前の肩が緊張してたのと同じだよ。最初に言ったけど、このまましても辛いだけだから」
「いえ、だいじょぶ、だいじょッ、ぶっ、うぁっ! ぅああぁぁ……」
汗でじっと濡れる首と顎を撫でられ、抵抗もできず顎を上げられる。手を顎に添えられているだけなのに口が開かない。上を向いた鼻には容赦なく蒸気が入り込んでくる。
「鼻から吸って、口から吐く。鼻から吸って……口から吐く。もっとゆっくり、しっかり鼻で吸って、肺が空っぽになるまで、吐く」
「ん! んうぅぅぅ、うッ、んッ、ッ!」
男の親指が首の側部を撫でるだけで、多幸感が頭を駆け巡る。蒸し暑さも、タオルのしめった感触も、男の衣擦れさえ愛しいものに感じられた。首の皮膚を掌がぬるりと上下する。太い血管が血と一緒に幸せな気持ちを運んできてくれるような、幸せ。
ぬらっとした指が、首から鎖骨の周りをなぞりながら刺激していく。
熊野の呼吸は切なく激しかったが、もはやそんなことはどうでもよくなっていた。。
「熊野ちゃん、大丈夫? すごい汗。暑いかな? 一応さっき温度下げておいたんだけど」
男は熊野の上気した額、首、首元を拭いながら言う。
「はぁっ、はぁ……いえ……いいえ……だいじょうぶです」
「ねえ熊野ちゃん、掛ける用のタオルもう一枚持ってくるから、シャツ脱いじゃおう。そのままじゃ風邪引いちゃうよ」
「んっ、ぁ、はぁ……」
身体にタオルが重ねられていく。蒸しタオルも熱いものにかえられていた。
動かない熊野を置いて、男が袖やネックのボタンを外していく。
「お待ちに……なって、はっ、わ、わたくし」
「いいから楽にしてて。蒸しタオルしたままでいいから」
慣れた手つきでボタンが外されていった。さらに、男の指がタオルの下のお腹に触れる。
「ひっ! ま、まって、はぁっ、まってくださいまし」
「ちょっと我慢してね」
お腹が痙攣してしまっている。身体が勝手に喉を震わせてあえぐのだ。
(はやく、おわって……)
頭がいっぱいで、目に映るものがぼやけて見えた。いつの間にか涙が出ている。
男の指がボタンを外しながら曲線を描く熊野の腹を登っていく。タオルの下でボタンをさぐる指先は熊野の身体をまさぐるようであった。
そして、熊野の胸を、男の指が掴んだ。
「熊野ちゃん、すごいね……」
ブラの上からでも分かるぐらいに、乳房は硬く張って、乳首は勃起していた。男は露骨にならないようにしながら胸を揉んだ。痛いぐらいに張った乳房は、嫌でも男の興奮を煽る。乳房の付け根を優しく押されて、そのたびに乳首がこすれて、熊野は鳴いた。
「熊野ちゃんすごく気持ちよさそうだよ」
男は羞恥と性感で真っ赤に染まる熊野の顔を楽しんでいた。。
そして熊野は、自分が身体をよがりくねらせ、自分でタオルをよけてしまっていることも分からなくなっていた。
「ふぁ、あはっ、……はっ、そ、そんなぁ……っ」
「次は熊野ちゃんの好きな骨盤するからね」
男がふとももをまたぐようにして、寝台に乗る。膝を立てようとしたが、膝小僧を抑えられるだけで動けなかった。
スポンジのようになった脳は、それでも警告する。
このままだと一生後悔することになるのでは、と。
(うそ、うそ、うそですわ。まちがいです、わたくし、今日は、鈴谷が、喜んでくれたらとおもってっ、ま、まいにち、提督に、喜んでほしくて、がんばって、こ、こんなの、うそです)
声を出そうとしても、熱い吐息が喉を震わせるだけ。
力が、どうしても入らない。
入らないのだ。
「ここ、ぎゅーってやられるのが好きなんだよね。さっきなんか、お尻を上から股間に押しつぶしただけなのに、全身ぷるぷるしてたよ。すごいエッチだった。我慢できないぐらい、興奮しちゃってるんだよね。もっと強くしてあげるから、今度はエッチな声我慢しなくていいよ」
「やめ、やめて、だめですわ」
「こうして、股関節を広げるようにして、掌を内側にして、ぎゅうっとすると」
「あぁぁっ! ひぃっ、んあぁぁぁ!」
頭が真っ白になる。股間から顎まで別の神経が通ってるかのように、熊野は弓なりに体を跳ねた。
「あはは。すっごい。エッチなんだねえ、熊野ちゃんは」
もはや恥じらいもなく股は大きく広げられていた。タオルはとうに脇に落ち、熊野の裸体は薄オレンジの明かりにあらわになっていた。男に股間を押しつぶされるたびに、湿ったブラの下から乳首をますますとがらせていく。
もう止まりはしなかった。
男は股間に体重をかけながら、親指でショーツごしに恥肉をねぶり始める。
「あッ、ぅぁっ、だめ、だめ、はぁッ、ゆるして、ゆるしてくださいましっ、はぁーッ、う、ううぅぅぅッ、んうぅぅぅゥッ!」
「だめだめ。まだ我慢してる。イかないともっともっと強くするからね」
少しでも快感から逃れようと身体をくねらせる熊野の股間を、男はがっしりと掴んでいた。
「おねがいしますっ、はぁっ! はなして、はなしてくださいっ! うぁぁあああッ、あはっ、はっ、あぁああ!」
頭を抱えて悶える熊野の声が、どんどん高まる。
「ダメッ! だめなんですわっ、だめ、イっちゃいます、わたくし、ひァッ、あぁ、もぉ、ゆるして、おねがい、ゆるし、んーッ、んうぅぅぅ、くぅぅぅぅッ、イ、イクッッ」
熊野は跳ねた。身体をいっぱいに反らして、声にならない声をあげながら痙攣し続ける。
男はイキ続ける熊野の秘所を優しくねぶっていた
「熊野ちゃん、潮がパンツ貫通して吹いてる。ふふっ、気持ちよかったね」
エビ反りの熊野の腰を持ち上げながら、いじりながら男は笑う。
一度イっただけでは熊野の波は収まることなく、何度も何度もイって、ショーツから潮を吹いた。
熊野は真っ白になった頭で、止めどない快感を味わってはヨガり、果てる。
しかし、男にとってはそれからが本番だった。
熊野が本当に力尽きるまで、ねぶりは止まらない。いつの間にかブラは取られ、ぐっしょりだったスカートもショーツも剥ぎ取られていた。裸の熊野は、全身を舐め尽くされ、硬くなりすぎた乳首をねぶられ、恥骨を押されては泣いた。弓なりになる力がなくなれば、俯せにされ、尻とアナルを舌でいじめられた。合間に尻を指で押されると、また潮を吹く。男は笑っていた。それでも熊野は身体を痙攣させて、イくのが止められない。流れる涙すら男の舌に掬われた。
「はぁ、はぁ、熊野ちゃん、気持ちよかったよね。何回イけたかな」
熊野の意識はトんでいた。脳が快感を反芻して、男の手がふとももに触れただけでイきそうになっていた。
「でもまあ、当然だけど、処女じゃないよね、熊野ちゃん。なんかさ、熊野ちゃんは処女って言ってたけど、普通さ、恋人いてやってないとかないよね。そこら辺、自分が処女だろっていうか、ちょっとズレ過ぎだよな」
熊野のとろけている秘部に、本当にやさしく男の親指が沈んでいく。それだけで、熊野のソプラノが鳴き、胸が男を誘うように揺れる。男は、力なく垂れ下がる熊野の手を取って、先走りに濡れる自分の陰部をしごかせていた。
「もういいよね? 熊野ちゃん、僕も気持ちよくさせてもらってもいいよね?」
ぐったりし、愛液と汗にまみれた熊野の身体を男が抱き上げ、歩き出す。
焦点の合わない熊野の眼からは、涙が流れていた。
鎮守府司令部の車寄せに一台の車が止まった。
運転手が慣れないながらも機敏に後部座席の扉を開け、外套に白い軍服の男が降り立つ。
「結局始終連れ回すことになった。済まん、休みを潰してしまって。もうこんな事はないと言いたいところなんだが」
「いえ、提督! 一日と言わず何日でもこき使ってください!」
努めて明るい部下に、笑いがこぼれる。
「ありがとう。考えさせてもらうよ。お疲れさん」
軍令部の気まぐれで、また頼むことになるかもしれないとは言えない。そうならないよう努力するのが、自分の仕事だ。
「何にせよ、ようやく熊野と顔を合わせられる時間に帰ってこられたわけだ」
本当はもっと早く帰ってこられるはずであったが、結局九時である。
ストレスが溜まっている自覚があれば、愚痴もある。
(だが、熊野に会うのだ。いつもいじらしい手紙を残してくれる、熊野に会うのだ。何度も書き直した跡のある手紙も、長門が語る熊野の姿も、俺の生きる糧だ。俺にもったいない、真っ直ぐで一生懸命な娘なのだ)
司令部庁舎に入っていく提督は、ひとつだけ自分を誤魔化していた。本当は、百の言葉より渡さなければならないもの。いつも熊野に会うときは持ち歩いているのに、渡せない。艦娘の指輪ではなく、一人の女性に渡す指輪。
熊野は他のどの艦娘よりも頑張っている。それが、他の誰より分かっているだけに、そして男女として近いことが周知されているだけに、提督は提督として、どう報いればいいのか分からなくなる。
熊野は、提督にとって戦友という名の家族、艦娘であり、また愛する女の子であった。提督が守る艦娘鎮守府の今後を一番に祈る女の子、毎日深夜帰りの提督のプライベートを案ずる艦娘が、熊野だった。
いつかは区切りをつけないといけない。
それは分かっている。
ただ、それももう少し先の話である。今は少しでも早く顔を見て、一緒にいる時間を作りたかった。
提督室へ歩く速度は自然速くなった。
「おかえりなさい、提督。早かった……いえ、遅かったですね」
提督室に行くには秘書官室を通らなければならない。残っているのは長門だけだった。
「ああ、疲れたよ。熊野のやつ、もう休んでしまったかな」
「ん? そういえば、熊野の口頭の報告はまだです。珍しい。ああいや、それより、今日は早く帰れると伝えていらっしゃらなかったのですか?」
「うん。全くアテにならないしな。空振りじゃかわいそうだ」
長門は気の抜けた様子の提督を見つめた。
「なんだよ。何見てんのよ。仕方ないだろう、軍令部のゴマスリがこっちの時間を気にしてくれると思うか。俺が時間を気にする素振りを見せたら喜んで一分でも長く引き留めてくれる連中だぞ。そんな事情に付き合うのは俺だけでいいだろう」
「提督。軍令部のことなど、どうでもよいのです」
腕を組んだ長門は提督を見据える。
いつもは立場をわきまえるのに、今日の長門にはいつになく意思がこもっていた。
「よろしいですか、提督。一つお願いがあります。近いうちに必ず、丸一日休みを作ってください。作ったらすぐ私にお知らせください。お知らせいただいたら、熊野のその日が空きます。そうしたら、その日は艦娘鎮守府を離れてお二人でゆっくりお過ごしください」
一方的な長門に、提督は訝しんだ。
いつも強引なところがない、調和を大事にする艦娘だ。
「そんな露骨な公私混同ができたら苦労はしないし、俺も熊野もみんなに示しがつかない。どうした、長門。分かっているだろう」
「提督」
もしかしたら、長門は以前から何事か心を決めていたのかもしれない。
「公私混同とおっしゃりますが、熊野は公私を越えて提督に、そして艦娘鎮守府に無二の貢献をしております。無二です、提督。提督は『示しがつかない』とおっしゃいますが、あれほど鎮守府のために提督のため働く子に応えないのであれば、その方がよほど他の艦娘達に示しがつきませんし、『苦労はしない』ともおっしゃいましたが、熊野に正当に報いなのであればきっと将来、今の苦労など比較にならない後悔と苦労をなさるでしょう。
あなたは熊野の献身に、甘えられているのではないですか。提督」
それは、ようやく我が家たる鎮守府に帰還して、気が抜けていた提督の側頭部をぶん殴る奇襲であった。しかし、自業自得の奇襲である。
長門は長門で、一息に言った自分の強すぎる言葉を後悔し始めていた。何より上官への態度ではない。だが、提督と熊野の関係に、ずっと思うところがあったのだ。
「長門よ」
提督が長門に近づいていく。長門は即座に直立して、顎を引いた。
目を閉じる長門の頭を、提督は乱暴に引き寄せる。
「おまえらしい正論だった。よく言ったな、俺の秘書官」
「は、はッ」
「今後もその調子でよろしく。じゃ、俺はおまえの言ったとおり、熊野を探しに行くとする。言われた件も、ちゃんとするから」
「はいっ。お待ちしております」
長門はようやく笑った。その頭をぽんと叩くと、提督は鞄と共に身を翻す。
長門は晴れやかな気分だった。お互い大切に思っているのに、取り巻く環境は二人に優しくない。そういう二人だからこそ、少々のことは耐えてしまうだろう。そして、艦娘と人間が一緒になれば、もっと耐えなければならないことは増えるだろう。長門は、少しでもその橋渡しをしたい。それが長門なりの報い方だった。
(これでもう少し進展するだろう)
下世話な長門だったが、それは確かに平和な姿だったのだ。
──しかし、秘書官室の扉が開いてしまった。
「あー! 提督、ようやくみっけたわ。今日早く帰るって全然遅いじゃん!」
鈴谷が息を切らしながら秘書官室に飛び込んできていた。
「まあな。俺の予定が当てにならないって知ってんだろう」
「もー! 帰ってると思って、ずっと走り回ったんだからね! ほら、熊野待ってるからいこいこ!」
「なんだ、おまえら一緒にいたのか。そりゃ助かるよ」
「えへへ、そうだよ。はい、だから、いこっ! じゃあ、ながもん失礼しまーす!」
長門が一言も発する間もなく、二人は消えた。
「あれ。やっぱ誰もいない」
提督は鈴谷に連れられて鎮守府を出、整体屋に連れられてきた。
整体屋の奥の電気はついており鍵も開いていたが、カウンターに人はなく、表の看板も準備中になっていた。
鈴谷が声をあげるが、誰もいないフロアにしんと響いた。
「これ以上うろつくのはまずい、鈴谷」
「でもさこの靴、熊野のじゃない?」
……靴棚に置かれているのは、確かに熊野の靴のように見える。
「まだマッサージしてるとは思えないけど」
無人の廊下を鈴谷が進んでいく。提督はただその後を追った。
鈴谷が、始めに二人がいた個室の扉を開けるが、室内は薄暗く機材と寝台が目につくばかりで誰もいない。
しかし、嫌な匂いが鼻についた。
かすかだが確かに感じる。ヤクの匂いだ。
「どこ行っちゃったんだろう」
嫌な予感がする。
「鈴谷、俺はもう一度靴を見てくる」
静まりかえった室内。鈴谷が耳を澄ませていた。
「待って、なんか聞こえない?」
提督も耳を澄ませてみるが、何も聞こえない。
鈴谷は構わず部屋の奥へ入っていった。
奥にある扉、そこで鈴谷は膝を突く。
鈴谷が、喉を鳴らしたような気がした。
振り向く鈴谷が、ためらいがちに上目遣いで提督を見た。
「……提督、見て」
声をひそめる鈴谷。少し開いた隙間から、白い光が漏れている。
扉に歩み寄る。
鈴谷の態度が変だ。いや、そもそもこの店に足を踏み入れたときから、何もかも変だったではないか。
(熊野、いるんじゃないだろうな)
それは懇願に近かった。
そして嬌声が、聞こえた。
待合室のような雰囲気、黒革のソファに汗にまみれた男女が折り重なっていた。男の尻が前後に振られる度、切ない喘ぎ声があがる。
「んぁっ…………はっ……あァンッ、く、ああぁぁ……」
「……ほら、舌だして……」
ディープキスの音が室内に響き渡る。男は両腕で女の腰と背中をかき抱き、一心不乱に女の舌をむさぼる。
「ふふっ、気持ちよくてたまんないって顔してるよ、熊野ちゃん。気持ちいいんだよね?」
男が顔を離すと、唾液にまみれた熊野の顔が現れた。
「ぅ、くぅッ、……ぁん、ぁぁんッ!」
男の両手で熊野の股を大きく開くと、ゆっくり腰を熊野の股間に沈め、押しつけていく。
「気持ちいいか、気持ちよくないか、言わないと、熊野ちゃんの大好きな骨盤をずっといじめちゃうよ。あ、アハハ。ほらまた潮吹きそうにしてる、ここ。本当にエッチだね」
「い……いいます。いいますから、やめて、ください」
熊野の疲れて、体液にまみきった顔を、男は見つめていた。
「ん、はぁぁァッ、……き、きもちいいです。いいですからっ、ゆ、ゆるしてっ、ください」
男は笑って、さらに強く腰を押しつけた。男の陰茎が、熊野の秘所を前後する。身体をよじる力もなくなった熊野は、もはや喉を震わせることしかできなかった。
鈴谷が、唾を飲む。
「な、なんかっ、ちょっと離れてる間に大変なことになっちゃってるね。こんなお楽しみみたいなことが、本当にあるなんて」
隙間からのぞく熊野が、小刻みに震えてイっていた。
「熊野、すごい気持ちよさそうな顔してる。女って、あんな風になっちゃうんだね」
また、鈴谷が喉を鳴らした。
鈴谷の顔は上気して、目は潤んでいる。
そして、鈴谷の胸は高鳴っていた。なぜ高鳴るのか。提督への想い故か、熊野の痴態故か、あるいは別の何かか。本人にもきっと分からず、分かっていたらここにはいなかっただろう。
「ね、ねえ、提督。わたしも……」
眼を妖しく輝かせ、提督を見つめようと鈴谷が振り向いた先は、しかし虚空だった。
鈴谷の脇を、風が動いた。
とっさに伸ばした鈴谷の手は、扉を開け、白い蛍光灯がまぶしい部屋を悠然と往く提督には、もはや届かない。
中の男は、提督が肩を叩くまで情けなく腰を振り続けていた。
「な、なんだ、おまバァッッ」
動揺した男の顔に、提督の右拳がめり込んでいた。
男はソファから転げ落ち、周囲の物をまき散らしながら床にころげる。目を剥いて提督を見、そしてドアの方を見やった。
「き、聞いてないぞ、誰だこいつぁアガッ」
二発目を顔面に入れた提督に表情はなかった。
裸でみっともなく動転する男に、言葉を選んで、聞き取れるようゆっくり喋ってやった。
「首を洗う時間をくれてやるから、今すぐ、黙って、失せろ」
「な、何言ってんだよ、ここはッ」
提督のつま先で鼻面を蹴り込まれた男が、悶えていた。
「次に、俺の口を開かせたら、今すぐ、ここで、殺す」
提督が顎で扉の方をしゃくると、男は曲がった鼻を押さえながら転がり出ていった。鈴谷の姿はない。
提督は、もう男のことなど頭になかった。
目の前の、放心したままソファに倒れる熊野だけを見ていた。
「……ぁ、あ…………」
熊野は焦点の合わない青い顔をしている。酷い姿だった。濡れたポニーテールは千々に乱れ、顔と身体は唾液と精液にまみれ、秘部は白く濁っている。体中にキスマーク、胸には歯形。うつろな瞳の熊野は、半開きの口を動かそうとして果たせなかった。
提督は、仰向けのままの熊野をソファに寄り掛からせた。
「大丈夫か、熊野」
腰を落とし、目線を合わせる。
「よく頑張ったな。もう大丈夫だ」
提督が優しく声を掛ける度に、提督を見つめる熊野の眼の焦点が合っていく。そして肩が震え、唇が震え、膝が震えていった。喋ろうとして口がまともに動かず、体を動かそうとして痙攣する様は、悲痛だった。
提督は、熊野の肩を抱いて隣に座った。熊野の顔が、歪んだ。
「…………て、ていとく、わ、わたくし」
「大丈夫だ。熊野、大丈夫だぞ」
「わ、わた、わたくしっ、わたくしは、ていとく、わたくしはっ、どうしようもない、本当に、どうしようもないっ、女でっ……ご、ごめ、ごめんなさっ、ごめんなさいっ、ていとく、こんな、こんなことに、ごめんなさいっ」
大粒の涙を流す熊野の頭を、提督は抱いた。
申し訳なさと後悔を越えて、提督は熊野を抱きしめた。
「ごめんな、変に格好つけてて。おまえにどれだけ助けてもらってるか、おまえの気遣いにどれだけ救われてるか、もっと早く伝えておかなきゃならなかった」
「いえッ、いいえっ! 提督はいつも優しくしてくださいましたっ! だ、だから、わたくしは、すこしでも、提督のお力になりたいと、いつも、いつもっ、おもって、おりましたのに……っ、なのに、こんなっ、ごめんなさいっ、提督っ」
熊野はぼろぼろと泣き続けた。
ごめんなさいと謝り続けて大粒の涙は止まらなかった。
このまま泣き尽くしてしまったら、きっと熊野には何も残らない。
それが、提督には分かった。
「熊野」
提督は、外套のポケットからベルベットのケースを取り出す。
「これを、おまえが持っていてくれないか」
涙を流ししゃくり上げる熊野は、すぐに受け取ろうとしなかった。ケースを押しつけるようにして動かない提督に、熊野はおそるおそる手を伸ばし、受け取る。
「開けて」
中には指輪が収まっていた。同じ銀色でも、一目に分かる。艦娘の指輪ではない、本物の指輪だった。
「仕切り直したら、俺がおまえの指輪に嵌める。だから、それまで、無くさないようにおまえが持っていてくれ」
「だ、だめ。だめですわっ。提督、ていとくっ!」
受け取れるはずがなかった。
熊野はケースを提督の胸に押しつける。
しかし、提督は受け取ろうともせず、返事もしない。
ただ、提督の眼が熊野を見ていた。
それは、意思の力で支えられている。いつもいつも、熊野が追いかけてきた瞳だった。
熊野は、隙間風のような懐かしさを感じ、思わずその眼を見つめ返す。吸い込まれようにのぞき込んだその瞳の中には、自分がいた。しかしそれは、精液で汚れた自身の姿ではなく、提督に出会ってから今日までの熊野であった。
その熊野は、長門から受けた事務仕事を終えた後、報告書を書いている。頬に残る火傷を横着してそのままに、机に向かう。提督は、熊野が提督と鎮守府のために書いた報告書に必ず目を通す。
その熊野は、手紙を書いている。酒を飲むのも仕事である提督の体調を、おざなりになってしまう日々の食事を、そして一番割を食う睡眠時間を、心配しながら手紙を書いている。熊野が伝えようとして文字にならなかったその想いは、何度も手紙を読み返す提督によって掬われている。
その熊野は、夕焼けに染まる水平線を仲間たちと渡り、楽しそうに笑っている。そして、提督が遠い波止場からそれを見ていた。熊野も提督も、とても楽しそうに見えた。
水平線を往くその熊野が言った。
(自分を呪うのは一人でいい)
私たち艦娘は、そうやって歯を食いしばり、笑い、支え合って生きている。
私たちはそうやって、一人前の人間のように胸を張ってきたのだ。
熊野はそうして気づいた。
(提督は、わたくしよりわたくしを信じてくださっているのですね)
それに気づけた熊野は、もう自分を呪えはしない。呪いはしない。
生気を取り戻した熊野の眼が、初めて提督を見た。
ケースはずっと、熊野の手の中にあった。
「て、提督。……受け取っても、よろしいのですか」
「受け取れ、熊野。おまえは、俺の大好きな女の子だ」
熊野の頭を提督がかき抱く。
熊野はもう、いつもの熊野だった。
「…………はい、提督」
汚れた手。それでも精一杯汚さないよう、大事そうに熊野はケースを抱えた。
提督は外套を熊野に着させ、肩を抱いて二人で立ち上がった。
今日幾度も涙を流した熊野だったが、最後の涙だけはきっと嬉し涙だったはずである。
鎮守府司令部秘書官室、夜も更けたというのに長門はまだ居残っていた。
とはいえ、連日の激務がたたりその集中力は確かでない。
そもそも、秘書官は、艦娘鎮守府内の艦娘に関わるすべての仕事に携わる。予算折衝、経費承認、作戦立案、作戦指揮、超膨大な日常事務。艦娘鎮守府は海軍の組織下にあるがその成り行き上、非常に独立性が高い。事務官一人雇うのに苦労する現状で、唯一事務処理能力を持つ秘書官室に業務のしわ寄せが押しつけられるのも当然のことである。いや、長門は愚痴を言いたいのではない。全部承知の上でやっているのだし、こんな愚痴を提督に聞かれれば一週間は顔を上げらない。ただ、秘書官室という名前が格好悪いと思う。どうせなら提督官房とか裏の組織っぽくしてほしいのだ。提督官房かっこいいだろう。艦娘機密費で専属の事務官を雇うのだ。そうして二日に一回は提督が帰ってくる前に上がれるようにする。いい案ではないか。
長門はそんな状態だったから、ノックもない提督の入室にすぐ気づけなかったとしても、仕方のないことなのだ。
だが、少々間が悪かった。
長門は、その異様な気配にようやく気づいた。
「て、提督、どうなさったのです」
いつの間にか入室していた提督は、一目に分かるほど激情をたたえていた。いつもの身なり、いつもの立ち姿だったが、その気配を長門でなくても理解できただろう。
提督は、板張りを踏みしめるようにして長門の前へ歩み寄る。
長門は提督のそんな眼を、見たことはなかった。
「遅くにすまんが、外しようがないクソったれの仕事ができた。手伝ってくれるか?」
「はッ。どのようなご用件でしょうか!」
「熊野が、男に襲われた」
「は、はっ? な、なんですって?」
「熊野が、今さっきまで、ヤクの匂いのする整体屋にレイプされていた」
長門は絶句した。
性犯罪は、艦娘鎮守府、いや艦娘には無縁だった。提督が鎮守府を立ち上げる以前の荒れていた時期ですら、そうだった。大半の人間にとって艦娘は性の対象にならない。艦娘は、人間でないのだから。
「くっ、くまのが、ですか?」
長門の混乱ぶりを見て、提督は一つ息をついた。
「仕事は二つ。まず最初に、逃亡中のその男を潰す。どうやら裏があるらしいが、とにかく捕らえる。そして洗いざらい事情を喋ってもらう。二つ、裏で手引きした野郎を潰す。そいつがどんな素性であれ、探し出して潰す。
熊野と鎮守府、汚え土足で二つを踏みにじった奴らを、他の誰でもない、俺たちで潰す。俺たちの手で、潰さなきゃならない。他の誰も間に入れさせはしない。
違うか? 長門」
「……ハッ、その通りです!」
提督の静かな怒りが、長門を立ち直らせていた。
「よろしい。ならば有志二個班、陸戦装備で召集しろ。一個は室内戦用意、長物は外せ。一個は夜間広域索敵。内一名は狙撃に対応させろ。集合はフタサンマルマル、第三会議室。今回、他の公的機関は一切噛ませないということに留意しろ。また詳細は集合後俺から伝達する。以上」
長門が復唱する。
黙って聞く提督の背中は怒りと悲しみをたたえていた。
掛ける言葉が、見つからない。
「…………提督。熊野は」
「鳳翔をつけて寝かせた。少しの間、ローテから外してやってくれ」
提督は、長門を見なかった。
「長門、おまえは正しかった。俺はもっと早くに、公私を越えて感謝を、皆に見える形で、熊野にしなければならなかった。怠慢だったのだ。……だが、しかし、俺と熊野との間のことで遅すぎるということはない。この件が落着したら、俺は熊野と一緒になろう。そのときは、おまえにも祝福して欲しい」
穏やかな物言いに、長門は胸を締め付けられた。
「…………門出は、穢されてしまったが」
ポツリと提督は言った。
長門は震えた。
もっとも鎮守府のために働いてきた存在が、最初期からの戦友が、ゴミくずのように扱われた。ささやかな艦娘の幸せが、ただ普通の女の子の幸せが、馬の骨に土足で踏みにじられたのだ。
「提督、提督! 我ら艦娘一同、地獄の果てまでお供させていただきます!」
艦娘一同。
その言葉が、提督の胸に更なる怒りに触れた。
私憤ではない。義憤である。
温厚篤実な彼が、周囲の嘲笑と陰口を耐えなお守ってきた艦娘鎮守府。しかし、それでも、艦娘鎮守府は提督ではなく、艦娘のものだ。艦娘は鎮守府の下に支え合い、背中を守り会わなければならない。でなければ誰が、母港を寄る人波から守るというのか。
帰る港があるのなら、深海棲艦恐るる足らず。それは、スローガンではない。だが、艦娘が人間を、あるいは仲間の艦娘を相手にして闘わなければならないとしたら、どうだ。港がもはや帰るべき母港でなくなる。そして艦娘は海に出ることなく散るだろう。
艦娘は、自分自身のために艦娘鎮守府を、艦娘を、仲間を守らなくてはならない。
「長門。二個班集合後、直ちに全艦娘を教練場に緊急招集しろ。最優先だ」
艦娘は闘い続ける。
その道が独りでないのなら。
提督は、艦娘の人並みの幸福を願う一人であった。
長文読んでくださってありがとうございました。
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