「さて、こっちは上々。そっちはどうだ?」
『可能な限り調べ上げました』
「よし、まずは目的の物の確認からだな。監視カメラの映像を映せ」
アンダーエデンを後にした虎太郎とアルフレッドはいくらか寄り道をして、あるホテルの一室を借りた。
ヨミハラにおいて最も金がかかり、最も富裕層が利用し、最も安全が確保されているホテルだ。彼の被っている偽の身分に最も合っていると言えよう。
その一室でカーテンを閉め切り、人界魔界を問わない盗撮、盗聴の手段がないかを確認してから、忍とその従者は情報を突き合わせる。
『アンダーエデンの医療室にて厳重に保管されている薬品は二種類ありました。その映像が此方です』
「確かに厳重だな」
『一方は常に温度管理されており、もう一方は電子ロックが施されたケース内に保管されている模様』
アルフレッドの端末からホログラム映像が転写され、薬品棚に保管された無数のカプセルが映し出される。
一方は低温から常温の間で保管できる温度調節器が取り付けられており、もう一方は片側に比べてより厚い金属とガラスのケース内に保管されている。
前者は緑の蛍光色に輝いており、魔界医療でよく使用される培養液と似た色をしていた。
後者は青く濁るような色をしており、こちらは虎太郎の記憶にも、アルフレッドの記録にも類似する薬品等は見受けられない。
『形状、大きさは同一です。ですが、保管方法、管理方法、管理記録から緑色のカプセルがキメラ微生体、青色の方が解除薬と思われます』
「ふむ。キメラ微生体は魔獣の細胞を利用したナノマシンに近い。少なくとも人体に投与されるまでは急激な温度変化は厳禁――という推測か」
『はい、抜き取ったキメラ微生体のデータと一致します。そして、青色の方の保管数は緑色に比べて少なく、アンダーエデンの奴隷娼婦の人数と一致します』
「状況、情報的にも矛盾はない。確定だな」
そこまで言うと、虎太郎はデスクの上に寄り道の結果を紙袋の中から取り出した。
取り出されたものはヨミハラの露天商で売られている麻薬・媚薬等の人体と精神を破滅に導く違法薬物ともう一つ。
違法薬物は文字通り様々な、色、形状、効果を誇る。媚薬だけを取ってもカプセル型、錠剤型、注射型、クリーム型と呆れ果てるほどのバリエーションがある。
露天商の商売人も、ヨミハラに来たばかりの金ヅルが興味本位で買い漁ったようにしか思っておらず、本来の用途とは全く別の使い方をするなど考えもしまい。
「よし、不知火さんに連絡。あっちの状況によっては時間を変えろ」
『承知しました――――――問題ないようです、繋ぎます』
「やあ、こっちは順調だよ。そっちは不調かい?」
『ええ、とても。何事も思い通りに行かないわ』
不知火と別れる際、取り決めてあった合言葉通りの返答に本人確認を済ませながら、虎太郎は手を休めない。
部屋に備え付けられた灰皿と選出した複数の違法薬物を並べる。
初めに取り出したのは液状カプセル型の媚薬。注射型の中身を全て捨て、空になった注射器を使ってカプセルの中身を全て抜き取った。
「矢崎の予定は把握できてるかい?」
『ええ、逐一。あんな男でも、分刻みのスケジュールを送っているものなのね』
「そりゃ頭が腐ってても政治家だから当然さ。それで奴は明日アンダーエデンに向かう予定はある?」
不知火が嫌悪から、虎太郎は無関心から矢崎に対する揶揄を口にする。
そうしている間にも、彼はさらに複数の薬剤を砕き、測り、灰皿の上で混ぜ合わせ、決して口にする気にはならない見るも鮮やかな青色の液体を作り出した。
効果は調合した本人にも分からない。そもそも効果を期待してのものではなく、あくまでも見た目だけが重要なのだが、体内に入れば最低でも一生涯に渡る障害が残ることは確かだろう。
『此処の所、頻繁に出向いているようね。明日も夜に時間を空けていたわ』
「こっちもゆきかぜから聞いてる。周期的にはそろそろかと思ってね」
『――――っ、あの娘に会ったの?』
「動揺しない。何の問題もない――とは言えなかったが、まだ心が折れても、堕ちてもいなかった。十分、対魔忍にも元の生活にも戻れる」
声の震えだけで通信機の向こうの動揺を受け取ったのか、虎太郎は小さくはあったが厳しく叱責はし、その上でフォローも忘れない。
その言葉に不知火は小さく、本当に小さく息をつく。対魔忍としては気を緩めないが、母親としては娘の近況に安堵していた。
続いて虎太郎は注射器で作り出した青い液体を吸い上げ、カプセルの中に注入する。そして手持ちのライターでカプセルを炙り、注射針の穴を塞ぐ。
即興かつ短時間で作ったにしては大した出来の模造品だったが、本人としては満足はしていないのか、何とも言えない表情だ。
この模造品はゆきかぜ、凜子の解除薬と入れ替えるためのもの。数をデータとして管理されている以上、ただ盗むだけでは気取られる。状況も策も誰にも気づかれずに進行している方が望ましい。
「明日、アンダーエデンで騒ぎを起こす。その混乱に乗じて解除薬を手に入れる。手伝ってくれ」
『詳しい内容は……?』
「不知火さんなら事が動けば分かる。それから声が沈んでるな。愚痴でも聞こうか……?」
『ふふ、何でもお見通し、ね。でも、いいわ。少しは恰好つけさせてちょうだい』
「……分かった。明日はそっちに時間を合わせる。以上だ」
不知火の声が常時よりも昏く沈んでいるのを読み取った虎太郎であったが、彼女が助けは無用と言うとあっさり引き下がる。何処までも、冷たい男である。
不知火は今も矢崎の欲望に穢され、娘と娘同然の少女にすらその欲望が及んでいる。精神的に追い詰められていても不思議ではない。
それで壊れてしまうほど柔な対魔忍ではないという判断なのだろうが、些か以上に薄情だ。
通信を切ると、それきり不知火のことなど忘れてしまったかのように、次の作業に移る。
掃いていた靴を脱ぎ、踵の靴底を一定の回数とリズムで叩き、指で押す。すると靴底がスライドし、踵内部の空洞が姿を現した。
その内部に綿で包んだ状態で模造品を詰め込み、準備の第一弾は終了した。
『それからもう一件。どうやら、ゆきかぜ様と凜子様は奴隷娼婦となる際に、呪術・魔術の施された契約書にもサインを行っているようです』
「…………あの、馬鹿ども」
『いえ、これはどちらかと言えば奴隷娼婦としての契約承認とキメラ微生体によって刻印を刻むための起動キーの意味合いが強いでしょう』
「どちらにせよ、軽挙が過ぎる。アイツら、魔術の道具を舐めてんのか。ああ、そうか羊皮紙なんぞ買わせるから何のためかと思ったら、これかよ」
『はい、その通りです』
新たに告げられた事実に虎太郎は頭を抱える。
ヨミハラにおける魔術師、呪い師のレベルはそれほどではない。アミダハラの魔術師と比べれば一段落ちる。
しかし、ヨミハラは魔界への門があると噂されている街。魔界から現れた新たな魔族が魔術師としての腕が一流ではないとも言い切れない。
特に契約書は危険な
レベルが低いものであれば、本当に契約書以上の意味合いはなく、精々が契約を破ってはいけないと意識させる程度で終わる。だが、逆にレベルが高いものの強制力は凄まじいことを意味している。
かつて虎太郎がアミダハラで出会ったノイという魔術師の老婆が作った契約書など凄まじく、契約者の魂まで縛り上げて契約内容を強制する。また契約書を破り捨てようものなら、契約者は契約書と全く同じ運命を辿るほどだ。
その恐ろしさ、魔界の物品に対する知識の無さと認識の低さに、虎太郎は頭が破裂しそうな思いだった。
敢えてゆきかぜと凜子を擁護するのなら、魔界の品に対する認識の低さは対魔忍全体に及んでいる。寧ろ、そこまで詳しい虎太郎こそが異端だ。
彼、彼女等の目的はこの日本という国を護ること。魔界の品を残しておけば禍根に繋がりかねない。全体の認識が“排除すべきもの”であって、知る、使うという思考がまるまる抜け落ちている。
虎太郎に言わせれば、本気どころか正気かと疑いたくなる現実だ。
彼は既に世界を覆う混沌が不可逆であると断じている。排除ではなく、共生にシフトしていかなければならない段階にまで人界は飲み込まれているのだ。
事実として、魔界の勢力は年々力を増しており、後から後から強力な魔族や有力な支配階級が現れ、かつて人魔が分かたれていた時代に戻らないだろう。
なればこそ、彼らについても知らなければならない。その能力、技術、技能、生活、生態、道具を知り、此方の力を見せつけながら互いにとっての落としどころを見つけるのが最善だ。
そうでもなければ、戦力の総数に劣る対魔忍は、どれほど有力な実力者を生み出そうとも真綿で首を絞められるように追い詰められるだろう。
唯一幸いなのは、魔族は基本的に個人主義であり、足並みが揃わない点だ。そのお陰で、どうにかこうにか対魔忍、魔族、米連の三竦みが成り立っているのである。
「何にせよ、万が一を考えれば、契約書は手に入れておかなければならない、か」
『はい、画面越しではどの程度の魔術、呪術が施されているのかが確定しませんので』
「こんだけ苦労して、これ面倒臭がって二人死ぬとかアホらし過ぎる。やるっきゃない」
『虎太郎、そこは二人の身を案じる場面ですよ』
「アア、ウン、フタリトモ、シンパイダナー」
『大した棒読みです、このドライモンスター。……ですが、不知火様を含めた三名は人間の美観によれば皆一様に美しい。美女、美少女の価値はあらゆる他の価値観を駆逐するそうです。よかったですね、貴方にしては苦労よりも報酬が勝っています』
「アホか。どこ情報だ、それは。というか、そんなアホな情報をお前に吹き込んだアホは誰だ………………ああ、もういい。アル、契約書の画像を出せ。
『はい、今夜は徹夜ですね』
羊皮紙と万年筆を手に取り、契約書を写生していく。
これも忍として持っていて当然の技術である。だが、この技術を持っている対魔忍の数は少ない――――以下、略。
米連並みの最新機器であれば、本物と寸分違わぬ偽物をものの一分で印刷可能だが、生憎とそんなものはない。
あったとしても、そんな印刷機器をヨミハラに持ち込める筈もなく、どの道、この苦労は確定事項に違いはなかった。
―――――
――――
―――
――
―
契約書の複製を終わらせ、二時間ほどの睡眠を取った虎太郎は不知火との軽い打ち合わせ通り、アンダーエデンへと向かう。
複製も服の下に潜ませ、器用に動かすことでボディチェックを突破した。警備員がどのようにボディチェックを行うのかを知るかも、前回の潜入における目的の一つだった。
待合室に通され、前日の仕掛けがそのままか、監視カメラの位置に変化をないのを確認する。
再び、顔を見せたリーアルと下卑た談笑をしつつも、相手に不信感を抱かれていないかも確かめた。
拍子抜けするほど疑いを持たない肥え太った豚に各勢力の敵の舐め腐りっぷりを再認識し、心の中で嘆息した彼とアルフレッドであった。
そして本日も高額の優先権を買い取り、予定通りに凜子の部屋へと向かう。
前日と同じように案内役から鍵を受け取った虎太郎は、躊躇せずに開錠して扉を開ける。
待っていたのは、やはり同じく奴隷娼婦だ。
頭を垂れ、三つ指で客を迎え入れる姿は楚々としたものであったが、隠しきれない淫靡さが漂っている。
「おい。凜子、オレだ。くだらん真似をしなくていい」
「………………――――――」
もう茶番はうんざりだったのか、虎太郎は凜子の商売用の口上を始める前から遮る。あんな経験は一度で充分なのだろう。
訝しげな表情で顔を上げた凜子は、虎太郎の姿を確認すると目を大きく見開く。
小さな声一つ発せられなかった辺り、衝撃の度合いはゆきかぜ以上であったのか、顔を上げたままの恰好と表情で硬直していた。
虎太郎としても先日のゆきかぜのように取り乱されても面倒だったらしく、慎重に言葉を探していたが、先に動いたのは凜子の方だった。
表情は驚愕を示したまま、その場で立ち上がる。
よく練り上げられた武錬を感じさせる肢体と不釣り合いも甚だしい雄を誘う雌脂肪。それを黒いロンググローブとストッキング、ハイヒールで飾り立て、胸と尻にはサイズがあっていないマイクロビキニが喰い込んでいる。
「おい、何だ。何なんだ、うっとおしい」
「……………………」
何一つ言葉を発しないまま、虎太郎の手を取り、腹を触り、胸元に手を添える。
まるで其処に立つ虎太郎が幻ではないかを確認するような仕草だ。いや、“ような”ではない。実際に幻ではないか確認しているのだ。余りにも辛い現実に自分自身が生み出した幻覚ではないのか、と目の前の光景を疑っている。
うっとおしいと言いながら、虎太郎は拒まない。それほどの精神的な傷を凜子が負っていると理解しているからであり、同時にこの行為の拒絶はより時間を引き延ばす結果となってしまうのを知っていた。
凜子は最後の確認とばかりに虎太郎の頬に両手を添えて、愕然としたまま言葉を発する。
「…………来て、くれた、のか?」
「それ以外の何だって言うんだ」
未だに目の前の現実を受け入れられずにいるのか、凜子の紡ぐ言葉はたどたどしい。
「…………ま、また、来て、くれた、のか」
「おい。凜子、いい加減に――――――おい、おい」
ゆきかぜとはまた違った、それでいて時間のかからなそうな展開であったが、次の瞬間に虎太郎の抱いていた期待は脆くも崩れ去る。
凜子は表情をそのままに声も上げず、はらはらとただ涙を流し始めた。
「何故、そこで泣く」
【何故、そこでドン引くのです貴方は。そんな貴方には私もドン引きです】
ゆきかぜの言、虎太郎の推測が正しいのであれば、凜子もまた彼に惚れている。
ならば感動の再会だ、喜びの涙も流そうものだが、虎太郎には理解の外であるらしく引いていた。
しかし、そんなことは凜子には関係がない。
溢れ出る感情のまま、普段の冷静沈着な彼女からは想像も出来ないほどに顔を歪めて泣きじゃくる。
「う、あぁ゛、ああ、あ゛ああぁぁあああああぁあああっっ!!」
「何だってんだ、全く」
勘弁してくれと頭を掻いた虎太郎だったが、年齢よりもずっと幼い、子供そのものの泣き方を見せる凜子の頭を抱き、自身の胸に押し当てる。
それでも凜子は泣き止みもせず、寧ろより激しく感情を発露させていく。
虎太郎は無言で頭を撫で、気の済むままに泣かせてやることにした。確かに、それが最も早く泣き止む方法だろう。ただ、その胸中には――
――女って奴は、やっぱり手に負える生き物じゃないな。
そんな諦めにも似た独白が誰に届くこともなく響いていた。
―――――
――――
―――
――
―
過去の話をしよう。
何の事はない、弐曲輪 虎太郎、水城 ゆきかぜ、秋山 凜子の三名が、距離を縮めた折りの話だ。
そう、大層な話でもなく、感動もありはしない。これにあるのは虎太郎のタイミングの良さと二人の乙女心だけ。
虎太郎にとっては何の価値もなく、既に記憶から忘れ去られた過去。されど、ゆきかぜと凜子にとっては決して忘れる筈もない鮮烈な思い出だ。
時は遡り10年程前。
対魔忍が集団から組織になり始めた変遷期。アサギがカオス・アリーナ、東京キングダムでの死闘を制し、帰還した後の春先の出来事だ。
当時、虎太郎は10代半ば、ゆきかぜ、凜子はまだ10にも手を掛けていない年齢の時期。
その日、とにかく三人の運勢は最悪だった。
ゆきかぜは両親に入ってしまった急な任務のせいで、朝から作り置きの朝食を一人で食べる羽目になった。
凜子も同じく親は不在。毎朝、道場で行う朝稽古の最中に袴が破れるアクシデントに見舞われ、顔から板張りの床と熱烈なキスをした。
虎太郎は以前から反りの合わなかった中忍、上忍連中に捕まり、共にした任務での自身には全く身に覚えのない他人のミスを何時間にも渡って叱責を受けた。
ゆきかぜは不機嫌そうに、凜子は涙目になりながら、虎太郎はうんざりとしながら、それぞれの一日に向かっていく。
その日は、将来の対魔忍にとっては特別な訓練の日だった。
一昔前はそれぞれの流派や家系、元より懇意である者同士で、それぞれが独自に幼子たちに教育を施すのだが、折しも変遷期の時代だ、訓練の内容も当然、変遷していく。
時代が戦力に求めたのは平均化。突出した一人を育てるのではなく、平均的な能力を持った集団を育てるのが近年の鉄則である。
対魔忍はそれぞれが固有の能力を有しており平均化は難しいものの、せめて体力、身体能力だけでも揃えておかねば、これからの集団戦には対応できないというそれぞれの当主クラスの判断の元、五車学園に入学する以前からたびたび合同訓練を開催していた。
早い段階で対魔忍としての能力に目覚めた者達は、こぞって訓練に参加する。
将来のライバルに己の力を見せつけるため、早い段階で先達に自分の存在を認めて貰うためである。
負けん気の強いゆきかぜ、向上心の強い凜子が意気込まない筈もない。
訓練の内容は開催毎に変更されるが、その日はちょっとしたサバイバル訓練だった。
あらかじめ決められたルートを古い時代の忍装束を纏い、5kgほどのリュックを背負い踏破するというもの。無論、万が一に備え、現役の対魔忍も同行する。
10にも満たない子供には余りにも過酷な訓練だが、彼等は対魔忍であり、このレベルでなければ訓練にもならない。
ゆきかぜは集合地点に一人で赴き、姉がわりの凜子と会い、更に当時はまだ怖れていた虎太郎と顔を合わせずにいたため、機嫌はすっかり治っていた。
訓練は何の問題もなく進み、終盤に差し掛かった頃、それは起きた。
山から流れる急流によって長い年月をかけて生み出された崖の横を集団で進んでいた折り、突然足場が崩れたのである。
運が悪かったとしか言いようがない。
入念な下準備によって、そのようなアクシデントが起りえず、またあったとしても人間には察知不可能だった。
現役の対魔忍も、崩落に巻き込まれた十余人を見事に救出してのけた。しかし、人間には限界というものが存在する。
その限界の外側に居たのが、ゆきかぜと凜子だ。当時から優れた身体能力を有していた二人であるが、突発的な出来事に対する心構えはまだ出来ていなかった。
為す術もなく谷底の急流へと転落する二人。
同行した対魔忍の対応は素早く、また的確だった。一人が五車学園に戻り、捜索部隊を編成。残りは無事だった子供たちの安全を確保する。
二次災害を防ぐ為には当然の選択であり、能力、異能的にも捜索に向いた対魔忍もいなかったからだ。
急報は2時間としない内に五車学園へと届けられたが、またしても運のないことにアサギを始めとした集団を纏め上げられる隊長格は不在だった。
勢力を増していく魔族、米連の引き起こす事態に、頭目であるアサギが出向かざるを得ないほどの状況だ。これも誰も責められない。
日本人らしい事なかれ主義と決断の遅さ。アサギと近しい水城、秋山家を追い落とさん、恩を売ろうとする各一族の思惑。慢性的な人手不足による捜索を得意とする対魔忍の不在。
ゆきかぜ、凜子捜索の初動は遅れに遅れた。そんな中、真っ先に飛び出したのが虎太郎だった。
無論、当時から度を越した合理主義、現実主義、冷徹さを有していた彼が、単純に二人の身だけを案じていたわけではない。
まずいい加減、5時間にも及ぼうかという叱責にうんざりとしていたこと。それも正当なものではなく、アサギや九郎から信頼を向けられるが故の嫉妬によるものならば尚の事。寧ろ、よく付き合ったというべきだろう。
更に、アサギや九郎、水城、秋山家との関係性。周囲から向けられる自分への視線。元ふうまという理由から生じた当主クラスからの警戒と疑念と隙あらば、落ち度があれば謀殺しようとする殺意。
全てを考慮した上での結論。
対魔忍の中で色々と危うい立場を最低限のまま維持するには最適の出来事、自身の能力的にも捜索隊に組み込まれるのは明らか。ならば、ここで時間を無駄にするよりも、先行して捜索・救助に向かった方が速い上に自分にとってはお得、であった。
忍者刀のみを手に虎太郎は学園を飛び出した。
勝手な行動を咎める対魔忍たちはいなかった。何せ、ゆきかぜと凜子の急報を聞いてから僅か30秒の決断だ。どうすべきかで頭の中が満たされていた彼等には気付けよう筈もない。
さて、対魔忍最速は誰なのか、という質問をここで提唱してみよう。
現在、未来においてもその質問をすれば、まず第一に名前が挙がるのはアサギだ。
生まれ持った異能、鍛え上げた身体から生み出される
しかし、“逃げの虎太郎”も対魔忍において最速と知られる男である。
幼年期の過酷な経験を背景とする度を越した性能の追求と鍛錬。如何なる状況にも即応する反射神経。ありとあらゆる状況を想定しておく計算高さ。想定外の事態でも揺れぬ不動の精神。
異能を差し引いた純粋な身体能力での俊足は当時の時点でアサギと同等。
殊更、あらゆる足場を走破する能力、
現役の対魔忍が2時間近くかかった距離を僅か30分であっさりと走破し、虎太郎は捜索を開始した。
その頃、ゆきかぜと凜子は十数キロも急流を下った位置で、何とか川岸に上がることができていた。
不幸中の幸いは二人とも目立った外傷はなく、重しとなるリュックを捨てたことで窒息には晒されても、川底に沈まず、互いの身体を放さなかった点か。
無事を喜びあった二人であったが、春先とはいえ川の水は冷たく、山の気温は低い。況して、どれだけ能力に優れていてもまだ子供だ。
二人は互いを支え合い、川岸から移動する選択肢を選んでしまった。
当時から同年代の対魔忍候補には負けない自信があった上、厳しい訓練を積んでいた。事実として周囲の人間は二人に称賛の言葉を幾度となく送っていた。それ故、二人だけでも五車学園まで戻れると考えたのである。
酷い勘違いもあったものだ。
二人の考えは決して能力や自信、訓練に根差したものではなかった。
余りにも幼い判断力と不安からの行動でしかない。それに気づいていれば、或いは行動も変わっていたかもしれないが――――結果として、二人の選択は最悪のものとなった。
大したサバイバル能力と知識、渡り鳥のような正確な方向感覚を持たなかった二人は当然、道に迷った。
いや、そもそも五車学園の周辺の山々は近代化が進んだ現代では信じられないほど手付かずの自然が残っており。文字通り、道などなかった。迷いもしよう。
深い森林の中、二人は気付かぬまま同じ場所をぐるぐると回り、時間を悪戯に浪費して、結局は日が暮れた。
寒さに震える二人は疲労と闇夜への不安から、発見した木の洞で夜をやり過ごすことにした。
月と星の光が僅かにのみ差し込む闇の中、寒さよりも寧ろ不安と疑問に震える。
このまま死ぬまで森を彷徨うのか。闇の中から見たこともない怪物が現れるのではないか。もう二度と愛する家族や友人には会えないのか。寒さと飢えをどう凌げばいいのか。
一度思えば決して消えず、考え始めればキリがない。そのまま二人は眠れぬ夜を越えようとしたが――
――もう一度言おう。その日、ゆきかぜと凜子の運勢は間違いなく最悪だった。
それに先に気づいたのは凜子。遅れてゆきかぜも察知する。
闇と月明りのコントラストを越えて現れたのは、熊だった。それも秋から冬までの間に十分な食料を得られずに冬眠に入り、餓えた状態で目を覚ました熊だ。
本来、野生動物は自ら人間に近づくことは少ない。本能として知っているのだろう、人は進んで関わりなど持つべき生き物ではない、と。
森の中を彷徨っていた彼或いは彼女も、通常であれば近づきはしまい。しかし、餓えから選択肢を誤った。食欲もまた本能である。
忍具もなく、武器もなく、生まれ持った異能もまだまだ未熟で熊を倒せるほどでもない。二人に抵抗の術はなかった。
絶望が襲い掛かる中、凜子はゆきかぜを背後に庇う。自分一人が喰われれば、ゆきかぜだけでも救えるかもしれない。そんな浅はかな考えがあった。
余りにも虚しくありながら、必死の自己犠牲は余りにも眩しい。
尊い精神ごと喰らうように餓えた猛獣は二人に迫る。ゆっくり、ゆっくりと。
数秒先の死を前にして、ゆきかぜは目を瞑り、凜子は目を逸らさない。どうしようもない絶望と状況の中――
――誰一人にも、野生の獣にすら気取られず、ケダモノの頭上から雷の如き刺突が落ちた。
刃は熊の頭頂部から入り、顎を抜けて地面に縫い付ける。おまけに刃を抉り、脳幹を完全に破壊する念の入りようだ。
ただの一撃で全てを終わらせた人物は跨った死体から降り、すたすたと遠慮なく二人に近づいていく。
『おい、怪我はないか……?』
返り血一つ浴びず、見事なまでの隠遁術と暗殺術を披露した人物は言うまでもなく弐曲輪 虎太郎だ。
ゆきかぜは勿論のこと、凜子もまた虎太郎に対して苦手意識があった。無表情の裏側に、得体の知れない何かを感じ取っていたのである。
虎太郎は無表情で相変わらず何かを有していたが、その全身は汗に塗れ、二人にとっては救いの主に他ならなかった。
その後、虎太郎は安堵から眠ってしまったゆきかぜを前に抱え、うとうととしていた凜子を背負い、難なく五車学園に帰還した。
凜子はその背中で何を考えていたか、彼女自身も覚えていない。
記憶にあるのは例えようもない安心感と男の匂い。そして、弐曲輪 虎太郎は信ずるに値する人物だ、という思いだけ。
その日、三人の運勢は間違いなく最悪だった。
ゆきかぜと凜子は、性質の悪い男に惚れてしまい。
虎太郎にとっては、乙女という手に負えない生き物に惚れられてしまう、新たな柵に捕らわれてしまった日だったのだから。
―――――
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―――
――
―
「あー、そんなこともあったな。どうでもよす過ぎて忘れてたわ」
「そんなことだろうと思っていたが……最低だ、貴方は」
(どうしてこのドライモンスターは、そんなことを忘れられるのでしょう。…………今度、脳の構造をスキャンしてみましょうか。このドライ加減の秘密が明らかになるかもしれません)
泣きながら虎太郎に対して来てくれたと繰り返していた凜子は、落ち着くと自分から虎太郎と距離を縮めた経緯を語った。
凜子はスーツの上着を肩にかけられベッドに腰掛けて、虎太郎に寄り添うよう座っている。
これまでの自身が自身でなくなっていく恐怖、下衆な男に穢されていく恐怖を癒すかのように虎太郎の腕に抱き着き、手に指まで絡めて握り締めていた。
(やっぱり凜子も相当キてるな。いや、安堵して緊張の糸が切れたからこそ、表層に現れて無意識の行動に繋がっているのか…………どっちにしろヤバイぜ!)
胸の谷間に虎太郎の腕を挟み、時折身体を揺さぶって硬くなった乳首を擦り付ける。完全に愛する男と腕を組む女の仕草ではない。雄を必死に誘う雌の動作である。
ゆきかぜの時もそうであったが、彼は一切の獣欲を滾らせることもせず、ただその事実に辟易とした様子だった。
「ふん、しかしまあ都合のいいもんだ。そんな程度で惚れるもんかね」
「男である貴方には分からないかもしれないな。……女は意外に現金なんだ。自身の危機に颯爽と助けに現れた王子様には殊更弱いさ」
「どう見ても王子じゃなかっただろ。よくても忍、悪くてターミネーターだったろ、どう考えても」
「実に客観的な正しい自己評価だが、私にもゆきかぜにもそうは見えなかったよ。こうして、また来てくれただけで、私は充分だ」
「馬鹿言え、まだ仕事の途中なんだよ、こっちは。お前等を連れ帰ってようやく終わりだ。何年経っても手間のかかるガキ共だよ、お前らは」
勝手な悪態を吐く虎太郎であったが、凜子は微笑むばかりだった。互いに勝手な言い分を語っている自覚があったからだろう。
10年前にせよ、今回にせよ、虎太郎は本当にタイミングが良い。
命が奪われるようとする、心がへし折れようとする直前に現れ、最短で事を終わらせる手際の良さ。
況して、まだ何も知らない幼年期に刻まれた強烈な思い出があり、ゆきかぜ同様、時間を掛けて虎太郎の人柄を深く理解している。これでは、凜子の純粋な気持ちも無理はないだろう。
「しかし、お前等、本当に大丈夫か? 男を共有するなんぞ。それじゃあ情婦と変わらんだろ」
「う、うるさい! 貴方がそんな性格だから悪いんだ! それから、そんなことを言っても無駄だ! 諦めさせて楽をしようとしているだろう!」
(バレテーラ)
「そ、それに、ゆきかぜと貴方が悪いんだぞ? 私が、こんな風になったのも……」
「は? 何だそりゃ、奴隷娼婦になったのはリーアルとお前自身の甘さのせいだろうが」
「ち、違う! そちらではない! ハッ……!?」
虎太郎の指摘に凜子は声を荒げて否定する。
ただ否定するだけならば逆恨み以外の何物ではないが、そちらではないという言葉からどうやら奴隷娼婦へと堕とされた件とは別のようである。
凜子は自分の言動に慌てて取り繕おうとしたが巧く言葉に出来ず、ただただ顔を赤くして俯くばかり。
虎太郎は疑問が生まれたものの、それ以上の興味を抱かない。言いたくないのならば言わないで構わない。必要以上に人の領域へと踏み込むつもりは毛頭なかった。
「貴方とゆきかぜが悪い、悪いんだぞ……?」
しかし、虎太郎の視線の意味までは分からずとも感じていたのか、二人が悪い、悪いんだと原因に対して可愛い悪罵を吐きながら、自身のひた隠しにしてきた性癖を訥々と語り始める。
当初、凜子はゆきかぜの気持ちを想い、自身の虎太郎に対する恋心を胸に秘めておくつもりでいたようだ。
だが、ゆきかぜは持ち前の無邪気さで凜子の恋心を見抜き、どうすれば愛しの男に振り向いて貰えるのか、と何年もの間、話し合いを続けていた。無論、どちらが虎太郎を手にしても恨みっこなしという条件で。
可愛い妹分と同じ男を取り合う愛憎劇など御免であったが、運悪くゆきかぜと凜子は同時に同じ結論に辿り着く。
弐曲輪 虎太郎は誰も愛してもいないし、愛さない。ただ、愛された分だけ愛し返す鏡のような男である、と。
その結論に困ったのは、誰あろう凜子である。
この時、凜子にとっての幸せはゆきかぜと虎太郎の間を取り持つこと。自分の初恋など二の次で二人の関係が進む方が喜ばしいと感じていたほどだ。
なのにそんな結論に至ってしまえば、二人同時に愛してもらえるかもしれない、とひた隠してきた初恋が鎌首をもたげたとしても無理はない。
凜子の倫理観に沿えば、それは間違っていた。
一人の男を共有し、同時に愛されるなど許されるわけもなく、爛れているとしか言いようがない。
必死になって虎太郎から目を逸らし、新たな恋を探そうと決心した凜子であったが、目につく男の共通点に愕然とした。
(いや、待て、待て待て。そんな、奴も、彼も、あの男も……!)
凜子が気に入った、或いは必要最低限のラインを満たしていると判断した男の共通点は一つ。
誰かと愛し合っているか、誰かに愛されているか、誰かを愛している男だったのである。その性癖に凜子は頭を抱えた。
単なる偶然などではない。事実、愛し合いが終わった時点で、誰かに愛されなくなった時点で、誰かを愛さなくなった時点で、凜子はそれきり、それらの男に何の興味も持てなくなっている自分に気が付いた。
略奪愛、寝取り癖――とはまた違う。男と女の関係を破壊しようとしない時点で僅かに異なるだろう。
敢えて言うのなら妾体質、愛人気質と近い、大変困った
長年に及ぶゆきかぜと虎太郎の間を取り持ち続けた代償だ。
そして、その性癖を誰一人傷つけることなく満たせる男は虎太郎くらいのものだろう。何より、初恋の相手である。不足などあろう筈もない。
「ゆ、ゆきかぜもゆきかぜだ! 始めは恨みっこなしだと言っておいて、最近になってそういう人だからと希望を持たせるようなことを言うから、私は、私は……!」
(う、うぉぉおおぉぉ! メンドックセェェェェェ! なんだその性癖! オレか? オレの所為かそれ?)
【乙女心を洗脳改造してその反応ですか。最低ですね、このドライモンスター】
(えぇぇえええぇぇええッッ!? 洗脳改造?! オレ、何もしてませんけどぉぉぉぉ!!)
確かに虎太郎は何もしていないが、時に何もしていないことこそが咎められる場合もある。
そもそも凜子の恋心を分かっていながら、振りもせずにいた所為で諦めさせもしなかったのが、厄介な性癖を
虎太郎にとっては青天の霹靂でも、全てを知る第三者からみれば、一番の悪者は虎太郎において他にいない。
「そ、そのぉ、……貴方は駄目か? こんな性癖の女……」
「いや、別にどうでもいい。オレの所為と言うのは心外だが、まあそういう性癖もあるわな」
「そ、そうか。そうか……!」
そもそも虎太郎にとって厄介な問題は女に惚れられること自体なので、少なくとも自身に類の及ぶ性癖でもなければ関係がない。
凜子はそんな死ぬほど失礼な、誓いの関係上、どうしても裏切れない求愛自体が邪魔と断ずる男に気付いているのかいないのか、嬉しそうにほっと安堵の吐息をつく。
いや、ゆきかぜを思えば、凜子もまた気付いてはいるのだろう。だが、そこはそれ。そんなことを気にしていては、こんな人として破綻寸前の男など愛せまい。
【虎太郎、お報せが。矢崎及び不知火様の姿を確認】
(……分かった。さて、事を起こすか)
既に監視カメラに接続し、逆にアンダーエデン内部を監視していたアルフレッドは到来した機を虎太郎に伝えた。
その言葉に、カチリと奥歯に仕込んだある装置のスイッチを入れた。たった今からキメラ微生体解除薬の入手開始である。
「凜子、暫らく待ってろ。他の仕事を片付ける」
「え? あ、ちょ、ちょっと待て! まだ話は――」
虎太郎が既に決定してあった目的行動を前にして言葉で止まるはずはなく、外の気配から誰も廊下にいないことを確認すると部屋を後にしてしまう。
誰にも見つからぬように自身は気配を探り、アルフレッドに探査装置を起動させる。
けれど、万が一に備えて見られた者に不信感を与えぬよう普段と変わらぬ歩調で3階の廊下から階段へと至り、1階まで降りる。
1階、特に待合室では何かが起きているらしく、悲鳴と怒号、リーアルの指示が飛び交い、僅かに焦げ臭い。
そこから更なる下層――地下に存在する医療室へ向かおうと階段に脚をかけると、示し合わせたかのようなタイミングで不知火が現れる。
「事が動けば分かる、ね。確かにその通りだったわ。何時の間に仕掛けたの?」
「昨日。待合室で監視カメラの死角の位置を確認してから座ったソファーに」
「本当に、抜け目がないわ」
虎太郎が仕掛けたのは電熱式のライターを改造して作った極めて単純かつ小さな発火装置だった。
装置は起動すると同時に熱を持ち始め、自己の存在を消滅させながら炎を発生させるものだ。
その発火の仕方は煙草からの発火とよく似ている。またアンダーエデンを訪れる客層も極めて柄が悪く、状況的にも煙草の不始末による
もしこの装置に辿り着けるとするならば入念な科学捜査か、
だが、大抵の人間は物事を己にとって都合の良いように受け取り、解釈する。虎太郎程に疑り深く、常に己の見たモノ、得た情報が正しいのか問い続ける人間は珍しい。
――つまりリーアルは、この事態を単なる小火騒ぎと片付け、それ以上の調査をしないということだ。
そして、不知火は自身の来店と同時に起きた小火に虎太郎の影を感じ、矢崎とリーアルが小火に気を取られている内に何一つ告げることなく虎太郎と合流した。
彼女も失踪するまでは九郎と並ぶアサギのサポート役を務めていた。事前の示し合わせなしで虎太郎の思惑を察せる辺り、彼女も相当の知恵者である。
地下まで階段を下りきると何の変哲もない扉が一つ。本来であれば警備員の一人でもいたであろうが、一階の小火騒ぎに気付き、そちらに向かっているようだ。
ゆきかぜと不知火からの情報及びアルフレッドによる監視カメラからの情報によれば、その向こうは廊下が左右に広がっており、左の奥がアンダーエデンの治療室だ。
右の奥にももう一室存在しており、其方はアンダーエデンの医療スタッフの待機室兼更衣室となっている。
虎太郎が、どうぞと手を出すと不知火は頷いて扉の向こうに消えていった。
『貴方は、不知火殿……?! 一体、何用で……』
『上で小火騒ぎがあったわ。建築に問題があったのか、煙草の不始末によるものか、何処ぞの組織による嫌がらせかは不明。念の為、このフロアのスタッフは更衣室で待機を。私が護衛を行うわ』
『は、はっ! 承知しました!』
「アルフレッド、監視カメラの映像をループさせろ。準備はいいか?」
『はい、既に。突入と同時に貴方の映る監視カメラのみループを開始させます。いつでもどうぞ』
それから扉の向こうでドタドタと人が移動する足音が響く。
これも既に聞き及んでいたスタッフの人数と一致することを確認し、黒い皮手袋を嵌めると虎太郎も扉の向こうへと足を踏み入れる。
扉の向こうはクラシックな洋館風のアンダーエデンとは打って変わって近代的な造りであった。
金属製の床、壁、天井。一見すれば米連の研究所のようだが、規模は小さい上に薄暗く空気は淀んでいる。間違いなく魔界側の技術が近くにある証拠だ。
見れば、不知火は更衣室の前で薙刀を片手に立っていた。
その姿はさながら
全ての問題をクリアし、虎太郎は医療室へと向かう。
そこから先を語る必要はあるまい。関係者を騙す不知火、監視システムを無効化した上に操るアルフレッド、忍びとしてあらゆる能力が極まった虎太郎。この三人の前ではリーアル如きが用意できるものでは対抗など不可能だ。
目的の解除薬、契約書を至極あっさりと手に入れた虎太郎は最後に不知火と視線を交わし頷き合うと扉の向こうへ消えていった。小火騒ぎから今までで僅か3分の出来事であった。
そこで不知火は必要な段階を無事に越えた仕事に小さく息をつく。しかし、すぐに矢崎とリーアルの手先としての仮面を被る。
後はあの二人に地下室手前の警備員がいなかった故、自分が代わりを務めたことを告げればいい。
彼女の行動には何の矛盾もなく不審点もない。そもそも必要かどうかも疑わしい。それほどまでに“あのお方”とやらに調教された不知火へ、絶大な信頼を向けているのだ。
(待っていて、ゆきかぜ、凜子ちゃん。貴方達だけは何があっても助けるわ)
一度は堕ちたが母として、燃え上がるような意志を淫らな仮面で覆い、不知火は手にした薙刀をあらん限りの力で握り締めた。