――その日、ヨミハラは妙な雰囲気に包まれていた。
それに気づいた者は何人いた事か。
この地下都市では喧嘩や刃傷沙汰など茶飯事。乱痴気騒ぎなど珍しくもなく、堕落を極めたかのような放蕩三昧こそが日常だ。
街そのものが普段から放つ雰囲気に飲まれた者達は、本当に些細な空気の変化にも気付かず――最後のチャンスを逃す羽目になった。
獣染みた勘の良さを頼りに闇を生き抜いてきた者は、言葉には出来ない感覚に従うまま逃げるようにヨミハラを後にする。虎太郎に手を貸した猫の獣人クラクルもその一人であった。
朝方から妙な雰囲気を肌で、鼻で、第六感で感じ取っていた彼女であったが、何年になるか分からないほど過ごした縄張りを前にして、逃げるか残るかの選択に迷っていた。
彼女もまたヨミハラという悪徳の都において、彼女の中で生まれながら存在していた“野生”が薄れていたのかもしれない。
それでも逃げる決断を下したのは、迷っている最中に現れた虎太郎が告げたたった一言のお陰だ。
『クラクル、お前、逃げた方がいいぞ。あと、此処に行け。アイツならお前と上手くやれるだろうからな。まあ、好きにしろ。オレはどっちでも構わん』
本当に興味がなさげに、ただただ面倒そうに告げられた一言であったが、クラクルは即座に縄張りを捨てる決断を下し、全速力でヨミハラの門を越えた。
彼女は弐曲輪 虎太郎という人間をよくは知らない。20年の時間の中で顔を合わせたことなど二回しかないのだから当然だろう。
――ただ、本能として理解していた。アレの標的にだけは絶対になってはならない、と。
魔界には強大な力を持った者達が数多く存在する。エドウィン・ブラック然り、支配階級の貴族然り。魔界の住人であるクラクルですらが想像もできない絶大で圧倒的な力を有したモノが確かにいる。
クラクルはそういった者達とは極力拘わらないように生きてきた。敵わないが故に当然であり、彼女の野性が彼らに近づくことすら許さなかったからだ。
そんな連中ですら弐曲輪 虎太郎と肩を並べることはないとクラクルは考えている。
力が強大なのではない。生き物として優れているわけではない。人間の中では最強の部類だろうが、魔界の圧倒的な強者には敵わないだろう。
なのに、どうしてそんな存在に本能は警鐘を鳴らしながら、野性は全く反応しないのか。
その疑問がクラクルの全てであり、虎太郎には自分の理解を越えた何かがあるという結論に至るには十分だ。
彼女は自身の結論故に、一も二もなく理解できない何かを持つ虎太郎の言葉に従い、こうして地上へ至る坑道を駆け上っていた。
(にゃ。虎太郎は僕を何処へ行かせるつもりにゃ。まあ、虎太郎の標的になってはいないから、大丈夫大丈夫、にゃ)
坑道にて、雌にして餌を手に入れようとオークとオーガが彼女に襲い掛かる。
しかし、クラクルは虎太郎に手渡された地図を片手に猫科の大型肉食獣そのものの獰猛さで蹴散らしていった。
クラクルの考えはどうしようもなく正しく、先見の明があった。
――その日はヨミハラが滅ぶまで、住人たちの間で“最悪の一日”として語り継がれる結果となるのだから。
―――――
――――
―――
――
―
「ようこそお越し下さいました、矢崎様」
「ああ、今日も楽しませてもらうぞ」
アンダーエデンでは、月に一度のパーティーが開催されようとしていた。
既に大広間は大半が埋まっており、訪れた客の一人一人にリーアルは挨拶と金ヅルへの礼を告げる。
しかし、例外的に本気の礼を口にする場合もあった。その数少ない例外が――民新党幹事長、矢崎 宗一その人だ。
矢崎はかつて任務中のゆきかぜと出会ったことがある。
その折、ゆきかぜの逆鱗に触れ、標的外という理由で見逃されこそすれ、顎を割られている。
故にゆきかぜに執心し、娼婦として買い行ってきた凌辱は余りにも無残な、人としての尊厳を奪うものだった。そうすることで自身の歪んだ欲望を満たし、傷ついた自尊心を癒している。
今日もゆきかぜをパートナーとして肩を抱き、意気揚々と大広間へと向かっていく。
改造されたゆきかぜは、連日に渡る凌辱の記憶と雄の下卑た欲望の匂いであってすら、発情の起点とする奴隷娼婦だ。
呼吸は荒く、頬を赤らめ、憎々しい相手にすら発情を隠せないでいた。
珍しく奴隷娼婦としてのマイクロビキニのような下着姿ではなく、彼女自身の対魔忍としての衣装――無論、リーアルが用意した模造品であるが――を身に纏っている。
矢崎のリクエストだ。奴隷娼婦ではなく、対魔忍としてのゆきかぜを犯している気分に浸りたいのだろう。実に分かりやすい嗜好だった。
対魔忍への凌辱は苛烈を極める。
あらゆる行為で尊厳を踏みにじり、あらゆる罵声で
それは裏を返せば、闇の住人にとって対魔忍がどれほどの脅威であるか、どれほど邪魔な存在であるかを示していた。
闇の住人からすれば最高の気分だろう。
散々辛酸を舐めさせられ、対魔忍の影に怯え暮らしていたにも拘わらず、そんな存在をメス豚に堕として凌辱する。元より歪んだ連中だ、凌辱にも熱が籠ろう。
大広間に集った下衆どもに嘲笑と侮蔑の視線を受けながらも、ゆきかぜは興奮を隠せない。彼女は奴隷娼婦である。そんな視線すらも自らの快楽と変える生粋のメス豚だ。
(…………ほんと、馬鹿みたい)
――もっとも、それは二日前までの話。
ゆきかぜの肉体は確かに発情を示しているが以前ほどではなく、思考も精神も冷え切っている。
前日、矢崎に犯された時など大変だった。快楽は確かにあったが十分に耐えられ、受け流せるレベルだった故、堕ちかけた奴隷娼婦を演じるのに苦労したほどだ。
(矢崎なんて乱暴なだけ。リーアルにしたって虎太兄に比べれば下手くそ。こんな程度で女を支配できるなんて考えてる連中も、こんな連中に怯えてた自分も、ほんっとぉに馬っ鹿みたい)
虎太郎の性技によって快楽に対する耐性が底上げされたのか。愛する男に抱かれた事実が女としてのゆきかぜを強くしたのか。或いはその両方か。
ともあれ、ゆきかぜは辛うじて視線や顔から冷めた感情を隠しながら、周囲を見回す。
もうすぐ始まる饗宴に参加者たちは一様に緩み切った馬鹿面を下げて、嘲りの笑みと揶揄を向けてくるが、ゆきかぜの頭には完全に入っていなかった。
その時、ゆきかぜはある人物と目が合い、その瞳の奥底の誇り高い光を確認し合う。それだけで互いの無事は確信できた。
(あの様子であれば、ゆきかぜも大丈夫だろう)
矢崎に肩を抱かれて連れていかれる妹同然の後輩の姿を見ながら、僅かばかりの安堵を胸に抱く。
凜子もまた群青色の対魔忍スーツを身に纏っていた。此方はリーアルからの要求であり、彼なりの趣向であったのだろう。
あの斬鬼の対魔忍が、童貞も同然の情けない男の下で咽び泣きながら絶頂に至る様を客に見せつけ、自身の技術と力を表現したいのだろう。
しかし、ソファーに座った凜子の隣には他の奴隷娼婦のようにパトロンや男の姿はない。
テーブルの上には高級なシャンパンとグラスが用意されているが、口も空けていなければ、中身を注がれてもいなかった。
(恐らく、ゆきかぜと私が集まるこの狂った出し物が狙い目だろう)
ゆきかぜも、凜子も虎太郎がどのようにして救出をするのかを、その策も内容もタイミングも聞かされておらず、聞きもしなかった。それだけ虎太郎を信頼しているのだ。
凜子は現れない愛しい男に対して、不安も焦燥もなかった。
現れないということは策を張り巡らせているのか、時期ではないということだ。そう信じている。例え今日が救出決行の日でなかったとして、何ヶ月でも何年でも、機と虎太郎を待つ覚悟である。
凜子は俯き、胸に手を置く。誰にも見られなかった顔には穏やかな笑みが刻まれ、胸の内では暖かな愛情が渦巻いている。
(これがある限り、私達は堕落などしない。メス豚にもならない。私達は、あの人の――女だ)
二人の奴隷娼婦――否、対魔忍は静かに、詰まらなければ面白くもない、ただただ反吐が出るだけのパーティーの開始を待っていた。
リーアルは苛立ちを隠しながら、何度も時計を確認した。
目をつけていた新たな金ヅルの登場を待っていたのだが、結局金ヅルが現れることなく開始の時間と相成る。
既に集った客を待たせる訳にも行かない。これからの金ヅルも大事だが、これまでの金ヅルとて重要だ。金はあるだけいい。金があって困るなど在り得ないのだから。
「紳士淑女の皆様、本日は我がアンダーエデンにお集まり頂き、真にありがとうございます」
リーアルは大広間の中央に立つとマイクを片手に美辞麗句を述べる。パーティー前の恒例行事だ。
参加者の欲望を肯定し、煽り、思う存分自ら堕ちていくように内容など殆どない言葉を並べ立てていく。
客は大いに喜び、興奮を露わにするが、場の雰囲気に飲まれていないゆきかぜと凜子にとっては不快なだけの言葉と時間であった。
「前置きはこれくらいにしましょう。では、今宵もお楽し――――」
いよいよ爛れ切った欲望の宴が始まろうとした瞬間、アンダーエデンから明かりが消えた。
突然の停電にリーアルは舌打ちをし、客達はざわめいた。
ヨミハラのライフラインは地上から違法に盗み引いているものが大半である上に、建物の建築も無造作で無作為、おまけに定められた安全基準を守っていない。
故にこうした停電を始めとしたライフラインの一時的な断絶は決して珍しくはなかった。
「皆様、ご安心を。すぐに予備電源に切り替わります。神でもあっても我々を止められません。この程度の悪足掻きしかできんのでしょう」
リーアルはタイミングの悪い停電だと苛立つものの、客を安心させるパフォーマンスを打つ。
客はリーアルの言葉に気を良くし、笑い声を漏らし、不安など抱いていない。
そんな中、ゆきかぜと凜子とだけが全く別の思考をしていた。
((――――来たっ))
リーアルや矢崎、客にしてみればタイミングの悪すぎる停電であったが、虎太郎の存在を知っている二人にしてみればタイミングの良すぎる停電だ。
鋭敏に彼の影を感じ取ったものの不用意には動かず、また周囲に己の変化を悟られぬように気配も押し殺した。成り行きを見守るつもりだ。
停電から僅か十数秒。アンダーエデンに設置された予備電源が作動し、再び大広間内部は怪しい色の電灯が灯った。
僅かな安堵と爛れた性癖を満せる宴への期待からか、客達は談笑を始める。
リーアルは大広間の様子を眺めながら此度の催しの成功を確信し――――ある一点に気を止めた。続き、ゆきかぜと凜子が同じ点に目を止める。
アンダーエデンの大広間を繋ぐ廊下は闇に閉ざされたままだった。
明らかに可笑しい。予備電源は種類や設備にもよるが、基本的に一つの建物全体を補うことが出来る。
患者の命を預かる病院、たった数分の停電で何億もの損失の見込まれる工場には当然設置されており、点検だけで数日を要するところもある。
施設が大きくなればなるほど予備電源は大きくなり、その分かかる金も高くなっていく。
しかしアンダーエデンの広さはたかが知れており、リーアルも設置した予備電源は建物全体を補うには十分なものだと記憶していた。
ならば考えられる可能性は、配電盤の異常かもしくは……。
――その時、闇の中から大広間に向かって何かが投げ込まれた。
数は六つ。大きさはボウリングボールほどの大きさではあったが、ゴトゴトと転がってくる辺り球体ではないようだ。
流石にそこまでされれば頭が茹だった連中であっても事態の変化にも気付こう。
何人かが投げ込まれた何かを発見し、初めは理解できない様子であったが、砂漠に水が吸い込まれていくように目の前の現実を脳細胞が理解すると悲鳴が上がった。
投げ込まれたのは斬り落とされた生首だ。
客は首の中から見知った顔を見つけ、リーアルはその全てが雇っている警備員と察した。
生首は死相すら浮かべていない。無表情もあれば、下世話な会話でもしていたのだろうか下卑た笑みを浮かべているものすらある。共通していたのは、皆一様に自らの死すら気づく間もなく殺されたであろう点だけ。
その場にいた全員が大広間の入り口――通路を包んだ闇に視線を向ける。
下手人は闇の中から滲み出してきた。
深緑のロングコートを身に纏い、顔には白い無貌の面。今しがた首を斬り落としたであろう
リーアルにも客達にも――それどころか、ゆきかぜや凜子ですら見覚えのない出で立ちだ。辛うじて二人だけが服の素材から虎太郎であると悟った。
虎太郎は一度救出任務で使った対魔忍スーツと仮面を二度と使わない。言うまでもなく自身の存在を隠すためである。
「貴様、何者だ……?」
その深緑の異装から対魔忍を連想できなかったのか、リーアルは大広間内に残っている警備員に戦闘態勢を取らせながら彼にとっての正体不明の男に問い掛ける。
ゆきかぜと凜子は僅かばかりに疑問が浮かんだ。この異常事態を前にして、この男の落ち着きぶりの理由はなんだ、と。
リーアルの問いに男は答えない。答える筈もないだろう。その為にわざわざ正体を隠しているのだから。
「ふん、答える筈もないか。最近、ヨミハラを騒がせている者の一人のようだな」
リーアルはヨミハラ内部で起こっていた惨殺事件と男の強硬手段を結び付けた。
アンダーエデンはヨミハラ内でもトップクラスの娼館である。今現在は違うものの、最初期の惨殺は娼館の主とスタッフを中心に狙ってのものだった。いずれは自身にも魔の手が及ぶと予見していたのだろう。
その割には警戒態勢を厳重にするわけでもなく、かと言って新たな魔界側の技術を取り入れてもいない。間抜けと言えばとびきりの間抜けである。
「……ふ、ふふ。成程、そういう趣向かリーアル――――
ちらりと視線を交わし、矢崎は面を喰らいながらもリーアルの意図を察し、何者かに指示を下した。
次の瞬間、大広間を一陣の風が駆け抜る。闇の住人は勿論のこと、ゆきかぜや凜子ですら目で追えぬ速度。
辛うじて反応できたのは無貌の男だけ。手にした断頭剣を風の振るう一撃に合わせる。
互いの得物である薙刀と断頭剣が激突し、火花が散った。奇襲じみた一撃に合わせられてなお風に揺るぎはなく、猛攻は止まらない。
速く、重く、鋭い連撃は文字通りの嵐だった。
一撃一撃は長物特有の隙の多さがあったが、間合いの有利と巧みな薙刀捌きで以て、その全てを帳消しにしている。
無貌の男はそもそも間合いの劣る剣が武器であり、攻めに転ずるにはどうしても一歩深く踏み込まねばならないが、深く踏み込めばその瞬間に身体ごと両断されてしまう。
誰の目にも明らかな防戦一方。
憎むべき怨敵が追い詰められていく様に、客達は沸き立ち、喚き散らす。
その光景を、ゆきかぜも、凜子ですらが呆然と眺めざるを得ない。それは虎太郎が追い詰められている現実ではなく――――
やがて、勝負は決した。
無貌の男が猛攻の前に倒れたのではなく、逆に風が男に倒されたのでもない。
両者の攻防に耐えかねたのは、当人達ではなく手にした武器であった。
首目掛けて払われる横薙ぎの一閃を辛くも防いだ瞬間に、男の断頭剣は刀身の真中からポッキリと折れてしまう。
一瞬、自らの得物の末路に視線を向けた男の隙を見逃す風ではない。
風が身体ごと旋回させての更に深く踏み込むと、男の胸板に痛烈な回し蹴りが炸裂する。
男は為す術もなく後方に跳ね飛ばされ、テーブルに背中から叩き付けられると、そのままソファに座る形でようやく静止した。
風は呻く男の首元に薙刀を突き付ける。
その容姿、その美貌、その強さをゆきかぜと凜子が見間違えようはずがない。
一目見た瞬間から気付いてはいたが、現実を否定したいが故に、目の前の光景を理解するのを拒んでいた。
「お……か、あ、……さん」
「………………おば、さま」
風の正体は水城 不知火。
ゆきかぜにとっては最愛の母親であり、凜子にとっては憧れの存在である。
そんな存在が矢崎の命に従い、二人にとって最愛の男を殺そうとしている。茫然と呟く他ないだろう。
ゆきかぜはあらゆる疑問を抱えて走り出していた。
きっとこれは演技か何かだ、そうでもなければ悪い夢。でなければ、あのお母さんが堕落しているなど在り得ない、と。
余りにも甘すぎる幻想を抱いて、不知火に駆け寄るが現実は何処までも非情だ。
「お母さん、止めて! その人はこ――――かっ」
「おばさ――――グっ!?」
必死に母親の凶行を止めようとしたゆきかぜは、不知火に首を掴まれて釣り上げられるとそのまま凜子に向けて投げ飛ばされた。
この事態には流石の凜子も、そしてリーアルと矢崎を除いた客ですらが、突然始まった
「ふ、は! くははははははっ! いい! いいぞ、ゆきかぜ! その顔だ! 小生意気なメスガキの顔が絶望に染まる瞬間をなっ!!」
「や……ざ、き」
全てを知る矢崎は哄笑を上げ、それに加担したリーアルの忍び笑いを漏らす。
昏く沈んだ瞳でゆきかぜは矢崎を見たが、矢崎は嬉しげに顔を歪めるばかり。
嬉々として、得意満面に自らの計画を語り出す。
ゆきかぜと凜子の両名は纏の任務に着くための最終試験として、矢崎のビルに強襲をしかけた。
その時、矢崎は見逃され、この計画を思いついた。
既にメス豚となっていた不知火、その娘の話を聞いていた矢崎は、母子共々己のものにしようと画策した。
策の一端が対魔忍にもたらされた不知火の情報であり、ゾクトとの取引と裏切りであり、リーアルによる奴隷娼婦の契約である。
「お前たちは全て俺たちの手の平で踊っていたというわけだ。愉快だったぞ、お前を犯しながら笑いを堪えるのが大変だったからなぁ」
「流石、矢崎さんだ!」
「矢崎ィィィィィイイイイイィイイイィイイ!!!」
アンダーエデンに集った獣どもの哄笑が響き渡る。
あらん限りの怒りを込めてゆきかぜは叫んだ。最早、体内に仕込まれたキメラ微生体の発動すら厭わず、矢崎とリーアルに襲い掛かろうとする。
それを止めたのは凜子だった。
諦めた訳ではない。けれど、不知火が敵についている時点で、全ては終わっている。凜子の知る中でも最強の一人。虎太郎に何らかの策があろうとも如何ともしがたい相手だ。
ここで襲い掛かれば、希望も残らない死が待つのみ。ならば、如何なる屈辱にも耐え抜き、例え一寸の“
大した茶番劇である。
矢崎はゆきかぜの絶望を、間の抜けた対魔忍を嘲笑いたいがためだけに、ここまでの手の込んだ真似をしたのである。
矢崎は両腕を大きく広げ、周囲の人間からの喝采を浴びる。
天井に顔を向けて快感を享受する。矢崎が政治家になったのは、この言葉に出来ぬ快感を得る為だ。
女を抱くことで得られる性欲を満たす快感ではなく、愚劣な連中を思う存分に操り、喝采を浴びる支配欲を満たす快感。
絶望、嚇怒、歓喜、喝采、
「あ、不知火さん、もういいよ」
――男の、弐曲輪 虎太郎の一言で全てが凍りつき、破壊された。
「――――――ッ!」
「――――――え?」
「は――――――?」
「なん……だ、と?」
これは茶番劇である。
但し、矢崎がゆきかぜを陥れようとしたものではない。そんなものは当の昔に破綻している。
これは弐曲輪 虎太郎が嫌々仕掛けた茶番劇だ。
虎太郎の気の抜けた言葉に対して、不知火は弾かれたように駆け、ゆきかぜを力一杯に抱き締める。
その胸中は如何ばかりか。同じ母親でしか、いや、不知火と同じ経験をしたものでしかなければ分かるまい。
そして、虎太郎と不知火を除いた全員が唖然茫然と立ち竦み硬直していた。
ゆきかぜと凜子は目まぐるしく変化する現状に対応しきれず。矢崎とリーアルは“あのお方”が直々に調教を施した不知火の裏切りに。
「なんだ、これは……これは、どういうことだ!」
「……馬鹿な。ありえん、正気に戻って……?」
「阿呆か。お前等に教えてやる義理なんぞオレにはない。だが――――」
周囲を警戒しながらも呆れ切った、そもそも会話するのも馬鹿馬鹿しいといった口調で虎太郎が告げる。
「――――駄目押しをさせてもらおうか」
パチン、と指を鳴らすと大広間に変化が訪れた。
壁にかけられた薄型の画面が一斉に起動したのである。
本来であれば、奴隷娼婦の記録や特殊なプレイを客達が酒の肴とする為のものであったが、今回は違った。
画面に映し出されたのは、薄暗い部屋の中で怯えた様子で椅子に座っている一人の魔族だ。
「……、……ゾクト、か?」
そう、奴隷商人のゾクトが、情けない涙を浮かべていた。かつてゆきかぜと凜子を地獄に陥れた際に見せた傲慢極まる表情は影もない。
奴隷を買うリーアルですらが、一瞬彼を判断しかねたのは、原型を留めない程に腫れ上がった顔のせいだろう。
余程、手酷い拷問を受けたらしく、完全に、念入りに、心をへし折られている。
『ご、御機嫌よう。ヨミハラに住まう諸君。我々はヨミハラに仇なす者。最近、ヨミハラを騒がしている集団と言えば、わ、分かるだろうか?』
手にした原稿用紙を、涙ながらに読み上げる。
客は皆、画面に釘付けになっている。言葉から察するに、ヨミハラ全域の電波をジャックしているようだ。
事実としてヨミハラは全ての映像媒体となる画面はアルフレッドの支配下にあった。
『我々は諸君らが大嫌いだ。特に娼館の関係者など考えただけで虫唾が奔る。我々の足元で諸君らが蠢いていると思うだけで反吐が出る。それは、連日起こした殺戮で理解して貰えるだろう』
虎太郎が作戦の前段階として行った殺戮の意味。
忍である彼が、必要以上の残虐さを以て殺した理由。
『――――よ、よって、一つの
その言葉の瞬間、ヨミハラ内に爆音が連続し、地面を揺らす。
『今の爆発は、な、何だと思う……? たった今、ヨミハラの通風孔や換気扇。そして、全ての出入り口を、ば、爆破したぁっ……!?』
原稿を読まされているゾクトですら初めての知ったのか。読み上げる口は驚愕を発し、動揺が客に――いや、ヨミハラに住まう全ての屑共に伝播する。
事実として天井付近に存在している全ての通風孔、そして全ての出入り口は爆破されていた。
これが虎太郎がヨミハラの外壁を上り下りし、情報収集を行った理由。
『…………さ、さて、賢明な諸君らならば気付いただろう。こ、これで、君達に待つ運命は、酸素の消費による死だ』
ヨミハラは東京の地下300mに存在している。
当然、空気の供給は必要だ。如何に都市であれ、出入り口を塞がれれば完全な閉鎖空間が出来上がる。
そして、人であれ、魔族であれ、基本的に新鮮な空気がなければ、酸欠による死は免れない。
これがヨミハラという都市の環境。
『だ、だが、我々も君達のような悪鬼外道、下衆で鬼畜な獣ではない。生き残るチャンスを与えよう。二度目になるが、こ、これは
既に、ヨミハラの住人は虎太郎の術中に陥り、映像に釘付けになっていた。
あらゆる組織も、指一本も動かせぬ驚愕で固まっている。まさか、これほどの事態になるなど予期していなかったようだ。
何よりも、この現状が、たった一人の男に引き起こされているなど露にも思わない。
『しょ、娼館の、人間を殺せ。娼婦も、スタッフも、客も、と、問いはしない。ひ、一人殺せば、一人助けよう。あ、ああ、組織になど頼らない方がいいぞ。ノマドにせよ、諸君らを助けてくれなどしない。それは、み、身を持って、知っているだろう?』
それも事実だ。
ノマドはヨミハラを支配しているだけだ。ヨミハラを発展させようなどと考えていないし、それほど重要視もしていない。
そもそもノマドの頂点に君臨する王が、支配するばかりでそれ以上は何もしようとしない。組織を維持、発展させようと躍起になっているのは、幹部や末端の構成員に過ぎない。
あの強大なノマドとて――自身の命が最優先だ。
『し、死体は数え易いように、が、街灯に高々と吊るせ。ま、まあ、我々を信じる、信じないは、諸君らの自由だ。ど、どの道、動かねば待っているのは、死であるということだけは、わ、忘れぬように』
恐怖と猜疑と不審がヨミハラを渦となって飲み込んでいく。
『も、もう、いいだろう!? きょ、協力はしたんだ! これが嘘でも本当でも構わねぇよ! せ、せめて、いのぢ――――』
映像の中で、ゾクトの頭蓋が吹き飛んだ。
彼の愛用しているショットガンによるものだと気付いた者はいただろうか。
しかも、完全に死亡している死体に向けて何発も何発もバックショットを撃ち込み、ゾクトの上半身が肉塊に成り果てるまで引き金を引き続けた。
やがて満足したのか、連続する射撃音は止み、その代わりに一枚の紙が映像一杯に映し出される。
――
そこでようやく、悪夢のような映像は途切れる。
「こ、……こ、ここ、殺せ! や、奴を、奴等を、一人足りとて逃がすな!」
一体、どれだけの時間を呆然としていたであろう。何とか再起動を果たした矢崎は部下の護衛に命令を下す。
全く意味のない行為だ。この映像を真に受ける者たちがいるにしろ、いないにしろ。ここまで事態が進行してしまえば、どうにもならない。
しかし、四人の姿は影も形もなく消え去っていた。
それなりの時間をこの場に居る全員が映像に釘付けになっていたのだ。逃げるには十分な時間があった。
矢崎とリーアルは同時に膝を折り、完全に心を砕かれた。最早、恨みや怒りすらない。
四人の――いや、この事態を仕掛けた虎太郎の意図が、ようやく透けて見えてきたからだ。
――あ、オレ、別にお前らのこととか、どうでもいいです。勝手に死んでくれないかな?
己自身が敵としてすら認識されていない、単に作戦を遂行する上での障害程度の存在でしかなかった現実。
高慢で、強欲。全てが自分の思い通りに進み、神にも等しい存在だと誤認している愚か者には、直接手を下すよりも遥かにダメージの大きい最高の意趣返しだった。
―――――
――――
―――
――
―
「このサイコパス!」
「うん、不知火さん。それ自覚あるから」
「この冷血動物!」
「ゆきかぜ。冷血と冷血動物じゃ意味違うからな。今は変温動物って呼ぶのが主流だからね」
「この闇人形!」
「ふふふ、聞いてくれアル。助けた連中からの、この熱い死体蹴りをよ」
『いえ、当然でしょう、このドライモンスター。少しは改めてみては?』
「だがオレは改めない。この方が効率がいいから」
((((……少しは改めてもいいのに))))
アンダーエデンの三階から脱出した4人と1機は、向かいの建物の上で事の推移を見守っていた。
不知火とゆきかぜ、凜子の三人は余りの外道ぶりに感動の再会すら忘れ、一様に虎太郎を責め立てている。これではぶち壊しも甚だしい。
これが元々の予定だ。この暴動を引き起こし、混乱に乗じてゆきかぜと凜子だけを救出するつもりだった。
ヨミハラという環境。ヨミハラに住まう者どもの性質を利用した策。
これが他の都市であれば閉鎖など不可能であり、何らかの方法によって住人の死を意識させるのも手間だ。
対し、ヨミハラであれば出入り口と通風孔さえ塞いでしまえば、嫌でも死を意識せざるを得ない。
そして、ヨミハラは闇の領域である。無秩序、混沌、個人主義、弱肉強食が横行し、住人もそれに従っている。
これが対魔忍であれば、或いは米連の兵士達であれば、こうも簡単に煽動はできなかった。
彼等は確かな使命と目的を帯び、鉄の掟で結ばれている。簡単に仲間割れなど起こさない。起こしたとしても、それはもっと酷い極限状態下でしかない。
この程度で互いに殺し合うのは、常に自分が優位に立ち、ほんの少しの動揺で取り乱すこの街の住人のような人種でしかない。
その上、サクラも仕込んであった。
街の中心にある広場は多くの住人が訪れる。タイミングを見計らって録音してあった音声を装置から流しただけなので、厳密にはサクラとは言い難いが。
『じょ、冗談じゃねぇ! こんなところで死ねるか! オレはやる! やってやる!』
基本的に人も魔族も、その精神性に大きな違いなどない。
大半の者は周囲に流され、流行りに流され、力に流され、環境に流され、ありとあらゆる全てに流される空ろ舟だ。
信念や確固たる己を持っている者など、ほんの一握りでしかない。
1人動けば3人動く。3人動けば12人動く。12人動けば――――さて、次は何人動くことやら。
たった一言が最後の引き金となり、暴動は起きた。
今や、ヨミハラに存在している娼館は暴徒と化した住人どもに襲撃を受けていた。
それだけではない。自分だけは生き残ろうと殺し合う者もいるほどだ。呼吸をする者が減れば減るほど、酸欠に喘ぐまでの時間が延びていく。
「流石、馬鹿どもだ。無意味に元気で大変宜しい」
「………………私、虎太兄だけは絶対に敵に回さない」
「「同感」」
ここまでのことを仕出かすとは考えていなかったのだろう、ゆきかぜは頬を引き攣らせて、ありのままの気持ちを口にする。
不知火も凜子も、一も二もなく同意した。こんな悪辣な策を仕掛ける者など敵どころか味方に回しても怖い。
『はい、懸命な判断です。これで本気でありませんから。必要な分だけをやっているだけです』
「これでぇ?! ていうか貴方、誰!? 虎太兄! 私、何も聞いてない!!」
「ああ、何も聞かれなかったからな。言ってない」
『ああ、これは失礼を。私はアルフレッド。このドライモンスターの相棒を務めております人工知能です。以後、お見知り置きを』
「……機械の方が紳士なのは、どうなのだろうな。頭が痛くなってきたぞ」
「安心しろ! アサギの無謀無策無茶振りに比べれば全然大丈夫だよ! オレなんて年がら年中、頭痛と胃痛でねじ切れそうだもん! なっ、不知火さん!!」
「…………………………………………………………ノーコメントで」
突然だった虎太郎からの振りに、不知火はたっぷりと悩んでから答えを口にしなかった。
この様では、虎太郎の策の外道ぶりとアサギのフォローで奔走していた過去も、大差はないのかもしれない。
「お、出てきた。あーあーあー。ようやるわ。流石、馬鹿どもだ。こっちも無駄に元気で大変宜しい」
アンダーエデンに押し入った襲撃者は、既に死体となった矢崎やリーアル、客どもの死体を引きずり出していた。
奴等の周囲には護衛がいたが、どれだけ優秀であろうとも圧倒的な数の差がある。如何ともしがたい。いや、もしかしたら護衛自らがリーアルと矢崎に引導を渡した可能性もある。
ゆきかぜと凜子、不知火は僅かばかりに溜飲が下る思いであったが、それ以上に、既に二人に対しての興味関心を失っている虎太郎にドン引きしていた。
虎太郎にしてみれば、矢崎にせよ、リーアルせよ、任務上の邪魔者に過ぎない。個人的な感情など、それほど抱いてはいなかった。死んでいようが生きていようがどちらでもいい。
矢崎やリーアルが生きていようが多少の障害にしかならないが、僅かな障害でも影響は影響である。生死だけははっきりさせておかねば、今後の活動の不安要素になりかねない。
「ほらよ。お前等の武器と解除薬だ。あと、ゆきかぜ、オレが何のために仮面を被ってると思ってるんだ。次に奴等の前で名前呼んだら、メス豚調教すんぞ。リーアルとか屁でもねぇ調教するからな」
「え、あ、はい。ごめんなさい。……ていうか、お母さんの前でそういうこと言う!?」
「言うね。マジでキレそうになったわ、アレは」
ヨミハラにおける一連の行動において虎太郎が唯一冷や汗を掻いたのは、ゆきかぜが自身の名を呼びそうになった時である。
いくら混乱の中であっても、虎太郎にしてみればアレはない。不知火がフォローに入らなければ、本気で怒鳴ろうと思ったほどだ。
あの演出を続けることよりも、彼にとっては自身とゆきかぜの繋がりが何処からか漏れる方が問題である。
「それでどうするつもりだ? この様子では本当に出入り口を全て爆破したのだろう?」
「進みながら話す。解除薬は飲んだな?」
ゆきかぜと凜子は虎太郎の問いに頷いた。
互いの舌に刻まれた奴隷娼婦の刻印も既に消え去っている。間違いなく効果を発揮しているようだ。
虎太郎は顎で行先を指し示し、三人もそれに続く。
建物から建物へ、重力から解放されたような跳躍を見せる対魔忍たちであったが、虎太郎の後に続く三人は息が荒い。
当然だ。ゆきかぜと凜子は一ヵ月以上、不知火に至っては5年にも及ぶ男どもの下衆な欲望の捌け口になっていたのだ。体力も落ちよう。
改めて、三人は虎太郎の実力を思い知る。その片鱗を垣間見た不知火であっても驚きを隠せない。
虎太郎の裏の顔を知らなかった故に当然であろうが、その身のこなしは凄まじいの一言だ。
もしかしたら、自分や他の二人は勿論のこと、真正面から戦ったとて、あのアサギすら越えるのではないか、という念を抱いてしまうほどの軽やかさと速度である。
「脱出方法だが、凜子の空遁の術を使う」
「やはりか。しかし、分かっているのか。空間跳躍の術は視界に収めた場所以外への跳躍は危険だ」
「知ってる。お前の術くらい把握してるさ。だから、今回はマーキングを使う」
「マーキング……?」
空遁の術。その神髄は空間を操ることにある。
空間を歪め、遠方の光景をあたかも至近距離で見る。異なる空間を繋ぎ、瞬間移動を行う。用途は様々であるが、欠点は体力の消耗が激しい点だ。
その中でも空間跳躍の術は危険な術である。文字通りの瞬間移動なのだが僅かにでも目標となる地点を誤れば、壁や岩の中に嵌り込む羽目となる。
地上までは300m。凜子の力ならば十分に跳躍可能な距離である。その分、繊細なコントロールは難しい。
地面に埋まるのは勿論のこと、上空数百メートルの位置に跳躍してしまえば、4人揃って地面のシミになりかねない。
その為にマーキングを使用する。
凜子の術に割り込み、あらかじめマーキングしておいた地点に座標を設定させ、跳躍を行うのだ。
「そんなことが…………それが、貴方の能力か?」
「いんや、単なる魔界技術。もっとも、空間転移は魔界でも扱いの難しい部類の技術だ。魔術にせよ、能力にせよ、機械にせよな。腹立たしいことに、それらを簡単に行える一品があるんだよ」
「いや、そこは腹立たしいって可笑しくない?」
「確かに。少なくとも今は便利、と言うべきじゃないかしら」
「色々あるんだよ。色々な」
心底嫌そうな声に、仮面の下の表情まで透けて見えてきそうだった。
その様子に、さしもの三人も踏み込んでいけなかった。
少なくとも虎太郎の言葉から察するに何らかの物品であることは間違いないようである。
だが、手に入れた経緯に何かあったか、使用そのものに危険が伴うのか、それを手にしていること自体、虎太郎にとっては好ましくないようだ。
建築物の屋根から下り、路地裏を進んでいく。
この辺りは居住区。娼館の多く集まり狂乱の最中にある中心地とは異なり、静寂に包まれている。
最初に違和感を覚えたのは虎太郎。僅かに遅れて不知火が、最後にゆきかぜと凜子が、その気配に気付いた。
大きく首を振って落胆と疲れを示し、虎太郎は構わず進み、三人も後に続く。進んでいく度に魔力とも剣気ともつかぬ圧力が増していく。
長距離のマーキングには大量の魔力を使用する。
ある程度の実力者ならば近くに寄っただけでも気付く。その為にわざわざ居住区にセットしておいたのだが、どうやら意味がなかったらしい。
「――――成程、これを仕掛けたのは貴様等のようだな」
セットしておいた地点は、居住区の中央にある小さな広場。
地面の魔力を調べていただろう女は、4人の気配に気付くと立ち上がり、6人の部下と思しき女達へと指示を出す。
皆、腰に剣を携えている。この街の住人ならば知らぬ者はいない。女だてらにヨミハラの自警団を名乗る魔族たちだ。
そして、その指示を出した人物こそが最大の障害だ。リーアルも矢崎も比較することすら馬鹿馬鹿しい。
赤い外套を纏い、既に抜き放っている黄金の刀身と白銀の柄の剣は紛う事なき魔剣。
薄紅色の長髪、褐色の肌。女の妖艶さと騎士の剣気を纏った女。対魔忍でも、魔族でも、米連でも、その名を知らぬ者はいない。
「魔界騎士…………イングリッド」
呟きは誰のものであったか。
イングリッドの酷薄な表情を前にした緊張故のものには違いない。
エドウィン・ブラックの側近を務めるノマドの大幹部。
その卓越した剣技はアサギと並び称されるほどであり、剣技と魔術を組み合わせた魔剣術はあらゆる敵を焼き尽くす。
少なくとも体力を消耗しているゆきかぜ、凜子、不知火では三人掛かりでも分が悪い。ましてや、今は6人の部下がいる。
最悪の状況下の中、虎太郎は一人ごちた。
(あー、やっぱこうなるかー。常森ん時も朧が出張ってきたしなぁ――――だが、ある意味、幸運だな。利用できるもんは何でも利用しちゃおうねー)
仮面の下でにこりともせずに、そんなことを考えている。
少なくとも三人がその内心を知れば、戦慄したことだろう。お前はまだ策を考えていたのか、と。
作戦は最終段階に入っている。
彼が考えている通りであれば、エドウィン・ブラックや“あのお方”が出張って来ようとも、救出も逃走も確定事項なのだ。
ならば両者に実力で劣るであろうイングリッドであっても変わりはない。いつも通りに淡々と、いつも通りに粛々と為すべきことを為すまで。
魔界騎士にとっての戦いが――
――弐曲輪 虎太郎の任務が。
今ここに、火花を散らして、始まろうとしていた。