東京都奥多摩。
高層ビルが立ち並び、人々が忙しなく行き交う都心から僅か100km離れただけで、がらりと景色が変わる。
東京の奥庭、奥屋敷として知られる奥多摩は自然の宝庫だ。大部分が山岳によって隔てられ、緑溢れる雄大な自然が残る観光スポットの一つでもある。
休日ともなれば湖や川辺にはバーベキューにくる家族連れ、カヤックやラフティングなどの川遊びに来る若者、鍾乳洞や温泉を目的に訪れる観光客も多い。
政治家の仕事は多岐に渡り、また数も多い。
どんなに無名の議員であっても、分刻みのスケジュールを元に仕事を熟し、休みなど無いに等しい。
その点を鑑みれば、目的の議員が奥多摩に別荘を建てたのも納得である。
写真に写っていた場所は、奥多摩の中にある小さな湖であった。
映し出された周辺の地形や湖の深度と広さ。議員の過去を遡り、購入履歴を得るなどアルフレッドには容易い。
即座に現場へと向かった二人は、写真の背景と別荘の外観が目にした光景と一致しているかを確認し、別荘へと近づいていった。
別荘への道は舗装のされていない一本道だ。
夜闇の中、車のライトを消して慎重に近づき、相手に気付かれないギリギリの所で停車する。
別荘から漏れる光に紛れて周囲を警戒するように動くライトが、議員の雇った傭兵か警備兵の存在を物語っていた。
「――突入だな」
「いや、まずは敵の人数の把握だ。それからでも遅くはない」
「しかし、凜花が……」
「問題ない。奴は紫藤の手脚を斬り落とすより前にやることがある」
「何? どういうことだ?」
虎太郎の読みに、凜子は困惑せざるを得ない。
彼の語った議員の心理が正しいのであれば、二人の行動は遅すぎるほどだ。今この瞬間にも凶行が凜花の身に降りかかっても可笑しくはない筈である。
「それは違う。アレだけの人数をバラせば、奴は嫌でも気づいた筈だ。自分のやっていることは結局、自分を捨てた女の価値を認める行為だとな」
『それも、そうでしょうね。過去の思い出を壊し、穢したいが故の行動だというのなら、その過去が彼にとって尊いことだと認めているようなものです』
「だからこそ、選ばれたのが紫藤だったんだ」
「……待て、どういうことだ」
「紫藤の忍法は煙遁。あの野郎、今は紫藤を洗脳してる真っ最中だぜ。自分から手脚を煙に変えて
虎太郎の言葉に、凜子は背筋が凍りつき、同時に腹の底から沸き立つ熱を感じた。
議員にとって、凜花は救いなのだ。
自分を裏切り、手の届かないところへ行ってしまった妻を完全に捨て去る為に、凜花を選んだ。
彼からすれば女の手脚など邪魔なものに過ぎない。それを自ら捨て去り、己を決して裏切らず、全てを受け入れ、傍から逃げない女ならば、彼にとって妻をも超える理想の女神が完成する。自らの手で切断しては意味がない。
理想の女神は能力の関係上、凜花しかいない。
全く理解できない黒い欲望は、凜子を恐怖させると同時に激しい怒りを覚えさせた。
身勝手な欲望のまま何の関係もない人間を巻き込み、挙句の果てに救われたいなどと、幼馴染を弄ばれている彼女には許しがたい。
「五感跳躍の法だ。視覚を“跳ばせ”」
「――――了解」
怒気を押し殺し、凜子は虎太郎の指示通りに視界を跳ばした。
空遁・五感跳躍の法。
その術は文字通り、凜子の五感を1kmの範囲で跳躍させる。
壁の向こうであろうとも、遥か彼方の光景であろうとも、この術を使用すれば彼女に見渡せないものはない。
「別荘の中には護衛が10人。皆、寛いでいるようだ。だが、凜花と議員の姿が見当たらない」
「もういいぞ、外の見張りは5人で計15人か。有名どころは居たか?」
「いや、目につく相手はいなかった。我々二人でも十分な人数だ」
「――――お前等は、どうしてそう真正面から戦ってやるんだ」
凜子の言葉に、虎太郎は大きく溜め息をついた。
凜子だけではない。アサギを筆頭とした対魔忍全体で言えることであるが、基本的に真正面から戦いたがる。
無論、策も用いるものの、それは潜入までで最終的には力押しになってしまう。
虎太郎から言わせれば、無駄で無意味な行為だ。
そもそも、対魔忍とて敵を見下しているというのに、わざわざ見下している相手とマトモに戦ってやる理由が分からない。
まともに戦うということは認めているということだ。見下しているのなら、それこそ蟻でも潰すように無造作に殺せばいい。それが見下している敵の正しい殺し方だ。
もっとも、虎太郎にとって真の意味での敵など早々存在しない。任務上における単なる障害物である。故に、効率重視だ。
「さて、行くか。凜子、仮面をつけて車から降りろ」
「何をする気だ……?」
「すぐに分かる」
そういうと虎太郎はヘルメットを被る。対魔忍装束は既に纏っていた。
全身苔色の装束は、対魔忍というよりかは米連の兵士に近い。全身をボディーアーマーで覆っているかのようだ。
頭部はオフロードヘルメットを模して造られた意匠に包まれ、レンズは橙色の特殊加工素材で作られており表情は一切窺えない。
対する凜子は新人対魔忍が纏う量産タイプの対魔忍装束を加工し、米連側に寝返った対魔忍を連想させる衣装だ。
米連は対魔忍の能力に興味を持ち、対魔族の戦力、研究に協力させるための引き抜き工作にも力を入れており、アサギや日本政府も見過ごせないものとなっている。
裏を返せば、今この場に米連の兵士が居ても不思議ではないということだ。特に米連は一枚岩ではない。誰でも組織内の潰し合いと思うだろう。
凜子は納得はいかないようではあったが、虎太郎の命令に逆らうつもりはなく、すぐに車から降りた。
それを確認すると、虎太郎はエンジンを始動させ、限界までアクセルを踏み込んだ。
人口の光が殆どない月明りの中で、舗装のされていないオフロードをフルスロットル走行など正気の沙汰ではないが、対魔忍は夜目が効く。何の問題もない。
もっとも、虎太郎が正気かどうかと問われれば、彼本来の姿を知る者たちは思い悩んで口を噤むだろうが。
闇に木霊するエンジン音に周囲を警戒していた護衛は、敵襲を感じ取ったものの全てが手遅れだった。
不運にも車の進行方向に居た一人は、闇の中から突然現れたハイエースに跳ね飛ばされた挙句、車体の下に巻き込まれ頭部を粉砕された。
それでも別荘に近づけば光量が増す。
外部の護衛は恐るべき反応速度で手にしていた銃を乱射するが、何の意味もない。虎太郎は既に脱出しているのだから。
ハイエースは別荘の玄関を完全に破壊しながら内部へと突入し、凄まじい爆発を引き起した。
高級な別荘と、その周辺をこの世から跡形もなく消し飛している。まさに月まで吹っ飛ぶ威力である。
「……………………」
「な? もう皆殺しだ。わざわざ戦ってやるより簡単で速いだろ? 何よりも誰でも出来るしな」
「こ、ここ、この外道ぅぅぅーーーーーーっっ!!」
虎太郎の所業に凜子は、誰もが同意する叫び声を上げた。
通常ではここまでの爆発は起らないが、後部座席一杯にガソリンと火薬を積んでいれば別だ。
「いいだろ、これ? これだけの威力なら大半の魔族でも死ぬし、米連の特殊な防具でも焼け死ぬ。戦車でもなければ耐えられん。何よりも、ガソリンと火薬は安価で大量に手に入るからいい」
「これなら正面から戦った方がマシだ!」
「そーかぁー?」
「……あなただけは絶対に敵に回さない。絶対に、絶対に絶対に、だ!」
もっと大きい工場のような施設であれば、それこそタンクローリーくらいは用意したが、個人で買える程度の別荘なら充分だ。正に世界で最も安いミサイルだったわけである。
余りにもあっさりと、余りにも一瞬で、余りにもぞんざいに、15もの命を奪った虎太郎に流石の凜子も戦慄を隠せない。だが、当の本人は悪びれもせずに首を傾げるばかり。
ゆきかぜは虎太郎は絶対に敵に回さないと誓い、彼女自身も同意したが、誓いを新たにするのも無理はない。
凜子とて、悪党どもの命を奪うのに躊躇はない――ないが、虎太郎ほどに無造作でもない。無慈悲や嘲笑の中にも、自らの行いが正しいと信じている。即ち、そこには情があるのだ。
だが、虎太郎には、そんなものが全くない。自負や情など不要とバッサリ斬り捨てている。昆虫的な、システムの権化のような怪物だ。
「ああ、もういい! 貴方のそのようなところは分かっているからな! それよりもどうするつもりだ! あんなに火の手が上がっているぞ!」
「ガソリンの量、間違えたかな? ……まあいいや、アルフレッド、別荘の間取りは入手しているか?」
『ええ、入手しておりますとも、このドライモンスター。地下室の入り口と場所も分かります』
「よし、じゃあ行くか」
凜子の悲鳴のような声にも一切慌てず、虎太郎はアルフレッドの言葉に頷くと、彼女の手を引いて燃え盛る別荘跡地へと向かっていく。
周囲はガソリンの燃える匂い、肉が炭化していく匂いに満ち溢れ、燃え盛る業火が煌々と輝いていた。
如何に対魔忍と言えど、これだけの炎と熱量では死は避けられない。イングリッドの炎はこれ以上だったが、この業火とて温い訳ではない。
待て、と静止の言葉をかけようとした凜子であったが、虎太郎とアルフレッドに迷いや躊躇はない。
(つまり、私には話していない手段があるということか)
相も変わらず秘密主義の虎太郎に、嘆きの溜め息をつく凜子であったが、既に不安はまるでない。
それだけ彼に全幅の信頼をおいており、何よりも愛した男の行動である。凜子は、ただ黙って受け入れるだけだ。
そうして、燃え盛る業火の中に二人揃って足を踏み入れ――――
「こ、これは……!」
――――凜子は、ただただ驚きの声を上げるばかりだった。
二人の衣服から身体まで全てを焼き尽くす筈の炎は、どういうことか二人の身体を
試しに炎へと手を翳してみても、結果は同じ。二人の存在そのものがなくなったかのようだ。
凜子はまだ知らないが、今回の任務に際して虎太郎が徴収してきた能力である。
――――
本来は潜入を得手とする下忍の異能系忍法である。霞狭霧の効果はあらゆる物体、効果のすり抜け。
虎太郎とは違い、本当にうだつの上がらない下忍の能力であるが、虎太郎はこの忍法を早くから目を付けていた。
本来の持ち主は潜入にしか使わなかった――いや、使えなかった。
虎太郎はこのように攻撃や能力を無効化するのにも用いる。一番よく使うのは敵に爆弾を持って特攻、自分は霞狭霧で無効化、敵だけ殺す自爆戦法である。
どんな能力も使用者が変われば一流にも三流にも変化する良い例だ。下忍には、運用するための知恵も度胸も、向上心すらなかった。
もっとも、能力には往々にして弱点がついて回る。凜子の空遁が多大な体力や精神力を消耗するように、霞狭霧にも弱点は存在した。
「おい、速く歩け。これ10秒くらいしか持たねーんだよ」
「そ、そういうことは早く言えぇーーーーーっ!!」
炎の中に脚を踏み入れて、既に3秒が経っていた。残り7秒で16体目、17体目の焼死体が出来上がる羽目になる。
足早に目的の地点に辿り着くと、虎太郎と凜子は背中合わせで身体を屈めた。
地下室は真下とアルフレッドに聞いていた。もう、何をするかは分かっている。
「行くぞ、準備はいいな?」
「了解。いつでも頼む」
次の瞬間、凜子の視界は闇に染まった。
光の届かぬ深海へと沈んでいくように、或いは星明り一つない夜空の落下していくように。二人は手を握りながら闇の中を下りていく。
それから2秒としない内に光が戻り、確かな地面の感触に凜子は背中の忍者刀――秋山家に伝わる銘刀の一本“夜霧”を引き抜いた。
普段、凜子が使用する石切兼光は持って来ていない。これは救出班の任務、素性は極力隠さねばならないという虎太郎の指示に従ったからだ。
「――――げぶぅっ!?」
殿様蛙が踏み潰されたような声に凜子が背後を振り返れば、蹴りを放ったであろう虎太郎と壁に叩き付けられた議員の姿があった。
気を失いずるずると地面に向かって崩れ落ちる議員に、凜子は怒りすら忘れて肩を落とす。
今回の一件で、何の役にも立っていない自分に落胆しているのだ。
調査や追跡については役に立たない自覚はあったが、本領である戦闘ですら虎太郎の足元にも及ばない現実。
それでも、未だ凜子の心は折れておらず、まだ任務は達成していない。
その姿勢は正しい。
アサギが数々の窮地に陥ってなお諦めず、最後には敵を討ち果たして生還したように。
前に進むことを諦めねば、いくらでも強くなれる。虎太郎の後を追うことを諦めねば、必ずその背中に辿り着くのだから。
「――凜花」
「あ……りん……ちゃ、あがぁぁッ!?」
しかし、凜子は全ての思いを置き去りにして、ようやく見つけた幼馴染に駆け寄り、顔を顰める。
凜花の姿は同じ女として、とても許容できなかった。
動画の中で見た哀れな犠牲者とは違い、手も脚も無事だ。
だが、分娩台に裸のまま縛り付けられたその姿は女としての尊厳を踏みにじられたも同然である。
M字に大きく脚を開かれ、秘裂が露わになっているだけならば、まだ良かった。
――問題は、全身に突き刺さった針だ。
舌先、乳首、脇、秘裂、陰核。ありとあらゆる敏感な部分に突き刺さった様は無残の一言。
もっとも悲惨だったのは、下腹に深々と突き刺さっている針は明らかに子宮にまで至っている。女の最も大事な器官ですら淫具と変える埒外の外法。
針には導線が繋がれ、電流でも流されているのか、凜花の手足は拘束されたまま暴れ回っている。
媚薬によるものか、痛みによるものか、快感によるものか――或いは、絶望によるものか。凜花の尿道はヒクつきながら勢いのない失禁を繰り返していた。
かつてのヨミハラにおける自分自身の姿と重ね、凜子は感電の危険すら顧みず針を引き抜こうとする。
しかし、その手は他ならぬ虎太郎によって止められた。
「――待て」
「し、しかし、このような……」
「魔界の技術を甘く見るな。感情に任せて闇雲に動けば、どんな副作用が出るか分からん」
無残な凜花の姿に眉一つ動かさず、虎太郎はどこまでも冷静であり冷徹だった。
彼の冷徹さに怒りすら覚えた凜子だが、その言い分はどこまでも正しい。何よりも、その冷徹さが自身を救ったこともあり、手を止めざるを得ない。
そもそも凜子に逆らうつもりは毛頭ない。感情さえ制御すれば、虎太郎の指示に黙って従うまでである。
凜花の周辺に設置された計器や機械の類をつぶさに観察すると、キーボードを操作して虎太郎は針に流れていた電流を停止させる。
「――外道鍼か。随分、古いものを引っ張り出してきたもんだ」
外道鍼。
呪印の刻まれた麻酔鍼を経絡に刺し、電流と共に呪印によって魂を縛る魔界医療の一つ。
外道鍼の使用は10年も前に廃れており、今では別の技術が取って代わっている。
虎太郎が外道鍼を見たのは、初めてヨミハラに足を踏み入れた折。
自らの利益のために、ある対魔忍を助ける過程で手に入れた情報から知っていた。
自分も凜花に手を伸ばしながら顎で凜子に指示を出し、慎重に針を引き抜いていく。
針を引き抜くと血の玉は出来上がるものの、呪印以外は鍼治療の鍼と大差はない。身体に傷が残らない。
問題は、呪印がどの程度まで凜花の経絡系に浸透しているか、だ。
生憎とアルフレッドは魔術以外は専門外。虎太郎も半端な知識で治療などするつもりはない。
一刻も早く五車学園に連れて帰り、桐生による診断と治療が必要だ。
手脚の拘束を外し、凜花は凜子に抱えさせる。
もう、外の炎は消えているだろう。アレだけの勢いで燃えれば、鎮火も速い。後は鉄の扉から表に出て闇に溶けるだけ。
気を失っている議員は、山本部長にでも任せればいい。ここにも奴の自宅にも、凶行の証拠は腐るほどある。
「……ま゛、ま゛でぇ……」
既に興味も関心も失った対象の呻きに、虎太郎は肩を落としながら溜め息をつき、凜子は本気の殺意を送る。
この男にはもう何の手段も残されていない。
10年以上も前の技術に手を出しているのが良い証拠。恐らくは今回の件で金を使い過ぎて、最新の技術にも手が届かず魔界医師の協力すら得られなかった。
己の行いを隠す手段もなく、議員としての生命は断たれ、人としての自由も猶予は僅か。
――それでも執念と狂気だけは凄まじかった。
凜子の殺意を真正面から跳ね除け、虎太郎からの痛みすら忘れて、必死で気を失った凜花に手を伸ばす。
その両目に、凜子はたじろいだ。ここまでの執念、ここまでの狂気を、元々はただの人間が放つなど彼女は見たことがない。
恐るべきことに、この男は、たったそれだけの理由で凜子と視殺戦を繰り広げ、押し勝ってのけた。
本当に馬鹿な男である。
その後ろに控える、決して敵に回してはならない存在に動く切欠を与えてしまったのだから。
「何だ、紫藤がそんなに必要か……?」
「当たり、前だ、彼女が、いれば……彼女と愛し、合えば……全てが、元に戻る! 私は、救われる! 私達は幸せになるんだ」
歪な笑みを浮かべ、ただ一心に救いを求める壊れた男の前に、虎太郎は股を開いてしゃがみ込んで表情を眺める。
「ふーん。
「離せ! 彼女を離せ! 離せ離せ離せ離せぇぇぇぇぇッッ!!!」
「――――でも、壊れたものは元に戻らねぇよ。壊れたら、壊れたなりの秩序を得るだけだ。覆水盆に返らずってな」
虎太郎の興味も感情も感じ取れない淡々とした口調は、狂気に染まった男ですらピタリと止める威力を秘めていた。
当然である。どれだけ狂気に染まろうとも結局は人間の心だ。虎太郎に読み切れぬ筈もない。彼の言葉は、男にとって最も触れられたくない部分を的確に貫いていた。
「…………違、う」
「女の手足を斬り落として縛り付けようが、罷り間違って紫藤がお前を愛そうが、お前は絶対に救われねぇ。少なくとも元に戻ることを救いとしているならな」
「……う、五月、蝿い!」
「分かった分かった、もう黙るよ。アンタの底は見えたが、興味も関心もないしな。だが、最後に一つだけ聞かせてくれよ」
もう喋るのも嫌だと言わんばかりの口調で、決定的な一言を告げる。
「アンタ、その背中にべったり張り付いてる女どもを背負って、どうやって元の生活に戻るって言うんだ」
失笑混じりの虎太郎の言葉に、議員はポカンとした表情で自身の背中と、仮面で覆われた顔を見比べる。
やがて顔から血の気が引いていき、狂気が失われ、狼狽に染まっていく。
男の喚き散らし、自身を止めようとする言葉に聞こえていない振りをして、虎太郎は鉄扉に手を掛けた。
「じゃあ、背中の連中と仲良くやりな。アンタが救われるのはソイツらがいなくなったらだ――――まあ、一生ないと思うがな」
「ま、待――――」
男の言葉を最後まで聞かず、虎太郎は鉄扉を閉めた。
男には、もう逃げる気力も意志も狂気さえ残されていない。後は、山本部長の手の者が奴を捕まえに来る。それで終わりだ。
「虎太郎、貴方は一体、何を……」
「別に。オレの女が怒り心頭だったからな。ちょいと呪いをかけてやっただけだ」
男の心理を読み切った虎太郎は、くだらない呪いを説明する。
男の救いは、以前の生活に戻ること。
かつてのように妻と愛し合い、やりがいのある仕事をやり遂げ、理想と信念に邁進する生活。それこそが男の救いだ。
無論、そんなことはあり得ない。虎太郎が言った通り、覆水盆に返らず、壊れたものは二度と元には戻らない。
何よりも罪を犯しすぎ、罪を隠蔽するだけの金も権力も残されてはいない。
けれど、虎太郎が注目したのは、そんなところではない。
狂気の前には何の理論も理屈も意味を為さないが、元の生活に戻るということは、どれだけ狂気に染まろうと、どれだけ狂気に駆られようとも、どれだけ狂気に満ちようとも――――一握りの正気と倫理を残しておかねばならない。
でなければ、元の生活になど戻れない。狂気の中に残された正気と倫理を見抜き、罪悪感を刺激してやっただけだ。
最早、議員は今度こそ本当に狂気へと飲みこまれるだけだ。
自ら手脚を斬り落とした少女達の幻影に張り付かれ、死んだ人間に怯え続ける。そう遠くない未来、男は自らの業と罪悪感に押し潰され、廃人となるだろう。
それを回避するには罪を受け入れ、贖罪を決意した時だけ。そんな強さがあの男にあるのなら、そもそもこんな事態に発展してはいない。
「これが本来の呪いだ。不思議な力なんていらねーんだよ。決められた状況で、決められた時に、決められた言葉を吐けばいいだけだ」
「…………凄まじいな」
たったの一言で、人など簡単に壊れてしまうのか、と。
狂気に満ちたあんな男の心理すら読み切れるのか、と。
凜子は改めて、弐曲輪 虎太郎の恐ろしさを再認識せざるを得なかった。
凄まじいまでの手段の多さと冷静さと残酷さ。この男は、一体どれほどの心の闇を見てきたのか。
そして、そんな悍ましいものを見続けて、どうして人に絶望せずにいられるのか、どうして正気を保っていられるのか。
凜子には全く理解できなかったが、既に虎太郎を受け入れた身だ。恐怖はまるでなく、ただただ驚くばかりであった。
「まあ、あんまりやりたくねーんだよな、コレ。人を呪わば穴二つ、ってよく言うだろ?」
「何だ、嫌な気分にでもなったのか? 少なくとも私にはそのようには見えないが」
「似てるが違うな」
ようやく任務が終わり、凜花を無事に取り戻した安堵からか、凜子は軽口を飛ばした。
メットに隠れた表情は窺い知れなかったものの、恐らく虎太郎は軽口に対し、笑みを浮かべていただろう。口調は弾んでいた。
「自分の女の代わりに無駄な労力を使うなんざ、呪い以外の何物でもないね」
自らの人生を嘲笑うかのような。自らを愛していると嘯く女を慈しむような。皮肉で満ちた、実に彼らしい台詞だった。