『彼の苦労は何も任務ばかりではない』
「くぁぁ、……ねみ」
此処の所の睡眠不足が原因の欠伸を噛み殺しながら、学園の廊下を歩く。
最新鋭の設備が揃っている割に、五車学園は木造作りと古臭い。歩く度に床が軋んでいる。
そろそろ改築予定だそうだが、その間の授業はどうするつもりなのか。青空教室でもするのか?
「弐曲輪先生、だらしないですよ」
「呆れた、もう少し凛子ちゃんを見習ったらどうです?」
薄らボンヤリとそんなことを考えながら歩いていると、二人の少女に声を掛けられて足を止める。
勿論、どちらも見知った顔だ。授業を受け持ったこともある。
「氷室と紫藤か。何か用か?」
一人は紫陽花色の髪を長く伸ばした、スレンダーな身体つきの少女。キっとした視線は気の強さと融通の利かない性格を示している。名は氷室 花蓮。
学園の風紀委員を務めており、彼女が風紀を取り締まってから学園全体の気が引き締まったと評判だ。
その賜物か、三好 桔梗や蓮魔 零子などの堅物で知られる教師陣から受けがいい。オレは特段の評価は下していない。だって、オレにとって便利でも都合が良い訳でもないし。
もう一人の、灰色のウェーブがかった長髪に、豊満な胸と尻肉に反してくびれたウエストの男好きする肉体の少女は、言葉通りの呆れた視線をオレに向けている。此方の名は紫藤 凜花。
“対魔忍に二凜あり、秋山 凜子と紫藤 凜花”と謳われるほどの腕前を誇る、ゆきかぜに並ぶ次世代のエースである。
因みに紫藤だが、オレを見下している節がある。まあ、大抵の連中はオレを陰に陽に馬鹿にしているので気にもならないが。
秋山 凜子はゆきかぜの相棒に当たる人物である。通称“斬鬼の対魔忍”。だから忍が異名など取ってどうする。
忍の里に代々伝わる逸刀流の使い手であり、単純な剣の腕前はアサギに勝るとも劣らない。つまり近接戦闘においては対魔忍の中でも上から数えた方が早い腕前だ。
10代の頃は水城家と懇意だった秋山家との付き合いがあり、その所為もあってゆきかぜ、凜子共々面倒を見ることは少なくなかった。
「用も何も、弐曲輪先生は教師なんですから、身嗜みくらい整えて下さい」
「いや、悪いな」
氷室は緩んでいたオレのネクタイに手を伸ばすと、キュっと締め直す。少し閉め過ぎて息苦しい。あとでこっそり緩めよう。
「全く、だらしのない。それでも五車学園の教師ですか。貴方がそんなようでは、知り合いである凜子ちゃんの名を貶めることになるのを理解しているんですか?」
「それは関係ないだろう。実際、アイツは(戦闘面では)優秀だよ」
「貴方のような知り合いが居ること自体、凜子ちゃんにとって不利益になるんです!」
「ちょっと先輩、言い過ぎです」
氷室に諫められ、紫藤はふんとそっぽを向いた。その様子では、まだまだ言いたいことはあるらしい。
凜子と凜花は謳われている通り、幼い頃からの幼馴染であると同時に、切磋琢磨するライバルでもある。
幼馴染として、うだつの上がらない下忍と繋がりがあること自体、気に食わないのだろう。多少、オレに対して攻撃的になっても仕方がない。
「分かった分かった。オレから凜子には近寄らん、それでいいだろう?」
「弐曲輪先生はそれでよろしいんですか?」
「構わないが? 紫藤の言い分にも一理あるしな。オレは他人の足を引っ張るのも引っ張られるのもゴメンだ。それに、オレは凜子に対して特別な思い入れはない。生徒と教師以上の思い入れはな――ふぁぁ」
「……眠そうですね」
「眠いよ。昔から対魔忍は人手不足だからな。有能だろうが無能だろうが、動ける奴は問答無用で使われる」
此処の所、対魔忍と魔族と米連の小競り合いは日に日に激化の一途を辿っている。
一定以上の力量が認められた学生は実戦に投入されるほどだ。人材不足の人手不足。何処も彼処も生き地獄。地獄へお共せよ、ということらしい。
そういう訳で、オレも救出班としての任務のみならず、下忍として斥候や情報収集に駆り出されることもある。
教師に救出班に下忍の任務と三足の草鞋だ。真面目にオレの過労死を狙っているとしか思えない。
「ふん。弐曲輪先生と任務を共にして、失敗しましたなんて事態にならなければいいですけど」
「紫藤先輩……!」
氷室は持ち前の堅物さ加減から、本心はどうあれ誰に対しても同じように接するし、能力や評判の色眼鏡で人を見ることはない。
その分、だらしない人間や不真面目な人間には、ピシャリと物申す性質だ。
反面、紫藤は実力や能力を重視して、自分の下と見た人間に容赦はない。オレへの当て擦りがいい例だ。
それでも嫌われていないのは、自分の上と見た人間には敬意を払い、同時にいつか超えてやろうとする向上心があり、また自分の認めた相手には惜しみない優しさを分け与えるからだ。
「安心しろよ、紫藤。昔に比べりゃ任務の難易度も大分落ちてる。20年前に比べれば大分マシな方だ」
これは事実だ。今現在では比較的安定した組織運営が出来ているが、当時は其処彼処から人材を掻き集めてどうにかこうにか魔界と周辺諸国へと対抗していた。
死傷率はバカみたいに高いわ、集めた人材も根が忍なので裏切るわ寝返るわのオンパレード。とてもではないが、後進の育成など不可能な状態だった。
当時の最前線を経験し、生き残って現役を貫いているのはアサギと紫の兄である八津 九郎、オレくらいのものだ。それ以外は三途の川を渡ったか、戦線復帰不可能な傷を負った。
さくらと紫に関しては現役として活躍するのはその少し後になるし、現在ベテランと呼ばれる連中も大体同じくらいだ。
「つまり任務の難易度が高かったから失敗ばかりで、不名誉な名で呼ばれることになったと?」
「それもあるが、下忍が任務を失敗して生き残れること自体、稀だ。大抵死ぬからな。それに下忍が生き残ったとしても携われる任務の高が知れてる以上、挽回の機会なんぞハナからない」
「………………」
これも事実。下忍など基本的に使い捨てだ。
トップがアサギになって大分マシになっているとはいえ、下忍の死傷率と上忍の死傷率とでは雲泥の差がある。
これには単純な実力差以上の問題がある。大抵の社会、組織構造がそうであるように、下にいる者は上にいる者に対して奉仕せねばならない。
より優れた者を救う為に、より劣った者が犠牲になる。人間とは、そうやって価値を上げていくものだ。
たまさか生き残った下忍に挽回の機会などなく、またその必要もない。次の犠牲となる為に新たな死地に向かうだけの話。
「オレからお前達に言えるのは、学生の内に訓練して、知恵をつけて、さっさと上に上がれってことだけだ。オレみたいになりたくなければな」
「そ、その程度のこと理解しています」
オレの言葉に何か思う所はあったのか、紫藤はそれきり口を閉ざした。
自分の至らなさを反省しているのか、或いはオレに憐憫でも抱いているのか。
どちらでもいい。何の足しにもなりはしないが、あの何時もオレに噛みついてくる口が閉ざされただけ御の字だ。
「少し、可笑しくないでしょうか……?」
紫藤の様子に満足していると、今まで黙っていた氷室が口を開く。
「弐曲輪先生は異能系の忍術を持っていない下忍、で合っていますよね?」
「んん? あー、まあ」
「でも、それだけの時間を生き延びて、かつ失敗以上に多くの任務を成功させている。その上、生存能力や逃走能力では上忍の方々にも引けを取らない」
「些か以上に買いかぶりだと思うがなぁ」
「やっぱり可笑しいです。それだけの長い時間仕えて、任務を達成できる実力があるなら中忍として昇格しても可笑しくないです」
「いやー、ははは……」
これだから、真面目で賢しい奴は厄介だ。ちょいとした気の緩みでこっちの隠しておきたい事実に肉薄してくる。
救出班の仕事を除いたとしても、オレの熟してきた任務を考えれば中忍どころか上忍に昇格しても不思議ではないだろう。
立場的にはさくらや紫を越えて、アサギの右腕と名高い九郎と同等の扱いを受けていなければ可笑しい。
下忍からの脱却を図らないのは色々とあるが、まず第一にオレがふうまの出身であること。
対魔忍はアサギを頂点とした集団ではあるが、決して一枚岩ではない。アサギの存在自体を快く思わん連中もいる。
特に井河に転がり込んだ時代の生き残り連中の殆どは隠居しているが、オレがふうまの生き残りであることを知っている。跡取りや側近にもその事実を伝えているだろう。
下忍として働いている分にはいいが、組織内でデカい顔をしようものならどんな手を打ってくるか。最悪なのは、外にオレが生きているという情報を流されることだ。喜び勇んでオレを殺しに来る奴等も少なくない。
そして、オレを受け入れた瑕疵を理由にアサギを引き摺り落とし、自分や一族が立場を取って代わろうとするだろう。
間抜けを通り越して可愛く思えてくる。今対魔忍が纏まっているのは、アサギの人柄もあるが、何よりもその強大な力があってこそ。
人柄だけで組織を纏め上げる人物もいるが、我の強い対魔忍を纏め上げるには、何よりもまず力ありきだ。実力至上主義なのだから当然だろう。
アサギがいなくなれば瓦解する。瓦解したら瓦解したで、また身の振り方を考えるだけだが。
「なんだ、お上はお上で考えがあるんだろ。何も実力や実績だけで昇格が決まるわけじゃない。コネや性格とかもあるだろ」
「性格は兎も角、コネって……」
「それを言うなら、アサギ先生と付き合いの長い弐曲輪先生なら……」
「それを補って余りあるダメな性格ってことだ。それに組織のトップが身内に甘いなんぞ、笑い話にもならん」
紫藤は不満タラタラで何か言いたそうな表情であったが、言葉にはしなかった。
氷室は氷室で、今一つ納得していない表情だったが、普段の全くやる気を感じられない態度を思い出したのだろう。同じく押し黙る。
いやはや、誰からも期待されないというのはいいね。期待をされない自由! 実に素晴らしい!
何が一番素晴らしいと言って、誰からも警戒に値する相手と認識されてない辺りが特に。
対魔忍にせよ、魔族にせよ、米連にせよ、誰からも歯牙にもかけられない立場が一番楽だ。仕事をするにしても、何をするにしても。
わざわざ自分から苦労を背負い込むつもりは一切ない。どうせオレの場合(主にアサギのせいで)、苦労など自走式地雷のようにこっちに突っ込んでくる。死にたい。
はあ、と大きな溜め息をついていると何時の間にか氷室や紫藤はいなくなっていた。
どうやら、余程深く考え込んでいたらしい。何を言っても反応しなくなったオレに呆れて、自分の日常ルーチンに帰っていたのだろう。
しかし、眠い。
この程度の睡眠不足と疲労はかつての生き地獄に比べれば大したものではないが、急な任務を入れられて突発的なアクシデントと体調管理不足で死ぬなぞ、馬鹿馬鹿しくて極力避けたい。
素直に休むとしよう。幸い、午後まで授業はない。保健室を借りて、休めばいいか。
「に、弐曲輪先生……!」
「……今度は水城か、何か用か?」
今日は千客万来だ。ゆきかぜがオレに声をかけてくるとは珍しい。ここ数年は避けられていたのだが。
しかも、いつもと様子が違う。普段は苛立ちと蔑みの視線を向けてくるのだが、今日に限っては緊張と不安の色が強い。
「今日の放課後、お時間ありますか?」
「突発で何か起きなきゃな。なんだ、質問か何かか? 水城のレベルだったらわざわざオレに聞くより他の先生がたの方がいいと思うが」
「そうじゃなくて…………兎に角、時間開けておいて下さい!」
ゆきかぜはそれだけ言うと走り去ってしまう。
別段、断る理由もないが、相手の返事も聞かずに去ってしまうのは如何なものか。
……色々と考えなくてはならないことがある気がするが、眠気で頭が回らない。一度、眠ってから考えるとしよう。
―
――
―――
――――
―――――
「………………」
つづがなく日々のルーチンワークを終えたオレは夕暮れの中、我が家への帰路に――――は就かず、水城家へと向かっている。
どういう訳か、放課後に顔を見せたゆきかぜは、自分の家に来るように願うとまた返事も聞かずに去っていった。
またぞろ妙な展開だ。いくら幼い頃から付き合いがあり、毎日学園で顔を突き合わせているとは言え、ここ数年のゆきかぜの様子を見る限り、家に招かれる筈もない。
ないとは思うが、簡易戦闘装備を忍ばせてきた。流石に、ゆきかぜから命を狙われることはないと思いたい。
水城家は代々、優秀な雷遁使いを排出している名門だ。
そのお陰か、木造平屋建ての一軒家はかなり大きい。しかも庭付き。池まで付いてる。尤も、その大きさも、今では虚しいだけかもしれない。
ゆきかぜの両親は、既にこの家に居ない。母は5年前の任務中に行方不明。未だに救出班への出動要請もない。父も同じく任務中に死亡。ゆきかぜはこの家にたった一人で生活している。
まあ、アレで友人は多い方だ。自分の家に招いて女子会だのお泊り会だのをしているし、周辺の家や分家の者が時折、世話を焼きに来るのも知っている。
両親はいないが孤独とは縁遠い。オレがわざわざ手を貸してやる必要も、世話を焼いてやる意味も理由もない。
水城家との付き合いは、ゆきかぜの父を敵陣から救出してから始まった。思えば、当時からそんな役回りをやらされることが多かったような……。
ゆきかぜの両親に大層感謝されたが、嬉しくも何ともなかった。ただ、オレの仕事を増やしやがってという不満があっただけだ。
しかし、何を勘違いしたのか、彼等は天涯孤独であったオレを度々家に招き入れた。オレが自ら天涯孤独になる道を選択した間抜けだと知ったら、どんな顔をしただろう。
そうしている内に、ゆきかぜの世話を任せられるようになり、彼等が任務に出ている際はオレが面倒を見ていた。
…………ふと過去を思い出し、一つの疑問が浮かび上がる。
ゆきかぜと知り合ったばかりの頃、アイツはオレを怖れていた。
オレは本質的に他人を信用していない。ただの一人も、だ。他人に求めるのはオレにとって有用かどうかであり、それ以外は何も求めていない。
子供心にその本質を理解していたのだろう。必要以上に近づいてくることはなかった。オレもオレで、食事の用意や最低限の世話をするだけで近づかなかった。
それが虎太兄、虎太兄と鬱陶しいほど慕ってくるようになったのは何時の頃からだったか。何かあったような気もするが、オレにとってどうでもいいこと過ぎて、思い出せそうもない。
疑問もそこそこに、チャイムも鳴らさず勝手知ったる人の家の扉を開けて中に入る。
「あ、あれ? こ――――弐曲輪先生!? も、もう来ちゃったの? ひゃわぁぁぁ!!」
勝手な都合で人を呼びつけておいてその言葉はどうなのか。
最後の悲鳴は水が急激に蒸発するような音に続いてのものだった。……鍋でも吹きこぼしたか。
呆れで頭を掻き掻き玄関を上がり、台所に向かうと、制服にエプロン姿のゆきかぜが肩で息をしながらコンロの火を消し止めた所だった。案の定、火にかけた鍋は無残に吹きこぼれている。
「何をやってるんだ、お前は」
「あ、あはは……」
―――――
――――
―――
――
―
「んー、先生、火加減、これくらい?」
「ああ、後は落とし蓋をして弱火でじっくり煮込む。ジャガイモが煮崩れる直前までな」
「りょーかーい」
そんなこんなで、ゆきかぜと夕食を作る羽目になった。本当は夕食をご馳走する算段だったようだが、アレではなぁ。
オレはスーツの上着だけを脱いでシャツの袖を捲り、今は味噌汁の出汁を取っている。化学調味料を使わず、昆布と鰹節から取って一手間かけているところだ。
「と言うか、お前、普段はどうしてるんだ。あの様子じゃ、まともに自炊も出来んだろ」
「う……、近所の人とかの御裾分けとか、友達が作ってくれたりとか。あと、基本は三食、学園の食堂で食べてます」
「え?! 何それ初耳! 学園の食堂って昼しか開いてないんじゃないのか!?」
「ほら、やっぱり学生でも親の居ない子が多いから。食堂のおばちゃんが特別に」
「マジか。……マジかぁ。もうオレ、自炊するの止めようかな。面倒だ」
「折角、自炊できるんだから続ければいいのに……それに先生は先生で、学生じゃないでしょ?」
「いや、そこは親無し配偶者無しを口車で何とかするさ」
手間がかかるよりかは楽な方を選びたい。
男の一人暮らしなどそう大したものじゃない。炊事、洗濯、掃除の中から一つでも減らせるのならいい。
ジト目で此方を睨んでくるゆきかぜを無視し、食堂のおばちゃんの人柄を思い出す。…………泣き落としで行くか。
考えるだけでなく手も動かす。
沸騰させず絶妙な加減で出汁を取り、丁寧に出し殻を取り除いてから一度煮立たせる。
出汁が沸騰し、いい香りが鼻腔をくすぐり始めたら、弱火にして味見をしながら白味噌を溶かす。これ以後は沸騰させては駄目だ。
そして、具材の豆腐と水で戻したワカメを入れる。具材に火が通るの待って、完成だ。
「ふん、それなりだな。ほら、味見してみろ」
「何? 完成してから味見させるの? 順番おかしいよ」
「いいから、黙って飲んでみろ」
「もう………………んっ!? これ!!」
小皿に移した味噌汁を口にすると、ゆきかぜは元々大きい目をまん丸に見開いてオレを見てきたので、ニヤリと不敵に笑ってやる。
ゆきかぜが目を輝かせるのも無理はない。何せ、5年ぶりのお袋の味という奴なのだから。
別段、ゆきかぜの母親から教わった訳ではない。ゆきかぜの相手をしている時に、たまさか目に入った手順を覚えていただけの話。
出来ることと好きなこと、出来ないことと嫌なことが必ずしも一致しないところに、どうしようもない世の無常を感じるが、この際だ、捨て置こう。
それから暫くして夕食が一通り完成し、オレとゆきかぜは食卓に着いた。
肉じゃが、大根の煮物、アジの開き、豆腐とわかめの味噌汁、浅漬け数種、そして豆ごはん。
かつて水城家で並んでいたレシピを再現したものばかりだが、それなりの味にはなっているだろう。
いただきますと行儀よく挨拶をして、実食。
「んんんー! 美味しい!」
食事中、ゆきかぜは終始そのような感じだった。
その様子に水を差すこともない。少々行儀は悪かったが、親でも兄弟でもない以上、躾ける必要もないだろう。
大好評のまま食事も終わり、ゆきかぜと一緒に食器を洗う。
特に会話もない。食事中も、料理に関することばかりでそれ以外の話はしなかった。
だから、何故今日に限ってオレを呼んだのかも聞いていない。
正直な所、不思議ではあるが深く踏み込むつもりはない。ゆきかぜの考えなど、オレにはどうでもいいことだ。
「にの――虎太兄は、さ。何も聞かないんだね」
唐突に、ゆきかぜが口を開いた。本当に唐突だな、この娘は。
何も聞かないのは当然だ。単純に興味がないのだから。
ゆきかぜが、ある日を境に虎太兄から弐曲輪先生と呼び方を変えたことも。
ゆきかぜが、学園でオレに対して常に苛立ちや侮蔑を向けることも。
等しくオレにとっては価値がない。
呼び方を変えた程度でオレの仕事が楽になる訳でもないし、ゆきかぜが苛立とうが軽蔑しようがオレの人生が変わる訳でもない。
「お前にも色々とあるだろ、年頃だしな。それにオレだってお前に言ってないことくらいある」
だが、口が裂けても本心は言わない。自分から人間関係を悪化させるほど間抜けでも愚かでもない。いや、今のは今ので事実であり本心だ。
人にはそれぞれ考え方や立ち位置があり、オレにとって相容れず、理解できないものであったとしても、笑うつもりも、否定するつもりもない。
オレは好き勝手やっているのだから、他人が好き勝手やっていても文句は言えまい。自分は特別などという愉快な勘違いを抱いていたら、とてもではないが生き残れなかった。
「私はっ! ………………ごめん、急に大声出して」
「いや……」
ゆきかぜは今にも泣きだしそうな表情で何かを耐えるように押し黙る。
不可思議ではあるが、やはり踏み込むつもりもない。何者かに操られている様子もないのだ、思春期特有の情動ということで済ませよう。この程度の情緒不安定、学生にはよくある話だ。
それきり会話は途切れた。
手早く洗い物を済ませて家を立ち去ろうとするも、ゆきかぜからは何の言葉も相談もない。寧ろ、椅子に掛けてあった上着を着せようとしてきたほどだ。
「どうした……?」
「ん、お見送り」
ゆきかぜは玄関までの短い道のりをトコトコと横を付いてくる。懐かしい煩わしさに妙な気分になった。
くたびれた革靴を履くと、ゆきかぜが鞄を手渡してきた。甲斐甲斐しいことだ。
「今日は、ありがとう。色々、迷惑かけちゃった」
「別に気にしちゃいない」
オレに迷惑をかけてくる連中は、アサギとかアサギとかさくらとか紫とか朧とかノマドとかブラックとかアサギとかなので、迷惑の度合いがメガトン級だ。このくらいの迷惑なら可愛いもの。迷惑の内には入らない。
ゆきかぜはオレの言葉に安心した表情で吐息を漏らし、にっこりと微笑んだ。本当に、今日は背筋が薄ら寒くなるくらいに素直だな。
「また、ご飯食べに来てね」
「お前がまともに料理できるようになったらな」
「もう! 虎太兄の意地悪! ………………じゃあ、またね」
小さく手を振りながら見送ってくるゆきかぜに、最後まで何も問わないまま、オレは水城家を後にした。
水城家よりも遥かに質素な我が家への道すがら、暫し物思いに耽る。
結局、最後までゆきかぜの表情から緊張と不安が消えることはなかった。恐らくは、近い内に何か大規模な任務でも仰せつかったのだろう。
しかし、それはそれで疑問が残る。ゆきかぜが赴くのであれば、当然、相棒である凜子も同行するはず。
あの二人が組めば、アサギもあっさりと勝ちを拾えないレベルの腕前だ。対魔忍最高のコンビとは言えないが、実力は上から数えた方が速い。
魔族や米連の中でも、中堅以上の腕前がなければ話にもならない。
戦闘に限った話だが、あの二人が確実に負けると断言できるのは、魔族側では朧や魔界騎士のイングリッド、数なら中規模戦闘部隊は必要だ。米連側では対魔忍戦闘に特化した一個中隊か、二人討伐専用のタスクフォースが必要になるだろう。
あの二人、一体何処のどいつを相手にするというのか。
「ん? 弐曲輪教諭……?」
「……今度は凜子か」
そんなことを考えていると、夜の帳の中から秋山 凜子が現れた。月が昇っている時間だというのに制服姿だ。コイツは私服を持っていないのか。
オレの姿を見つけた凜子は此方に歩み寄り、何事かを口にしようとしたが結局は言葉にはならなかった。
何故か、オレの来た道(勿論、水城家の方角だ)を指差し、続いてオレの行く道(勿論、侘しい我が家の方角だ)を指差した。すると、得心がいったとばかりに手を打ち、何故か目を輝かせる。
「おお、ゆきかぜの所に居たのだな。ふふ、そうかそうか」
凜子は学園内では敬語で教師と生徒という関係を崩さないが、学園を一歩でも出ればこうして砕けた口調になる。それでも随分と古めかしい喋り方だが。
何を考えているのかは知らないが、普段の冷静な態度は鳴りを潜め、何処か浮足立っているように見える。
「これで私も、心置きなく貴方に頼めるというものだ」
「頼む? 何をだ? 面倒事は勘弁してくれ」
「う、む。面倒と言えば確かに面倒かもしれんが、貴方にとっても損はないはずだ」
「…………ああ、何だ。ゆきかぜのように食事に誘うのか? 勘弁してくれ、今は腹一杯だ」
「ん? ………………まさかとは思うが、食事をご馳走になっただけなのか?」
「ご馳走したのはこっちの方になったけどな」
ゆきかぜへの皮肉交じりの返答に、凜子は眉を顰める。続いて、大きな呆れの溜め息をついた。
まるでオレを咎めているようだ。何故、ゆきかぜのところで食事をして帰ってきただけで、気に食わないとでも言わんばかりなのか。
「貴方という人は、呆れを通り越して怒りすら込み上げてくる」
「ああ、そうかい。何が不満か知らんがな、そっちの都合だろう。オレにはオレで都合があるんだ」
「そういう人だとは分かっていたが、…………はぁ、私達は本当に……」
凜子は片手で顔を覆い、自らの不運を嘆くように首を振った。
「……一つ、聞きたいことがあるのだが、構わないか?」
「答えられる範囲でならな」
「貴方は、私やゆきかぜとどのようにして距離を縮めたか、覚えているか……?」
「ああ、それか。今日たまたま思い返してみたんだがな。特に記憶がない。何かあったか?」
「そう、か。そうだろうそうだろうと薄々感づいてはいたが、面と向かって言われると……中々きついものがあるな」
「ああ? それはどういう意味だ?」
「貴方が他人に求めているものは人格や性格でも、況してや寄り添ってくれる誰かでもなく、徹底して能力だけだということさ。寂しい人だ」
それの何が悪いのか。それこそオレには理解できない。
人は一人では生きていけない。それは真理だ。オレも認めざるを得ない。
人の性能には限界があり、器に満たせる才能と努力に限度がある以上、仕方がないことだ。
だが、断じて孤独故にではない。もし仮に衣食住が死ぬまで安定して揃うのであれば、人は世界の終わりまで一人で生きていくなど容易い。
少なくともオレはそうだ。ふうまから出奔し、誰一人味方が居らず、自分以外の全てが敵という状況でも、精神的には何の問題もなかった。あったのは能力的かつ肉体的な問題だけ。
――うさぎじゃあるまいし、寂しくて人が死んで堪るものかよ。
「私とゆきかぜは…………いや、止めよう。それよりも、一つ頼んでもいいか?」
「質問の次はお願いか。……何だ言ってみろ。返事はそれから考えるけどな」
「私とゆきかぜに何があっても、今までと変わりなく接してくれる、だろうか?」
「なんだ、それは。…………まあ、それぐらいは構わんが」
訳が分からない。控えている任務が命に関わるレベルなのか。或いは傷つくことを避けられない何かが待ち構えているのか。
いずれにせよ、オレが誰かと接し方を変えるなど在り得ない。
人によって好悪はあっても、だからと言って接し方を変える理由もない。そもそも特別でないオレが、特別でない誰かに接し方を変えるなどというのも可笑しな話だ。
「それを聞いて安心した。これで心おきなく任務に臨める。付き合わせて悪かった。ありがとう」
「そいつは重畳。じゃあな、足元には気をつけて帰れよ」
「ふふ。誰に言っているんだ、貴方は」
最後に花が綻ぶような笑みを見せて、凜子は来た時同様、夜闇の中へと消えていった。
消えていく背中を見送ってからまた歩を進める。愚かなことに、何の疑問も抱かずに。
神ならぬこの身には栓なきこととは言え、後になってから、これが何度もあった最後のチャンスだったと頭を抱えた。
そう、オレが楽をする為の最後のチャンスだ。そして、超ド級の爆弾を解体する最後のチャンス。
――――つまり、またしても望んでもいない苦労がオレ目掛けて突っ込んでくるということだ!