不知火と分かれた虎太郎は、再び策の為の行動を開始した。
また幾つかの殺戮に手を染めている。但し、今度は娼館のスタッフを中心とした者ではなく、ノマドの構成員にまで及んでいた。その殺し方も、凄惨極まる方法で、だ。
内臓を生きたまま引きずり出した挙句、首に巻き付けて建物に吊るす残虐行為。
街灯に死体を突き刺し、その頂点に斬り落とした首を飾る狂気のオブジェ作成。
僅か一分にも満たない時間で解体されたバラバラ死体と超絶の殺戮技巧。
初めは単なる小組織の小競り合いや縄張り争いと思われていた事件は、今やヨミハラ全体を揺るがせる一件へと発展していた。
ノマド側の自警団は、“ヨミハラそのもの”に対して何らかの恨みを持つ者ないし集団の仕業と断定。証拠もまともにないままに無駄な捜査を開始。
他の組織もそれぞれが抱えるプロフェッショナルと情報網を使って蠢いている。
虎太郎と不知火にとって厄介な敵である淫魔族は、この事態を静観。不知火から得た情報によってこの犯行を集団によるものと誤認し、自らの利益となるラインを探っていた。
そして、ヨミハラに住まう住人は疑心暗鬼に曝されながらも、普段と変わらない爛れた日常を送っている。自分に如何にもできないことは誰かが何とかしてくれる、という安易な考えの元で。
こんな事態を引き起こした張本人が何をしているかと言えば――――一度、地上に戻っていた。
ヨミハラに来た時と同様に、誰にも気付かれないまま、あっさりと一人で門を抜けた。
そして、今度は“別ルート”からヨミハラに足を踏み入れたのである。
「ようこそ、ヨミハラへ」
エレベーターの開いた先で、執事のような恰好の魔族がにこやかな笑みと共にヨミハラへの来客を迎え入れた。
ヨミハラにおける真の意味での客は、政治家や資産家といった人生の成功者と呼ばれる層だけ。
いや、この街を支配するノマドにしてみれば単なる家畜同然の存在でもあるが、組織を大きくするにはうってつけのお財布だ。
しかし、一つ疑問が残る。
ヨミハラは人の歪んだ欲望を満たすにはこれ以上ない場所ではある。金と権力さえあればどんな欲望をも満たすことが出来るが――――ヨミハラに至る道は余りにも険しい。
距離は歩いて一日。道中は危険な生物、存在の巣窟。しかも迷路のような道程。
どう考えた所で人生の成功者と呼ばれる連中が越えられるはずもなく、危険と安全のバランスが取れておらず、時間が掛かり過ぎる。
矢崎にせよ、黒百合が情報を得た第一秘書にせよ、行き来に2日、ヨミハラでの滞在が数時間だとしても、多忙を極める政界でそれだけの時間を無駄にすれば何が起きるか分からない。
それ故、上客用の直通エレベーターが存在するのだ。
ゆきかぜや凜子がゾクトに案内されて通った道、潜った門は、どちらかと言えばヨミハラで商売を行う側の専用門――言い換えれば従業員用入り口に近いのだ。
エレベーターの入り口は東京内のある高級ホテルに設けられており、政治家や資産家が集まっても誰も不思議に思わず、一晩出てこないところで疑問にならない。偽装には十分すぎるだろう。
ヨミハラへ降りるにはカードキーとパスコードが必要となり、金を払って二つを買うか、持っている者と共に降りるか、二つを借りる必要がある。
過去に足を踏み入れた時点でVIP専用の通用口があると踏んでいた虎太郎は、情報収集の際、アルフレッドと共に東京の地理とヨミハラの位置から既に場所を特定していた。
後は高級スーツを用意しさえすれば、アルフレッドがセキュリティを破って侵入するだけだった。
「お客様、失礼ですが、ヨミハラは初めてですか……?」
「え、ええ、知人の紹介で」
「そうございますか。では注意事項と忠告をいくつか」
普段の無表情は何処へ消えたのか、虎太郎は今や右も左も分からない初訪問者といった困った表情で応対する。
彼は本来の意味での、感情や内心とは全く別の表情を浮かべることが出来るポーカーフェイスのようだ。
疑り深い彼が顔を隠すこともなく、服装と髪型を変え、眼鏡をかけただけの素顔で侵入を試みるなど彼を知る者からすれば驚きだろう。
しかし、彼にしてみれば当然である。こういった潜入をする為に、救出班、下忍としての任務は可能な限り顔を隠している。
敵は誰も彼の素顔を知らず、彼の素性を導き出せるものは誰もいない。これ以上、有効な潜入は存在しない。
紳士然とした表情の下で新たな家畜となった人間を嘲笑っているのを感じながら、虎太郎は内心で呆れ果てていた。
基本的に魔族は人間を侮っている。
そもそも生き物としての性能が違うのだから、当然と言えば当然かもしれない。人とて犬や猫に本気の警戒や愛情を向ける方が稀だろう。
寿命、生命力、身体能力、持ちうる技術力と異能。この差は余りにも大きく、それがそのまま侮りの大きさともなっている。少なくともセキュリティに関しては、間違いなく人界側の方が厳重で突破は難しい。
そして、弐曲輪 虎太郎は知っている。犬や猫でも十分に危険な獣だ。侮っていればあっさりと咽喉笛を噛み切られ、人と魔族の関係も変わりはない。
そんな道理を忠告する優しさも理由もあるはずもない。魔族の説明を聞き流した虎太郎はヨミハラへと繰り出した。
無論、演技を忘れるようなヘマをする筈もなく、地上とは全く異なる倫理と観念が支配するヨミハラをおっかなびっくり進んでいく。
彼の手元には白い紙に書かれた簡単な地図があり、道行く人々を避け、時に肩がぶつかっても卑屈なまでの低姿勢で謝りながら目的の場所に辿り着く。
ヨミハラの目抜き通りの一角ある娼館「アンダーエデン」。
地の底の楽園を冠する娼館であったが、外観そのものは洋館と大差がないにも拘わらず、醸す雰囲気は楽園というよりも地獄のそれだ。
雰囲気も相まって、ピンクのLED電灯で装飾された入り口は何処となく卑猥ですらある。
暫く娼館を見上げていた虎太郎は、意を決した演技をしながらアンダーエデンに足を踏み入れた。
入ってすぐに人間と魔族で編成された幾人かの警備員にボディチェックをされ、そのまま待合室へと通される。
煙草の煙が
先客たちは身形の良い服装の虎太郎を訝しげな表情で眺めたが、すぐに興味を失ったように視線を彷徨わせた。
別段、金持ちがリーアルの娼館に現れるのは珍しくない。ヨミハラでもトップクラスの娼館だ、寧ろ、金持ちが来なければ経営が成り立たない。
待合室の隅で待つ虎太郎は、おどおどとした様子で周囲を見回す。
あからさまに娼館など来たことがないといった彼の反応に、客どころか警備員ですらが不様さを鼻で笑い、警戒心などまるで抱いていない。
(ちゃーんす。ほいっとな)
【貴方の演技は大したものですね。誰も疑っていません】
(基本的に、此処は闇の総本山だから。見えてる
その台詞にアルフレッドは嘆きの呻きを漏らす。この男の言う“やりたい放題”ほど恐ろしいものはないと知っているからだ。
口腔内の通信機でアルフレッドと誰にも聞き取れない冗句を交わしながら、ある仕掛けを施した。
そして、落ち着かない演技を一切中断せずに、外観から想定される間取りと不知火から得た間取りの一致を頭の中で確認する。
忍にとって建物の見取りを確認するなど初歩の初歩。
虎太郎にとって泣きたくなるのは、対魔忍という組織全体がその重要性や必要性を認識しておらず、この技術を有している者が殆ど居らず、現代に合わせて技術を更新していない点だ。
一致の度合いは8割。後は実際に中を動き回って見なければ分からない。そうこうしている内に、思惑通りの人物が現れる。
「お待たせして申し訳ありませんな、ご客人」
「は、はぁ……ええっと、貴方は?」
「これは失礼を。私はリーアル。この娼館の支配人を務めている者です」
「ああ、そうなのですか。これはどうも、ご丁寧に」
(簡単に釣れすぎだな。欲望塗れの連中は分かりやすくていい)
虎太郎が抱いたリーアルの第一印象は、何を食えばこんなに太るんだ、だった。
大柄のでっぷりと肥え太った中年は、欲望そのものが脂肪と化したかのような醜い身体をしている。
表面上は親しげな笑みを浮かべて客を気遣っているようにも見えるが、その実、ギョロついた目は新たなカモの出現に蛇のような滑った光を宿していた。
「では、少しばかりアンダーエデンのシステムについて説明させて頂きますが、よろしいですかな?」
「ええ、お願いします。その、この手の場所に来るのは初めてでして、どうしていいのか……」
「はは、何、誰にとて初めてはありましょう」
わざわざ虎太郎がヨミハラを出て、もう一度潜入し直したのは、この為だ。
ただの客として訪れてはリーアルが接触してくることはなかっただろう。恐らく、専門のスタッフが現れ、店の説明をするだけだ。
だからこそ、良い上客になりそうでいて、いくらでも金を引き出せそうな男を演じているのだ。
「料金と娼婦についての説明は以上になります。そして、こちらが自慢の奴隷娼婦たちのリストです」
「はぁ…………ほ、ほぅ、これはまた」
「どうです?
渡されたリストには無数の奴隷娼婦の写真とプロフィールが載っていた。
火照りで赤く染まった頬と男を誘惑するような笑みを浮かべ、下着と呼ぶには余りにも卑猥で面積の薄いセックスの小道具を身に付けただけの写真が目に飛び込んでくる。
ごくり、と生唾を飲み込む演技に気を良くしたのか、リーアルは自慢の一品を見せびらかす好事家のような笑みを浮かべた。
ゆっくりと指が震える演技を見せながら、ページを一枚一枚捲っていく。
「……ふむ」
「……? 何か?」
「いやなに、不思議に思いましてな。どう見てもお客人は闇と関わりのあるような人物には見えない。このような地の底に来る人種とは思えず……」
「……はあ、そのような、ものでしょうか?」
並みの潜入者なら探るような言葉に僅かな動揺を見せただろうが、虎太郎は全く動揺も変化も見せずに演技を続行する。
そもそもリーアルの人柄については、たった数分の会話でほぼ正確に把握しつつあった。これは探りは探りでも敵かどうかを見極めているのではなく、金になるかどうかの見極めに過ぎない。
客の手前、仮面を被ってはいるものの、闇の住人にはよくある尊大で絶大な自信を持っており、自分が他者の喰い物にされるなど夢にも思っていない。
基本的に魔族にとって人間など玩具に過ぎない。誰かが喰い物にされている内はいいが、その誰かがいなくなれば別の誰かが喰い物になる。その誰かに自分がなることを一切考慮に入れていない、どうしようもない間抜けだ。
「NEVER LANDのしがない中間管理職ですよ」
「…………ほう、それはそれは。しかし、何も社名まで仰らずとも」
「え? あっ! す、すみません。今のは聞かなかったことに……!」
「ご安心を、我々は秘密を守ります」
NEVER LANDは世界最大の子供向け玩具会社にして、世界純利益企業のランキングTOP3に10年以上も居座り続ける、誰でも一度は耳にしたことのある世界的企業。
玩具の作成は勿論のこと、テレビゲーム、アニメの作成、テーマパークの建設と「子供に夢を与えよう」という社訓に即した経営を行っている。
何が恐ろしいと言って、極めて手狭な商売しかしていないにも拘らず、それだけの莫大な利益を生み出していることか。そして、手狭な活動範囲故にか、闇との関わりも一切ない。
想いもよらぬ上客に、リーアルは目の輝きを隠せないでいた。
莫大な利益を生んでいるということは、そこで働く社員も当然、利益に見合うだけの給料を貰っていることになる。
目の前の若造を足掛かりにNEVER LANDの内部にアンダーエデンを売り込ませるのに成功すれば、より自身の懐が潤う。このチャンスを本質が商売人であるリーアルが素通りするはずもない。
「しかし、子供に夢を売る方が、このような場所にとは……」
「そう言われると返す言葉もありませんが、我々も人間です。ガス抜きがなければやっていられませんよ」
「でしょうな。我々のような気侭な稼業に比べ、上では何かと気苦労が絶えんでしょう」
(マジでな! 対魔忍をやってるんだが、敵の方がオレの心中を理解してくれる件について)
【単に話を合わせただけでしょう。それに彼が相手で嬉しいですか……?】
(じぇんじぇん。コイツの仲間になってもオレに面倒を押し付けてくるのは確定的に明らか)
対魔忍だろうが闇の住人だろうが敵対者を舐め腐っているのに変わりはない。有能かどうかは別として、油断も隙もない者が、どのように扱われるのかをよくよく理解しているようだ。
【はぁ、貴方という人は……しかし、よかったのですか。NEVER LANDの名を出して】
(まあ、こういう時の為にだって理解してるだろ?)
NEVER LANDは世界的な企業である。しかし、闇と関わりのない企業とは言え、所詮は一般企業。
闇の住人たちがその気になれば、社員名簿くらいは手に入れられるだろう。虎太郎の行動にしては杜撰で慎重性がないようにも思える。
――しかし、事実は別だ。弐曲輪 虎太郎はNEVER LANDに複数の偽名で社員として登録されている。
虎太郎にとっては全く嬉しくない傍迷惑な事実であるが、NEVER LANDの創設者と彼は顔見知りだ。
対魔忍となる以前、偶然と幸運が積み重なって出会い、今も一方的な好意と興味を持たれている。
その好意と興味は虎太郎を散々辟易とさせており、今すぐにでも手を切りたい相手ではあるものの、使えるものは使う、という信条の元、一般人を装う潜入任務においては思う存分にその関係を利用していた。
つまり、潜入や企業スパイの専門家が本気を出して何年にも及ぶ計画遂行の元、ようやく虎太郎が社員ではない事実に至れるのだ。これ以上の隠れ蓑に使える肩書はあるまい。
「……ああ、この娘たちは」
「お客人もお目が高い。その二人は新人ですが、人気のある奴隷娼婦です」
【酷い、ですね】
(事実を正しく認識してなかったコイツらが悪い。更に言うならこんな作戦にGOサインを出したアサギが諸悪の根源)
【諸悪の根源は淫魔族でしょうに…………何を食べたらそんなドライモンスターになれるんですか?】
(え? 何だろ? 乾燥剤? いや、食べたことないけど)
【少しはドライぶりの反省や他人を慮る心を持って貰いたいものです】
(ハハ、ごめーん。そういうのふうまを抜けた時に一緒に捨ててきたわ)
【生まれついてではなく、自分自身の意志で自分自身の性格を変容させた辺りに戦慄を感じますね】
もし、アルフレッドに顔というものが存在していれば、眉を顰め瞳を伏せただろう。それほどまでの痛ましさを写真から感じ取っていた。
反面、相棒であり二人ともっと近しい虎太郎は変わらず演技を続けている。彼の言い分も尤もではあるが、反応に人間味が薄過ぎる。
リストに載せられた二人の写真は他の奴隷娼婦と同様に卑猥な衣装を身に付け、頬を上気させた淫蕩な表情を浮かべている。
しかし、見る者が見れば気付いただろう。その瞳は重く深く濁り、昏く何処までも沈んでいることに。
「では、このゆきかぜという娘で」
「ああ、申し訳ありませんがお客人、人気のある奴隷娼婦は予約が入っていることが大半でして」
「はあ、そうですか。それは、残念、ですね」
「しかし、お客人のようなお忙しい身の上もあるでしょう。少々割高になりますが、優先権を買って頂ければ……値段は、これほどに」
「へぇ……この程度なら安いかな。構いませんよ、その、ええっと、優先権? ですか? 買わせて頂きます」
提示された金額は、ヨミハラの住人では到底払えないものであったが、一流企業の役職クラスなら十分に払えるレベルの金額だった。
リーアルは虎太郎が十分な
一度でも信じてしまえば、人間はズルズルとそれを引き摺る。無害な小動物にしか見えない男が、その実、死に至る猛毒を備えた毒蛇であるなどリーアルは気付きもしまい。
「では、金額は確かに。もう少々、お待ちを。
金に対する執着を必死に隠し、リーアルは娼館の奥へと消えて行き、暫らくすると案内役が現れた。
虎太郎とアルフレッドはその後ろに着いて行きながら、それぞれの階構造を把握する。
一階は受付と待合室、警備室などのスタッフルーム、何らかのイベント用の大広間。
二階は奴隷娼婦に割り当てられた私室兼プレイルーム。
三階は二階と使用目的は同じであるが、より人気の高い奴隷娼婦の部屋として割り当てられていた。
ゆきかぜと凜子がいるのは三階。それぞれ対極に位置する部屋に当てられているのは逃走を防止するための配慮であったのだろうが、余りに杜撰だ。それほどキメラ微生体の出来に自信があるのだろう。
案内役は職務通り、ゆきかぜの部屋の前にまで案内を終えると部屋の鍵を手渡し、そのまま消えていった。
「アル、監視装置の類は?」
『魔界製、人界製問わずに全て把握済みです。どうやら部屋の内部に監視装置の類もなく、防音壁を使用しているようです。客のプライベートは保たれていますね』
「結構。誰もがお前くらい言われたことだけじゃなくて、こっちのやってほしいこと全部を察してくれればいいのに」
『高望みですね』
虎太郎はアルフレッドの無慈悲な物言いに肩を竦め、鍵を使って部屋の中に脚を踏み入れる。
部屋の中はワンルームマンションのような造りをしており、広さは20平米ほど。
中央に置かれたフルサイズのダブルベッドが部屋の大半を占めており、他にはデスク、クローゼット、化粧台、冷蔵庫などの調度品が置かれている。
キッチン、バス、トイレもあり、如何にも普通の部屋といった趣きなのだが、それはそこまで。
部屋に窓はなく、薄暗い怪しい照明と淫靡な装飾の所為か、生活感は感じ取れず、まるでラブホテルの一室。下品で卑猥なセックスをするだけの小部屋だ。
こんなところで生活してたら頭可笑しくなるわ、と率直な感想を抱くも、ゆきかぜや凜子に対する憐憫や同情が一切ない辺り、無味乾燥な性格ここに極まれりである。
「本日は当店にお越し頂き、まことにありがとうございます」
部屋で出迎えたのは間違いなく奴隷娼婦だった。
床に跪き、三つ指をついて客を出迎える。そもそも三つ指は相手に対する無抵抗を意味している。
淀みなく発せられる商売用の口上もすっかりと板につき、誇り高い対魔忍としての面影は鳴りを潜めていた。
「元対魔忍の奴隷娼婦、ゆきかぜです。本日は――」
「おい、そういうのはいい。相手を見てから言え」
「――――…………え?」
「よう、久し振りだな」
気軽に、それこそ何ら変わりない日常の一言のように、虎太郎は声をかける。
しかし、ゆきかぜは完全に
虎太郎が本人であるか、よく似た別人であるのか。心をへし折ろうとするリーアルの薄汚い策略なのか。もし仮に本人だったとして、下忍でしかない虎太郎がどうやってヨミハラに来たのか。
様々な考えと思いがゆきかぜの中で交錯し、ぐるぐると思考の袋小路へと陥っていく。
「…………虎太、兄?」
「ああ、そうだよ。いい加減だな」
「うそ、うそだよ、こん――――――っ、いやぁっ!」
白いロンググローブとハイヒール、ビキニのような面積も厚みの少ない下着を身に付けた奴隷娼婦の正装を見られまいとゆきかぜは身体を抱き締める。
ある程度、予測はしていたものの虎太郎にとっては面倒でしかない反応に、眉を顰めて頭を掻く。
「あぁ、……やだ、やだやだ。こ、虎太兄に、見ら、れた……虎太兄に、虎太兄に……!」
「おい、ゆきかぜ、少し落ち着け」
「み、見ないでって、言ってるでしょ……!?」
「ファッ!?」
予想外だったのは、錯乱したゆきかぜが手近にあるモノを手当たり次第に投げつけてきたことだ。
虎太郎としては冗談ではない展開である。
防音材で包まれた部屋だ、どう暴れようがそうそう音が漏れないのはいいが、調度品を壊されては間違いなく怪しまれる。
ゆきかぜが粗相としたと知れれば、ゆきかぜがこの娼館に居られるかも分からず、仕事の難度が跳ね上がってしまう。
スタンド、本、手鏡、香水瓶、化粧品、枕。
飛んでくる物体に統一性はなく硬さも大きさも様々だったものの、細心の注意と繊細なキャッチで、どうにか何一つ壊さずに済んだ。
ゆきかぜは投げつけるものがなくなると弾かれたように駆け出し、クローゼットの中に隠れる。見られたくないものを見られた子供そのものの行動だった。
「おい、ゆきかぜ」
「やだっ! 虎太兄には会いたくない! 見られたくない! 何で、何で来たのよ! 帰ってよぉ!」
『随分、錯乱されてますね。身も心も堕ちているのでしょうか』
「なわけあるか。反応が可笑しいわ。ったく、間に合ったはいいが、これはこれで面倒だ」
『虎太郎、一つ質問があるのですが、よろしいですか?』
「何だ、突然。まあいいがな、こりゃ時間が掛かりそうだ」
『では遠慮なく。貴方は、この世に面倒ではない女性がいるとでも?』
「………………………………いねぇな」
『安心しました。なら、いつも通りですね』
「……面倒事と厄介事が消えてなくならねぇかなぁ」
『運命と受け入れて下さい』
「死ぬまで続く苦労か。やってらんね」
虎太郎は大きな溜め息をつきながら、散らかった部屋の中から灰皿を探し出した。
そのままクローゼットに背中を預けるように座り込み、懐から煙草を取り出し、火を付ける。どうやら、時間一杯まで待つつもりらしい。
下手な慰めなど何の意味もなく、また面倒なのだろう。ただゆきかぜが冷静になれるまで時間を潰す構えだ。
何処までも冷徹な態度であったが、彼なりの気遣いだった。
彼は自分の性質をよくよく理解している。他人を理解はしても、他人に共感はしない。そんな男が、どのような慰め言葉を口にしたところで中身のない伽藍堂。決してゆきかぜを癒せはしない。
だから待つ。ゆきかぜが自分から覚悟を決めるまで、いつまでも待つつもりだ。
灰皿に吸殻が山と積まれた頃、クローゼットの扉が少しだけ開いた。
「……虎太兄、どうして、来たの?」
「どうしても何も、お前を助けに来た」
「どう、やって、来たの?」
「それは秘密。お前が知る必要はない」
「私のため……? それとも凜子先輩の、ため……?」
「どっちでもねーよ。単なる仕事だ」
しわがれた声だけで、どれだけ泣き腫らしたか分かる痛ましさを前にしても、虎太郎は揺るがない。
せめてお前の為に来たと言ってやればいいものの、全くの平静を保った態度と声で、助けに来たのはお前が大事なのではなく、熟すべき仕事を熟しに来たと語る。
「酷いよ。……ねぇ、虎太兄、私が今、どんな気持ちか分かる?」
「分かる訳がない。そもそも、オレはこんな馬鹿な真似はしないし、任務は最低限の準備をしてから臨む。今この状況は、他でもないお前自身の甘さとアサギが作り出したものだ。そんなことオレが知るかよ」
「さいってー。傷ついてる子に、優しい言葉も掛けられないの……?」
「欲しいならくれてやるが、
「……うん、そうだよね。虎太兄、だもんね」
普段よりも容赦の無い冷たい声で淡々と応じる虎太郎に、ゆきかぜはクローゼットの中で弱々しい笑みを浮かべた。
虎太郎が、形だけでも優しい言葉をかけるなど、それこそゆきかぜが最後の時か、斬り捨てるその瞬間だけだろう。
ゆきかぜは
普段は周囲との関係に気を遣い、本来の言葉を飲み込んで、嘘こそついていないが本心も語らない。
彼が他人に求めているのは自分にとって有用か否か。どれだけの能力を持っていて、どう使うのが効率がいいかという値踏みだけ。
彼と始めて出会った時、ゆきかぜは幼心にそれが堪らなく怖かった。
他人の力は借りても、自分の心を支えて貰うことを必要としないその本性。
余りにも自分や周囲の人間とは違う、魔族ですら耐えられないであろう、永遠の孤独にすら耐えられる人のまま人から外れてしまった精神性。
人の形こそしていたが、幼いゆきかぜにとって弐曲輪 虎太郎は魔族以上の怪物だった。
正直、今でもゆきかぜは虎太郎を怖れている。けれど、それ以上の感情があった。
あの日、あの時、あの場所で、ただ気付いた。その本性は恐ろしいけれど、付き合い方さえ間違えなければ、この人は決して自分を裏切らないのだ、と。
「……私、虎太兄にもう会えないんだって、ううん、もう会いたくないって思った」
「そうかい。助けに来ちまって悪かったな」
「……茶化さないで。だって、こんな私、虎太兄には絶対に、見られたく、なかったんだもん」
魔界の医療技術によって淫らに改造された身体。
教え込まれた男と見れば誰であれ傅き、跪き、媚びて腰を振る方法。
限界が近づいた萎えた心の何処かで、男を求めているのが改造や洗脳によるものではなく、元々の気質であったのではないかという疑いと恐怖。
ヨミハラで自身の身に起こり、受け、考えた事実を最も知られたくなかったのが、虎太郎だった。
「なんで虎太兄に知られたくなかったか、分かる?」
「……………………それ、オレの口から言わないとダメか?」
「うん、聞かせて……?」
「はああ………………お前が、オレに惚れてるからか?」
「……やっぱり、分かってたんだ。うん、好きだよ、虎太兄。大好き」
「……お前は馬鹿だ。大馬鹿だ」
「ふふ、知ってる」
本当に、どうしてこうなったと言わんばかりの口調で、虎太郎は察していた事実を口にした。
水城 ゆきかぜは弐曲輪 虎太郎に恋をしている。
他人に共感こそしないものの、理解が速い彼がそんな幼い恋心に気付いていないはずがない。
黙っていたのは自分がゆきかぜに相応しくないと思った訳でも、ゆきかぜを自分の境遇に巻き込みたくなかったわけでもない。
恋心とは厄介だ。策や計画を簡単に狂わせ、破綻させる。虎太郎はその油断も隙もない性格から、始めから制御を受け付けない感情を利用することを嫌っていた。
そもそも恋心を利用するのはメリットよりもデメリットの方が大きい。ゆきかぜの恋心を利用して得る利益と周囲から買うであろう反感では、釣り合いが取れていない。
利己と利他。メリットとデメリット。利益と不利益。
その全てを計算した上で導き出した答えが、ゆきかぜの恋心を無視するという選択だった。
虎太郎にとって望ましかったのは、無視している内にゆきかぜが諦め、別の誰かに惚れること。それがお互いにとって最良の結果だった。
「…………虎太兄。見てよ、私の身体、こんなにいやらしくなっちゃったよ?」
クローゼットの中から出てきたゆきかぜは、泣き腫らして赤くなった目元をそのままに改造された肉体を晒す。
「いやらしい? 何処が? 不知火さんと違ってナイチチ体型じゃねぇか」
「っ…………、虎太兄に貰って欲しかった、初めて、キスも処女も、お尻も全部全部踏み躙られちゃった」
「ああ、そりゃ残念。だが、初恋なんてそんなもんだ。人生、思い通りになる方が少ねぇよ」
「もう、私、女の子でも人間でもない。奴隷娼婦だよ? 男の欲望を満たすだけの性処理便器、メス豚」
「…………おい、ゆきかぜ」
「手でも、口でも、オマンコでも、お尻でもするの上手になったよ? ここのお客ね、みんなみんな褒めるの。最高のメス豚だって」
何の光も宿していない虚ろな瞳で、何の感情も籠らない声で、それこそ人形のように今まで降りかかってきた現実を語り続ける。
ゆきかぜは自棄になっている。最も知られたくなかった人間に、最も知られたくなかった事実を語るなど自棄以外の何物でもない。
「おい、時間の無駄だ。止めろ、ゆきかぜ」
それでもなお冷徹に、虎太郎は一切の情なく言葉を遮る。
「お前が何をされていようが、何になろうが、仕事は仕事だ。オレのやることは何一つ変わらない」
「………………うん」
「奴隷娼婦だろうが、性処理便器だろうが、メス豚だろうが、関係ないんだよオレには」
「…………うん」
「オレにとってお前はお前だ。水城 ゆきかぜに他ならない。いいか?」
「……うん」
「その上で聞いてやる。同情が欲しいんだか、諦めて欲しいんだか知らんし、聞いたところでやることは変わらんがな」
「うん」
「――――お前は、オレにどうして欲しい?」
その何一つ変わらない、己の為すべきことを為すと告げる言葉に、ゆきかぜの心は決壊する。
「…………虎太、兄、助け、て」
「当たり前だ、馬鹿。任せておけ」
「――――う、ぐ、うぅぅ、うあぁぁあああぁあ!!」
大粒の涙を流し、奴隷娼婦でもなく、対魔忍でもなく、ただ一人の少女としてゆきかぜは大粒の涙を流す。
「こわ、かった。怖かったよぉ、私を犯す男も! 嫌なのに、どんどん気持ちよくなっちゃう自分も!」
「そうか」
「悔しかったよぉ! 対魔忍なのに、何も出来なくて! あんな下衆どもに、好きでもない奴らに、あんな風にされるなんて!」
「そうかい」
「もう、何度もダメだって、思ったんだから! 頭、おかしくなっちゃって、何されても気持ち悪いのに気持ち良くて! もう、自分が何なのか分からなくなっちゃってたんだから!」
「そりゃあ、大変だったな」
「どうして、もっと早くきてくれなかったのよ?! 何度も助けてって思ったのに、なんで助けに来てくれなかったの!」
「悪かったよ。オレが悪かった」
虎太郎の身体に抱き着き、ゆきかぜは恐怖も、屈辱も、理不尽も全てを吐き出す。
年相応の反応を見せるゆきかぜを、虎太郎は拒むことなく受け入れる。
――そして、それが己に残った最後の情だとでも言うように、ゆきかぜが泣き止むまで、武骨な手で小さな頭を撫で続けるのだった。
―――――
――――
―――
――
―
「落ち着いたか?」
「うん、ありがとね。それから、ごめんなさい。私、めちゃくちゃ言ってた」
「構わんよ。実際、オレがもう少しお前に興味を持ってりゃ、止められたのも事実だ」
ゆきかぜが泣き止むと虎太郎はベッドに腰掛け、股を開いてその間にゆきかぜを座らせる。
昔はゆきかぜの面倒を見る時、こうしてよく不知火や父親の帰りを待った。
遊びに付き合うのは面倒だったし、何よりもこうするとゆきかぜは静かになって、何時もの快活さは吹き飛んで借りてきた猫のように大人しくなったからだ。無論、それが恋心によるものだとは知っていたが。
「ねぇ、虎太兄はさ、自分がどんな人だって思う?」
「あぁ……?」
突然かつ訳の分からない質問に、さしもの虎太郎も頓狂な声を上げた。
ゆきかぜをどう思っているのか、と聞いてくるのなら分かる。馬鹿馬鹿しくも愛らしい乙女心と片付けられただろう。
だが、自分が自分をどう思っていると聞かれれば、その意図を判断しかねる。そんなことを聞いてくる理由が何処にあると言うのか。
「冷酷、冷徹、冷血、無慈悲、辛うじて人でなし。他人も自分も能力と性能中心で考えてる効率厨。人類史上類を見ないドライモンスター」
「あはは。流石、虎太兄。凄く客観的」
「なんだぁ、お前。オレを自分で罵らせたくて、こんなこと聞いてんのか?」
「ううん、違うよ。ただ、私の考えとはちょっと違うなって思っただけ」
「どういう意味だ、そりゃ?」
我ながら的確な評価だと思っていたのだろう。虎太郎は更に疑問を深めた。
「虎太兄は、鏡みたいな人。恩には恩で、恨みには恨みで、キッチリ返してくれる人」
「はは、よく分かってる。だけど、残念ながら――――」
「恩とか恨みとか全部ひっくるめて考えた上で、それが一番効率が良くて、長生きできる方法なんでしょ? 中立中庸、清濁併せ飲むバランス重視のリアリスト。それくらいのこと、知ってるんだから」
「………………」
虎太郎も閉口せざるを得ない。ゆきかぜの台詞はどこまでも真を突いていたからだ。
彼にとって腹立たしいのは、自分を好きだ、愛しているという女に限って、ここまで真に迫ってくるところか。
「だから――――大好きだよ、虎太兄。水城 ゆきかぜは弐曲輪 虎太郎を骨の髄まで愛しています」
「……オレはお前の事、愛してないけどな」
「いいよ、それでも。虎太兄が愛してくれない分、私が愛しちゃうんだから」
「その年で、その台詞は重いぞ、お前」
「ドン引きしてる、本当に酷いなぁ。……あ、でも勘違いしないでね? 虎太兄の都合を考えない真似だけはしないからね?」
「はいはい、そりゃどうも」
はあ、と大きな溜め息をついて虎太郎は己の完全な敗北を認めた。
かつてアミダハラにおいて虎太郎は八津 九郎を筆頭とした対魔忍衆、相棒となったアルフレッド、半人半魔の魔女とその相棒と共に地獄を潜り抜けた。
出会いと別れ、痛みと絶望を味わいながら、最終的に生き残った彼は、ある誓いを立てる。
――相手によって受けたものは必ず返す。それが恩であれ、恨みであれ、借りであれ、例外はない。
己自身は誰一人信じておらずとも、自らを信じた者を決して裏切らない。その背景にあったのが、自ら立てた誓いだ。
彼のような人間が、何故そのような誓いを立てたのか。理由を知る者は、その場に居合わせた九郎とアルフレッドのみである。
虎太郎は我ながら厄介な誓いを立てたものだと呆れ返る。
それが、今の自分をこんな立場に追いやっている原因であり――同時に生き残ってきた要因であると理解している以上、破却する真似も出来ないのだから。
そして、振り返ってにんまりと満面の笑みを浮かべるゆきかぜに辟易とする。
此処に一組の愛し合う男女がいるとしよう。では、相手をより支配していると言えるのはどちらであろう。
経済的に見れば、男が支配しているとも言える。家庭を支えるという点で見れば、女が支配しているとも言えよう。
他にも様々な要因が存在するが、もし虎太郎にその問いを投げかければ、こう返ってくる。
――そんなもの“より深く愛している”方に決まっている。全てに共通する結論だ。全く以て馬鹿馬鹿しい。その程度のことで、世界がひっくり返る辺り、特にな。
その言に従うのならば、虎太郎にとっては厄介な現実である。
他人を愛することをしない彼は、女に愛されれば否応なしに支配されなければならず、支配を疎んじたとしても立てた誓い故に振り解けないのだから。
「それに虎太兄だって、ずうっと一人でいるのに耐えられることと、寂しくないことは別でしょ?」
「まあ、そうだなぁ。一人じゃない方がいいな。出来ることが段違いに増えるし」
「もう、そうやって能力とか性能ばっかり。いいけど、虎太兄が全部面倒になって逃げても、自分のペースで追いかけて、捕まえちゃうんだから」
「だから、そういう発言をするな。重いんだよ。それに対魔忍はどうする気だ、対魔忍は」
「愛は、重いんですぅー。うーん、対魔忍は虎太兄捕まえちゃえば、何のかんので続けてくれそうだから、心配なーし」
「大した女だよ、お前は」
やれやれだ、ともう一度溜め息をつく。本気で憂鬱だったが、敗北を認めた時点で諦めはついている。ただ――
――対魔忍の女って奴は、どうしてこうオレの扱い方を心得てる奴ばかりなのかねぇ。
頭に浮かぶ幾人かの女の顔に、虎太郎は呆れとも憂いとも取れない感想を一人心の中でごちるのであった。