マリア様がみてる――お姉さまとの誰にも言えない秘密 作:くーたん局長
マリア様の庭に集う乙女たちが、今日も天使のような無垢な笑顔で背の高い門をくぐり抜けていく。けがれを知らない心身を包むのは深い色の制服。スカートのプリーツは乱さないように、白いセーターカラーはひるがえさないように、ゆっくりと歩くのがここでのたしなみ。私立リリアン女学園。ここは乙女の園――――。
リリアン女学園に秋が来た。学園の銀杏並木は黄金色に染まり、そよ風に吹かれて一枚、また一枚と扇形の葉を生徒たちの夏の想い出のように散らしていく。散った葉が道に積もって、学園へと続く、美しい黄金色の絨毯を作る。しかし少し可笑しくなる。なぜなら黄金色の絨毯にはホワイトチョコボールのような銀杏の実が交じっているから。祥子お姉さまは銀杏がお嫌いだから、少し憂鬱そうにうつむきつつ銀杏並木の道をお通りになる。それにひきかえ志摩子さんは、銀杏並木の根元に嬉々としてうずくまり、銀杏の実を見つけ摘みあげて眺めては、優しい微笑をお浮かべになる。しかしお二方とも銀杏の実への反応こそ異なっていても、どちらも美しい反応であることに変わりはない。祥子お姉さまの憂鬱は、そのまま秋という季節の、植物が枯れ、温かさはなくなっていき、虫たちが小さな骸を残して死んでいくというような、憂鬱そのものの象徴であるのだ。同じように、志摩子さんの歓喜は、美しい紅葉や、過ごしやすい気候によりもたらされる事業への意欲、豊かな実りによりもたらされるたくさんの食物というような、秋の歓喜の象徴であるのだ。
山百合会のみなさま一人一人が、季節を司る神の代理人となり、リリアン女学園の季節の風物を作っていくのである。私はこんなに美しい人たちのお側で暮らせることに無上の喜びを覚えるとともに、はたして私自らは山百合会に、そして祥子お姉さまにとって、ふさわしい女性になれているのかと、そんな不安に苛まれる……秋だった……
そんなある日。山百合会のお仕事が終わってみなさまがお帰りになろうというとき、祥子お姉さまが私だけを呼び止めて、お残しになった。私は緊張して、手をぎゅっと握りしめながら、最近の生活を振り返ったが、祥子お姉さまの叱責を受けるような粗相をした覚えはない。しかしわざわざ私をお残しになったということは、私に何か落ち度があったとしか考えられない。
「ちょっと、そこで座ってお待ちになって」と私に言い残されて、どこかに行かれてから、どのくらいの時間が経ったのだろうか。緊張していたせいもあるのか、とても長い時間待っていたような気がした。既に夕陽が沈みかけておおかた暗い紫がかった青色に染まっていながら、夕陽のまわりだけが眩しい赤色に染まって、その近くに青白い弓張月がぼんやりと姿を現している空だったのが、夕陽はもはや全く沈み、塗りつぶしたような暗黒にのみこまれた夜になった。川底の砂のような星星が現れ、弓張月は白い色を濃くはっきりさせて夜の主人であることを高らかに告げる。静まりかえった校舎には虫の鳴く声、梟の叫びがよく響いた。私はお姉さまはいつお帰りになるのだろうと思いつつ、ただ憑かれたように、窓枠に寄りかかって冷え切った夜風を浴びながら月を見つめていたのだった。
私は扉のゆっくりと開く音を聞いた。私は振り返る。そこには祥子お姉さまがいらっしゃった。なめらかに肩に垂れる美しい長い髪は先ほどまで私が見ていた星星を撚りあわせたものだと思われた。私の全てを見抜くような、透徹した涼しげで厳しい眼。それはマリア様が備えられていた眼と同じもの。人類への猛火のような厳しさと……ほとばしる泉のような慈愛……聖母の慈愛……
祥子お姉さまの長い髪は開け放たれた窓から吹きこむ夜風によって吹きあげられ、美しくたなびく。私はついお姉さまに見惚れてしまう。しかし祥子お姉さまは控えめに微笑みなさると「窓、閉めさせていただくわ」とおっしゃりつつ、窓に近づかれ、窓を音を立てて閉めなさった。私は少し残念に思った。なぜなら私は、夜風に吹かれる祥子お姉さまをもう少しだけでも見つめて心にとどめたかったからだ。祥子お姉さまの美しい姿はその一つ一つが私にとって何にも代えがたい美しい想い出であり、青い炎を閉じこめたサファイアであり、生きる支えなのである。
私は祥子お姉さまを失礼なほどに見つめていたことに気づいて、おそまきながら慌てて祥子お姉さまから眼をそらした。祥子お姉さまはそんな私を見て、百面相が出ていたのかもしれない、ふふふっとお手を口元に添えて上品にお笑いになった。私は赤面した。そのときテーブルの上に乗ったものが眼に入った。
祥子お姉さまが持ってきたものにちがいない。透明な水銀のような液体が詰まった、ガラスの小さな小瓶である。祥子お姉さまは私の小瓶の見つめる視線に気づかれたのか、その小瓶をポケットにおしまいになり私のほうをちらりとご覧になってから「ごめんなさいね。長いこと待たせてしまって」と祥子お姉さまは私に小さな声で謝られた。私は祥子お姉さまを待つことが苦痛であったことなど今まで一度だってないので祥子お姉さまがなぜ謝られたのか一瞬理解するのに戸惑った。そのためお姉さまは私を怪訝そうに観察された。「いえ、全然平気です!」と私が祥子お姉さまの不安を解こうと慌ててお返事すると、祥子お姉さまは不愉快そうに眉をひそめて「祐巳、全然という言葉のあとに肯定の言葉を使うのは間違っていてよ。直しなさい」と夜の校庭のどこかを歩きまわっているのだろうランチが逃げ去るだろうほどの大きな声で私をきつくお叱りになった。私は祥子お姉さまを不愉快な気持ちにしてしまったと深く反省しつつ「はい……」と頷いた。祥子お姉さまは椅子にお座りになり、私にも席に着くようにお勧めになった。私はお言葉に甘え、お姉さまの向かいの席に座った。私はなぜこんな遅い時刻までお姉さまと二人きりで残されたのかまだわからなかった。繰り返しになるが、叱られるような覚えはない。また二人きりで話し合うような山百合会の行事についての計画もまた、ない。お姉さまが何かお話しくださるだろうと思っていたのに、お姉さまは先ほどからずっと俯いていて何もおっしゃらない。私は席から立ち上がり「紅茶を淹れますね」と確認した。祥子お姉さまは珍しくも立ち上がった私の右手首をおつかみになって「いいわ、行かなくて。祐巳はここに座っていなさい」と強い語気でおっしゃり、私をなぜか睨みつけなさった。私はお姉さまのために紅茶を淹れたかったが、お姉さまの命令に逆らいたくなかったので、おとなしく座った。「お姉さま……」と理由を問おうとした私の言葉をさえぎって、祥子お姉さまは「今日は紅茶は私が淹れます。ですから、あなたはそこでおとなしくお座りになって」と微笑まれた。だが私は納得しかねた。妹が姉のために紅茶を淹れるのは義務であるが、姉が妹のために紅茶を淹れるなど聞いたことがない。だいたいお姉さまに紅茶を淹れさせ、自分が傲慢にも座っているなんて許せない。そもそもなぜお姉さまは今日にかぎって自ら紅茶を淹れなさるなどとおっしゃられたのか。私はそれがとても気になったので失礼は承知で「お姉さま、どうして紅茶を……」と尋ねた。しかし祥子お姉さまは人差し指を私の唇に押しつけ「お黙りなさいね」とおっしゃられたので、それ以上私には何も言えなかった。お姉さまは席をお立ちになり、私に背を向けてお湯を沸かしになった。電気を点けてからお湯が沸くまでにも時間がかかるのに、お姉さまはずっとそのまま電気ポットの前に何も言わずにお立ちになっているので、私はそっと立ち上がり、祥子お姉さまの後ろに近づき「お姉さま……?」と声をかけたところ、祥子お姉さまは急に何かに気づかれたように私を振り返ると、私を睨み「黙って座ってなさいと言ったじゃない」とため息をつき、私の手を引っ張り私をもとの席のところまで連れ戻し、私をまた座らせた。「いいこと? 席を立たず、そのままじっと私が紅茶を淹れるのを待っているの。立ってはだめなの。祐巳にはそんな簡単なこともできないのかしら」私は心底、祥子お姉さまのおっしゃることさえろくに守れない自分を悔いた。今度は何か気になることがあってもお姉さまの許可が与えられないかぎりは決して席を立たず、お姉さまのご言いつけどおりにじっと座って待つことを深く心に決めた。電気ポットのお湯は沸いたらしかった。ティーポットにお湯を移しかえるときに、白い湯気がたったのが見えた。茶葉の成分が抽出されるのにもまた、時間がかかるのに、祥子お姉さまはティーポットの前に立たれたままお待ちになる。しかし今度は言いつけを守り、席を立ってお姉さまの様子を後ろから覗くようなことはしない。待つうちに茶葉の成分が抽出された、ちょうどよい頃合いになった。だがここでもお姉さまは妙な挙動をなさった。お姉さまはロサ・キネーシスなど薔薇さまたちのために紅茶を淹れなさるときはポットをテーブルまで持ってこられ、テーブルの上でカップに熱い紅茶を「このくらいでよろしいでしょうか?」といちいち量の適正を確認されながら、お注ぎになる。しかし今日は電気ポットの脇で紅茶をお注ぎになっているようだ。私が、祥子お姉さまのスールなってからもう長いが、お姉さまがそのような淹れ方をするのは初めてであるように思う。それが私には引っかかった。次にお姉さまはポケットから何やら取り出され、すぐにポケットに戻したように見えた。お姉さまが取り出したポケットは、あの水銀のような謎の液体の入った小瓶をお姉さまがしまわれたポケットと同じであったように思う。もしかするとお姉さまはあの得体のしれない液体を紅茶のなかに混入させたのかもしれない。なぜそのようなことをする必要があるのか、またはその液体の正体は何なのか、それは私には全くわからなかった。ただ私はお姉さまが私に害のあるものを密かに与えたりなどということは決してないと確信しつつも、お姉さまが私に何か薬品のようなものを密かに与えようとしていることはほぼ確信したし、何を与えられるのだろうという不安はあった。「はい。お紅茶」祥子お姉さまが私の前に紅茶のなみなみと入ったカップを置かれた。私は「ありがとうございます」と微笑んだが、やはり躊躇した。なぜなら紅茶は私のぶんしかなかったからだ。「お姉さまはお飲みにならないのですか?」と聞いてみる。するとお姉さまは「ええ」と頷く。お姉さまは私を観察するように、たびたびカップと私の顔を交互に真剣な表情で見ている。私は飲むのが怖かったが、せっかくお姉さまが入れてくださったのだし、何か入れられたというのはもしかすると私の勘違いであるかもしれず、もし何か入っているとしても私を益するものであるに違いなく、害するものであるはずがなかった。なかなか飲まない私に祥子お姉さまは「いらないのかしら?」と少し低い怒っているような声でおっしゃった。私は意を決した。おかしなものが入っていようと、いまいとどうでもよい。私はカップを手に取り、口元に近づけた。ただその前に一応聞いておいた。「祥子お姉さま……このなかに何かお入れになりましたか?」と。祥子お姉さまは不意をつかれたように眼を見開き「何か入れる?」とおっしゃり、続けて「何も変なものなど入れていませんよ」と少し怒っているような語気でおっしゃる。私は失礼なことを言ったと、反省した。やはり何もおかしなものなど入っていなかったのだ。お姉さまは何も紅茶に入れたりしなかったのだ。私は紅茶を一口、一口と飲んだ。金属のような妙な味がしたが、それは私の舌のほうに問題があるか、紅茶のなかに何か入っていると疑うためにそんな味がするように感じるだけなのだと思った。紅茶を飲み干す私にお姉さまは異様な興味を示し、私のことを眼を輝かせて凝視なさった。何にせよ、お姉さまが私のことを見つめてくれるほど嬉しいことは他になく、私は胸が高鳴り、私の頬が薄い桃色に染まったのだろうと自分でもわかるほど頬に内部からわきあがる熱さを感じた。飲み干したカップの底を私はついお姉さまに見せ、カップが空になったことを示した。ひとにそのような所作をするのはどう考えても無礼だから本来すべきではなかったのだが、むしょうにそうしたかったし、お姉さまもそれを期待しているような気がしていたのだ。普段そのような無礼な所作をお叱りになる祥子お姉さまも、テーブルに肘をついて満足そうに微笑まれた。私は誇らしかった。私は紅茶のなかに何か入っていることを実は期待していた。私とお姉さまはしばらく無言で見つめあったが、その沈黙を破り、お姉さまはこうおっしゃった。
「ねえ祐巳。……紅茶のなかに……何を入れたとお思いになる?」