目を開いた先は古ぼけた表紙と金糸で編まれた様なタイトルだった。
表題、タイトル。頭の中で文字と意味を縫い合わせて改めて形を作る。眠っていても人間は起きているらしい。意識的には眠っているのだけど、情報的には眠っていない……らしい。
眠っていた事も眠っている事もわからない、けれど結果は得ているのだから、きっとそうなのだろう。どちらでもいい事だけれど。
息を深く吸い込む。
止めて、細く吐き出す。
沢山の空気を肺に押し込めて、肺に留めて、排出する。
慣れてしまう程繰り返した初期暗示の工程を自ら繰り返す。昔から知っている事で役に立っているといえば、この程度だろう。
汚れる事に慣れなかった自分を無理やり納得させてしまうには、この方法が容易かった。それこそ、まるで息をするように出来るようになっていたのは両手では収まらない程の回数を重ねてからだけど。
泣き叫ぶことを止め、白濁に汚れる事を慣れ、痛みを享受した。自己催眠で棄てた物が何かを、僕は思い出すことが出来ない。もしかしたら何も捨てていないのかもしれないし、捨てる必要すらなかったのかもしれない。
ゆっくりと空気を吸い込む。
血の流れを想像して、少しだけ体を意識する。
胸から広がった血が、右手に。
胸から流れた血が、左足に。
胸から伸びた血が、左手に。
胸から送られた血が、右足に。
それらはゆっくりと、確かに僕の体を廻り、そしてまた胸へと還ってくる。
息を吐き出した。
当たり前だった世界は当たり前じゃない世界に塗りつぶされて、現実的な本は捨てられて非現実的な本が僕の手で開かれているのだ。
それだけ。たった、それだけの話。
「あぁ、レン。起きたんだね」
「……おはよう、お燐」
「おはよう、レン」
猫は僕から降りて、床で伸びをする。僕はそれを見てから、床に落ちてしまっている毛布を見つけた。
僕の座っていた椅子の後ろに落ちている。眠ってしまった時には無かったソレは眠った後に現れたのだろう。姿だけではなくて、毛布まで突然出現させてしまう瀟洒な女性を思い浮かべてしまう。きっと合っている筈だ。
心の中で感謝を述べてから、僕はまた大きく息をした。霞んでいた思考を整頓して、暗示の世界から戻ってくる。
そんな僕にお燐は訝しげな視線を向けたが、僕は何も言わずに本を開いた。
「ねぇ、レン」
「……ん」
「お腹とか、空かないのかい?」
「……ん」
「……ほら、サンドウィッチだよ」
「……ん」
「ほら、口を開ける」
「…………お燐」
「なんだい? 邪魔、とでも言うのかい?」
「……」
「ハぁ、いいかい? 何か食べないと倒れるよ? 本の虫ですら本を食べるってのに」
「……いらない」
「ダメだって言ってるでしょうが」
この薄暗い図書館でどれ程の時間が経過しているかは知らないけれど、精々一日と半日だ。別に死ぬわけでもないし、死んだところで、という話なのだ。本が読みたい。
そんな僕の我侭をお燐は察したのか、赤い髪を乱暴に掻いて溜め息を吐き捨てた。
「レン、食べないって言うならあたいが食べちまうよ? あぁ、こんな美味しそうなサンドウィッチを食べれるなんて他にはないだろうねぇ」
「……そう」
興味が湧かない。それこそ食べる事に関してあまり執着が無いのだ。幽香のところに居た時は食べさせられていたからであり、守矢神社では一緒の食卓を囲っていたから。昔なら食べない事もあったのだから、いつの間にかソレが普通になっていた。それだけ。
「…………うーん……どうしたもんかねぇ」
「……」
「こんな所にずっと居たらあのもやしみたいになっちまうよ?」
「もやし?」
お燐の指差す方向には薄らと魔法で光っているパチュリー・ノーレッジが浮いている。
「……もやしじゃない」
「いんや、あれはもやしと言っても過言ではないね」
パチュリー・ノーレッジは、人や魔法使いの領分を越えて『もやし』と成ったのか。それは後退したのだろうか、進行したのだろうか。どちらでもいい。
「……もやし」
「あれ? ん? なんだろう、決定的に何かを勘違いしてる気がする」
「……光を当てたら、成長」
幽香の所に居た時に見た植物図鑑では大きく成長したもやしの姿が模写されていた。食卓に並ぶそれとは大きく違った姿で。
パチュリー・ノーレッジの頭から茎が伸び、そして大きな葉を付けるのだろうか。
「あぁ、なんでこんな目を輝かせてるんだろうか……いつもは半分程眠ってるんじゃないかと思うぐらいに無表情で無感情なのに」
「……」
「あー、違う違う。レンの思ってる様な事にはならないよ、たぶん。いや、確実に」
「……」
「
「……うん」
「兎に角、話が変わってしまった訳だよ。外に出したい訳だ。あたいも日向ぼっこがしたい」
「…………本が」
「レンが動かないとあたいも動けないんだけどなー、日向ぼっこしたいなー」
「……」
僕は少しだけ眉を寄せて、溜め息を吐いた。同時にお燐の口から『よし』という声が聞こえた。
僕は立ち上がり、猫になったお燐を抱きしめて図書館の出口を目指す。動かない僕と違い、図書館内は移動し尽くす程歩いたであろうお燐がいるので迷うことはない。
「……」
「……あー、その、悪いね。メイド長」
「いいのよ。客人を迷わせるメイドはいないでしょ? そういう事」
図書館で迷わなかった僕らは当然の様に図書館から出て、そして館内で迷った。しっかりと窓を確認しながら移動したというのに、全く出口は無かった。パチュリー・ノーレッジがこの館に何かしているのだろうか。
そんな僕らの背後に当然の様に現れた十六夜咲夜は溜め息混じりに僕らを外へと案内した。さもソレが当然の様に。
「あぁ、あと、何かサンドウィッチみたいな軽食を頼んでもいいかい?」
「タマネギなら持ってきてあげるわ」
「この子が食べるんだけど?」
「では、しっかりとした物を作るとしましょう。他にご注文は?」
「紅茶を頼むよ。砂糖は一つだけ入れてもいいけれど、皮肉は入れないでおくれ」
お燐の言葉にニッコリと笑んだだけの十六夜咲夜はいつの間にか消えて、お燐の溜め息がよく聞こえた。
僕はその場に座って空を見上げる。綺麗に整頓された芝が掌に当たり心地いい。埃っぽい図書館と違い、芝の匂いが鼻腔をくすぐる。
仄暗い図書館とは違い、太陽が眩しい。尤も、図書館も僕を照らし続けていたアレがあったので、眩しくないと言えば嘘になるのだけど。
カチャリと陶器が揺れた音が鳴り、隣を見れば銀の盆に乗せられた、サンドウィッチ?と湯気を上げる紅茶がそこには置かれていた。相変わらず、いつの間にか、である。
「食べなよ、絶対」
抱きしめているお燐の声に従う。従わなければ無理やり押し込められそうなのだ。
サンドウィッチを掴んで、小さく食べる。美味しい……のだろうか。味覚が消えている訳ではないけれど、わからない。けれど、美味しいのだろう。目の前で物欲しそうに見ているニンゲンがいるのだから、きっとそうに違いない。
「…………」
「ジー……」
「…………」
「ジィ……」
見られながら、というどこか慣れてしまった事をされながら一つ目を食べ終わる。しっかりと飲み込んだサンドウィッチを目の前のニンゲンは確認したのか、その視線は既に皿の上に置かれたサンドウィッチに向いている。
「あー、えっと、そう、
「ええ、私は確かに紅美鈴です」
「いや、違う自己紹介を求めてる訳じゃないんだよ。というか、門番じゃなかったのかい?」
「休憩時間です」
「門番の休憩って……つまり、あれかい? 鍵のしてない扉だね」
「門番がいないのだから、門を通る事はないでしょう。門番が倒されたら、門が開くモノです」
「そういう物なのかねぇ」
「伝統ですよ。それこそ、ソコにあるサンドウィッチみたいなモノです」
そんな物なのだろうか、門番とは。いなければ、門は素通りしてしまうのではないだろうか。だって、門番がいないのだから。いや、考えるだけ意味はないだろう。
「で、そんな門のない門番さんは何を?」
「サンドウィッチを恵んでください!!」
額を思いっきり地面に付けて彼女は言った。それこそ、寄越せでも、くれでもなくて、恵んでくださいと。思わず目を白黒させてしまった。
四回程瞬きをして、僕はサンドウィッチに手を伸ばして、彼女に渡した。
「……どうぞ」
「お、おぉ……もしや、神様ではないのでしょうか」
そんな事を言いながら、僕がゆっくりと咀嚼していたサンドウィッチを三口程で口の中へ消し去った。まさに、ペロリと平らげた、とでも言うのだろうか。
お燐は呆れた様に紅美鈴に溜め息を吐いた。そして僕の方を向いてもう一度。
「いやぁ、助かりましたよ。ありがとうございます」
「というか、どうしてそんなにお腹が空いてるんだい?」
「昨日の朝から何も食べて無くて」
「……そう」
「あー、レン。同情してるんだろうけど、そんな事一切しなくていいからね」
「それは酷くないですか?」
「門番の仕事を全うしない門番が何を言ってるんだい。あたい達が来た時も壁に凭れて眠ってたんだろう?」
「ぐっ……どうしてそれを」
図星を突かれた様に狼狽した紅美鈴を見ながらお燐は溜め息を吐いた。
「単なる“かま”かけだよ。かまけたのは門番のようだけど」
「ま、まぁ、睡眠も大事なのですよ。いやぁ、睡眠大好きです」
「そう。なら永遠に眠っても構わないのよ?」
突然聞こえた声と紅美鈴の頭に刺さった銀色の刃先。タラリと傷口から赤い血を流し、後ろに倒れた紅美鈴。
ナイフを投げた張本人であり、声の主は溜め息を吐き出している。
「まったく、客人の軽食を奪うとは何事です。アナタには紅魔館の住人としての矜持は無いのですか?」
十六夜咲夜は呆れ返ったように、そして慣れたようにそう言った。ナイフが頭に刺さっている紅美鈴に向かって。
ゾワリとした。こうして人が間近で死ぬのは二度目である。だからこそ、何処か怖くなってしまった。しまったのだけれど。
「あのぉ、毎回思うのですが、態々時間を止めてまで私にナイフを刺すその心は?」
「避けるでしょ? アナタ」
「そりゃぁ、ナイフ程度で死ぬ気はないですけど、痛いのは嫌ですし」
ムクリと紅美鈴が起き上がる。刺さったナイフはそのままで頬を掻いて、何事も無かったかの様に、起き上がった。
起き上がって、僕の方を見て、バツの悪そうな顔をしてから。ナイフを抜いた。そこからは溢れんばかりの血が……出ない。
「ふふふ、驚きましたか? こういう時の為に手品は練習しているのですよ!」
「……よかった。よかった」
「おっと、」
思わず、安堵してしまった。タネも仕掛けもある手品なのだ。力の抜けた体が紅美鈴の手によって支えられる。
「まぁ、妖怪ですから。この程度では死にませんよ」
「事実、私よりも年上なのよ、コレ」
「あのぉ、咲夜さん? 一応、年上なんですから、コレとかソレとか、物扱いっていうのもどうかと思うんですけど?」
「年だけ重ねたんでしょ。付喪神にはいつなるのかしら?」
そういってクスクスと笑う十六夜咲夜とどこか情けなくクシャリと笑っている紅美鈴。どうやらこう言う対応には慣れているらしい。
「ねぇ、メイド長。そろそろ図書館へ戻りたんだけど」
「そうね、コチラとしてもソレがいいと思うわ」
「?」
どうしてか一人と一匹だけがわかる会話をしていて、僕は首を傾げてしまい、僕を支えていた紅美鈴は苦笑している。
支えられたまま、僕は立ち上がり、紅美鈴の代わりにお燐に支えられる。腰が抜けた訳でないので、歩けるというのに。
「さぁ、戻ろうか」
「ええ、そうしましょう。それこそ気が抜けない内にね」
「?」
やはりわからない会話をされて、十六夜咲夜の背中を見て、お燐に連れられた僕は強制的に足を動かされて、後ろを振り向いて紅美鈴に手を振った。
紅美鈴は少しだけキョトンとした顔をして、僕に手を振り返してくれた。
・紫パチェミン
実際重くて、強い。
尤も、全て魔法の力によるものです。決して体重が重いとか、物理攻撃力が高いとか、そういうのじゃない。
・ホンミリン
ギャグキャラと言う名の真面目キャラ。お燐に引き続き、この世界での良心。