「ねぇ、妖怪さん。 アナタハだァレ?」
唇が乾いていた。雨が降っているにも構わずに、潤いを求めるように口が乾き、舌が上顎に張り付いた。
「な、何を言っているの?」
震えた声が幽香の口から漏れた。雨が屋根を叩き。雨が地面を撃ち。雨がレンから垂れた。濡れた髪からポタポタと雫を落として、顔に水を流し、瞳に雨を溜めて垂らした。
無表情であるレンが首を傾げる。カクンと、まるで首の関節が緩い人形の様に、人形らしくレンは首を傾げた。傾げた拍子に髪に付いていた水がハネて、垂れた髪が彼の額に張り付く。翠の瞳と黒の瞳が幽香をまっすぐに見つめた。
「妖怪さん。アナタは、ダレ?」
「――ッ」
再度彼から出てきた言葉に幽香は息を飲み込んだ。もしかして、では無い。現実を直視してしまう。
雨も、泥も気にする事なんて無く、幽香は足を踏み出した。土の含んだ濁流が足に触り、泥が跳ねる。
雨が髪を打ち、服を張り付かせ、水が体を伝う。
幽香が彼の肩を乱暴に掴んだ。
「冗談はやめなさい!!」
それは幽香の願いだった。今にも折れそうな彼の肩を意図せず強く掴む。服がズレて昨晩に付けた肩から胸に掛けて細い傷が覗いた。
肩を掴まれているというのに、レンは無表情で掴んだ幽香を見上げて口を開いた。
「じょう、だん? 何を言っているの?」
「―ッ」
知っていた。彼が冗談を言える性格では無いことを知っていた。
先日の宴会で彼がはにかみながら言った言葉はソレに近しいモノではあったけれど、こうして問い詰めればきっと彼は答えたハズだ。
確信に近い何かが幽香を押しやり、同時にソレは今現在の状況の肯定にも繋がった。
もしも、彼が冗談、嘘を言っていないならば。
レンが私を忘れてしまったのなら。
『彼が生きる可能性は――』
薬師である永琳の言葉が幽香の中に反芻して、彼の肩から手を離した。
幽香は必死で記憶を遡る。
昨晩の情事。言ってない。
自宅までの道のり。言ってない。
守谷神社で彼を奪った時。言ってない。
先日の酒宴。言ってない。
自身では無く守谷を選んだ時。言ってない。
彼がスキマから戻ってきた時。言ってない。
スキマに攫われた時。言ってない。
見舞いの時。言ってない。
彼が目を覚ました時。言っていない。
いつからだ。いったいいつから彼は、
私の名前を呼んでいない?
「……ねぇ妖怪さん、僕は行かなきゃ」
「え?」
パチャリとレンが水音を鳴らす。
思わず出てしまった声。俯いてしまっていた顔を上げて、救いでも求める様に手を伸ばした。
けれどもソレはレンの着流しを触れるだけで、止める事は出来なかった。
「ど、どこへ行くの。 アナタの家はここよ!」
「僕は贄で、贄は捧げられないと」
「何を言ってるのよ、戻りなさい……戻って、ゆっくり話しましょう」
「…………ごめんなさい、妖怪さん」
彼の前の空間が裂ける。縦に線が入り、少年一人が入れる程度に開いた。先は暗闇と瞳が大量にある空間。通称、スキマ。
その裂け目の隣に傘を差した女性が立っている。足元は濡れていてもいい筈なのに、水滴すらもついていない。そこに居る筈なのに、まるでそこに存在していない。
「あら、もういいのかしら?」
「…………」
八雲紫の問いにレンは応えずに、スキマの中へと足を踏み入れた。
同時に足取りが覚束無いながら幽香が立ち上がり、レンに手を伸ばす。伸ばした手がレンに迫る。けれどもスキマは無残に閉じられて、その空間からレンは消えてしまった。
虚空に手を伸ばした幽香は行き先の無い手で拳を握り、そのまま横にいた八雲紫へと振るった。
「あら、暴力的ですこと」
「五月蝿い!! お前か!? また、お前がレンを奪うのか!!」
「……さて、どうかしら?」
ふわりと拳を避けて宙へと浮いた紫が詰まらなそうに息を吐きだした。何もないところに肘を置いて頬杖をついた。
「本当に、アナタってわかってないわ」
「何がよ!? アンタが大凡の原因でしょう!?」
「……まぁ、否定はしないわ。だいたいの事象は私の原因ですし」
「なら!! 彼を、レンを私に返しなさい!!」
「ソレは、ソレ。これはコレ。 どれもこれも私の責任にしないでくれます?」
そうして紫は一転してケタケタとイタズラをしたように笑う。
冷たい雨が幽香の頭を幾分か冷やして、苛立たしげに土を蹴り飛ばす事で心を無理やり落ち着けた。
その様子を見て紫はようやくか、と息を吐き出して言葉を続ける。
「先も、彼が言った様に……彼は捧げる事にするわ。この幻想郷に」
「……それで、レンはどうなるのよ」
「そうね。よくて、形を保ったまま死ねるわ」
「……」
「悪くて消失」
キッと視線を強くして幽香は紫を睨んだ。けれどもソレも意に介さない様に紫は言葉を続けていく。
「あぁ、それでも時間というのは掛かるのよ。なんせ、幻想郷に直接関わる儀式だもの。それはそれは時間が掛かってしまう。私は冬眠に季節だと言うのに」
さも面倒だと言わんばかりに、まるで劇をしているかの様に朗々と言葉を出した紫。続けて、それでも夜までには儀式は終わる予定よ。と態とらしく呟いた。
「さて、どこか小高くて広い場所の取れて、尚且人間も寄り付きはしない、だいたいあの辺にでも術式を――」
「巫山戯てるの?」
「いいえ、まったく、これっぽっちも巫山戯てませんわ。よく言うでしょう? 山よりも高く、海よりも深い範囲も巫山戯てませんわ」
これっぽっち、と両手を大きく広げた紫に対して、思わず幽香は頭を抱えた。続けられた言葉にツッコム気力さえなかった。
そんな幽香を楽しげに笑い、そして、その笑いが唐突に消える。
「私は立場上、アナタの邪魔をしなくてはいけませんわ」
「そう……で、本音は?」
「あら本音よ? 一妖怪としては彼を攫う事に成功した。幻想郷の管理者としては幻想郷をさらに安定させることが出来る。とっても素晴らしいわ」
「……」
「とっても素晴らしくて反吐が出そう」
舌打ちを一つだけして、それを隠すように紫は扇で顔を隠した。決して望むべき展開ではなかった。望んでいた展開だったなら、こうして幽香の目の前に現れる事すらなかったのだ。
「……おっと、そろそろ私は戻るわ。 彼が寂しがるもの」
「……一言いいかしら?」
「死ね、くたばれ以外ならどうぞ」
幽香は何も言わずに踵を返して自宅へと戻った。扉がやけに大きな音をたてて閉じられ、ソレに紫はため息を吐いた。
「あぁ、ホント、羨ましいわ。本当に」
「…………―――ふぅ」
レンが消えた。雨が降っている。まるであの日を思い出すような日だ。そう幽香は感じてしまった。
感じてしまう事が出来る程、気持ちは落ち着いた。
ベッドに座り、傘を置いて、息を吐いた。
ギシリとベッドが軋み、横になるとレンの匂いが染み付いた布団が幽香の顔を包んだ。
大きく息を吸い込んで、ゆっくりと吐き出される。
「…………」
幽香が顔を上げて眉間を寄せる。いやいや、何を流されそうになっているんだ。危ない危ない。
少し名残惜しいけれど、布団から顔を離す。あの日とは違うのだ。
ため息を吐いた所で、机に置かれた日記が目に付いた。
幽香は内容さえ知らない、至って普通の本。さして言うならば、彼が大事そうに持っていた事だけだ。
『彼が生きる可能性は半々、更に意識を戻す可能性がその半分、記憶に異常がない場合が半分』
瞼を閉じて、あの薬師の言葉を反芻する。
『……ダェ?』
乾いた喉で必死に彼が出した声を思い出して幽香は苦笑する。
もしかして、最初から、私を覚えていなかったのか?
では、あの許しを請うたあの時はいったい?
頭の中でグルグルと疑問と疑念が疑心と絡まって回る。
瞼を開けて、息を吐き出す。
本に手を伸ばして、表紙を撫でる。ざらりとした感触が幽香の手に触れる。
「…………あぁ、追求をすればいいか」
本を掴み、幽香は立ち上がる。しっかりとした足取りで、自分の意思で、とても冷静に玄関に向かう。向かう所は永遠亭。
玄関扉のドアノブを掴んだ所で幽香の足が止まる。
そして、何かを思い出したようにドアノブから手を離して、気まずい様に息を吐き出して、グシャリと髪を撫でた。
流石にカッターシャツ一枚、それも濡れて張り付いたソレだけの格好で外を出歩くのは冷静とは言えないのだ。
~~
「……」
レンはスキマの先、八雲宅に立っていた。
掴まれていた肩を掴んで、カタカタと震えている。気丈に振る舞いはしたが、妖怪である幽香に肩を握られていたのだから痛みもあるだろう。
それを見た九尾の狐が少しだけ困り顔で口を開いた。
「大丈夫か?」
「……いたい」
随分と短い主張ではあったけれど、しっかりとそう告げたレン。
泣きそうな顔をして、着流しを握りしめて、何かを耐える様に歯を食いしばった。
八雲藍がレンに手を伸ばし、肩を抱こうとした。
けれども、伸ばした手が彼の肩に到着する前に彼は伏せていた顔を上げて、また無表情へと戻る。
息を大きく吸い、少し止めて、吐きだした。
たったそれだけの行為で、レンは決断を決意し決別してしまう。それほどの行為なのだ。
藍の背筋にゾクリとしたものが走る。確かに、感情制御に長けた人間は経験上に存在していた。けれども、この短い瞬間で切り替えれる人間は少数だった。そして、この年齢で切り替えたのは初めて見た。
戦慄したのはソレと同時に、目の前にいる彼が壊れてしまった事を理解したからだ。人間として大事なモノが決定的に欠けてしまった。
伸びていた藍の手に別の手が添えられる。藍が手を辿ればそれは自身の主である八雲紫だった。
伸ばされた手が紫の手によって収められ、紫に気付いたのかレンが振り返る。
「ありがとう、お姉さん」
「……いいえ、いいのよ。私も頼まれ事だったし」
「……僕の?」
「そうアナタの、頼み事」
「そう……そっか」
彼は自嘲した。知らない自分が知らない間に知らない頼みを知らない人にしているのだ。けれども、確かに頼んだのだろう。
そうして、ようやく、レンは尋ねる。
「ねぇ、お姉さん」
「何かしら?」
「お姉さんは……妖怪? 人間?」
「……さぁ、どうかしらね」
八雲紫ははぐらかす様に口を開いて、扇で口元を隠した。そこでようやく合点が言った様にレンは微笑む。
「八雲、紫?」
「えぇ、そうよ」
「じゃぁ、妖怪さんだ」
「えぇ、残念ながらそうね」
扇で隠れた口元が引き攣る。対してレンは合っていた事に対して純粋にホッとしている。
「あぁ、本当に、羨ましいわ」
そんな紫の呟きはレンに届くことはなかった。