僕は吊り上げられていた。
細い糸か何かで手首をキリキリと締め付けられて、水面に爪先を着けながら、吊られている。
ボンヤリと見える白いお面の【彼女】。
真っ赤な瞳をしている……いいや、そんな事は忘れてしまった。忘れてしまった、というべきなのだろうか。
キリキリと締め付ける糸が強くなる。
皮が裂けて、肉を締め付け、骨を軋ませる。赤い液体が腕を伝い、腋を舐め、肋を撫でて、横腹を這い、腿を辿り、踝を越えて、そして水面へと広がる。
透明である筈の水面が汚れていく。穢されていく。
穢らわしい。
締め付けがさらに強くなる。
擦る様に強くなった糸は肉を食い破り、骨を削る。痛みも、熱さも無い。ただ手首を侵食されている違和感だけが広がっている。
どうして僕はこんな目にあっているのだろう。
目の前の【彼女】は応える事はない。
故に僕も【彼女】を見るだけに留まる。
ガリガリと振動音が鼓膜を揺らして、ブツン。と何かが切れる音がした。糸が切れた様な感触が腕から伝わる。
水面に付いていた爪先が沈み、僕の体はまた水底へと沈んでいく。
右腕を伸ばした。
空も、草も、何もかも『掴む事ができなくなった』腕は、ただ真っ赤な液体をだらしなく水へと溶かしていく。
透明が穢れていく。
赤へと汚れ、光を遮り、黒へと変わる。
どうして手を伸ばしたのだろう。
自ら切り落としたというのに。
「…………」
レンは何も応える事はなかった。ただ後ろで横たわる女を守っている、それだけ。
私はようやく見つけた安堵で息を吐き出す。
「さて、何から聞いてあげましょうか」
「……誰?」
最近崩れてきた無表情が思いっきり眉間に皺を寄せた訝しげな表情になってその言葉を吐き出した。
私は思わずニヤリと笑ってしまった。
「それはもういいわ」
「…………」
「アナタ、最初から忘れていな…………あぁ、そうか」
言葉の途中で区切る。
こうして彼が訝しげに私を見ているのはきっと正しい事なのである。まったく、面倒だ。
思わず頭を抱えて首を振ってしまう。そんな私に対して小首を傾げるレンはまだ眉を寄せている。
「そうね、はじめまして。私は■■……あぁ、そう。これだけは出ないのね」
まったくもって、面倒だ。
「でも一応、言ってやるわ。私は■■ ■■」
「…………」
変わらずレンは訝しげに私を見ている。
そして、何を思ったのか突然表情を無表情に戻して、溜め息を吐いた。
そして私に背中を向けて、ちょこんと体育座り。膝に顎を当てて、レンは女を見た。ただ真っ直ぐと女を見ている。
無視をされている私は拍子抜けしてしまい、指でコメカミを掻く。
もしかしたら、面倒が上塗りされているかも知れない。ハァ、と息を吐き出した私は一歩彼に向かって歩いた。同時に彼との距離が二歩分開いた。
やっぱり、面倒だ。
目が覚めた。
左腕が吊られている。
目の前の白いお面の【彼女】は相変わらず無表情で僕を見ている。
それでいい。僕は【彼女】に微笑む。
これでいい。
ギリギリと皮膚が締められ、削られていく。何かの膜が切れたのか、プシッと勢いよく赤い液体が吹き出して【彼女】のお面を汚していく。赤い、真っ赤な液体が【彼女】のお面に付き、垂れた。目の部分から、まるで涙の様に。
吊られていない右腕を伸ばす。
伸ばした右腕。もう右手で拭う事すら出来ない。
甲高い、キュィィィとした耳鳴りが聞こえる。左指に鋭い痛みが走り、まるで焼かれているかのような熱と痛みに肉が引っ張られて削られる感触が広がる。
無表情なお面を被った彼女は何もしていない。
振動が腕に響き、さらに奥歯に力が入った。
声は出さない。出してたまるか。
僕は無理に笑って見せる。いつかの様に、無理に笑顔を作りあげて、【彼女】を見る。
僕が拒絶したのに、それでも、まだ、僕は想い続けている。
想い続けたからこそ、僕は【彼女】の明日になりたかった。
レンは手を伸ばし、女の頬に触れた。
優しい手つきで頬を撫でて、親指で唇に触れる。表情は至って穏やかだ。
唇から親指が離れて、髪を流す様に、梳く様に丁寧に撫でている。
変わって、無視され続けている私はソレを少し羨ましく見てしまっている。
穏やかに笑む彼。こんな表情の彼を見たのは、初めてかも知れない。きっと、アレは彼の理想なのだろう。
そんな適当な予想を思い浮かべて、苦笑してしまう。私の今からの行動は、彼の理想を粉々にしてしまう事なのだろう。
「さて、どうしたモノかしらね……」
顎を掴む様にして少し考える。
きっと彼に私が■■である事を理解させる事が一番早いのだけれど、そんな事出来れば苦労はしない。
かと言って他に突破口があるわけではない。ココで私が叫びちらした所で意味など無い。
「……どうして僕は彼女を知らないのだろう」
彼が呟いた。触れている女についてだろう。
彼は女を知る訳が無い。知っていてる筈が無い。
知らないのに守っている、というのも中々に滑稽だけれど、嬉しさがこみ上げてくるのだから問題など無い。
「この緑色の髪も、花の香りも、全部知っている筈なのに――僕は彼女を知る事はない」
あの本が私の予想通りであり、彼の発言が私の予想通りなら、目の前の彼が女を知る事は絶対にありえない。ありえる訳が無い。
なんせ、彼は私を覚えているのだから。
本を紐解くように、レンに触れられていた女が綻ぶ。表情ではなく、体全体が、風に吹かれた花の様に、バラけた。
血も何も出ずにバラけた女の体は沢山の紙で構成され、そして部屋中に飛び回る。
レンはそれでも無表情でただ前を見るだけだ。
目で追った紙には文字が大量に書かれていて白紙が黒く染まっている。そんな紙が指向性をもって私へと向かってくる。
私は両手を広げてソレを受け入れる。
腹部に衝撃を受けて、私を貫通する紙達。通り過ぎた紙は勢いを無くし、ハラリと落ちていく。
紙の群れは数秒で無くなり、私はようやく息を吐いた。
そんな息に気がついたのか、レンがこちらを慌てて振り向いた。
いったいいつの間に居たのか、と驚いたのか。それとも、いつの間に移動したのか、と驚いたのか。
私は緑色の髪を掻き上げて、瞼をあけて真っ赤な瞳で彼を見つめる。
「こんにちは、人間さん。私は風見 幽香……アナタを食べる妖怪よ」
いつかの意趣返しで、私はそう名乗った。
レンは少し驚いて、そして悲しそうな顔をした。
「やっぱり来ちゃった……」
そう呟いたレンは俯いて私を見た。私を理解してしまった事。つまり、私を
「さて、こんばんは
「随分急ぎ足ね」
「当然さ。僕の価値がそろそろ無くなるのだから、少しは仕返しをしてやろうとね」
……。私は頭を抱えてしまう。
ヒクリと頬がつり上がってしまう。彼はニッコリしながら一輪のひまわりを両手で持っている。
「レンの過去が封入されているのがここであり、ここにはレンの過去がすべて詰まっている。 当然、過去と言っても彼の知らない事も多い筈だ。沢山ある本はすべて過去であると同時に妄想であり、可能性であり、そして幻想だ」
淡々とまるで仕事をするように彼は口を動かしていく。名残惜しそうに向日葵を抱きしめて、肺いっぱいに香りを詰め込んでいる。
「そして、幽香の本はすべて僕が所持していた。レンがそうした。絶対にアレに触れられない様に」
「アレ?」
「黒い何か。その正体を知る事は永遠に無い。言葉にするなら、恐怖だとか、絶望だとか、はたまた光とか」
「……パンドラね」
「まぁそうかも知れない。違うかも知れない」
「面倒ね。はっきり言いなさい」
「言っただろう? 僕には知る事は出来ない。永遠に、ね。例えばパンドラと名乗っている彼ももしかしたら彼なのかも知れない。もちろん例えばの話。例えば、パチュリー・ノーレッジが施した治療に何かしらの因子が埋め込まれていたとして、例えばソレが彼を操っているとして、どうしてソレが彼では無いといえるのだろうか
もっと言ってしまえば、本当にパンドラとは存在しているのだろうか。果たして結末はいかに? それも僕は知る由もない。当然さ。当然で当たり前の自然な事。略せば当然ってね」
「随分お喋りね」
「喋るさ、少しぐらい時間はあるだろう?」
「いいえ、先を急ぐわ」
「……そう、とっても残念だよ。じゃぁ、レンによろしく言っておいてくれ。変わらず、君の暗示は幼稚なモノだった、ってね」
彼が向日葵を放り投げる。
ふわりと浮いた向日葵で私の視線が一度ふさがり、手で茎を掴んでどければ彼は消えていた。
同時に、突風。
体が浮き押し出される。視界から遠ざかる扉が盛大に音を立てて閉まっていく。
幾つも扉が締められたあとに大きな両開きの扉が閉じられ、ガチャリと音を鳴らした。
私は瞼を閉じる。
僕は瞼を上げた。
目の前には幽香がいた。
白いお面を外したらしい彼女はその手に持ったお面を何度か手で弄んで、放り投げた。
ボチャンと音と水柱を立てたお面は水底へと落ちていく。
「本当、面倒ね。アナタは」
「……うん」
苦笑している彼女は僕に手を伸ばした。
頬に触れた手が鼻を撫でて、唇に触り、そして僕は抱き寄せられる。向日葵の香りが肺に溜まる。
その空気を吐き出して、僕は彼女に頬擦りしてしまう。
左手で開いていた本が水へと落ちる。
落ちた本は溶けて無くなる。元々水だったように。
本が落ちた事で僕は左手で彼女をかき抱く。空いてしまった何かを埋める為に、必死に抱きつく。
「幽香……ゆうかァ……」
耐えていた何かが漏れ出してしまう。あぁ、もうダメだ。もう抑えれない。
瞼が熱くなって、アノ時から誰にも見せない様にしていた涙が溢れてくる。溢れた水が幽香の服を汚していく。
肩が濡れたことに気づいたのか幽香が僕をさらに力強く抱きしめてくれる。
嗚咽を出しながら僕も幽香を強く抱きしめる。
本よりも、燐よりも、神奈子よりも、諏訪子よりも、早苗よりも、もっと、もっと、もっともっともっともっと!
言葉にするなら、きっと小説の到着点だ。早苗の所持していた恋愛小説みたいな。
左手で幽香の服を掴んで、僕は口を開く。
言葉が脳から落ちて、喉から出てくる。出そうとした。
「ご機嫌よぉ、宿主様ぁ?」
「――ッ」
言葉は彼女の登場で詰まる。同様に、僕の左手に力が入る。
空から降りてきたのはヒラヒラとした服を纏った少女だ。翠色の瞳と金色の髪をした少女。その少女はまるで飴でも舐める様に先の無い右手を喰んでいた。
中指を口に含んで、バキリと音を立てて、グチャグチャと下品に口を鳴らす。垂れたヨダレを拭う事なんてせずに彼女はゴクリと喉を鳴らした。
そんな彼女を見る幽香は僕は背に庇い、彼女を睨んでいる。
「ゲフゥ。ぁあ、贄ってホンットおいしいわぁ」
「救うんじゃなかったのかしら?」
「救っているわ。アナタも見たでしょう? 魔法少女トロピカルレン」
クスクスと笑いながら幻想を語る彼女。口の端に付いている血を拭ってその指を口に含んでチュゥっと口から出した。
「アナタを理想として、彼の理想をもとに制作した世界。守られる自分ではなくて、守る自分であるための世界。素晴らしいでしょ? 別に他なんていいじゃない」
「それも、仕方ないで終わらせるのかしら?」
「仕方ないでしょう? ソレがワタシの仕様なんだもの。1人を幸せにするわ。その他の999人ぐらいはワタシのオ・モ・チャ。 クヒャッハッハッハ。だってぇ、仕方ないじゃなぁい。ソレもどれも、仕方ないでしょぉ? ワタシだってこんな事は趣味じゃないのよぉ……嫌いじゃないけれどぉヒーッヒッヒッヒッヒ」
「下品ね」
「そうかしら? 人の中に土足で踏み込んで来る方が下品ではなくて?」
「迎賓のお迎えも無い場所に言われたくないわね」
ハッと鼻を鳴らした幽香。天に浮いている彼女はただ僕らを見下ろしている。
「ネぇ、知らない人。宿主の代わりにワタシが出迎えてやるよォ」
「遠慮するわ。むしろその宿主とイイコトするんだから、さっさと消えなさい、下品娘」
「遠慮なんてするんじゃァねぇょよオオオオオオ!!」
弾の様に落ちてきた彼女とぶつかった幽香。僕の視界には水柱。
視界がすべて遮られる。
僕の顔に何かが付着する。真っ赤な液体。それはヌメって、僕から落ちた。
僕は力が抜けていく。
水面に頭が着き、ゆっくりと沈んでいく。
僕の両腕が掴まれる。
僕は本を閉じた。