痛みを伴うのが生の宿命であれば、死ねば去ってしまう痛みは別ちがたい友と呼べるのではないだろうか。
「提督、提督」
「いっつ……」
呼び声と共に体が揺すられ、真新しい痛みが訪ねてきた。真に別ちがたきものは、寄り添われている時には煩わしいというが、なるほど言い得て妙である。
「……時雨か」
「マルヨンマルマル、刻限だよ」
痛みに目を開ければ、そこに映るのは錆びだらけの天井と外はねの前髪が特徴の少女の容
「ご苦労……報告は?」
「特になし。夕立がフタマルサンマルに航空機っぽい音がしたって言ってたけど、電探は静かだから、索敵範囲外だね」
「相変わらず凄い知覚能力だ」
海水で洗っているためにゴワゴワのシーツから体を引きはがし、伸び放題になってきた髪の毛を後ろに撫でつける。
整髪料などつけるまでもなく、滲んで髪に絡んだ皮脂だけで頭髪は綺麗に後ろへと撫でつけられた。真水の風呂にも入っていないし、洗髪料とも無縁だから汚くとも仕方有るまい。
のたのたと体を動かすと、左腕が酷く痛んだ。正確には、元々左腕があった部分が。
「ん……」
「痛むの? 提督」
思わず顔を顰めてしまう。傷口はとっくに塞がっているのに、この痛みだけは消えない。拉げた船体に体が押し潰され、腕が断たれた時に走った幻肢の痛みが。
「ああ、多分今日は荒れるな」
「みんなそう言ってる。船は天気に敏感だ。提督も艦娘の才能があるのかもね」
思わず乾いた笑いが出た。黒い女学生服を着た、右唇から右目元まで裂けるような傷を負った我が配下は、中々にジョークセンスに秀でているらしい。
「こんな手前で靴紐も結べない野郎に前線働きが勤まるんだ。あながち冗談でもないかもな。今度、転化適正試験でも受けてみるか」
「ははっ、夕立が喜びそうだ。提督さんと一緒に前に出られるなんて、とっても素敵! とかいって」
笑う配下をよそ目に、寝台の上で体を動かし地面に足をおろした。爪が割れた右足をサンダルにねじ込むと、靴べらみたいなセルロイドの左足が床に当たって硬質な音を立てる。
「提督、手を貸すよ」
「ご苦労。ついでに煙草取ってくれ」
「おや、先週吸い終わったのを忘れたのかい?」
「時雨が魔法で新しいのを出してくれないかと期待したのさ」
下らないやりとりをしつつ、配下の手を借りて立ち上がる。苦境の時ほど悪態と軽薄な冗談が必要だ。それすら出てこなければ、もう末期だから。
「なんだ、提督は知ってたのか。僕が魔法使いだって」
「あん? んっ……」
ふらつきながら立ち上がり、配下の冗談に反応してみれば、私の唇に何かがねじ込まれる。潮気でよれよれになった、一本の煙草だった。
「おお、こいつは素晴らしい。是非ともガラスの靴も出してくれないか?」
「僕のもこれで最後だからね。悪いが魔法は売り切れだ」
時雨も自分の唇に同じ煙草を咥えており、使い古して曇ったオイルライターで火を移している。安っぽく鼻につんと来る、三級品の臭いが煙と共に立ち上った。
「ほら、火だよ提督」
「おう」
そのままオイルライターの火をこっちに寄越せば良いのに、態々蓋を弾いて閉じ、赤熱する煙草の先端を寄せて来るのは何なのだろう。ま、親しみの発露とみれば気分も悪くはない。
舌を刺す辛み。粘膜を灼く煙の熱さと、微かに感じる煙草葉の甘い芳香……補給品の安物だが、馴れればこれも悪いもんではない。
「ぷは……不味い」
「ああ、クソみたいだね。でもあるだけ御の字さ」
煙を吐き出しながら、微かに傾斜した床を踏みしめて部屋を出る。船室が歪んでおり、戸を閉めたら二度と開かなくなってしまうので、開け放したままの私室にした船長室から。
丸い窓は未だ暗く、未明の海を伺うことはできない。後暫くしたら、南洋の気が早い太陽が顔を出すことだろう。
しかしそれも、いつまで拝んでいられることやら。
「おっと」
船内を歩いていると、歪んで出っ張った床の一部に足先を引っかけた。あわや顔面から錆の浮いた鉄臭い床に接吻……する寸前、少女の細い腕に体が受け止められた。
「気を付けなよ提督。提督って、いっつも同じ段差に足をひっかけるよね」
呆れた顔で私を見る時雨。この私の鳩尾くらいまでしかタッパのない乙女だが、体に秘めた膂力は外見からは全く想像できぬ領域に至っている。
軽量化が施されているとはいえ、片手で成人男性を転倒の憂い目から救えるのだから、その程は明らかであろう。
至近距離に疵を得て尚愛らしい顔があると、少しだが気恥ずかしくなる。私には少女性愛の趣味はないというのに。だから、誤魔化すように冗談を吐き捨てて体勢を立て直した。
「私が足を引っかけているんじゃない。船が私が大好きでちょっかいをかけてくるのさ」
何時になっても喪った感覚は着いて回る。もう曲がらない足首に、靴を履いた足先の感覚が消えないのだ。だからこの、歪で冷たく不便な足になれることができない。
いっそ、何もかも忘れてしまえば、この様にも順応できそうだというのに。
できることと言えば、虚勢を張って、辛うじて機能を維持した脳味噌を回すことくらいのもの。やれやれ、もっと戦線がまともであったなら、私はとっくに年金暮らしが出来ていたであろうに。
「なら、この船も艦娘になれていれば、良い働きをしたかもしれないのにね」
「まったくだ」
しかし、時雨は虚勢を張っても、気遣ったり辛かったりせず、素直に受け止めてくれるから気が楽だ。他の面子だったら、からかわれたり弄られたりして忙しいだろうに。
煙草が半分ほど灰に姿を変えた頃、漸う舳先のデッキに出られた。吹き込んでいた潮風が強くなり、噎せ返るような海の臭いと油の臭いが混ざった空気が吹き付ける。
戦場の空気だ。慣れ親しんで、娑婆の空気を忘れるほど嗅いだ臭い。南方諸島、オセアニア大陸と帝国本土を繋ぐシーレーン、生存戦争の地の香り。
振り返れば、闇の中に麗しの我が家が座礁する、南海に浮かぶ孤島の輪郭が浮かび上がっていた。高い樹木と遠浅の海岸、そして座礁した提督指揮艦。慣れ親しんだ船上にして我が家の気配。
「あ、提督さーん、おはよー!!」
「バカ! うるせぇ! 大声出すなよ哨戒中だぞ!!」
短くなった煙草を一服吐くと、遠くから声が聞こえてきた。暗い船縁の向こうに広がる、墨汁のような海の彼方から。
私の性能が低い光学センサーでは、明け方の海を疾駆する艦娘の輪郭さえ捉えられない。星は五月蠅いほど空に瞬いているというのに。
「夕立と天龍か……相変わらず目がいいな」
「そりゃあ、僕らは艦隊の耳目だからね。あれくらいの距離で見分けが付かなきゃ、砲撃戦なんてできないよ」
隣で時雨がくすりと笑った。姉妹艦の無邪気な行動に琴線が擽られたのか。それとも哨戒任務中の軽率な行動に対し、後でどうやって叱ってやろうかと考えて笑いが漏れたのか。どちらかは分からないが、楽しそうで何よりだ。
「さて、あと二時間だったか」
「うん。定期便はマルロクマルマルに到着予定で、マルナナサンマルには出るはずだよ」
「定期連絡も異常なしか……おまんまがきっちり届くのは、嬉しい限りだ」
補給は大事。命より大事。弾がなければ戦えないし、燃料がなければ艦娘も浮き砲台と変わらない。戦う為の物資を運ぶ、輸送艦隊は人命より重いのである。
フィルターが焦げ付くほど限界まで吸った煙草を惜しむように煙を吐き、火傷しないうちに船縁から吸い殻を放る。赤い奇跡を描いて炎が墜ち、そして消えた。
まるで兵士と、兵士を乗せて戦った数多の船のように。
「ふぅ。美味かった。悪いな時雨、貴重な煙草を譲ってもらって」
「いいさ。どうせ二時間後には補給が来るんだし。提督に媚びの一つも売って損はないしね」
そう言われると途端に有り難みが薄れてくるな。まぁ、礼の一つは勿論するが。
「……しかし、やっぱり一雨来そうだな」
「それでも何時か止むさ。僕としては、降りっぱなしでもいいんだけどね」
「その方が……」
「殴り合いがしやすい」
目線をやれば、少し遠くで空しい灯りを放っている白熱灯の光に照らし出された時雨の笑みが視界に飛び込んでくる。幼げな愛らしい顔が、凄絶な笑みに歪んでいた。
傷跡が生き物のようにのたくり、美しいとも勇猛とも言える笑顔を彩る。戦傷に馴染みのない人間であれば、醜いと思うのかも知れないが、私には彼女の疵が何よりも美しい物に見えた。
「流石は大物殺しの水雷屋だ。おっかなくてちびりそうだよ」
「僕は天龍よりは大人しいさ。魚雷は相手の白目が見えるところまでいってから撃つ物、と公言したりしないしね」
「彼奴は戦列歩兵か何かか」
言って、撃たれても早々止まらない辺りは19世紀の戦列歩兵も艦娘も、さして変わらないものかと思った。どちらも愚直に、敵ののど元に食らいつくまで死にながら突撃していくのだから。
いや、死ぬまで戦うしかないのは、艦娘ではなく人類なのだろう。言葉もなく襲いかかってきた深海棲艦。彼らとの争いは、きっとどちらかが亡びるまで続くのだから。
人類同士の戦争は、彼らによって唐突に終わらせられ、今や人類が生き残るかどうかを賭けた生存戦争へと姿を変えてしまっている。
そして、その実態がこれだ。南方のシーレーンを維持するために派遣された、数多の鎮守府とは名ばかりの派遣艦隊。
真金の体に船の記憶を靖国から引き出し、受肉させた対深海棲艦兵器にも限界がある。人間の限界の近さなど、彼女たちよりずっと短い物だ。もうマンパワーなど、我が祖国には一辺すら残ってはおるまい。
だからこそ、私のような戦傷で不虞を得た士官でさえ、頭が確かだからと最前線で戦わされているのだから。内地に本拠を構える、最精鋭を支えさせるために。
「はー……」
「どうしたの提督」
考えると憂鬱になってきた。この戦争は何時終わるのだろうか。試算によれば、人類は大分生存権を取り返しつつあれども、順調にいって孫の代までは掛かるだろうと言われているのだし……考えれば考えるほど気分が沈むな。
「いやなに。それでも雨が降らなきゃいいなと思うのさ」
「良い雨だってあるのに……」
内心の暗さを悟られまいと言ってみたが、どうやら彼女の機嫌を悪くさせてしまったらしい。そうだった、時雨は名前もあって、雨が嫌いではないというのに。
それでも、この叩き付けるように降る南海のスコールばかりは、どうしても好きになれないのだ。手足に走る痛みと同じように。
皇紀2620年。終戦は未だ遠い…………。
本作は趣味的に、かつ深夜の謎テンションに合わせて書いた物であり綿密なプロット、詳細な設定構築とは無縁のノリで産まれたものです。よって今後長く続く予定はなく、定期的な更新も期待できません。
十割筆者の趣味によって構築されるので、当然筆者と性癖を異にする方では楽しめないものになると思われます。あと大型艦とか多分出ませんし、嫁艦需要もそこまで満たせないかと。
まぁ、続きは反響が大きかったり、気が向いたら考えます(この時点で三話まで出来ていることには目を瞑る)。