「はぁ……」
綺凛は憂鬱だった。
それは補修になった着衣訓練の追試があるからだ。昨日の今日でそんな上手くなるわけがないのだが、武偵高に甘えは許されない。できないというのなら、体が覚えるまで徹底的にやるだけだ。
つまり綺凛には、地獄の特訓が待っている。それも、補修者には人権はありませんと言わんばかりに、お昼休みの時間すら補修の時間に充てられる。合格できなければ、合格できるまで、明日からずっとこのメニューだ。
だが真面目な綺凛には逃げるという選択肢は無い。憂鬱にはなるが。
制服のまま、プールサイドに足を踏み入れる綺凛。今日はしっかりと着替えを持ってきている為、昨日のような心配はない。
「先生?」
プールサイドには、当然視界を遮るような建造物はない。だが、担当の先生の姿は見えなかった。
「(まだ来てないのかな?)」
そう思って視線を移動させると、用具室の扉が開いているのが見えた。一般的なビート板などの水泳器具の他にも、さまざまな物を収納している場所だ。
「先生? 中にいるんですか?」
返事はない。
「……」
胸騒ぎを感じた綺凛は携帯している竹刀袋から愛刀を取り出した。
いつでも抜けるように構えつつ、部屋に入る。その中に、
「先生!?」
担当の先生はぐったりと倒れていた。
服のいたるところが濡れている。そう、全身ではなく部分部分で濡れているのだ。
綺凛は慌てて駆け寄り、安否確認を行う。
「良かった……」
幸い呼吸もはっきりしている。目立ったケガも無いため、単純に気絶させられたらしい。
「でも……」
先生には外傷がなかった。誰かと争ったにしては、その被害が服が濡れるだけというのは不自然だった。
「何かの能力者―――」
綺凛は無意識のうちに刀を抜いていた。しゃがんだ状態とは思えない鋭い一閃だ。腰の回転も利用して後ろの相手を切り伏せる攻撃だ。
何の防御もしなければ、上半身と下半身が泣き別れになるところだったが、
「水!?」
刀に伝わるのは、水の塊を叩いた『バシャ!!』という感触だった。刀はそのまま抵抗なく素通りしてしまう。
「ケケッ、無駄だ、無駄!」
「(何、これ―――)」
それは天井から伸びていた水の塊だった。
クモが糸を垂らすように天井からぶら下がっている。いくつもの目が付いている水の塊だ。顔や手があり、言葉すら発していた。
得体のしれない相手に、油断なく刀を構えて後退する綺凛。そんな綺凛を水の塊はあざげるように嗤う。
「んん? 何だ? 後ろに下がったりして。後ろに下がれば、何か解決するってのか? 水にダメージを与えられるってのかよ?」
「……っ」
「抵抗しなければ、痛い目見ないで済む、ぜッ!!」
その掛け声とともに、水が襲い掛かってきた。
「はっ!!」
苦し紛れに刀を振るう綺凛だったが、
「むぐっ!? んんー!! んー!!」
縦に真っ二つにされるのも気にせずに、水の塊が綺凛の顔にとりついた。口と鼻をふさがれ呼吸が出来ない。慌てて水を引き剥がそうとするが、
「だから無駄なんだよぉ。水はすくうことは出来ても掴むことは出来ない。そうだろ?」
綺凛の目の前に水の顔が現れ、残酷に宣言してくる。
掴むことが出来ないとしても、このままでは窒息してしまう。刀を放り投げ、酸素を求めて水をどかそうとするが、
「(だ、め……もう、息、が……!)」
誰かに助けを求めようと思ったところで、体から力が抜ける。床をはいずりながら、倉庫の外に手を伸ばす。
「(先輩……)」
呟いた声が、気泡となって水に浮かんだ。それを最後に綺凛の身体から力が抜けてしまった。
綺凛が完全に気を失ったことを確認した水の塊は、器用に動いて綺凛を壁際まで運んでいく。そして全身に巻き付いて、
「はい、チーズっと」
その様子を撮影した。
「こいつを送信だな」
送り先は当然、『夜月 翔』。この場所のことも文字で添えて、送りつける。
「しかしラッキーだったな。夜月 翔に都合よく戦妹がいるとは。おかげで事がスムーズに運びそうだ。調べたところ、アイツはこの娘を絶対に見殺しにはしないだろうからなぁ」
この依頼を受けてから調べた結果、ここ数日の観察の結果、夜月 翔は重度のお人好しだという事が分かっている。
こんな見え見えの罠であろうとも、しっかりとかかってくれるという確信があった。
「さてと夜月 翔はすぐに来るだろうからなぁ、俺もお出迎えの準備をしないとな?」
水の塊はにやにやと笑うのだった。
――――――――――――――――――――――
メールを見た俺は、すぐさま教室を飛び出した。というより、窓から飛び降りた。
教室に残っていたクラスメイトがギョッとしていた気がするけど、そんなことは気にしてはいられない。
地面に着地する頃にはすでにBJを纏っていた。目的地はプールの用具倉庫。今の俺の足なら、10秒もかからない。
「待ちなさい! 夜月 翔!!」
「そうだよ翔君!!」
「は? あっ、ちょ!」
上を見上げた俺は、慌てて視界を下に戻す。
俺に一泊遅れて飛び降りて来たヤミとメアだった。制服のまま飛び降りたもんだから、スカートが派手に舞い上がっている。下からの眺めは、それはもう凄いことになっていた。
だから慌てて顔を反らしたのだ。
「……こんな時までえっちぃ男ですね」
「スカートで飛び降りる人に言われたくないけどな」
「もう、別にみられても困るモノじゃないんだからそんなに怒らなくても……私はそれよりもスゴイところ見られちゃってるし?」
ヤミの冷たい視線を躱し、メアの意味深な発言を聞き流す。
今はそんなことを気にしている暇はないのだ。
「分かっています。刀藤 綺凛が攻撃されている。それは間違いないでしょう」
「ああ、そうだろ! だから―――」
「落ち着いて下さい。あなたらしくない」
「ッ!!」
ヤミの静かな声に、沸き立っていた俺の心が少しだけ落ち着く。
「そうだよ、翔君。こんな正直に罠ですって誘いに正面から行っても、絶対にいい事にはならないよ。特に、今回みたいに準備万端で待ち構えてるときは」
いつもと変わらない口調でもっともなことを言ってくるメア。こうもいつも通りだと違和感があるな。
「でもメールには」
すぐに来い、一人で来い、といった『いかにも』な文面も書き記されていた。
「相手の要求に従う義理はありませんよ。一人で行けば、判断も手札も手数も少なくなります」
「わざわざ人質を取って『ここに来い』って言うってことは、相手は翔君とお話したいってことだしね。私達が一緒に行ったとしても、問題ないって」
な、なるほど? そうなのか……って、ちょっと待て。
「2人とも俺と一緒に来るってことか?」
「やだなぁ。ここにいるのに置いて行っちゃうの?」
「……」
メアは冗談めかして肩を叩いてくる。ヤミは何も言わないが、唇を尖らせて横を向いていた。
そう言ってくれるのなら。雪菜にも1人で何とかしようとするのはやめろって怒られたもんな。
ここは一度落ち着いて、
「引いておくか……」
「……引いておく?」
「ガチャ? もしかしてガチャ?」
「……ガチャ?」
ここは一度、新しい能力orアイテムを手に入れることにしよう。もしかすると、この状況を打破できる力が手に入るかもしれない。
とにかく、選択肢を増やすのは重要だ。そうヤミに言われたからな。
俺が何をしようとしているのか理解していないヤミは首を傾げている。逆にすべての事情を知っているメアは目を輝かせて俺の端末をのぞき込んできた。
「どんな能力が出るんだろうね! えっと、昨日の綺凛ちゃんと今日の私で2回分かな? ほらほら、早く引こ!」
テンション高いな! 人がガチャを引くのは面白いってのは理解出来るけどさ!
「あなた達、何を―――あ」
「どうしたのヤミちゃん―――あ」
「2人共動どうし―――痛い!?」
後ろから凄まじい衝撃を受けて、危うく倒れそうになる。
すぐさま臨戦態勢になり、振り返った。だが、そこには誰もいない。
な、なんだ? 誰からの攻撃だ!?
「2人とも、見たか!? 誰だった!? どんな奴だった!?」
わざわざ人質を取っているこの状況で、直接攻撃を行う理由が無い。だとすれば、さらに別の敵だ。
「気にする必要はありません」
「そーだね。時間もないし、早くガチャろ?」
「や、攻撃されて気にするなってのは……」
納得いかないが、2人はそれ以上何も言ってくれない。渋々納得した俺は、改めて武器ガチャを回した。
「これは―――」
手に入れた能力を見て俺は考える。そしてヤミのことを見た。
「何ですか?」
「ああ、ちょっとな―――」
俺は考えた作戦を伝える。
「ふむ、なるほど……」
ヤミは腕を組んでその作戦を吟味していた。
「分かりました。少なくとも、3人全員が馬鹿正直に向かうよりはいいと思います」
「私もいいよー。というか、私のことも躊躇なく作戦に組み込んでくるんだね。今回のこと、私が仕組んだ可能性だってあるんだよ?」
「そう言って来るってことは、今回はメアの仕業じゃないってことだ。よろしくな」
話がまとまったところで、俺達は行動に映る。
「では手筈通りに」
「何かあったら、サポートよろしくな」
「それについてですが―――」
「ん? なんだ?」
「いえ、別に。なんでもありませんでした。気にしないで下さい」
「そうか?」
ヤミは何かを呟いたようだったが、聞き返したときにはすでに背を向けていた。
「……彼のことを気にしているのは私だけではないようですからね」
―――――――――――――――――――――――
俺はすぐにプールに辿り着いた。
「何の妨害も無かったな」
ここは武偵高。つまり犯罪者にとっては敵地だ。侵入でするだけでも難しいはず。つまり、敵地で交渉できるくらいの実力があるってことだ。
昼休みのプールには人の気配はない。
プールサイドに踏み込む。目的地は用具室。だが、それよりも目を引きつけられるものがあった。
「綺凛!!」
水の張ったプールの中央には、先ほどの写真では用具室で拘束されていた綺凛が居た。ただ浮かんでいるようにも見えるが、水が不自然に体に巻き付いているようにも見える。
「ずいぶんと遅い到着だったようだなぁ、夜月 翔。のんびりとしてるじゃあねぇか」
「お前は……!」
俺に声をかけてきたのは、水の塊だ。全身に目があり、かなり気持ち悪い。それがプールに浮かぶ綺凛の近くにいた。
こいつは、まさか……
「アクア・ネックレス……!!」
「おいおい、このスタンドを知ってるのか? 流石は夜月 翔、と言ったところか?」
意味が分からない。何故、このタイミングでスタンド使いが襲って来るのか。疑問を捻じ伏せて、俺はとっさに爪弾を構えるが、
「効かねえよなぁ、そんなものは。お前のスタンドは、俺には通用しないんだよなぁ」
爪弾の発射はしない。しても意味がないからだ。
目の前にいるのはアクア・ネックレスという名前のスタンドだ。
こいつは、一言でいえば水のスタンドだ。実際の水と混ざる物質同化型のスタンドで、スタンド使いではなくともその姿を見ることが出来る、ある意味特別なスタンドだ。
そして水であるからそこ、物理的な攻撃は意味をなさない。あのスタープラチナの拳でもダメージを与えることが出来なかったのだ。
俺はプール全体に視線を映した。
どの程度の水分と同化出来るのかは定かではないが、わざわざプールに呼んだのも、自分に有利なフィールドだからだろう。
「おいおい、それ以上近づいてくるなよ? こっちには人質もいるんだぜ? まあ、このプールに飛び込んで無事では返さないけどな?」
「はいはい、分かったよ」
「ならいい。まあ、座れ……と言っても椅子がねぇか」
「なんでもいいから早く話を始めろ」
「そうだな。早くしないと、午後の授業が始まるもんな。いや、お前は特務六課に行くんだったか?」
こいつ、何でそのことを……
「俺のスタンドの能力のことといい、ずいぶんと俺に詳しいんだな」
「そりゃまあ、この1週間ずっと見ていたからな」
「見ていた……」
なるほどね。
コイツは水に同化するスタンド。液体の水だけでなく、水蒸気や湯気になった液体にすら同化することが出来る。
そもそも、日常で液体が無い場所なんてない。家では流し場やお風呂など、外にも公共のトイレはあるし、植物には朝露が残っているかもしれない。
そこにこっそりとスタンドを忍ばせておけば、監視カメラのように俺の様子を観察することが出来る。
アクア・ネックレスは射程距離も長かったはず。スタンドの本体が俺達の視界に入ることなく、俺達の情報を集めることが出来る。
「流石、『重要な役割』を任されるだけあるな。クク、あんな大勢の女と一緒に暮らして、2日連続違う女とセックスしてるなんてなぁ。お盛んなことで」
「っち……」
本当に全部見られてたって訳か。
「そのおかげで、お前の付け入るスキがあっさり見つかった。最初はお前と一緒に住んでいる誰かに、しようと思ってたんだけどな。昨日の会話でピンと来たのさ」
「昨日の会話?」
「この嬢ちゃんの話さ。プールの補修があるってな」
昨日の、綺凛が着替えを持ってき忘れたって話か。
「どうせなら、俺の有利なフィールドの方が『やりやすい』ってもんだ。水のある場所に自分から来てくれるってのはな。お前とかかわりのある、人質にできそうなやつが、わざわざ捕まりに来てくれるなんてな」
「そこまで俺のことを調べて、何が目的なんだよ」
「ああ、それな……」
アクアネックレスは少し溜めて、
「お前には、ララ王女の誘拐を手伝ってもらおうと思ってな」
笑いながら告げるのだった。