消毒液の匂いが、真っ先にアイズの鼻先をかすめた。
次に感じたのは、体の奥に居座る鈍い重さだった。まるで丸一日走り通した後のような、筋肉の芯まで疲労が染み込んでいる感覚。アイズはゆっくりと瞼を持ち上げた。
白い天井。見慣れない、無機質な照明。少なくとも、自分の部屋ではない。
(ここ、は……?)
「―――あ、起きた!? ちょっとみんな! アイズが起きたよ!!」
弾かれたような大声に、鼓膜がびりびりと震えた。声のした方に視線をやると、ティオナが、手を振っているのが見える。
「ティオナ……?」
「良かった……本当に、良かった……」
反対側から聞こえたのは、いつもより幾分か掠れたティオネの声だった。眉間に寄っていた皺が、安堵とともにゆっくりとほどけていく。
アイズは重い体を起こそうとして、肩を軽く押し戻された。
「まだ寝てなさい。シャマル先生の話じゃ体に異常はないらしいけど、念のためだから」
「う、ん……」
言葉を探して、アイズは視線を巡らせた。
見回すと、部屋の隅にはベートもいる。壁に寄りかかり、眼を閉じている。
そうしていると、部屋に駆け込んでくる人影があった。
「レフィーヤ……?」
「アイズさん……っ」
名前を呼ばれた瞬間、レフィーヤの目に涙の膜が張った。駆け寄ってくるかと思えば、ベッドの手前で足を止め、拳を握りしめる。
「私、何も、できなくて……アイズさんがあんな……あんな姿にされてるのに、ただ見てることしか……!!」
「レフィーヤ」
ティオネが静かに、けれどはっきりと名前を呼んだ。それ以上は言わせない、というように。
アイズは自分の手のひらを見下ろした。震えてはいない。ただ、ひどく他人の手のように感じた。
「(わたし……何を、してたんだっけ……?)」
今日は島の地下を探索する日。その過程で発見したゲートをくぐり、空中要塞に突入した。それは憶えている。
その内部でとんでもない剣士と戦い。そして、自分は―――
「(―――ぁ)」
断片的な記憶が、まだ頭の芯にこびりついている。怪物のような姿。信じられないほどの力。そして―――あの、忘れたいのに忘れられない感覚。
「アイズ」
ベートが口を開いた。
「無事だったんだから、今はそれでいい。細かい話は後だ」
らしくない優しさに、アイズは思わず彼の顔を見上げた。ベートはすぐに視線を逸らし、ばつが悪そうに壁の方を向く。
「……なんだよ」
「ううん……ありがとう」
アイズは小さく首を振った。それから、まだ靄のかかったような頭で尋ねる。
「そうね。詳しい話は会議が終わってからいくらでもあるでしょ」
「会議?」
ティオネの発した会議という単語に反応するアイズ。応えるのはティオナとティオネだ。
「今、会議中なんだよ。団長達と、六課の人達と」
「あと、翔で」
「翔も……?」
「あの時のアイズのこと……というか、多分、色々と」
歯切れの悪い言い方だった。それは彼女にも事態が把握し切れていないからだ。
説明の時間はすぐにやってくる。そう思って待機する。扉が開いたのは、それからそう時間が経たない頃だった。
「アイズ」
最初に顔を覗かせたのはフィンだった。その後ろに、リヴェリア、ガレス、ロキ。そして翔。
アイズは反射的に体を起こそうとして、今度はティオナに止められることもなかった。
「気分はどうだ」
フィンの問いに、アイズは小さく頷く。
「大丈夫……体は、なんともない」
「そうか」
フィンは一度目を伏せ、それから部屋にいる全員を見渡した。
「これから話すことは、アイズだけじゃなく、ここにいる皆にも関わることだ。だから、まとめて話す」
その言葉に、部屋の空気が張り詰めた。ティオナとティオネが顔を見合わせ、レフィーヤは俯けていた顔を上げる。
まずはフィンから。篠ノ之束の件について、今後どのような対応を取るのかの説明だ。それも重要だが、ロキ・ファミリアのメンバーにとって、真に重要なのはそこではない。
次に翔が一歩前に出た。
「まず謝らないといけない。今まで黙ってたことがある。俺の力のこと、それと――今回、アイズさんに起きたことの意味を」
そこから翔は、静かに、しかし淀みなく話し始めた。自分の出自、異世界の力、アナザーライダーのこと。会議で決定されたことを全て話した。
説明を聞きながら、アイズの中で、靄がかかっていた記憶が少しずつ像を結び始めていた。
空中要塞で変身した、あの鬼の姿を。
膝をつきかけたレベルの壁。何度挑んでも届かない、その先。誰にも言えなかった、焦りにも似た苛立ち。あれを、
「……そう、だ」
アイズの声は、自分でも驚くほど掠れていた。
「思い出した……わたし、あの時……」
変身した瞬間の全能感。体の奥から突き上げてくるような、圧倒的な力。今まで届かなかったものに、ようやく手が届いた気がした。あの感覚を、確かに―――喜んでいた。
だがその先の記憶が追いついた瞬間、アイズの顔から血の気が引いた。
「わたし……敵を、倒した後……」
その後に続く言葉を予測して、周りは何も言わない。
誰かが止めに入ってきた。仲間の声で自分を呼んでいた。なのにあの時のアイズには、それが『敵』の声にしか聞こえなかった。
「アイズ……」
「ティオネ……」
ティオネの声にアイズはゆっくりと顔を上げた。その体にはケガ一つなかったが、それはベートと共に回復魔法を使ったからだ。
「全然大したことないよ!! もう治ってるし!!」
ティオネの答えに被せるように、ベートが舌打ちをした。
「隠すことねぇだろ……アイズ、お前、俺たちに剣を向けてきたんだよ。本気の一撃でな」
「――ッ」
息が止まった。
断片のまま散らばっていた記憶が、その一言で一気に繋る。振り下ろした剣。目の前で咄嗟に受け止めるベート。横合いから割って入ったティオネへ、そのまま返す刃を―――
「わたし……ベートと、ティオネに……翔にも……」
声が震えた。指先が冷たくなっていく。仲間だと、分かっていたはずだった。何年も一緒に戦ってきた、大切な仲間だったはずなのに。あの瞬間の自分は、それすらも『排除すべき障害』としか認識していなかった。
「わたし、二人を、殺すつもりで……」
「アイズ」
リヴェリアの声が、静かに割って入った。
「翔も言っていただろう。それは、お前の意志ではない。アナザーライダーに、支配されていた結果だ」
「でも……!」
アイズは声を荒げた。自分でも、こんな声が出せるのかと驚くほどに。
「でも、あの力を、喜んでいたのは、私自身なの……! 力が欲しかった。
言い終えた瞬間、部屋の中は静まり返っていた。
誰も、すぐには言葉を返せなかった。
――――――――――――――――――――――
「アイズさん」
俺は静かに声をかける。周りの視線が集中するのを感じた。
「アナザーライダーの仕組みをもう少し詳しく説明する。推測も混じってるけど、聞いてほしい」
アイズさんは顔を伏せたまま、それでも耳だけはこちらに向けている。
「アナザーライダーは、そのライダーと『性質に合った人』が選ばれて変身させられてる。アイズさんがウォッチを拾ったのは偶然って話だったけど、間違いなく敵の能力者が狙ったんだ」
アイズさんが響鬼ウォッチを拾った経緯はすでにリヴェリアさんから聞いている。何でも、任務の時に偶然拾ったらしい。その後も何となく捨てずに持っていたのだとか。思えば、その時から、何か惹かれるものがあったらしい。
「アナザーライダーの核になるのは、本人が元から抱えてる願望とか、感情だと思ってる。アイズさんの場合は――強くなりたい、その一心だった。そこは否定しない。事実だと思う」
部屋の空気が、また張り詰めた。ティオナさんが何か言いかけて、フィンさんが小さく手で制している。
『でも』と、続ける。
「核になる願望と、暴走した結果の行動は、イコールじゃない。あのアナザーライダーは、本人の欲望を『歪めて増幅させる』装置だ。だからアイズさんの中にあった『強くなりたい』って願いは、『手に入れた強さを脅かすものは全部排除しろ』にすり替えられた」
響鬼系のライダーは自らの体を鍛え上げて変身する。それも、ただ強くなるんじゃなくて心身ともに鍛え上げる必要があるのだ。
もしもそのどちらかが―――というより、心の鍛錬が足りないまま鬼になってしまえばどうなるのか……本編ではあまり語られていなかったが、きっとろくな結果にはなっていないだろう。
今回はその状態にされたって考えれば辻褄が合う。
「仲間を切り捨ててまで強さを求めることはない。今はそう断言できるだろ?」
「それは……もちろん、そう、だけど」
「じゃあそれがアイズさんなんだよ。アナザーライダーに変身してた時のことは、悪い夢だったんだ」
40度の高熱を出していたとでも思えばいい。その時に奇行をしたとして、そんなものは後で笑い話になるだけなんだ。
今回の話だってそうだ。怪物にされるなんてどびっきりおかしな状況だったんだからな。
「もちろん、すぐにそうするのが難しいのは分かるけど」
それよりも、
「よくも私の願いを好き勝手利用してくれたなって、怒った方が良いと思うぞ」
しばらく、誰も何も言わなかった。
アイズは俯いたまま、両手を握りしめている。頷くことも、否定することもしなかった。いくら言葉を重ねられたところで、そう易々と心の整理はつくものではない。
「……それでも」
やがて、アイズさんは絞り出すように言った。
「傷つけたことは、消えない」
「消えなくていい」
答えたのは、意外にもガレスさんだった。
「消す必要もない。ただ背負って、次にどうするかを考えりゃいい。それは、儂らも同じじゃ」
その一言に、部屋の空気が、ほんの少しだけ緩むのだった。
―――――――――――――――――――――――――――
その後、夜も遅いという事で解散することになった。
アイズさんは入院、ではないが、今日は一応六課の医務室に泊まることにしたらしい。ケガはもうないという話だから……多分、一人で考えたいことがあるんだろう。
部屋にいた皆が、少しずつ引き上げていった。
ロキが『ま、今日のとこはこれくらいにしとこか』と場を締め、ティオナさんとティオネさんも後ろ髪を引かれるような顔をしながら、フィンさんに促されて部屋を出て行く。
レフィーヤだけは最後まで扉の前で躊躇っていたが、リヴェリアさんに肩を叩かれて、俯いたまま出て行った。
気づけば、部屋には翔とアイズだけが残っていた。ま、俺も帰るんだけど。
部屋を出ようとすると、アイズはぽつりと口を開いた。
「……わたしの中の、一番弱いところを、突かれたんだと思う」
俺は適当な椅子に腰かけて続きを待つ。
「強くなりたいって、ずっと思ってた。でもそれは……前に進みたいからじゃなくて、多分――怖かったから。また、大切な人がいなくなったら、って。焦ってたのは、本当」
「うん」
「だから、あの時……力を手に入れた瞬間、嬉しかった。ずっと届かなかったものに、手が届いた気がして。それが、まさか……大切な人を傷つける力になるなんて、思ってもみなかった」
声が、また震え始める。だが今度は、恐怖からではなかった。もっと静かで、深いところから滲み出るような震えだった。
俺はしばらく黙っていた。それから、静かに口を開いた。
「皮肉かもしれない。でも、それだけその気持ちが本物だったってことだと、俺は思う」
そうじゃなかったら、敵もその気持ちを利用しようとは思わない。いや、むしろ敵に利用される、利用しようと思われるのはそれだけ本物の気持ちだって証明じゃないのか?
アイズさんが俺の顔をじっと見つめてくる。いつもは綺麗な瞳だが、今は少し充血していた。だが表情は、難しい言葉を理解するように、眉が寄せられていた。
「……それって励ましてる?」
「……ちょっと違うかもしれない」
「……ふふっ」
アイズさんは小さく、けれど確かに笑った。
まだ気持ちは完全に晴れたわけではない。恐怖も罪悪感も、簡単には消えない。
それでも、さっきまで底の見えなかった暗闇に、わずかに光が差し込んだような感覚があった。