私が自分というものの存在を自覚したばかりの頃、この世界は無限に等しい広がりを見せていた。私も憧れてしまうような偉大な先輩や、競い合うライバルや友達もいた。
だからこそ、私は必死に働いた。先輩から様々な事を学び、たくさんの失敗をしてきた。そして、少ないお給料をやりくりして趣味に没頭したり、自分の技術を磨いたり、自分という存在の力を強くしていった。
こうして、途方もない時を過ごしながら私の周りには一人、また一人とこの世界を去るものがいた。
その理由は実に様々なものである。真実の愛を確かめるため、好きな人と一緒になるため、今の仕事が向かないと思ったから……そうやって満面の笑顔で去るものもいれば、自業自得で滅んだから、信仰心を失ったから、自分なんて必要ないから、この世の真理に気づいたからと苦笑をしながら去るものもいた。
性質に多少の差異はあるが、彼らは笑顔でこの世界を去った。この動きはやがて一種の流行になった。自ら神格を捨てて神の役目を放棄する……”女神転生”とも称されたその行為は、それぞれの思惑をもとに自発的に行われたものであった。
そうして、私の偉大な先輩達も、友達や同僚もどんどんと少なくなった。海の神、湖のの神、河川の神、泉の神、台所の神、トイレの神……たくさんの神がこの世界を去り、残る私に力を託していった。こうして私も一端の”水の女神”としての存在を確立させていった。
しかし、そんな私も壁にぶつかる事になる。私が業務の一部を担当していた世界も、もはや”神”を必要としなくなっていたのだ。
昔は信仰深かった信者達の末裔は、今では馬鹿を騙してウォーターサーバーを設置させる販売員に成り下がっていた。だから、かつての先輩達のようにまだ神を必要としている世界に私は自身を売り込んだ。結果的にそれは成功し、私のお仕事のお給料と合わせれば結構な信仰……人の魂から抽出したソウルと呼ばれるものだったり、生体マグネタイトだとかいうものを稼いだ。
そうしているうちにふと気づくことがある。所詮は私も神というシステムの一部にすぎないのだと。創造神と呼ばれる真の上位者はいくつのも世界を作り、滅ぼしていく。そこには創造神の似姿とも、お気に入りとも言われる”人間”が配置され、彼らの魂を管理する”神”も配置された。私はその配置された神の一人にすぎない。やっている事はよく言えば中間管理職、悪く言えば人間の魂を啜って生きながらえる寄生虫にすぎなかった。
そうして初めて理解できる。私の先輩達もが役目を放棄して人間の輪廻に入った事が、より良い破滅を迎えるために努力した姿が……とまあそんな私も今では立派な寄生虫に成り果てていた。日々を自堕落に過ごし、永遠に等しい時を過ごし、天国で”磨り潰されて”新しく生まれ変わった魂から余剰エネルギーを啜って生きながらえる。
そうして随分と閑散として静かになった天界に、また新たな寄生虫が生まれてくる。
彼らは去った先輩達の代わりに必要最低限の仕事をこなす人員であり、私にとっての希望の象徴であった。そのうちの一人、エリスという新人の女神は私が教育を担当する事になった。美しい銀髪を伸ばし、白い羽衣を纏った彼女は最近の流行であるあのヤハ……四文字に影響されてかとても堅い性格だった。
「ど、どうしましょうアクア先輩! この前に一生懸命作ったストーンヘンジが一気に信仰の力を失っちゃいました……これも絶対悪魔の仕業です!」
「違うわよ。もうそんな石程度じゃ彼らの信仰は得られなくなったの……陳腐化ってやつよ。だから後は適当に頑張りなさい。私はたまってる漫画でも消化するから……」
「ちょっ、もうちょっと詳しく教えてくださいよアクア先輩! もう役立たず……ぐうたら女神……行き遅れババア!」
「なっ……!? うっさいわねこのパッド女神! 少しは自分で考えなさいな!」
「パっ……これはパッドじゃないです! お洒落の一つです!」
顔を真っ赤にしてムキになって怒ったエリスともみ合いつつ、私はゆっくりと自分の中で止まっていた”時間”が時を刻み始めたのを感じた。
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ふと、私はぼーっとしていた事に気づく。最近はこうやって意味もなく思案する時間が何故か増えていた。私はメイド服についた埃を払い、箒をくるりと一回転させた後、それを掃除用具箱に叩き込む。これで今日の業務は終了と言っていい。
手持ち無沙汰になった私は良い匂いがしているリビングに足を踏み入れる。キッチンには、笑顔を浮かべて雑談しながら料理を作っているエリスとゆんゆんの姿がある。そして、レイカちゃん、ありさちゃん、カイズ君と一緒に野菜の皮むきをしているダクネスの姿もあった。私はそれを微笑ましく見つつ、そっと足を下げリビングを去る。時刻も夕暮れ時、私は外に足を運んだ。
夕暮れ時の街中には実に様々な表情を浮かべる人で溢れている。仕事帰りで疲れた顔を受かべるもの、民家からかおる美味しい匂いに顔を綻ばせるもの……そんな人間達を目に収めながら私は小さなショットバーにたどり着いた。中に入ると、私の目的である人影があった。一つはグラス片手にテーブルに突っ伏しているクリス、もう一つはそんなクリスにくだをまいているカズマであった。
「俺はなあーさよりが本当に大事なんだ! だから商会の重要なポストも開けて色んな準備もしてたのに……なのに冒険者なんかになりやがって! あれは命の危険がある職業なんだぞ! それなのにゆんゆんの野郎がさより側に付きやがって……アイツはきちんと飯を食えてるんだろうか……」
「助手君その話はもう五回目だよ……ふにゃあ……」
「こら、寝るなクリス。まだたくさん愚痴りたい事が……!」
「ふきゅう~」
「マジで寝やがった……」
私はそっとカズマに近づく。彼は私の方を振り返り、大きくため息をつく。そしてお金をテーブルに置いてクリスを背負い、店を出る私の後に続く。空に見える夕日は、もう半分以上隠れていた。そんな帰宅の道中、彼は神社裏のベンチに腰を下ろし、クリスを寝かせる。それから煙草に火をつけ始めた。私はそんな彼はじっと見つめていた。
「どうした、何か文句でもあるのか?」
「何もないわよ。ただ、幸せそうだなって思ったの」
「新手の皮肉みたいだな。まあ幸せなのは否定しないがな……」
そこで会話はおわり、しばらくは彼が煙を吸う音以外はとても静かであった。私もベンチに腰を下ろし、寝ているクリスの頭を撫でる。彼女の寝顔は子供のように無邪気であった。
「なあアクア……」
「どうしたの?」
「お前こそどうだ……幸せなのか?」
そう質問してきたカズマに私は苦笑を返す。答えは当然決まっていた。今ではゆんゆん、エリス、ダクネスの仲は非常に良好で、何やら心理的な変化があったのか彼女達は今までと違って協力して子育てを行っていた。めぐみんやあるえとはまだ少しの確執があるが、家族の仲はかなり良好。私も毎日を楽しく過ごしていた。
「…………」
「アクア?」
「えっ!? ああ、幸せよ幸せ! まあ近いうちに私の目標は達せられそうね!」
「そうかい……」
笑顔を作る私を彼はじっと睨んでくる。そうしているうちに、彼は咳ばらいをしたり、体をソワソワさせたりと急に挙動不審になった。体調でも悪くなったのかと見るために伸ばした手を、彼はギュっと掴んだ。
「あれだ……この前のアイリスのゴタゴタのせいで……思うところも色々あって……とにかくお前に渡しそびれたもんがあるんだよ」
「何よ……まさか追加のお酒かしら!」
「ちげーよバカ! ほら、これだ!」
カズマは顔を真っ赤に染めながら小さな小箱を私の前に突き出す。そこには、美しい水色の宝石がついた小さな指輪があった。突然の事に思わず固まってしまった私に対し、彼は非常に挙動不審になっていた。
「アイリスの事もあったし、こういうものは気軽に渡せなくなっちまった。それでも、こいつを受け取って欲しい。あれだぞ、これはマジで高い奴だぞ!」
「カズマ……」
「だからな……そのこれからもよろしくというか……あれだ……ずっと俺の傍にいてくれ……」
目を逸らしながらそんな事を言う彼に私の表情も崩れてしまう。ゆんゆんと結婚してからかなり大人びてしまった彼であるが、久々に面白い姿が見られたのだ。
「ちょっとカズマ! 流石にくさすぎるわよ! なによずっと傍にいてくださいって……プークスクスクス!」
「おまっ……お前なああああああああ!」
羞恥の赤に、怒りの赤が加わった彼を私は一しきり馬鹿にする。そうやって一息ついたころ、私はカズマに一つの質問をした。
「ねえカズマ、アンタは私が女神だから傍にいて欲しいの……必要としてるの……?」
私の質問に対し、彼は呆気にとられたかのような顔をする。しかし、次第に彼の羞恥も引き、残っていたのは憤怒の赤であった。
「ああ、確かに俺はお前の女神の力に何度も助けられてきた。アホだけど、やっぱりお前の力は俺に必要不可欠だった」
「そう……よね……」
「だけどな、俺はお前のために魔王を倒そうと決めた……命を捨てても良いと思えたし、実際に自分の命を犠牲にして魔王を倒した。それもこれも全部”アクア”のためにやった事だ。女神だからとか関係ねえよ」
そう言ってくれた彼を目の前にして、私は思わず笑みがこぼれてしまう。そして胸中にじわりじわりと暖かさと幸せと呼べるものが広がった。
だから、私は指輪の入った小箱を押し戻した。
彼はそんな私の様子を見て困ったように頬をかいた。
「アクア、俺は今酒に酔って非常に気分が良い。ゆんゆんとさよりの事で喧嘩して怒ってる最中だ。だから、こんな大胆な事が出来たんだ。これを逃したら、俺はもうこんな勇気は出せねえ……だから……!」
「だからこそ……でしょ? やっと安定してきたと思ったのに、余計な火種を持ち込まないの!」
「なあ、頼む……お願いだから……」
「ふふっ、一気に情けなくなったわね」
「アクア……」
彼の手をさらに押し戻す。そして、下を向いてしまった彼の頭をそっと撫でる。それから、私は未だに眠り続けていたクリスをおんぶして、ベンチから立ち上がった。
「アンタは私を必要としてくれているんでしょう? それなら私も安心して続けられる……”今の私”を使い潰しなさい。アンタはもう立派な家の大黒柱なの!」
「…………」
「私は先にクリスと帰ってるから、きちんと酔いを醒まして頭も冷やしなさい。晩御飯にも遅れちゃダメよ?」
私は彼を残して家路へとつく。気分は驚くほど軽いものであった。しかし、カズマから一歩、また一歩と離れるたび、足取りが重くなり、胸中に得体の知れない何かが広がった。
「ああ、似合わねえ……やっぱり似合わねえ……」
「…………」
「アクア……お前にその服は似合わねよ……」
背後でカチリというライターの着火音が聞こえる。私はそれから逃げるように家路へついた。そうして、やっとの思いで家の玄関先にたどり着いた時、背後からため息が聞こえた。
「アクア先輩はどうしようもない馬鹿ですね」
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その日の深夜、私はずっと寝付けないでいた。頭の中は思ったより空虚であった。だが、封印していたはずの思いがどろりどろりとにじみ出るように湧いて出てくる。そして、それは一つの”願い”となった。めぐみんを、ダクネスを幸せにするためにずっと隠していた思いが、もう私には止める事が出来なくなっていた。だから、私はそっとベッドを出て、家の庭へと足を運ぶ。そこにはすでに私の求めていた人物が立っていた。
「こんな夜遅くに呼び出して……何か用ですかアクア先輩?」
「ええ、ちょっと頼みたい事が出来たのよ」
少しこちらを警戒するように見てくるエリスに私は微笑みを返す。それから、私は彼女の手をとって一つのお願いをした。
「ねえエリス、私と契約しない?」
「は?」
「別に悪い事じゃないわ。ただ、私とカズマさん……”二人っきりで過ごす時間”が欲しいの」
「それは……」
エリスは私の願いを聞いて驚いていた。しかし、聡明な彼女は次第に私の言葉が持つ言外の意味を理解したのだろう。彼女は顔を怒らせ始めた。
「何をいきなり言うんですか! それは妻である私にとっても非常に大切な時間です! 何を代償にされても契約なんかしません!」
「ちょっと落ち着きなさい。深夜なんだから……」
口に指をたて、しーっとする私にエリスはとてもイラだった表情を向けてきた。だが私はここで引き下がらない。私は今まで、ゆんゆん、ダクネス、めぐみん、あるえ……エリスの事をずっと傍で見てきた。そんな彼女達は私に大切な事を教えてくれた。それは単純明快なもの。どうしても叶えたい願いがあるのなら、”相手の弱点”を突けという事であった。
私は虚空からそっと鎖の束を取り出した。
「これが何か分かる?」
「…………」
「そう、神縛りの鎖よ。これはかなり昔に天界で流行ったものなの。私の先輩が旦那を縛るために使ったのが始まりで、一躍天界の女神達に大人気の商品になったわ」
「知ってますよ……私だってそれを一つ持ってて……」
「でもね、これは”男性の神”にしか効果がないの。一つだけ女神にも使える鎖をヘパイストスおじさんが作って美の神に使おうとしたけど、彼は逆にそれを輝きの神に使われて天界で夫婦仲良く隠居暮らしをしてるわ」
私の話を聞いてエリスの顔から汗がだらだらと噴出した。見ていた私も深くため息をつく。これで私の中の確証は得られた。
「レイカちゃんが男の子……なんてわけもなくあのコは立派な女の子よ。でも、まだ神格を持ってない。だから存在が安定していないレイカちゃんにこの鎖が中途半端に作用して偽アイリスちゃんに誘拐されちゃったのよ?」
「うぐぐ……!」
「やっぱり貴方は無許可で子作りしてたのね。それじゃあ創造神からの神格の授与も期待できないわね……」
私はエリスの頭をペチリと叩く。彼女は肩を震わせながらうつむいている。その姿を見ていくらか留飲が下がる。それと同時に本当にこの後輩はしょうがないやつだという思いが生まれた。
「あのね、今のレイカちゃんはいわば巨大なソウルの塊よ。場合によってはカオスに傾いて悪魔になっちゃう可能性だってあるの。それに、彼女のソウルを狙う悪い奴が今後もいっぱい出てくるでしょうねぇ……」
「そ、そんな……」
「まあ、天界の神権研修をしっかり履修して自分の在り方を”定義”して神格を得る方法もあるけど……途方もない時間がかかるし、その間にレイカちゃんを守り抜くのは大変よ」
すっかり項垂れてしまったエリスの事を私は優しく撫でる。彼女もやれることは全てやっていたのを私は近くで見ていた。しかし、この前のにアイリスちゃんの事件のようにイレギュラーは起こるものである。
「だから、私と契約しなさいエリス」
「でも……」
「大丈夫、代償はしっかり払うから」
私はエリスへ向けて両手差し出す。今の私に後悔は一つもなかった。
「私の神格……”水の女神”の神格をレイカちゃんにあげるわ!」
「…………」
「だから……お願い……お願いエリス……」
女神エリスは、そっと私の手を取ってくれた。