「ありがとうございあしたー」
適当な挨拶をし、俺は口の中であくびを噛み締めた。
4月。少し暖かくなり始め、桜があちこちで咲く春は、とにかく眠くてだるくてしょうがない。
「あのさぁ、都筑くんさぁ」
バーコード頭の店長が垢で汚れた眼鏡を押し上げながら、俺に話しかけた。
「もうちょっとシャキッとしてよ。いくらバイトだからって、一応仕事なんだからさぁ」
「サーセン。でも客ぜんぜん来ないじゃないっすかー」
俺が働くコンビニは、あらゆるコンビニが乱立する住宅街の中にあった。
いくら都会とはいえ、もともと昼間に人の少ないベッドタウンのくせに、コンビニの選択肢が異常に多いのだ。ちょっと外れたところにあるうちの店は、いつも閑古鳥が鳴いていた。
「しょうがないよ。でももうすぐ近くでマンションの建設工事が始まるから、お客さんも増えるよ」
客が一人もいなくなったので、俺はモップを手にして床を磨き始めた。
ふと外を見ると、長身の男が遠くを歩いている。
「兄貴…?」
さらさらとなびく短めの黒い髪、石膏像のように整いすぎていて、白く冷たい顔。細身で長身の神経質そうな男は、間違いなく俺の兄だ。
「何やってんだ?こんなとこで…」
兄は住宅街をまっすぐ進み、やがて遠ざかって消えていった。
その日の夜、俺は友達に誘われ、カラオケに直行して朝まで騒いでいた。歌い疲れて仮眠を取っていると、俺のスマホが鳴り響いた。
「ん~…なんだよ、うっせーなぁ…」
モゾモゾと起き上がり、スマホを手に取った。どうやらアパートの大家さんからだ。
「はい、もしもし~」
「都筑さん、大変なんですよ!今あんたんとこの斜め下の部屋が火事でね、ちょうど消防車が来たとこなんだけども…だから早く戻ってきてくれませんか」
七十過ぎのじいさん大家は、切羽詰まった声でそう言った。
「かっ…火事!?分かった、すぐ行きます!」
慌ててジャンパーを羽織り、カバンを掴んでカラオケボックスから飛び出した。
アパートに着くと、火はなんとか消し止められていた。避難した住人と野次馬がアパートの前で消火を見守っている。
「大家さん!俺の部屋は…」
見た目では俺の部屋に被害はなさそうだった。
「火が移ることはなかったんだがね、あんた、窓開けてたでしょう」
確かに俺は窓を全開にして出掛けてしまった。
「最初はかなり火の勢いが強くてね。すぐ消してくれたからよかったんだけども…放水した時に、どうも水があんたんとこに入っちゃったみたいでね」
「俺んちは水浸し…」
大家は残念そうにため息をついた。
「それだけならいいんだけどね。…家電やら家具やらがダメんなってるかもしれん。床とか壁にまで染み込んでたら、あの部屋はしばらく住めんなぁ…」
「そ、そんなぁ…」
部屋には買ったばかりのパソコンを置いていた。しかも、窓際に。冷蔵庫も洗濯機も、ベッドも何もかもぐちゃぐちゃだろう。狭いワンルームに詰め込んでいたから、間違いない。
消火活動が完全に終わり、俺はなんとか自分の部屋に入ることを許された。
案の定、泣きたくなるような惨状が広がっていた。机は倒され、床は水浸し。家電は水をかぶり、冷蔵庫の下はちょっと水に浸かっていた。ベッドはぐちゃぐちゃで、布団をつまむと水を吸ってずっしり重くなっていた。
「どうすりゃいいんだよぉ…」
俺は半泣きで、実家に電話した。
「もしもし、あら、悠平じゃないの。珍しいわね~あんたが連絡してくるなんて」
陽気な声で母が電話に出た。俺が状況を話すと、初めは驚いた様子だったが、けろっとした言い方でアドバイスしてきた。
「とにかくダメになった家電は電気屋さんに来てもらって、引き取ってもらいなさいよ。ヘタに触って感電しないでよ、あんたどんくさいんだから」
「触んねーよ、分かってるって…ていうか、火出した奴弁償してほしいよ…新しいパソコンまでダメになったし…」
俺が情けない声で言うと、電話の向こうで母がはぁ?と呆れたような声を出した。
「失火法っていってね、火事出した人に弁償してくれっていうのは無理なの。あんた家借りるときに保険入ってるでしょうが。そこからしかお金は出ないよ」
「マジかよー…」
使えなくなった家具家電を引き取ってもらったとしても、ここまで床がベチャベチャでは当分住めそうもない。
「あのさぁ、アパートが復活するまで実家帰っていい?」
「えー?ムリムリ!あんたまで帰ってこられたら大変だよ。ただでさえお父さんが定年で家にいるのに。うっとうしいったらありゃしない…」
電話の後ろで、父がテレビを見てガハハと笑う声がうっすら聞こえた。父は今年、六十五才の定年を迎えたばかりだ。
「それよりあんた、仕事ちゃんとやってんでしょうね」
「やってるよ、バイトだけど…」
「もーっ、いつまでもフラフラして…今年で二十四でしょ?ちょっとは兄ちゃん見習いなさい!」
年が十二歳離れた兄は、大学でドイツだかイギリスだかの文学教授をやっている。中小企業サラリーマンの父とパート主婦の母といういたって普通の家庭に産まれたにしては、素晴らしすぎる息子だ。ころころ職を変えるフリーターの俺とは、兄弟とは思えないような格差だ。
「そうだあんた、住むとこないなら兄ちゃんちに泊めてもらいなさいよ」
母は突然、とんでもない提案をしてきた。
「はぁ!?やだよ!俺アイツと喋るの苦手だし!」
「なに言ってんの。あんたたちよく一緒に遊んでたじゃない」
「ガキん時の話だろ。しかも遊んでもらってた感じだし」
「とにかくホテルとかはダメだからね!そんなお金ないでしょ。兄ちゃんちが近いんだし、泊めてもらいなさい!母さんはリリアちゃんとお父さんの世話でいっぱいいっぱいなんだから…ねーっ、リリアちゃん」
にゃあ、と子猫の鳴き声が聞こえた。リリアちゃんとは、今年から実家で飼い始めたマンチカンのことだ。
「分かったよ…兄貴に連絡しといてくれよな」
「あんた電話番号知らないの?」
「知らねーよ、そんなの」
兄の住所を聞いてから電話を切り、ふぅとため息をついた。
「とりあえず、これを何とかしないとな…」
俺は電化製品の保証書を探し始めた。
その日のうちに壊れた家電を引き取ってもらい、大雑把に片付けたあと俺は兄の家に避難する準備をした。
「よかった、服はセーフ…」
クローゼットの奥にしまっていた服やパンツは無事で、ほっと胸を撫で下ろしながらリュックに詰め込んだ。
兄の家は、地下鉄を乗り継いで30分ほど行った所にある。俺の住む下町とは違った、閑静な高級住宅街だ。地名までは知っているものの、一度も兄の家に行ったことのない俺は、変な緊張感を感じていた。
「彼女でもいればなぁ…転がり込むのが兄貴の家っていうのもなんか悲しいよな…」
到着し、駅の出口から地上に上がると、夕暮れの中で灯りのともった豪邸が並んでいた。
母から聞いた住所を頼りに、家を探し始めた。
「えーっと、○○町2丁目…」
方向音痴気味の俺は、なかなか目的地にたどり着けなかった。ふと見ると、小さな子どもを連れた母親達が公園の入り口付近で立ち話をしている。
「あの、すいません…○○町2丁目ってどの辺りですか?」
二人の若い母親達は少し目を見合わせたが、親切に教えてくれた。
「ここをまっすぐ行って、あそこに歯医者さんがあるの見えますか?歯医者さんを左に曲がってずーっと行ったら○○町に出ますよ」
「あ、ありがとうございます」
礼をして立ち去ろうとしたとき、もう一人の母親が呟いた。
「そういえば○○町2丁目って、あの白薔薇屋敷があるとこよね」
「そうそう、なんか薄暗くて不気味よね。うちの子にもあそこで遊んじゃダメって言ってるの」
気になった俺は、控えめに聞いた。
「あの…白薔薇屋敷って…」
「○○町2丁目の奥の方にね、昔から洋館があるのよ。大豪邸なんだけど、ちょっと不気味な所なの」
「庭が白い薔薇で埋め尽くされてて、白薔薇屋敷って呼ばれてるんですよ。何年か前から人は住んでるみたいなんだけど…」
その時、公園の中で子どもの泣き声がした。
「コラッ!リュウくんダメでしょ、お友だちにごめんなさいして!」
俺は教えてもらった方に向かって歩き始めた。
「2丁目の○-○…このへんかな…」
さきほどに比べ、兄の家がある街は少し寂しげだった。新しい住宅と古くからあるような洋風の屋敷がミックスされている。
坂を上がり進んでいくと、急に大きな洋館が現れた。何かのおとぎ話に出てきそうな、古いレンガ造りの屋敷が寂しげにぽつんと建っている。
錆びた巨大な門の向こうには、庭一面に白い薔薇が咲いている。夜が迫る中で、薔薇は一際白く輝いていた。
「これが白薔薇屋敷かな…たしかにヤバそうな感じする…」
門の入り口へまわると、そこには表札がかかっていた。
「………マジか……」
豪奢な黒い表札板には、白く華奢な文字で‘都筑’と書かれていたのだ。
(第2話に続く)