「えー…まじかよ、ここなのか…」
表札の下に小さく書かれた住所と確かに一致している。
「つうか、一人でこんな豪邸住んでんのか?やっぱ変わってんなぁ…」
インターホンを鳴らしたが返事はなく、部屋の灯りもついていない。仕方なく門を押してみた。
「開いてんじゃん。でも留守なのかな?」
玄関を叩いてみたが、やはり返事はない。その時、薔薇だらけの庭の方から足音がした。ふりかえると、兄が立っていた。石膏像のように整った顔は、現れたばかりの月明かりに照らされてより一層白く見えた。少し驚いたような表情で、兄は口を開いた。
「悠平…母さんから聞いたよ、しばらく僕の家にいるんだろ?」
淡々とした口調で話す兄に、俺はすぐに返事をすることができなかった。しばらく見つめあってしまい、俺ははっとして目をそらした。
「俺のアパートが火事になって…いや、別に俺の部屋は燃えてないんだけど、水浸しにされて…だから新しいとこ引っ越すまで…」
無言で俺の前を通り、兄は玄関の鍵を開けた。
「入って。部屋に案内するから」
屋敷の中は薄暗く、まるで某ランドの某マンションみたいな雰囲気だ。二階に上がり、案内された部屋に入ると、ちょっと薄暗いがまるで高級ホテルのような客室だった。
「自由に使って。ここは悠平の部屋だから」
「あ、ありがとう…いいのか?こんな部屋借りて…」
ふっと兄の顔が鼻先まで近づいてきた。青白く曇りのない、白磁のような顔に、長いまつげに縁取られた薄い茶色の目が俺をとらえた。一瞬心臓がどくんと鼓動した。
「な…何…?」
「片付けたら下りておいで。お茶にしよう」
ふ、と笑うと、兄は部屋を出ていった。呆気にとられた俺は、ぼーっとそこに突っ立ったままだった。
「なんだよあいつ……前からあんなだっけ?」
荷物を片付けながら、兄の記憶をたどっていた。兄が大学生になるまで、つまり俺が小学校に上がる頃までは毎日一緒にいたはずだが、幼い頃の記憶は曖昧だった。
大学生になってからも、兄は何度も実家に帰ってきたが、あまり関わろうとしなかったためか、まともに会話した記憶がない。
「ま、結局、いくら兄弟でも馬が合わなかったってことかなぁ」
優秀で繊細、どこか浮世離れしたところのある兄と、バカで怠け者で俗っぽいガキだった俺が合わなかったのも仕方ない気がする。
一階に下りると、広いダイニングルームにはアンティーク家具が並び、テーブルの上には紅茶と薔薇の花が置かれていた。
「座って。疲れただろ?」
紅茶は一口飲むとすっぱく、鼻の奥に薔薇の香りが抜けていった。
「これ何?」
皿の上には、砂糖か何かで固められたような白い薔薇の花が三つ置かれている。
「薔薇の砂糖漬けだよ。お菓子だから食べてごらん」
口に含むと、シャリシャリとした食感とともに、薔薇の花は口の中に溶けてしまった。
兄は向かい側に座り、紅茶をゆっくり飲み始めた。
「大変だったんだろ。ずっとうちにいていいから」
「…え、ああ…ありがとう…」
会話が途切れてしまい、なんとなく気まずい空気が流れる。
「あの、あ、兄貴ってさ、何の仕事してたっけ?」
苦し紛れに俺は職業の話を持ち出した。
「近くの国立大学でドイツ文学を教えてるんだ。悠平は?」
「あー、俺は…その、フリーターで…」
こんな話するんじゃなかったと一人後悔した。
またしばらく沈黙が続き、俺が紅茶を飲み終わると、兄は椅子から立ち上がった。
「この家はちょっとややこしいから、いろいろ説明するよ。悠平に見せたいものもあるし…」
「俺に見せたいもの…?」
トイレとバスルーム、キッチンの場所を教えてもらい、俺は兄に付いて地下室に下りた。
「すげぇ…地下室とかあるんだな」
「暗いから気を付けて」
地下室の入り口は小さな蛍光灯が頼りない灯りをともしているだけで、足元がはっきり見えないほど暗かった。廊下をしばらく進むと、再びドアが現れた。
「ここだよ」
ギィ、と鈍い音をたて、重そうな扉が開いた。兄のあとに続き、おそるおそる中に入る。
「なんだ、これ……」
暗くひんやりとした地下室はガラスでできた花壇で埋まり、おびただしい数の白い薔薇が、妖しい蝋燭の光とライトに照らされて咲いていた。地下室中に甘くさっぱりとした薔薇の香りが広がっている。花壇に土はなく、水がさらさらと静かな音を立てて薔薇の間を縫うようにして流れていた。
「室内庭園だよ。土がなくても育つように、水と肥料を流してるんだ。ライトを日光の代わりにしてるから、地下でも枯れずに咲いてるんだ」
「これ、兄貴が作ったのか?」
驚きで口をぽかんと開けたままの俺を置いて、兄は庭園を進んでいった。
「綺麗だろ?僕が世話しないと枯れてしまうんだ。外の薔薇も、ここの薔薇もね…」
花壇の端に座り、兄は愛でるように薔薇の花びらを優しく撫でた。
「悠平、気に入ってくれたかな?」
「…えっ?…あー、すごいんじゃない…?」
俺に見せたかった物とはこれなのだろうか。やはり兄の考えていることは分からない。
さらに奥へと進んでいくと、同じような庭園の中に小さな書斎とソファーが置かれている。
「ん?…なんかある…」
俺は書斎横に、装飾の施された木の扉を見つけた。そっと手を伸ばして扉を引く。兄は勝手に開けることを咎めるでもなく、無言で俺を見つめている。
開いた扉の中には、俺がいた。裸で、無表情の自分がそこに立っていた。いや、立っていたというのは間違いかもしれない。金属の支えにもたれるようにして、俺は立たされていた。
「!?………」
表情を変えることなく、もう一人の俺は視点の定まらない目で見つめ返してきた。痛いほどに心臓が鳴り響き、急に目の前が真っ暗になった。
「ん………?」
目蓋を開けると、上品な柄のクリーム色の天井が目に入った。ゆっくり周りを見回すと、そこは兄が貸してくれた部屋のベッドだった。
「あれ、俺……」
「悠平、気がついたか?」
静かに兄は部屋に入り、ベッドに腰かけた。
「地下室で気を失って倒れたんだ。頭は打ってないと思うけど…どこか痛むか?」
「いや、大丈夫…ありがとう…」
するっと顔を撫でられ、俺はびくんと反応した。
「まだ顔色が悪いな。…お前は体が弱いからな。よく倒れるのか?」
「倒れたのなんか初めてだよ。それに体も弱くないから大丈夫」
眉を下げ、少し悲しそうな表情で兄はため息をついた。
「お前は小さい頃、体が弱かったから…」
「ガキん時から健康優良児だったよ。もう平気だから、ありがとう」
やたらと心配する兄に、俺はへへ、と情けない笑いを返した。その瞬間、体が兄の方へ引き寄せられた。
「…っ!?なっ…」
首筋にキスをされ、俺は反射的に兄の頭を叩いた。
「何すんだよ!」
「……悪かった。つい…」
兄は顔をそらしたが、その表情に悪びれる様子はない。
「つい、って何だよ!つい、って…意味わかんねぇ」
俺が声を荒げると、兄はそそくさと部屋から出ていった。
翌日、できるだけ兄に顔を合わせないようにしてバイトに出かけた。
「あっははは!やばい、くっそウケる」
「笑いすぎだろ…マジでキモかったんだから」
兄との一部始終を話すと、バイトの後輩はゲラゲラと笑い転げた。
「都筑さん愛されてんじゃないっすか~?ほら、何だっけ、シンキンソウカン?っていうんだっけ?」
「近親相姦だろ。っていうか違うから。そういうんじゃなくて、マジで頭おかしいんだよアイツ」
そう、頭がおかしいのだ。庭も部屋も地下室も薔薇だらけで気味が悪い。おまけに、俺が見たアレは何だったのか。
「そのヤバいお兄さんって何の仕事してんすか?」
「大学教授だよ。ドイツ?の文学かなんかの…肩書きだけはご立派なんだよなぁ」
後輩は肉まんのスチーマーに電源を入れながら、ふーんと頷いた。
「どこ大ですか?」
「○○大学。国立の」
「俺、都筑さんのお兄さんのこと知ってるかも…」
「えっ!?マジで、なんで知ってんの?…あ、いらっしゃいませー」
客の対応をしながら、俺は後輩が兄を知っていることに驚いていた。
「なんで?どういうルートで知ってんの…?変人すぎて有名とか?」
「俺、○○大学のインカレサークル入ってるんですけど、そこで一緒になった○大のヤツが言ってた教授に似てるなーって…」
「なんて言われてんの?」
後輩は少し申し訳なさそうに呟いた。
「白薔薇男爵」
「…………」
まんますぎて、俺は何も返せなかった。俺の反応を見た後輩は、少し慌てた様子でフォローした。
「いや、あの、アレですよ?白バラっていってもコーヒーの方じゃなくて…なんか研究室にめっちゃ薔薇飾ってあるらしくて…」
「…うん、大丈夫、家でもめっちゃ薔薇植えまくってるからアイツ」
近所だけじゃなく大学でも変人としての噂が立っているとは。
家が復活するまでとはいえ、このまま白薔薇男爵に世話になるべきか否か、俺は悩んだ。
行くあてもなく、荷物も置きっぱなしの俺は、結局兄の家に帰ってきた。部屋に戻ろうとすると、兄が俺を呼び止めた。
「……おかえり、遅かったな。帰ってこないんじゃないかと思って心配してたんだ」
兄は書斎で仕事をしていたのか、眼鏡をかけたまま現れた。
「お、おう…今日は中番だったから…」
ほっとしたような顔で兄は俺に近づいた。昨晩のことを思い出して、俺はとっさに身構えた。
「………何もしないよ。夕食置いてるから」
「あ、ありがとう…」
兄はハウスキーパーを雇っているが、いわゆる住み込みのお手伝いさんがいるわけではない。
この薔薇だらけの屋敷には、俺たち兄弟しかいない。
「変な兄」と二人きりの生活に、不安を感じずにはいられなかった。
(第3話に続く)