隣で寝ていた金が、震えと共に飛び上がった。
何事かと身を起こせば、呻き声が聞こえる。
荒い呼吸と、空気を吐き出す濁った音。
「…大丈夫か」
「ク、オェ…!」
声をかければ、一際強い震えと嘔吐。
無味無臭の僅かに紫に濁る吐瀉液を見た。
蹲って丸くなり震え続ける金に、どうすればいいのかと戸惑う。
記憶が失われているせいか、何かおかしい。
周囲に雷光虫が飛び始めたのを確認し、身を起こした。
●
碧い瞳が私を囲む。
うるさい、うるさい、うるさい。
全身が血で黒ずみ、体が夜闇に溶けていく。
息が苦しい。
吐き出した吐瀉は黒く、雷光虫の光だけがよく見えた。
ああ、いつもの虐めが始まる。
隠れなければ、守らなければ。
軋む様に筋骨が悲鳴を上げている。
それでも逃げなければ。
───ぐいと、体が引かれた。
紫の瞳が見える。
碧ではない、美しい色。
白黒の竜が、尾で私の体を巻いていた。
「があ」
『あれ…ここ、は…』
先程迄の闇が嘘の様に、月明かりが眩しい。
碧の瞳など見えず、虫の小さな鳴き声が遠くに聞こえていた。
「しゅい、しい」
『…えっと』
夢でも見ていたのだろうか。
白黒の竜の体に顔を擦り、匂いを嗅ぐ。
やはり落ち着く匂いだ。嫌な気分が霧散していく。
嫌がる素振りも見せないされるがままの白黒の竜に、甘く噛み付いた。
「るぅあ…」
喉から出た甘えた声に、自分でも驚いた。
出した記憶も無いような声が勝手に出たのだ。
少しばかりの羞恥心に、顔を背ける。
体に巻きつく尾からひんやりとした体温を感じ、心が緩んでいくのを自覚した。
「しぃ…」
『いい匂いだね』
「くぁ」
大きく欠伸をして、紫の瞳が瞼に隠される。
眠る事は出来ないが、白黒の真似をする様に目を閉じた。
考えられないほど、幸せを感じている。
これは夢で、さっき見た恐ろしい光景が現実ではないのかと、考え始めている自分がいた。
知ってる姿はどこにもいなくて、見覚えのある嫌な場所でもなく、知らない場所で、好きな匂いのする竜だけが近くにいてくれる。
こんなに幸せな事が、あり得るのだろうか。
眠ることができない。
眠ってしまえば、この夢から醒めてしまう気がして。
『…違う竜とでも番になれたらな』
どこか幼い表情を歪め、望みを口にした。
それが既に叶っている事を、思い出せずに。
○
「…もう起きてたか」
目を覚ますと同時、金が充血した瞳でこちらを覗き込んでいてビクッと震えた。
体を伸ばし、眠気を払うように顔を振る。
金の体から若干紫の斑点が減っているのを見て、頬が緩んだ。
「ぐるる、わふっ」
「ん、どうした」
「がう、がぁがああ」
「いででで」
ぐりぐりと頭を押し付けられ、甲殻が皮に擦れる。
甘えているのか押し退けようとしているのかいまいち判別がつかないので戸惑っていれば、舌でこちらの爪を舐め始めた辺りで甘えているのだと気がついた。
「構ってほしいのか?じゃあ久々に毛繕いでもしてやるよ」
金を優しく座らせると、背の毛を舌で軽く撫でていく。
雷光虫をうまく集められないのか、ここに来てから雷を放つ様子は無い。
時折静電気のように金の雷が毛を走る事はあるものの、そもそも雷光虫が寄せられる様子すら無いのは少しおかしいとは思う。
とろりと表情を緩めてされるがままの金を見ながら、どこまで忘れているのだろうかと考える。
言葉は思い出せず、気を許してくれてはいるものの、どこか不慣れさを感じるのはこちらを忘れているからか。
金が渓流にいた時の過去など知らず、一体いつから“喋れた”のかもわからない。
「…終わったぞ」
「うるる…わふっ」
嬉しそうに目を細めた金の可愛らしさに、庇護欲が掻き立てられる。
番というよりは子を見守るような感覚を覚えて目を瞑った。
今度は金が這い寄り、こちらに毛繕いをし始めたものの、その動きは拙く、不慣れを越えてやり方がわからないようにも見える。
「そういやお前は群れにいなかったな」
孤島にいた頃はそんなに下手でも無かったのだが。
───言葉を教えた存在が、毛繕いの仕方を教えたのだろうか。
そんな事を考えながら、自分の毛を軽く舌で整える。
「舌でこうやって、こうだ。やってみろ」
「う、ぐる…?」
難しそうに四苦八苦する金に、少しばかり心が暖かくなるのを感じた。