ねっとりと絡みつくような湿気を含んだ夏の空気は、太陽の陽が沈もうと変わらずにそこにあり続ける。
それはとても不快に。
ゆったりと私の身体を包み込んだ。
「…っ、せ、先輩…」
同じ空の下で向かい合っているにも関わらず、先輩は涼し気な表情で自らのシャツをたくし上げ続ける。
汗一つ掻いていない綺麗な肌に、その痣は主張し過ぎなくらいに目立っていた。
…同じ、痣…。
どうして…。
「前にお前と例の神社に行ったろ」
「っ。私を下に待たせて…、先輩は隠れてお参りしていたんですね」
「物は試しにな」
「そんな…っ、…そんな危機察知能力が低い人ではないですよね?」
「…まぁな。危機察知と危険管理には定評がある」
先輩の少しふざけた解答に、私のお腹から小さな怒りが込み上げてくる。
バカなんですか?
その痣は、願いが叶わないと消えないんですよ?
それなのに…。
それなのに。
「…っ、な、なんでそんなお参りをしたんですか!…また、自己犠牲ですか?……私は…」
私はそんなこと…、お願いしていませんよ…。
私のために、先輩が余計な傷を付ける必要はないんですから…。
すると、私の上げた声に、先輩はたじろぐどころか笑いながら頬をかいていた。
しなやかに伸びた手を私の頭に置きながら、まるで陽だまりのように暖かい言葉を呟き始める。
「…おまえだって、直ぐに自分を犠牲にするじゃねえか」
「っ」
「おまえの願い事、俺に迷惑が掛かると事なんだろ?変に嘘をついてもバレバレだぞ」
「う、嘘なんかついて…っ」
「…学校の屋上でおまえと痣の事を話したとき、『自分でなんとかする』って言ってたよな?」
「……はい」
「一色…、あのときのおまえ、昔みたいに装った表情をしていた」
「…せ、先輩に私の何が分かるっていうんですか…」
穏やかに流れていた緩い風が、途端に目を覆いたくなるくらいに強く吹き付ける。
私はまるで、親に叱られる子供みたい。
嘘に嘘を重ねても、結局は晴れてしまうんだ。
「…おまえのこと、結構知ってるぞ」
「っ!」
ドクンと、心臓が一つ大きなハードルを飛び越えた。
…これ以上はだめですよ。
私を期待させないで…。
これ以上好きになったら…、私はフられてしまったときに壊れちゃうから。
「…止めてください…。もう、私が先輩をどう思ってるのか知ってるんでしょ?……でも、先輩は優しいから…」
「…あぁ。なんなら願い事だって本当は想像が付いているんだ」
「……はは。バカですよね、私。…本当にバカです」
先輩を欺くことなんて出来るわけがないんだ。
すると優しく撫でられていた頭から手が離れ、先輩は小さく溜息を吐く。
「…俺を困らせる願い事…。はぁ、おまえって奴は…」
……引いてますか?
エッチがしたいだなんて願う女の子を。
あなたは優しく包んでくれますか?
「おまえ!!この世界からマッ缶が無くなりますようにと願ったな!?」
……。
…。
こいつのこんな所もちょっと可愛いんですよね。
偶にアホな所っていうか、シリアスをぶち壊す所っていうか。
とりあえずお腹にワンパンを食らわせておきましょう。
「せい!!」
「ぬっ!?」
「……見当違いにも程がありますよ。少し頭を冷やせ」
「ぐぬぬ」
お腹を押さえながら恨めしそうに私を睨みつける先輩を、私はゴミでも見つけたかのように見下ろす。
いや本当に、これがラブコメならもう最終回の一歩手前くらいの雰囲気でしたよ?
キーパーの後逸したボールがゴールの目の前に転がってる状況でしたよ?
「…はぁ、先輩って本当に先輩ですね。先輩過ぎてマジで先輩です」
「何を哲学のようなことを言ってるんだ…」
「…私、先輩とエッチがしたいってお願いしたんです」
「…ほ、ほぅ…。そ、それはまたアウトソーシングでエキセントリックなシチュエーションだな」
「先輩とエッチがしたいって神様にお願いしたんです」
「…ふむ。それはまたスパークリングな……」
「先輩とエッチが…」
「何回言うんだよ!」
先ほどまで涼しい顔で余裕たっぷりな態度を取っていた先輩は、額から流れるような汗を流しつつ私の頭を軽く叩いた。
もう言ってしまおう。
何がどう転ぼうと、この混沌とした流れは変わるまい。
それならば、少しでも私の想いを伝えて、この無頓着な鈍感男を悩ませてやるんだ。
「…はぁ、何をトチ狂ってんだ?訳の分からん嘘をつくような奴でもないだろう」
「はい。意味の無い虚言は吐きません。だから今の私の言葉は本当の事です」
「ふざけた事を…」
「ふざけてません」
私は先輩の腕を掴む。
呆気に取られた先輩を良いことに、私はその腕を自らの胸の位置まで持ち上げ、胸に手を無理矢理押し当てた。
むに
「……は?」
「これでも、信じてもらえませんか?」
「……っ!」
ばっ、と逃げるように手を引いた先輩は、焦っていますと言わんばかりに顔を赤らめ、睨むように私の瞳を見つめる。
恥ずかしいがることはないんですよ、先輩。
普段からベッドの上でお世話になってるじゃないですか。
「いつも、夢の中で先輩の肌を触っています。気持ち良くしてもらってます」
「…止めろ。若い女の子が言うセリフじゃないぞ」
「止めません。だって、今日だって家に帰って目を閉じれば、また先輩の指が私のイヤラシイ所を擽るんですから」
「……止めろ」
先輩は下を向く。
声に震えもあるような。
拳を握った指先が手の平に食い込んでいる。
あぁ、先輩……。
怒っているんですね。
呆れているんですね。
後悔しているんですね。
「今夜も私の中でいっぱい出してくださいね」
「止めろ!!!」
嫌悪感を向けられる。
それがこれ程に辛いものだとは知らなかった。
先輩がいつも1人で感じていた痛みって、こんなにも悲しくて、辛くて、切なかったんですね。
でも、これでいいんです。
ほんの少しの間でも、先輩に照らされた色鮮やかな思い出は消えることはないんですから。
この小さな幸せだけで私は充分です。
先輩……。
「……ありがとうございました」
込み上げてくる涙を我慢する。
早くこの場から逃げ出したい。
それなのに、足が地面に張り付けられたみたいに動かない。
動いて…、早くここから消えさせて。
「……」
「…俺は神様なんて信じてない」
「…っ?」
「神様が居るなら、少しくらい俺にも良い夢を見させてくれるはずだろ」
「……な、何を」
突然に、私の身体は強い力に引っ張られ、暖かくて甘い香りに包み込まれる。
先輩の腕が私の背中に回り、力強く、しっかりと、それは離されないようにとしがみ付いていた。
耳元を擽る先輩の声。
なびく髪。
夢じゃないのに、先輩がこんなに近くに居るなんて。
「夢の中でも、現実でも、何でおまえは俺から離れて行こうとするんだよ」