頭が、割れそうだ。
痛みを堪えながら起き上がろうとした僕は、そのままベッドから転げ落ちた。
転ぼうとする動きに逆らったのでかなり離れている勉強机までつんのめり、椅子に激突。倒れ込んで来た椅子を退かす余裕も、立ち上がる力もない。
出来るのは、床で体を丸めて痛みに耐える事だけ。
「ぐ…… ああっ!」
朝の陽射しが、カーテンの隙間から漏れている。
今日は終業式で、明日からは夏休みだ。
「いったあっ。……ヤバイね、これは」
階段を駆け上がる足音が聞こえる。
「……起こしちゃったか」
「どうした、天斗っ!?」
大きな音を立ててドアが開く。
母子家庭なので、姿を見せるのは1人しかいない。
長い黒髪を後頭部で括り、トレードマークの赤メガネをしている。就寝中に僕が立てた物音に気が付き、駆けつけてくれたのだろう。
この家は広いので寝ていたり仕事に集中していたら物音を聴き取れなどしないだろうから、徹夜明けか。
パンツしか身に着けていない母さんが荒い息を吐くたび、たわわな胸が揺れる。
「起こしちゃったかな、ゴメンねえ」
「いい。それよりどうしたっ!?」
「・・・アタマ、痛くて」
部屋の電気を点け、僕に手を伸ばした母さんの表情が曇る。
「すまない。やはり、まだ高1の天斗に伝えるべきではなかったね……」
「え? ああ。昨日の話は関係ないよ、たぶんだけど」
「そんな訳はないだろう。立てるかい?」
「う、ん。……だいぶ楽になって来たかな」
「ムリはしなくていい。寝てるんだ。学校へは、病欠すると連絡をしておく。夏休み前の最後の日に友達と会えないのは寂しかろうが、体の方が大事だからな」
「学校を休めるのはありがたいかなあ」
母さんの手を借りて立ち上がる。
そのままベッドに導かれそうになったけど、僕は足を廊下に向けた。
……ああ、母さんじゃなかったんだっけ。
そう思った自分を、心の中で叱りつける。
昨日、16歳の誕生日に打ち明けられた。本当の母親は、僕が赤ん坊の時に死んでしまったそうだ。そして、母さんが僕を引き取ってくれた。
甘やかされているなあと思う時もあるけど、僕が悪い事をすれば母さんは本気で叱ってくれる。だから血は繋がっていなくとも、母親に変わりはないはずだ。
「本当に寝てなくていいのか?」
「うん。リビングで少し休んだら、良くなると思う。ねえ、聞いて欲しい話があるんだけど」
「体調が良くなったらな」
部屋を出てリビングに行くまで、ずっと母さんが肩を貸してくれた。
ソファーに倒れ込むように座ると、母さんは受話器を持ち上げてダイヤルを回し、学校に病欠すると電話をしてくれたようだ。
戻って来た母さんにありがとうを言う前に、汗を掻いたペットボトルが差し出される。
「スポーツドリンクだよ。飲めるかい?」
「ありがと……」
スポーツドリンクを飲みながら、ポツポツと僕の身に起こった不思議な現象を話す。
ちゃんと聞くから具合が良くなるまで待てと何度も言われたけど、母さんは折れてインスタントコーヒーを飲みながら話を聞いてくれた。
「1晩で40年と少し生きた男の人生を経験した。それも男女の立場が逆の世界の、だって?」
「うん。夢にしてもキツかった。40年だよ、40年。体感的には、ずうっと寝っぱなしで40年間ムリヤリ映画を観せられてる感じ」
「……それは苦しいだろうな。タバコ、吸っていいかい?」
「もちろん。どうぞ遠慮なく。……あれ、なんかいきなり楽になった」
母さんが愛用のライターでタバコに火を点ける。
僕の手も1本箱から取ったのを見て、その火はこちらに向けられた。
「ほら」
「ありがとよ。……ふうっ」
あれ?
「な……」
「どしたい、姐さん?」
「ナチュラルにタバコ吸ってんじゃねえ、高校生!」
体が動かない。
声も出せない。
それにこの話し方は……
「火を点けてくれたのは姐さんだろうが。まあいい。高校生、ねえ。ま、俺の方が表に出てるときゃ、高校生って扱いはやめてくれや」
そう言ってタバコをもう一度唇に運ぶと、母さんの視線はそれだけで人が殺せそうなほどに鋭さを増した。
体が動かない。声も出せない。
間違いない。
今のこの体を動かし、母さんにぞんざいな口を利いているのは僕じゃない。
違う世界で死んだはずの男、八和田丈二だ。
「……オマエ、誰だ?」
「はじめましてだ、異世界人。八和田丈二、なぜかアンタの息子の中に入っちまった男だよ」
「天斗はどうした! 無事なんだろうな?」
「当然だ。今は寝てるようなもんさ」
「……そうか」
母さんが安堵の表情を見せる。
だが、その瞳は酷く困惑しているようだ。
「ずいぶんと蓮っ葉な口調だが、アンタは小説家なんだって?」
「……それがどうした」
「この状況を二重人格なんかの精神疾患だと決めつけて精神病院に行かせたりすりゃ、まだ16でしかねえ天斗の人格が歪みかねねえ。それは理解してるな?」
「……ああ」
「どうしてこうなったのか、俺にも天斗にもわからねえ」
「二重人格でないとすれば何だ。まさか、憑依だとでも言うのか?」
「だからわかんねえっての。だが、俺はもう死んだ人間だ。この状態が憑依なんていうオカルト現象だったとして、消える事が出来るなら否はねえ」
「ほ、本当か!?」
「ああ。でもよ、霊媒師でも呼ぶのか? 本物がいねえと断言はできねえが、あんなんインチキ詐欺師ばっかだぞ」
「それは……」
母さんが腕組みをして背筋を伸ばし、思考に集中する。実に女らしい仕草だ。
そんな母さんに、八和田丈二はある提案をした。
それはまだ16歳の高校生でしかない僕を、母さんと八和田丈二がサポートしてこんな状況になった原因を探り、出来るならこの体を僕だけのものに戻すという提案だ。
「ありがたい申し出ではあるが……」
「受けるしかねえと思うがな。ああ、それと死んでるとしても俺は人間なんだよ。わかるかい、姐さん?」
常識で考えたらあり得ないこの状況を、母さんはすんなりと受け入れた。それは、母さんの小説家という職業に関係しているのだろうか。
そして母さんが八和田丈二を睨む瞳には、わずかながらの、それこそ長年一緒に暮らした僕にしかわからない程度の、同情らしき感情が見える気がする。
「……何が欲しい?」
「たまに部屋でビールでも飲みながらタバコを吹かして、天斗の読まねえジャンルの本でも読みたいね。2、3日に数時間だけでもいい」
「それだけか?」
「正直、迷ってんだ。博打はこの見た目じゃムリだろ。女を買うのもだ。まあ、勝っても使い道がねえから博打はいい。女は適当に拾ってこの家に連れ込むしかねえんだが、そうなると天斗に妙な噂がな」
「そうか。オマエがいた世界は、天斗が夢で見たという……」
八和田丈二が力なく笑いながら煙草を灰皿で揉み消す。
「そりゃ俺の人生だよ。さっき天斗が話しただろ。こっちとはずいぶん違うぜ。天斗の記憶を少し見たが、ここは西暦2299年になってもあっちで言う昭和の生活水準。歴史的には元寇もペリー来航もなく、維新も回避して徳川幕府が存続。世界大戦も起こってねえんだから、科学の発展が遅いのはその平和過ぎる時代の流れのせいかもな」
「……小説家としては興味深い話が聞けそうだな」
「ネタならいくらでも提供するぜ?」
「オマエの頭が悪くないのはわかった。少し考えさせてくれ」
「そっちも、期待通り頭が回る。まあ、ゆっくりと考えな」
八和田丈二が立ち上がる。
向かったのは、キッチンだ。
(聞こえるか、天斗?)
肉声じゃない。
なのに僕は、その声をはっきりと聞いた。
(き、聞こえる・・・)
(ならいい。さっきあの姐さんと話してたのは、天斗にも関係がある事だからな。オマエもきちんと考えろ)
(ど、どういう意味?)
(察しがわりいなあ。俺は天斗の中にいる。理由はまったくわからん。そして、その体を自由に使える。そこまではいいな?)
(う、うん)
八和田丈二は小さなビアグラスを2つお盆に載せ、冷蔵庫を開けた。
(俺の人生は見てたんだろ、何からナニまで?)
(……うん。ご、ごめんなさい)
(謝る必要はねえさ。恥の多い人生だったが、退屈はしなかっただろ? 前半は子役が主役の悲劇、中盤は低予算のアクション映画で、最後の方はポルノムービーだ)
(僕には刺激的すぎたけど……)
(まあ、こっちじゃ大人しくしてるつもりだ。天斗と、あの姐さんが協力してくれるならな)
(協力?)
瓶ビールを取り出して八和田丈二は歯で栓を抜き、王冠を流しの三角コーナーに吐き捨てる。そしてダイニングチェアに座り、ビールをグラスに注いだ。
(そう、協力。考えても見ろ。この世界で俺が気に入らねえヤツを殴ったりすりゃ、報復や逮捕をされんのは天斗だぜ?)
(うえっ……)
(ぷはあっ。美味え! こっちでもビールの美味さは変わらんな。さっきおまえの記憶を見たが、こっちの世界にもクズは多いみてえじゃんか)
(あっちの世界よりはマシだと思うけど……)
(まあな。だからこそ、ここまで生活水準が低いんだろ)
(スマホどころか、インターネットもないもんねえ)
(固定電話とカラーテレビは、ほとんどの家庭に普及。でも、クーラーとビデオデッキがある家はお金持ち。携帯なんてあるはずもない。まんま昭和で笑えるよな。で、何が言いたいのかっつーと、俺が何かすりゃそれは天斗の罪になるって事だ)
(そうなるよねえ)
(なる。確実にな。大事件なら精神鑑定で不起訴ってセンもあるが、昭和の取り調べはキツイぜえ?)
(僕が犯罪者。何もしてないのに。……考えたくもない)
(だろう? だから、たまにでいいから息抜きをさせろって言ってんのさ。これは僕の体だから貴方には使わせたくありません。なんて言われたら、ブチ切れた俺は俺として天斗の人生を生きるだろう。好き勝手に、な)
2杯目のビールを飲み干し、八和田丈二は立ち上がった。
また冷蔵庫を開け、漬け物と昨日の残りのおかずを盆に載せる。開けていない瓶ビールも1本追加したところで、その動きが止まった。
(どうしたの?)
(そうだ。俺の意識が出てる時、天斗もそれを経験してるのは内緒な。もし勝手に誰かに話したら、この体で毎晩女漁りに行くからな)
(な、なんでっ!?)
(なんででも、だ。約束だからな。ビールとツマミ、姐さんに持ってってやれ。飲まなきゃやってらんねえはずだ。言っとくが俺は、料理以外の家事とかしねえから。栓抜きの場所もわからんし。じゃあ、また後でな)
(ちょ、待って!)
数秒間キッチンに突っ立って返事を待ったけど、八和田丈二は何も言わない。
仕方がないのでため息を吐き、引き出しの栓抜きを追加したお盆を持ってリビングに戻った。
「お待たせ」
「……天斗?」
「うん。飲まなきゃやってられないだろうから、持ってってやれだって。あ、その。そう書いてあるメモがキッチンにあったんだ。はい、グラス」
栓を抜き、グラスにビールを注ぐ。
母さんはその湧き上がる泡を見つめて、視線を動かさない。
「……天斗は、どんな男の人生を見たんだい?」
「女より男が強い世界。科学はここよりもっと発達してた。いや、同じくらいだったけど途中から急激に発展したのかな。その男、八和田丈二は虐待児童からヤンキー、ヤンキーからチンピラ。チンピラからヒモにクラスチェンジして、最後は昔の女に刺されて死んだ。そういえばヤンキーとチンピラの間に、ホストもしてたっけ」
「クズじゃねーか」
「でもねえ。僕と同じように両親に死なれて、母さんみたいな優しい人には出会えなかったんだよ。……酷い親戚の家に引き取られて朝から晩までオモチャかサンドバッグかって状態で育てられ、そんな地獄から抜け出すために家出。住む家もない中学生にロクなバイトなんて出来やしないでしょ。道を踏み外しても、仕方ないって思うんだよねえ」
母さんの煙草から、灰がポトリとテーブルに落ちる。
「真っ当に生きられる人間は、どんな状況からだって這い上がるさ」
「厳しいねえ、姐さん。その一言で、どんな話をしてたのかわかっちまうぜ」
「……あん?」
「この世界じゃ、女は男より力が強いんだろ? だから女は出産こそするが、ほとんどの家庭は男が子育てをする。俺の世界とは真逆だ」
「……それがどうした?」
「前の世界じゃ女性蔑視だって言われるから口に出せなかったが、妊娠から出産までの期間にゃ仕事の効率が落ちるだろ。それなのに数百年、ヘタすりゃ数千年か。それだけの時間を女性上位で社会を動かしてんだ。種の進化って視点で言やあ、どんだけの時間をムダにしてんだろうなあ?」
「世界中の女にケンカを売ってんのかい、クズ男さんよ?」
母さんが拳を握りしめる音がリビングに響く。
「いやいや。こっちじゃ毎晩、大勢の女が男を犯してパクられんだろ? そんな素晴らしい女って生き物に、ケンカを売ったりするかよ」
「……テメエ」
「おお怖え。小説家なんてご職業でいらっしゃるのにその目つきかよ。おっかねえなあ、こっちの女は」
「表に出ろ、クズ」
「嫌だね。腕力じゃどうやったって女には敵わねえんだろ? 誰が行くかよ。犯されたら困るしな。ああ。オナニーも激しいんだって、こっちの女は? アンタも毎晩ヤッてんだろうなあ。コイツ、天斗とは血が繋がってねえんだろ? 昨日の夜、それを打ち明けた時の記憶は見たぜ。なあ、やっぱオナニーのオカズはコイツか? くくっ……」
「テメエ、ブチ殺すっ!」
母さんがテーブルに置いてあるクリスタル製の灰皿を掴んで振りかぶる。
そんなので殴られたら死んじゃう!
思うと同時に、僕の体は自然に動いていた。
「なっ!?」