煙草の灰がリビングに舞う。
振り上げられた母さんの手首を握っているのは、間違いなく僕の左手だ。それは、力づくで僕を押し退けようとする母さんを、片手だけで押さえ込んでいる。
僕のどこに、こんな力が……
「ぐうっ」
「咥えタバコで人を殴ろうとすんじゃねえよ。しかもこんな重い灰皿で。ヤクザかっての」
母さんの歯を食いしばる音がリビングに響く。
「は、離せっ!」
「嫌だね」
灰皿を空いている手で奪い、テーブルに置く。その手はそのまま、母さんの唇に伸びた。
フィルターに噛み跡の付いた煙草を取り、唇の端を持ち上げるようにして一口吸ってから、八和田丈二はそれを灰皿で揉み消す。
そして頬の筋肉を持ち上げ、美味そうに煙を吐いた。
「こんなの、天斗の腕力じゃない!」
「だな。だからいざとなれば力づく、なんて考えは捨てな」
「……そんな事は」
「思ってねえって? まあいい。それより、下を見なよ」
「下?」
手首を掴まれたまま、母さんが床を見る。
「そうじゃねえ。俺の下半身だ」
「なにが、……っ!?」
八和田丈二が下を向く。
さっきから感じていた違和感は、これか……
薄い夏物のパジャマ生地を押し上げ、これでもかとばかりに自己の存在を主張する怒張した男根。
僕は、精通が来ていない。勃起の経験もない。
だから俗に言う、『種なし』なんだと思っていた。
「俺の世界じゃ、男は猿より簡単に発情する生き物でな。パンツは色気のねえボクサータイプにしても、アンタみてえな別嬪が上半身裸はマズイって。そりゃ、こうなる」
「た、天斗は!」
「残念だが、こっちで言う『性交渉可能者』じゃねえ。おそらくだが、『種なし』だ」
「そん、な……」
母さんの顔が歪む。
この国の男には、16歳の誕生日から2年間の間にある検査が義務付けられている。
精液検査。
体調の良い日に病院に出向き、精子採取室で監視されながら自慰をする。医者に精子を提出するためだ。日を改めても3回連続提出できなければ、女性の医者か看護師、精液採取官による直接検査。そこでまた3回連続で勃起しなければ、『種なし』の烙印を押されるのだ。
男性の性器は敏感なので、強く擦ると出血してしまう。それでもセックスが出来なくても穏やかな自慰で射精が可能なら甲種の、そうでなくとも睾丸で精子が生産されているのなら乙種の『精子提供可能者』になれる。
『性交渉可能者』、『精子提供可能者』、『種なし』の3種では税金から福利厚生、利用できる国家施設の種類まで違うのが世界的な常識だ。
「だが、天斗が『性交渉可能者』になれる可能性は高い」
「ほ、本当かっ!?」
やはり息子が『種なし』なのは嫌なのか、母さんが喜びを露わにする。
八和田丈二は微笑みながら頷いたようで、それから母さんの手首を離してそのまま隣りに座った。
「考えてみなよ。この体は天斗のだ」
「……そ、そうか」
(ちょっと、近い。近いって八和田さん!?)
(今、交渉の大詰め段階なんだ。黙ってろ)
八和田丈二が母さんの肩を抱く。
(ちょ、母さんに何してんのっ!?)
(体は動かせねえけど感覚はあるだろ、天斗?)
(え。ああ、うん)
(股間に集中してろ。これが、男が女を求めてる時の感覚だ)
(……なんか、抵抗できない不思議な力でムリヤリ固くされてる感じ)
(俺のいた世界じゃこんな肉欲に身を任せ、一生を棒に振る男も多い。見てただろ?)
(うん。ねえ、それより母さんの頭を撫でるのやめてくんない?)
(いいから股間に集中しながら、この姐さんを見ろ。どう思う?)
(どうって……)
母さんは考え込みながら僕の手を肩に回されているが、それを振り払おうとはしない。
八和田丈二がもっと抱き寄せたりすればどう動くかはわからないけど、今は考える事を優先しているようだ。
(見ろよ、このでっけえおっぱい。天斗もあっちのセックスは知ってんだろ。なんとも思わねえのかよ?)
(そりゃずっと見てたから。それにしても凄いね、この男性器は。この世界の男は男性器が貧弱だから、こんなに勃起する人なんてAV男優にもいないはず)
(だからチャンスなんじゃねえか)
(チャンスって?)
母さんが視線を上げる。
そして肩に回されている手を僕の膝の上に移動させた。
「つまりこちらの世界にも、天斗のように筋力等が女に劣っていない男もいると言いたいんだな?」
「ナニもな。肉体的には勃つのに、精通が来てねえのかもしんねえ。精神的な問題かどうかはまだわからんがよ」
「わざとぼかして言ったのに。オマエは女みたいにデリカシーがないな」
「褒め言葉だね。で、この体がセックスを覚えたとしたら、飽きるほど繰り返してその行為が身に染みついたとしたら、どうなる?」
「……その時になれば、心より先に体が反応すると?」
「まあ、やってみにゃわからん。だが俺の想像じゃ、『種なし』の人生はかなりキツイだろ。姐さんは天斗に隠してたみたいだけどよ」
すっかり泡がなくなってしまったビールを母さんが呷る。
タンッ、っとグラスがテーブルに戻された時の音には、怒りのようなものが感じられた。
「小説家なんてやってると、世の中の見なくていい部分まで観察する癖がつく」
「だろうな」
「……『種なし』は税金が重い。男で高給取りがいない訳ではないが、普通の会社でお茶汲み係なんてしていたら食うや食わずの生活だろう」
「だから、結婚する?」
「……そうだ。そして女の性欲と、子供を産みたいという欲求は恐ろしいほどのものだ」
「俺のいた世界にも好きモノの女は多かったが、それ以上なのか?」
「あたしはその世界を知らん。比べようがないだろうが」
「そうか。……あ。エロビデオとかあったら、今度貸してくれよ。そこのブラウン管テレビの下にあるの、ビデオデッキだろ?」
「そ、そんな物はないっ! 話を戻すぞ」
「へいへい」
八和田丈二が2つのグラスにビールを注ぐ。
それを持ち上げたのは、僕の手だけだ。
「富裕層や容姿に恵まれた女は、まず『性交渉可能者』を娶ろうとする」
「ま、そうなるわな。でも、かなり数が少ねえんだろ?」
「18世紀初頭に人工授精が可能になってからは、なぜか数を減らしているらしい。次に選ばれるのが、交配管理局から赤紙が届いて3ヶ月以内に精子提供していれば税金の安い甲種、それから乙種の『精子提供可能者』になる」
「同じように養うなら、金のかからない方が良いか。世知辛いねえ」
「それに結婚相手が『精子提供可能者』なら、自分の婿の子供を好きなだけ産める訳だからな」
母さんが煙草を咥える。
僕の手も、すぐさま箱に伸びた。
「『種なし』を婿にすると、子供を産むのにも余計な金がかかる?」
「当然だ。それにその子を育てるのは婿、つまり『種なし』なんだぞ。舅でもいてそれが『精子提供可能者』だったなら、他人の子を育てながら毎日イビられる」
「……キツイなあ。男は結婚したら家事育児、それに嫁さんの性欲処理もすんだろ?」
「だろうな。いつか天斗を婿に出すとして、主に心配なのはそれだよ。ニュースや新聞でよく痴情の縺れで殺人事件なんて言うが、半分くらいは寝室での出来事だという話だ」
「この生活水準なら、大人のオモチャだって流通してるだろうに」
「それはしているさ。レンタルビデオ店の成人コーナーには、いろいろな種類が売られている。本屋なんかにもな。今時の中学では女生徒に、保健体育の授業でピンクローターを無料配布するらしいし」
「ならなぜ?」
母さんが苦笑いしながらグラスを呷る。
それに僕の手が酌をするのだが、八和田丈二はわざと肌と肌が触れ合うようにしているようだ。
「男は、女の臭いを嫌う。そして女は逆に、男の匂いを求める」
「……なんだって?」
「本当なんだよ。特に発情した女の臭いは、男にとって耐えられないほどの悪臭だそうだ」
「マジかよ。こんないい匂いなのに……」
「かっ、髪を嗅ぐなっ!」
子供が嫌々をするようにして、母さんが横に逃れる。
「まあ、美和の香りを愉しむのはいつでも出来るか」
「えっ……」
「どした?」
「あたしの名前……」
「ああ。天斗の記憶は自由に見られるからな」
「なるほど」
(まあ、ちっとばかり頭痛がするらしいけどよ)
(あの痛みはそれが理由ですか)
(そうだよ。で、どうだ? 姐さんの匂い、嫌いか?)
(……昨日までは少し体臭が気になったけど、今はそんなに嫌じゃないかな)
(一歩前進、だな)
(僕が『性交渉可能者』になるための第一歩?)
(ああ。徐々にでいい、意地でも慣れろ。女を抱くって事にな。こんな世界じゃ、そうでもしなきゃ成り上がれねえぞ。言っちゃ悪いが天斗は顔がちょっといいぐらいで、他に取り柄がねえんだから)
そう言われても、なんと返したら良いのかわからない。
「天斗の体で、美和の匂いが嫌だと感じない。勃起もする。それに確認しちゃいねえが、そんな敏感じゃねえぞコレ」
「体内で精子を作れない男が3割。充分に潤っている粘膜との接触でも苦痛を感じ、少しでも潤いが足りなければ出血までするのが男性の5割。残りの2割からそっち関係の障害のある人間を抜いたのが近代の『性交渉可能者』のはずだ」
「ふむ。とりあえず擦ってみっか」
「パジャマのズボンに手をかけるなっ! やるなら天斗の部屋に行けっ!」
「あのなあ、美和」
「な、なんだ……」
こちらを見た母さんが怯む。
顔の筋肉の感じからすると、今の僕が浮かべているのは真剣な表情だ。
「さっきも言ったはずだ。わからない事だらけで、天斗も俺も困っている。それは理解できるな?」
「あ、ああ……」
「僕の中に違う世界で死んだはずの男がいて、体を乗っ取られたりします。そんな事を他言したら、天斗はどうなる?」
「間違いなく、病院に連れて行かれるな」
「だろう? だから俺と天斗には、美和しか頼れる人間がいねえんだ。恥ずかしさとかは捨てて、どうか協力してくれ。この通りだ、頼む」
母さんが見えなくなる。
それはそうだ。
僕の体は、深々とお辞儀をしているんだから。
でもこの顔の筋肉……
(ねえ、なんか笑ってない。八和田さん?)
(丈二でいい。いやあ、なんかおっかしくってよ)
(なにが?)
(こっちの女は、俺がいた世界の男みてえにセックスしてるんだろ?)
(たぶんそうじゃないかなあ。クラスの女子が、初めての時は彼氏に泣かれて大変だったって言ってたし)
(もしその彼氏が俺なら、泣くどころかノリノリでその子に乗っかって腰を振る訳だ。痛みなんか感じねえチンコでな。あっちのエロマンガに出てくるような、淫乱処女ってヤツだぜ。そんな男が同じ屋根の下にいて、美和はガマンできると思うか?)
(うわあ……)
中学に上がってすぐの保健体育では男子生徒だけが別室に集められて、ある事を耳にタコが出来るほど言い聞かされた。
曰く、女子の性欲を甘く見るな。
男子生徒ならほとんどしない自慰を日に何度も行い、学校で制服のシャツから男子の胸元やスカートから下着でも見えたなら、迷わずトイレに駆け込んで自慰をする。家に帰ってからも、そうだ。
そんな女子生徒が普通なので、男子生徒に隙が多すぎると校内で事件が起こる可能性がある。スカートは指定の丈より短くしない、シャツの下には必ず肌着を着用する。嫌になるほど、その言葉が繰り返されたのを覚えている。
「……わかった。わかったから顔を上げろ。それで、あたしはどうすればいいんだ?」
「考察の手助けを頼みたい」
「わ、わかった」
「じゃあ、脱ぐぞ?」
「……ああ」
母さんが目を閉じる。
脱ぐ時は見ないようにしてくれても、丈二さんは目を開けろと言うだろう。
(ねえ、丈二さん。16にもなって母親の前で性器を出すのは恥ずかしいんだけど?)
(しかもずっとギンギンのな。やっぱ若いチンコは違うなあ、おい)
(でも、僕のはもっと小さかったんだけど)
(マジか。って……)
(どしたの?)
(このチンコ、あっちで俺の体に付いてたヤツだ)
(ええっ!?)
(見ろよ、ここのホクロ。天斗のにこれあったか?)
(な、なかった……)
「ひいっ!」
勃起してヘソのだいぶ上まで来ている亀頭をしげしげと見ていた視線が、小さく悲鳴を上げた母さんに向く。
「どうした美和っ!?」
「……き」
「き?」
「気持ち悪いっ! グロイにも程があるだろうっ!」