しっかりしろ。
オマエは丈二さんみたいになるんだろ。
こんなんじゃ、そんなのは夢のまた夢だ。
そんな声が聞こえた気がしたが、涙と鼻水は止まらない。
ようやく顔を上げて立ち上がろうとすると、その拍子に今度は焼死体ではなく、傷が生々しい青白い肌の死体が僕の視界に飛び込んだ。
まだ若い女の人。
ブラウスが捲り上げられ、スカートがずり下げられている。
恥毛が風に揺れているが、そんなのはどうでもいい。
その女の人の腹部は、血肉の色をした空洞になっていた。
「おえっ」
死者への冒涜じゃないか。
そう思っても、込み上げる胃液を押さえ切れない。
さっきあれほど吐いたので胃の中には何もないが、酸っぱくて苦くて嫌な臭いのする物を、僕はまた吐き続けた。
「う、うああああっ!」
自分の頬をぶん殴る。
どうしても妙な体勢での殴打になるし、自分の体なので意識はしなくとも全力では殴れない。
それでも自分を殴り続けていると、吐き気は収まっていないが涙だけは止まった。
血の交じった鼻水を垂らしながら立ち上がる。
「あ……」
丈二さんが銃を担ぐように持ち、片手をポケットに突っ込んで咥えタバコでこちらを、情けない僕を見ていた。
歯を食いしばる。
「あの人の隣に立ちたいなら、こんなんじゃダメだ。しっかりしろ、天斗」
膝が笑っているが、歩けるならそれでいい。
エンジンをかけっぱなしだったバイクに跨り、ギアをローに。
アクセルを開くと、僕の歩みなんかよりずっとスムーズにバイクは進んでくれた。
「恥ずかしいトコを見せました。ごめんなさい」
丈二さんの隣まで移動して、まずは謝る。
「天斗」
「は、はい」
頭。
ぐしゃぐしゃと、髪を掻き混ぜるように撫でられた。
「恥ずかしい事じゃねえ。それより、最後に遺体に頭を下げてたな」
「え。……お、覚えてない」
「そっか。でもな、死んだ人間には敬意を払うべきだと俺は思う。息子が無意識にでも死者に敬意を払って、俺は嬉しかったね」
「丈二さん……」
「俺のラビットのシートに、ミネラルウォーターがある。口ゆすいで、顔も洗え。気づいてねえみてえだが、最初のウイリーを立て直した時に鼻血を出してたぞ」
「うええっ」
「今回の行動は、戻ったらしっかり記録される。おめでとう。異界に踏み込んで10秒で鼻血を出したなんて、歴史に残る新記録だぜ」
「そ、そんな記録は嫌だ……」
笑いながら、丈二さんは銃を持ち上げる。
それは大人の、しかも軍人が使用するための物なので大きいし、重い。
でもその構えには、1ミリのブレもなかった。
タアンッ。
夏空に、銃声が吸い込まれる。
「あ、あれ。まだ夜明けのはずなのに、こんなに明るい」
「季節は夏らしいが、時間は経過してねえんじゃねえか。死体が腐ってねえんだし。それに見ろよ、交差点の向こうの建物を。なぜか、すべてドーム状なんだ。あれじゃ、スペースの無駄だっての」
「なるほど。不思議な場所だね」
丈二さんがボルトを操作して地面で薬莢が鳴る音を聞きながら、水を持ち上げてまずはうがいをした。
顔まで洗い終えるまでの間に聞こえた銃声は、5。
僕の散弾銃にはないマガジンを交換した丈二さんが、空になったマガジンを腰のポーチに入れて銃を背負う。
「もういいの?」
「ああ。そろそろ行くぞ」
「はい」
「天斗は常に、俺の5メートル後方だ。この地点を、イの1番とする。イの1に逃げろと叫んだら、ここを目指して、元の世界に駆け込め。バイクなんざ乗り捨てていい。まだわからんがこの異界が四角形の檻なら、交差点を右折して突き当りがイの2。そのまた突き当りから3、4、5だ」
「わかった。ゾンビがいたら、狙撃だよね?」
「まさか。この小銃より指輪の方が弾は多いし、熟練度も上げてえ。4匹とか5匹以上が相手なら狙撃で数を減らすが、そうじゃなきゃバイクで突っ込んで片付けるさ」
丈二さんが先に立って、最初の交差点までバイクを走らせた。
交差点はT字路なのだが、丈二さんはバイクに跨ったまま小銃を構え、左右をそのスコープで念入りに見ている。
「ちっ。右も左も、こことは向きが逆のT字路だ」
「ゾンビもいるの?」
「どっちも3な。まずは、右でいいよな?」
「任せるよ」
「そんじゃ、ここで待ってろ。散弾銃を、いつでもぶっ放せるようにしてな」
「えっ」
丈二さんが笑う。
そのまま、僕はまた頭を撫でられた。
子供扱いはしないでとついこの間までの僕ならその手を振り払っただろうが、今の自分にそんな事を言う資格がないのは痛いほどわかっている。
「あっちの男みてえになりてえんだろ。腕力はあるし、勃起もしそうなら、あとは度胸と覚悟だけだ。1匹をくれてやる。散弾銃の特徴は理解してるな?」
「……丈二さんの小銃とは違って、小さな弾をいくつも発射する。だから、散弾1発1発の威力は大した事ない。それなのに散弾を発射するのは、1発なら命中しない場所に撃っても散弾なら最低でも1発は命中するかもだから」
「注意点は?」
「点ではなく面が銃弾の命中する範囲だから、味方への誤射が最も怖い」
「よし。まあ、相手が俺ならフレンドリーファイアしても死にはしねえ。気楽にやれ」
「死ななくても痛みは感じるでしょって」
「まあな。こりゃ、ゾンビの行動範囲を試す意味もある。1匹を残してここまで引き連れてくっから、少し待ってろ。天斗の方の荷物にゃ、双眼鏡も入ってんぞ」
「わかった。それで見てるよ。気をつけて」
「任せろ」
丈二さんがラビットに乗ったので、僕は反対に降りて荷物を漁る。
双眼鏡は、すぐに見つかった。
「3匹のゾンビはすべて大人か。でも、さすがだなあ。アクセル開けっぱで、あんなのに向かうなんて。ええっ、銃を出した。走りながら撃つのっ!?」
丈二さんはスピードを落とさない。
それどころか、拳銃を左手に持ち替えてそれをハンドルから離した。
「やっぱり……」
左手が小さく跳ねる。
2度、3度。
3度目で先頭のゾンビが倒れ、丈二さんはその脇を駆け抜けた。
「えっ、危ないっ!」
ゾンビの動きは遅い。
でも丈二さんの操るラビットは、火花を出しながら車体を斜めにした。
丈二さんが笑っている。
ラビットはそのまま滑るように、こちらに向きを変えて停止。
獰猛な笑みを浮かべながら、リロード。
「心臓に悪いなあ、もう……」
ゾンビは丈二さんを追っている。
また走りながら撃つのかと思ったが、丈二さんはラビットに跨ったまま両手で拳銃を構えた。
「そ、そんな距離で当たるのっ!?」
さっきより小さく手が跳ねる。
きっちり3度。
それで、残りのゾンビは1匹になった。
「凄いなあ」
拳銃を消し、丈二さんがアクセルを開ける。
その横を駆け抜けてから振り返り、ゾンビが追って来ているのを確認。そのまま、僕のいる交差点を目指すようだ。
「次は僕の番だ。準備しなきゃ」
双眼鏡を荷物の上に置き、背負っていた散弾銃を撃つ準備をする。
手順や注意事項は何度も説明してもらったので、問題はないはずだ。
ブレーキ音。
「ははっ。そんな緊張すんなって」
「う、うん」
「準備ができたら、俺の隣な」
「はいっ」
拳銃をぶら下げて、いつの間にか道路の中央に立って咥えタバコで煙を吐いている丈二さん。
その横に並んだ。
「1発目は、好きに撃っていい」
「わ、わかった」
「次は俺が撃てと言ったらな」
「うんっ。って、なんかゾンビが僕を目指してないっ!?」
「人のはらわたを喰らうくれえだ。もう、獣みてえなモンなんだろ。獣は弱い獲物から狩る」
「も、もう撃っていいかな?」
「命中させられるなら好きにしろ。美和の家の地下2階にある射撃訓練場で、拳銃は練習してるんだろ。気楽にやれ」
「うん」
兵士なら半年の猛訓練。
和音さんは僕の射撃を見て、そう言いながら苦笑していた。
僕に丈二さんのような腕はない。
ギリギリまで引き付けて撃つべきだ。
ゾンビが迫って来る。
まだだ。
散弾銃を構えたまま生唾を飲み込む音が、やけに大きく聞こえた。
頭髪の薄い、小太りの男のゾンビ。
もう、腐りかけた肉の臭いが届きそうな距離。
怖くないはずがない。
でも、まだだ。
汗が顎から落ちた気がする。
そろそろか。
「撃ちますっ!」
「おう」
ダアンッ!
覚悟して構えていたのに、思わずふらついた。
「外したっ!?」
「いや、散弾が1発だけ肩を掠めたな。次射の準備は?」
「だ、大丈夫。もう撃っていいよねっ?」
「アホか。ダメに決まってんだろ」
「そ、そんなっ!」
「落ち着け。オマエはどこに立ってる?」
「どこって、丈二さんの隣だよ」
「だろ。後ろじゃなく、隣だ。そりゃ、俺に守られてるって事じゃねえ」
「……あ」
「隣に立つなら、仲間だ。ダチだ。俺のダチなら、ゾンビ程度でオタオタしてんじゃねえ」
「うんっ!」
ゾンビは、手を伸ばせば届きそうな距離。
それでも僕は、こんな凄い人の、丈二さんの隣にいるんだ。
やれる。
やれないなら、ここに立つ資格なんかない。
これからずっと誰かに、母さんや丈二さん、大好きな和音さんに守られて生きてゆくのか。
「……そんなの、イヤだっ!」
「よくガマンした。狙いは、ハゲ親父の頭部。ありゃ、オマエの後ろにいる和音を狙ってんだ。腐ったチンコで和音を犯されてもいいのか?」
「いいはずがないっ!」
「だよな。なら、しっかり狙え。スリーカウント、いくぞ。……3、2、1、撃て」
「はいっ!」
ダアンッ!
ゾンビが足をもつれさせる。
それもそのはず、その首から上は散弾銃の弾を浴びて消失しているのだ。
ゾンビがアスファルトに倒れる音を、銃を構えたまま聞いた。
「良くやった。また弾を込めるのを忘れんなよ?」
「う、うん。僕が倒したんだよね……」
「もちろんだ」
「ははっ。僕にもやれた」
「ああ」
「ここからだね。ここが僕の、スタートライン」
「そうなるな。まあ、のんびりやろうや。まだ16なんだ」
「うん」
「弾を込めたら、この通りの右端を目指すぞ。そこがイの2だ」
「わかった」
「さあて。楽しい楽しい、熟練度上げの時間だ」
準備を終えると、丈二さんが前でラビットを走らせる。
銃という武器、それも美波おばさんが用意してくれたそれで、たった1匹のゾンビを倒しただけなのに、なんだか心の底がざわついているようだ。
今なら、和音さんに触れられただけで勃起してしまうかもしれない。