▼執着の話。
水戸の祖父母は、実の娘も忘れる程に痴呆症を患っている。だから施設に入っている筈だった。
「光忠、行くぞ」
「うん」
自身はいくつぐらいなのだろう。それは判然としなかったが、自身の兄は小学生の子供に戻っていた。兄は、水色のランドセルを背負い、自身の跡を追ってくる。身長差があるから、歩幅も違うのだ。だから人混みの中、出来るだけゆっくりと歩く事にする。
見覚えのある場所だった。地元の大型スーパーとデパートが綯い交ぜになったようなところ。何かのセールでもしているのだろうか。混雑しており、時折、傍にいる筈の兄を見失ってしまう。だから時折、振り向いては、兄がいるかどうかを確認した。兄は何を考えているのかはよくわからなかった。ただにこにこと、いつものように機嫌良く笑いながら、自身の跡を追っていた。いかんせん、まだ距離が開いていたが自身はエスカレーターに乗ってしまっていた。戻る事は出来ない。
少し前にプレイしたゲームのようだ。何とか攻略したそれは、主人公が最初に助けるキャラクターが足を負傷しており、足早の主人公に対してあっという間に画面からロストしてしまう。しかし次のマップに移動すれば直ぐ後ろにいる。ゲームの仕様といってしまえばそれまでだが、そのマップ移動がない状態のようだった。
早く追いついてくれ。あのサイコキラーは現実には存在しない。しかし誘拐犯は実際にいるのだ。そう思いながら、何度目かに振り返った。
「あら、みっちゃんじゃない」
悪寒。その声に即座に覚えたのはそれだ。エスカレーターの踊り場に出て、人に構わず即座に見下ろす。
下の踊り場。そこで幼い兄が困っている。彼を捕まえる老人の手。彼に顔を綻ばせる老婆。それらは傍から見れば変質者でも不審者でもない。実の祖父母だった。
「こんなところで奇遇だね」
「大きくなったね」
そんな会話が、人混みの中でも聞こえてくる。自身は直ぐにでも兄の元に駆け下りたかったが、目の前にあるのは登りのエレベーター。反対側に回らねば下る事が出来なかった。しかしかといって、目の前の光景から目を離してはいけないように思えた。
「また」、兄が攫われる。目の前で、なすすべもなく。自身の手はあまりに幼く、短い。届かない。
「くりちゃん!」
――しかし、兄は手を振り払った。
金縛りから解けた自身は、小柄さを利用してエレベーターの人混みをすり抜けていく兄を出迎える。そしてそれを慌てて追いかけてくる祖父母を――足腰が弱っていたのにそれなりに俊敏だ――前にした時には、兄を背後に隠して祖父母を睨め付けていた。彼らは明らかに動揺している。自身はランドセルを鳴らして背後から前を窺う兄を庇いながら、防火扉の前で唸る。
「また、光忠を連れて行くつもりだったな」
「違うよ、偶々ここに来たらみっちゃんがひとりだったから」
「そうそう、迷子かと思って」
「そうやって恩着せがましい事をいって、子供を、孫を連れて行く手管は変わらないんだな、芸のない」
怒鳴らない自身が不思議だった。目の前にいるのは、今の家が「こうなった」遠因だ。かわいがられた覚えもある。時に世話を受けた恩義もある。しかし、それと今は話が別だった。自身は手を払った。
「とっとと失せろ。光忠は連れて行かせない」
――しかし、不意に違和感が裡に出る。
この子供は、果たして兄だっただろうか。この憎悪は、果たして自分のものだっただろうか。
腰回りの裾を掴んでくる子供の手が、小さい。
この家もすっかり廃れていた。普請道楽の名残も、そろそろがたがきているだろう。
「くりちゃん、もう用事は済んだの」
「あぁ。帰るぞ」
自身は自転車を引き起こす。荷台には幼い兄が乗り、自身はサドルに跨った。もうここに用はない。母と伯母の実家であり、今は施設に入っている祖父母が留守にしている一軒家。誰も手入れをしてない為に、秋も深まってきたせいか、「廃屋」という単語が過ぎる。それを尻目に、自身は兄を連れて帰宅する。
ここにあった用事は済んだ。ペダルを漕ぎ、坂道を登る。舗装されていない道路は時折砂利で石を砕いた。近場には、これは偶然だが父方の親戚の家もある。そちらに挨拶する予定もなかったが、視線をやった。
ぼたり。
自身の真横を、何かが落ちていった。見下ろす。
それを何と表現すればよかっただろう。コールタールのようなそれが、道路でだらしなく円を描いている。思わず目を瞬いていると、「くりちゃん、上」と背後から声がした。
喉を引き攣らせた。道路には、藤棚のようなものが渡されている。秋だから今は何のツルも絡んでいない筈だった。代わりに、コールタールのような泥で出来た葡萄とそのツルや葉が形を成している。生理的に覚えたのは嫌悪。こちらの方が正規の通り道だが、引き返して近道を取る事にする。しかし、振り返った道路にも、同じ藤棚が出来ていた。
コールタールのような泥。それがぼちゃり、ぼちゃり。時折、グロテスクな葡萄の粒を落としていく。粒は砂利の道路にぶつかると、そのまま固まって動かない。
「くりちゃん、横道があるよ」
背後から高い声がする。自身もそれを思い出し、ハンドルを切った。人の家の畑の畦道に入ってしまうが、謝罪はあとでする事にした。このコールタールの葡萄から逃れるには、それしかなかった。
狭い道を通り、兄がどこかにぶつからないように意識しながらペダルを漕ぐ。すると途中で、声をかけられた。
「あらあら、大倶利伽羅ちゃんじゃない。どうしたの、こんなところで。おじいさんとおばあさんに会いに来たの」
顔を上げれば、見覚えはあった。この近所にはやたらと知り合いが多い。この中年の女性は小学校の同級生の母親だ。幼い男の子を連れて必死で自転車を漕ぐ自身を不審に思ったようだ。それもそうだろう。肩で息をしながらも挨拶すると、その女性はコールタールの葡萄畑を見遣った。そして顔を顰める。
「あぁ、あれを避けてきたのね。それじゃあ仕方ないね」
「あれは、一体」
「さぁね、いつの間にか出来ていて。一応、あの泥がついても洗えば取れるの。でも何せ臭いがひどくてね」
「泥……」
「コールタールみたいだけど、どうやら泥らしいのよね。さ、汚れないうちに帰った方がいいよ」
促され、自転車を走らせる。舗装されていないのは同じにせよ、今度はもっと広い道路だ。しかし、直前で振り返る。荷台では兄が不思議そうにしていた。そしていつの間にか兄の肩にも泥がついているのを見て顔を顰める。
あの泥は、見覚えがあった。コールタールのような泥。否、泥といっていいものか。汚泥だ。それには変わらない。ただ、あの泥がどこから来て、どこから生み出されたものか、自身は知っている。
祖父母の家では、葡萄が半ば野生化していたのを覚えていた。母の生家でもある、あの家から、泥の葡萄は伸びていた。
血と泥の葡萄は、憎悪で出来ていた。ふと見下ろす。自分の黒い服。
この服が黒く染まったのは、あの家で「用事」を済ませた時、一身に泥を浴びたからではなかったか。
刹那、聞こえた気がした。「肉親」という盾で身内に横暴に振る舞い続けた祖父母。権柄尽の自らの両親に叫んだ母の言葉を。
『光忠を返せ』
「くりちゃん。僕は自力で帰ってきたんだよ」
息を吸う。そして、深く吐いた。
暗い自室。時計を見れば、既に夕方の6時を回っていた。ドレープカーテン越しにも夕暮れの日差しは疾うに遠い。体を起こすと、寝間着越しの汗ばんだ体が気になった。額に貼ったままの冷却シートを剥がす。寝ている間に熱が上がって、そして下がったようだ。この日の朝、あまりのひどい頭痛と微熱で掛かり付けの医者に貰った点滴と薬が効いたらしい。呆けた頭で、癖毛気味の頭を掻いた。
胸が悪い。それは数年ぶりにひいた本格的な風邪のせいだけではなかった。体温計を口にする。
(風邪で、弱っていたんだな)
頭を抱える。寝ていても起きていても殴りつけられたように痛む頭痛は止んでいた。しかし、別の頭痛の種が舞い込んできていた。
自身は、母親似だといわれる。そして自身は、母が自分の両親へ――水戸の祖父母への憎悪を、どうやら知らぬうちに受け継いでしまっていたようだった。その事実に、暗い部屋から廊下に出た。隣の部屋は、元は両親の部屋だった、今は父の部屋となっている場所だ。
「お帰り」
「あぁ、ただいま。具合は大丈夫か」
父は膝にすり寄ってくる飼い猫を抱えながら、のそりと出てきた次男の体調を窺う。恐らく病人食を買い込んできてくれた兄から話は聴いたのだろう。「頭痛はやんだ」と端的に答えながら、人心地をつく。
この人は知っているのだろうか。自身の亡き妻が胸の裡に飼っていた泥のような憎悪を。子供を奪われる事の、母親の救いがたい程の、心の血肉を食い破り培われる汚泥の感情を。
自身もまた、そこまでひどくないにせよ、似た感情を兄に持っている事に自覚した。してしまった。
覚えているのだ。1才になるかどうか。引っ越しの作業中、手伝いに来たと口実をつけて、本来ならより手間のかかる弟の自身ではなく、大人しい兄の光忠を連れて行く祖父母を。幼さゆえに視界は低い。しかし、少しだけ若かった祖父母に連れて行かれる、兄の後ろ姿に手を伸ばした。その光景が、本当の最初の記憶として、脳裏に焼き付いていた。
それから数年。兄は自力で帰ってきた。「自分の家はここではない」「両親の元に帰りたい」と訴えて。水戸の祖父母は泣く泣く兄を手放した。そうして漸く、この家は「4人家族」になった。
従兄と思いこんでいた人が実の兄だと知ったのはその時だったと思っていた。しかし、本当は知っていたのだ。自身も知らぬうちに、祖母を罵る母の怒号と共に、兄を連れて行かれたかなしみを心の裡に飼っていた。
「あれ、くりちゃん。起きたの。おかゆ食べられる」
「あぁ」
ひょっこりと顔を出す。低い声だ。当たり前だ。成人男性なのだ。兄が開きっぱなしの父の部屋の扉から顔を出す。自身より丁度、口に咥えていた体温計が音を鳴らした。とりあえずは平熱に戻った事を、それは知らせてきた。
昼に帰ってきてから、夕方まで風邪と闘っていた6時間。その間に、風邪には勝った。しかし自らが知らずにいた患部を切り開かれた。そこからは血と泥が溢れかえり、まだうまく飲み込む事も吐き出す事も出来そうにない。
兄弟愛、ブラザーコンプレックス。そんな生やさしいものではない。この泥は「家族愛」という執着の名をしていた。奪われれば、そのまま限界まで引っ張られる感情だ。決して人に見せてはいけない、汚泥だった。
( か え せ )
願わくば、このまま互いに適切な人生の針路を取って離れたいものだ。そう思いながらも、自身の胸に不安が過ぎる。
もし自分の子供が奪われるような事があれば、自身はあの汚泥を吐き出すのではないだろうか。母親から受け継いでしまった泥を。
End.