〝パン屋の親父〟と慕われた男は飛び起きた。
若い頃の面影を幾分か残した妻を退け、ベッドから転げ落ちる。もう100年は使っていない魔法の戸棚を激しく揺すり、うんうん唸ってようやく開けることに成功した。
山のような書類が雪崩のように降りかかり、パン屋の親父は懸命に腕を泳がせる。
「アーレ、アーレが帰ってきたぞ」
もはやこの地方でも使われていない言語を叫ぶ。
戸棚の奥、壁に立て掛けられた片手剣が青く光る。
「アーレ!!」
泣きそうな声で剣を引っ掴むと、パン屋の親父は階段をドタドタと駆け下りる。
「ええい! 起きんか、この」
羊皮紙に書かれた地図に、青く光る剣を乗せる。
確かに感じる、もう片方の剣の場所。ここだ──
「海からなぜ──」
首都は大陸の中心にあった。海の向こうは同盟を結んだばかりの国。側にほかの魔法使いが居る様子もなく、ひどく嫌な予感がした。
「船団でないとするなら──」
深夜もとうに過ぎた時間帯、誰も来るはずのない辺境──そして息子──。
「あなた、どうしたの」
久しく見なかった妻の魔法。二階の床をすり抜け、一階の床に足を着ける。
「なんだかよくわからないんだ」
300年も軍人をやっていたのに、いざ息子のこととなるとこれだ。
「明日は美味しいパンが焼けるかしら」
──この100年の間に、夫婦共々衰えたらしい。
「とにかくいくぞ」
目の前に広がるのは絶望だった。最先端の魔法飛行船が、巨大な破片になっていた。
「アーレ!! アーレ!!」
船から出る人は全員、女子供ばかりだった。
妻が魔法で助けを呼んだお陰で、大半の村人が救助に当たっていた。そのうち遠くの役場からも人が来るだろう。
壁のすり抜けや移動術などは妻の専門分野であり、こういうときに俺の魔法は役に立たないんだ、とパン屋の親父は自身に悪態を付く。
乗客の救助は村のみんなや妻に任せ、パン屋の親父は魔法で軍団を作る。軍団は旧式の装備しか再現出来ず、随分と変わってしまったな、と親父は嘆く。
浮遊し、辺りに散らばる軍団に防衛を任せ、自身はコックピットに向かってひた走る。
「飛べば一目散なのに──」
旧友の色褪せた笑いとともに、言葉が再現される。
「ああ、もう!!」
血だらけの女性を見つけて抱える。泣きたい衝動を堪え、息子から離れる。それを何往復も繰り返すことになった。
やがて役場から移動魔法を使い、人が大勢やってきた。
「シャーペイ、レモンドは? バニスは? カラルラは?」
シャーペイと呼ばれた男は一言、「みんな亡くなったよ」。
魔法なんて使わなくても生きていける時代だった。科学の目覚ましい発展はそれを促した。それこそ魔法で寿命を伸ばせば、あっという間に古代人になる。何もかもが早く過ぎるのに合わせ、みんな普通の人間として亡くなっていったのだ。
「おや、それは──」
布から明かりが漏れているのに気付いたシャーペイは、顔色を変える。
「相棒が近くに居る、そして息子も──」
そう信じたくて声に出したが、言葉は最後の方で途切れる。何度も女性を運ぶうち、女性の口から惨状を耳にしていた。
「とにかく行こう」
シャーペイは、パン屋の親父を励ますように言った。
コックピットは真下から抉られ、ほとんど内部を留めていなかった。海岸から見えたのは外側だけで、もしかしたらと、一縷の望みも絶たれてしまった。
「シャーペイ、あそこだ、ほら」
「おお、一つだけ小さな空間があるぞ」
何かの力で辛うじて崩壊を免れたといった感じで、それは詰まる所──。
シャーペイの脂汗をよそに、コックピットの左側側面に小さく飛び出した床に降り立つ。パン屋の親父は今にも泣きそうな顔で、丸く膨れた布に手を伸ばす。
「ギン・アレスト」
変わらない息子の言葉が聞こえる。そして片言の英語で、その名を口にする女性。
布に広がる赤い液体、床に突き刺さった息子の剣、その剣を掴む息子の手首。巻かれた布から、黒髪の赤ん坊が顔を見せている。
すべてを悟り、言葉はなかった。
パン屋の親父に、起きたばかりの赤ん坊が手を伸ばす。
「ギン・アレスト」
パン屋の親父は希望にすがった。