大きな小麦に隠れるようにして、シャドーから逃げ回る。どこから追いかけてくるのかわからない。
(あっ──)
やっぱり真上だ──。真上から黒い翼を広げたシャドーが飛びかかってくる。
「見つけたぞ、ジン」
「くそっ、なにかまた魔法を使ったんじゃないか?」
「ジンの匂いが強過ぎるんだ」
「おい、やめろって──うぅ──」
シャドーの身体はとても大きくて、僕の首を舐めてくるだけで恐ろしい。
「ライトは全然怖がらなかったのに」
むすっとして、シャドーは僕から離れる。
……シャドーは兄さんと一緒に産まれた魔獣だ。兄さんが死んだあと、どういう訳か僕の影で生きている。
「なんで僕なんかの影に……」
「ん? なんか言ったか?」
小声で言ったのもあるけど、強風が僕の声をさらっていった。
海風を避けて内陸側に作られた小麦畑、それでも頻繁に風が送られてくる。背の高い小麦が折れないよう、この丘全体に魔法が掛かっている。
「なんでもないよー」
またシャドーは僕の頬を舐めてくる。
「ザラザラして痛いよ、シャドー」
「だってジン、おいしいんだもん」
おかしなニュアンスの〝おいしい〟は、肉食動物特有のものだろうか。なんだか聞きづらくて、それ以上の意味を聞いたことはなかった。
「さあ、もうパールさんのところに戻らなきゃ」
「律儀だなぁ、ジンは魔法が使えないのに」
シャドーの何気無い一言でも、結構心に来る。
シャドーは兄さんと僕を比べているのだろうか──。
「魔術学校は寮があって、国が支援してるんだよ。そこに入れば……」
「そこに入れば?」
──ここに居ると寂しいんだ──父さんや母さんを知らない人ばかりで──。
朝からパンのいい匂いがする。
「日に日に上手くなっているなあ」
〝パン屋の親父〟と呼ばれて親しまれている、僕のお祖父さん。見た目は40代くらいだろうか。背丈が大きくて、この村一番だった。
「今度は色々入れてみるか」
僕はもう、毎日パンしか食べていない。いつかこの村を出て行く日があるなら、この村の思い出はパンと小麦畑だろう。
「ほら、チーズ持ってきたぞ、一緒に食べよう」
チーズの種類も覚えられないくらいある。お祖父さんはなんで魔法使いなんてやめたんだろう。
「おーい、母さん、一緒に食べよう」
お祖母さんを呼んで、家族で食卓を囲む。いつもの朝の風景だ。
「ジン、俺にもくれ」
木のベンチに座ることにも、食べることにも、なにをするにもシャドーは許可を求めてくる。
都会ではそういうのが当たり前で、マナーとか慣習らしい。見た目が違うだけで、シャドーは僕ら人間と変わらないハズなのに。
一度それをシャドーに聞いてみたことがあった。するとシャドーは僕を押し倒して、僕のシャツを鼻先でめくり上げた。シャドーはなにも言わず、僕の柔らかな腹を丹念に舐めた。なにもしなくても力を持っている──それが答えだった。
「おいしい?」
真っ先にシャドーに感想を求めた。
千切ってミルクに浸したパンを、シャドーは次々と飲み込む。黒い口周りの体毛が、真っ白に濡れる。
「うん、おいしい」
食べ物になると途端に無邪気になる。その顔が楽しみでパンを作っている。
僕もシャドーにならい、パンを食べるときは素直に笑うことにしている。
「これなら売りに出してもいいな、隣町まで売りに行こう」
お祖母さんも賛成して、その日も変わらず会話が弾んだ。
僕は追われている。隣町から時折やってくる、商人の息子数人に。
「シャドー、シャドー……覚えてろよ、くそっ」
商人の息子がやってくる日だけは、シャドーを本気で嫌った。
いくら僕から伸びる影に呼び掛けても、シャドーは返事一つ返そうとしない。
「あっ、いたぞ、こいつっ──」
「ごめん、逃げたのは悪かった、だから許して──」
バンッ──と目の前の映像が吹き飛ぶ。鼻の頭がカッっと熱を帯びる。
「なんだその言い方、生意気だぞ」
バンッ──「このっ──」バンッ──
「なんでオレの魔法を跳ね返す力があって、オレと闘わないんだ」
シャドーが姿を現せば、一瞬でこの苦痛から解放されるのに。
(力で支配されるのはイヤだ──)
「なに笑ってんだよ」
「好きなだけ殴れよ」
単純なことに気が付かなかった。何度もひどい目にあってようやく気付くなんて──。また僕の兄さんと比べられたかな。
商人の息子の拳が震え、僕から後ずさった。それから商人の息子は、仲間を連れて逃げ帰った。
「シャドー、もういいよ、出てきて」
「──ジン」
熱を帯びた吐息が、僕の顔に掛かる。シャドーの舌がいつもより荒い。
「なにか過去にあったの?」
頭の中にノイズの掛かった記憶が浮かぶ。──このノイズは、わざとシャドーが起こしている──。そう直感した。
「僕にまだ足りないことがあるの──?」
断片的に現れるシャドーの気持ち。ラジオのノイズみたいに映像も感情も見え辛い。その中にシャドーの苦痛と、なぜか気持ち良さがあった──
「ちょっとトイレ行ってくる」
「うん、行ってきて──」
いつもなら僕の目の前でするのに──。
僕が兄さんだったら、どんなことをしてあげられただろうか──。
その次の朝はミルクに口を付けず、昨日トイレから帰ってきて、僕は一度もシャドーに触っていない。
「あのね、シャドー……」
背中を向けるシャドーに、僕は報せを届ける。きっともう、商人の息子達に絡まれたりしない。
「僕、都会の魔術学校に行けることになったよ。もう怖い思いをしなくて済むんだよ。都会はどんなところなんだろうなあ」
ビクリ、とシャドーの背が跳ね上がる。