比企谷八幡がイチャラブするのはまちがっている。R 作:暁英琉
「それじゃあ、授業終わりだ。クラス委員」
慣れ親しんだチャイムがスピーカーから流れてきて、教科担任の先生は開いていた教科書を閉じる。クラス委員の号令が終われば静かだった教室は途端にざわめきだして、昼休みの訪れを教えてくれた。机を寄せ合わせてお弁当を開き合う人、購買へ買い物に行く人、パンを抱えながら別のクラスへ向かう人、それぞれがそれぞれの昼休みを過ごすために動き出す。
そして私も、いつものように自分のお弁当と読書用の本を持って教室を出た。いつもならこのまま部室に向かうのだけれど、今回は少し寄り道をする予定だ。
目的地に向けて人で溢れる廊下を歩く。他の教室の生徒、特に男子の視線を感じるけれど、今は無視だ。いえ、基本的にいつも無視しているのだけれど、今は特に意識して無視。「意識して無視」という言葉はなんだか矛盾している気がするわね。
教室を四つほど通り過ぎると『2-F』と書かれた札が目に入る。それを確認して開きっぱなしの扉から教室の様子を確認すると……目的の人物が嵐が通り過ぎるのを待つようにじっと座っているのが目に入った。
「…………」
いつもは他のクラスに入ることくらいわけないはずなのに、今は冷や汗が出そうなほど緊張している。このまま何事もなかったように部室に行ってしまうかという考えが湧き上がってしまう。
けれど、そんな弱い方に流れてしまいそうになる心をぐっと奮い立たせて、教室の中に足を踏み入れた。教室内が音を削り取られたように静かになり少し恥ずかしくなるけれど、それをおくびにも出さずに歩を進める。相手も自分に近づいてきていることが分かったようで、最初は威嚇するように鋭い視線で振り返って、相手が私だと分かるとふっと警戒を解いてきた。他と違う態度を見せてくれるのは、ちょっと嬉しい。
「どうしたんだよ、なんか用か?」
「ええ。あなたの依頼に関してね」
依頼、その単語を聞いて比企谷くんは「熱心だな」と鞄からコンビニの袋を取り出す。おそらく昼食が入っているのだろう。
「それで、なにするんだ? 俺、飯食うの遅いからそんなに時間取れないと思うぞ」
食事のことを思い出したのか頬杖を突いて疲れた目を見せてくる。食事をすること自体が憂鬱と言いたげで、いや事実憂鬱なのだろうということが分かって、それは……私まで悲しくなりそうだ。
しかしまあ、彼の心配は杞憂だろう。彼の食事時間の長さはさしたる問題ではないのだから。
「比企谷くん、私はあなたのことをまだよく知らないわ」
「そりゃそうだ。昨日今日でがっつり知られてたら、逆に怖い」
肩をすくめる目の前の男の子のことを、たぶん私はこの学校で一番知っている。名前、クラス。そして昨日知った彼の体質にあの性格を演じている理由も。
けれど知らない。知っているようで、全然知らない。知りたい。全部なんておこがましいことは言わないから、少しでも多く。
なぜそう思うのかは分からない。けれどこの想いに偽りがないことはまぎれもない事実だ。
「だから……」
だから、“依頼”を盾にそんな我儘を言ってしまう。
「だから、一緒に部室でお昼を食べましょう」
「へ?」
私の提案に彼は気が抜けたように目尻を緩ませて……周囲に視線を巡らせてから、昼食の入ったビニール袋を机に置き直した。
「とりあえず……もうちょっと待ってくんね? 今は人込みがすごくて廊下歩けねえから」
***
ある程度廊下の往来が収まってから部室に来た私たちは、お互いの席に腰かけた。複数人で活動をする上で必要と考え、平塚先生に用意してもらった長机に弁当箱を広げていると、彼は袋からクロワッサンを取り出して封を切る。ビニール袋から見えるもう一つのパンもクロワッサンだ。
昼食で食べられる限界はパン二つ。そう聞いてはいたけれど……。
「私、コンビニのパンは詳しくないのだけれど……他のパンはないのかしら? クリームパンとか、総菜パンとか」
「んあ? いや、色々あるぞ。種類だけならなかなかのもんだ」
ただ。そう続けながら取り出したクロワッサンで手遊びを始める。
「二つ以上触感があるもんは余計に疲れるんだ。食えねえことはないけど、どうしても楽なもんに流れちまう。そもそもパンを食べてんのだって米と違って口の中で解れねえし、麺と違ってツルツル口の中を暴れまわらないからって理由なんだから」
楽な方に流れる。普段の私なら怠惰だと、逃げだと断じていたかもしれない。けれど、その結果が味気ないパン二つだとしたら。それは果たして怠惰だろうか。逃げだろうか。精一杯に戦っている結果なのではないだろうか。
「というか、お米も麺も駄目って……」
「別に駄目とは言ってねえだろ。ま、基本三食パンなのは否定しねえけど」
ラーメンとか味は好きなんだけどな、と自嘲気味に笑いながら一口大にパンをちぎり、口に運ぶ。慎重に口の中にパンを置く仕草は、まるで危険物処理をしているようだ。
「ん……んぐ、んっ……んっ……」
苦しそうにゆっくりと咀嚼を繰り返し、くぐもった声と共に嚥下していく。じわりと汗を滲ませながら口の中のパンを完全に飲み込むとふう、と息を吐いて再び小さくちぎって口の中へ。
これで慣れた方。それなら慣れる前は一体どれだけの苦痛だったのだろうか。
「ん……ふう。……そんな暗い顔すんなって」
「えっ。……顔に出てたかしら」
「出てた出てた。お前表情変わんない方かと思ってたけど、案外コロコロ変わるのな」
喉の奥を震わせて静かに笑われて、かぁっと顔が熱くなってしまった。それを見てまた笑いだす彼を睨みつけるのもそこそこに恥ずかしさから俯いて、前髪で顔を隠す。
そのままお互いに食事を進めていく。気恥ずかしさももちろんあるのだけれど、いつの間にか緩和した空気の中での無言は不思議と心を落ち着けてくれた。むしろ少し楽しいとすら思えてくる。
一人暮らしを始めて一年。特に奉仕部ができてからは本当に食事は一人でしかしなくなっていた。誰かと食事をすることを楽しいと感じるなんて……。
いつかそういう人が“また”できるだろうとは漠然と思っていた。それが男の子だとは想像したこともなかったけれど。
「どうした? 今度はニコニコして」
「っ……なんでもないわ」
また彼に表情の変化を指摘されてしまった。そんなに私の表情は読みやすいのだろうか。
彼の顔を直視できなくて、けれどまた前髪で顔を隠すのもそれはそれで恥ずかしくて、中途半端に視線を落とすと……彼の近くに置かれた見慣れない容器に視線が止まった。複数の蓋がついた半透明で長方形の容器には錠剤のようなものが入っているのが見える。
「それは……?」
「ん? ああ、さすがにパンだけじゃ栄養足りないからな。ビタミン剤とか色々」
三食パンだけ。極力運動を避けている彼ならカロリー的には何とかなるかもしれないけど――それでもかなり少ないと思うが――、その他の栄養素は足りなくなるのは自明の理。極力刺激を与えずにそれらを摂取するとなればサプリメントに頼ることは仕方のないことだろう。
彼はプラスチック容器からサプリを取り出すと、脇に置いていた黄色と黒に彩られた缶ドリンクを手に取った。さっき部室に来る前に自動販売機で買っていた飲み物だ。確か名前はマックスコーヒー。
「あ、む……ん……く、ん……ふう」
サプリメントを舌の上に乗せるように含んで、マックスコーヒーで流し込んだ。顔を小さくしかめてゴキュッと喉を鳴らした彼は大きく息をつくと、ちびちびと缶を傾け始める。
「苦味は苦手と言っていたのに、コーヒーを飲むのね」
彼の敏感体質は多少ではあるが味覚にも影響を与えている。特に敏感なのが苦味と辛味。辛味は味覚ではなく痛覚が反応していると聞くし、苦味もそういうものが関係しているのだろう。だからコーヒーは飲めないものだと思っていた。
疑問を抱いた私を横目で一瞥した比企谷くんは、「んー」と生返事を漏らしながらもう一度コーヒーを小さく傾ける。
「基本的にコーヒーは飲めねえよ。マッカンは特別」
マッカンというのは、マックスコーヒーのことだろうか。特別とは一体……。そう思って再び彼の持っている缶を注視してみて、ある文字を見つけてしまった。
“練乳入り”
コーヒーに……練乳? ミルクではなく……練乳? しかもその下には“コーヒー飲料”と記載されている。
確かコーヒー飲料とはコーヒー豆の使用量が一定以下の飲み物に記載されるものではなかったかしら。ということは、あれはコーヒーではないの? マックス“コーヒー”なのに、厳密にはコーヒーではなく、しかも練乳が入っていると言うの?
「……どうした? なに、お前。マッカン気になんの?」
「え、あ……いえ、その……」
ずっとパッケージに視線を向けていたからだろう。コテンと首を傾げながらの質問に思わず言い淀んでしまう。
そんな私と自分が持っている缶に視線を往復させていた彼は「ふむ」と一つ頷くと……長机の上を滑らせながらこちらに缶を差し出してきた。
……え?
何をされているのか最初分からなくて比企谷くんの方を見ると、いつもの気だるげな目のままもう一度ずいっと缶を差し出してくる。
……飲んでみろ、ということだろうか。いや、しかしそれは……。
「なんだよ、飲まねえの?」
「あ、いえ……、飲み……ます」
「なんで敬語?」
むしろなんであなたはそんなに平然としているのよ! 飲み口の小さなドリンク缶じゃ、どうあがいてもその……間接キスになってしまうのに……!
とりあえずおずおずと缶を受け取って。
――あ、比企谷くんが持ってたところ、ちょっとだけ温かい。
「ではなく!」
「うおっ!?」
突然上げてしまった声に唯一の部員が心底驚いたようだが、そもそも原因は全面的に彼にあるので弁明も弁解もフォローも何もしないことにする。
それよりも今はこの手元にある黄色と黒の飲み物だ。受け取ったはいいけれど、やはり口をつけるのは勇気がいる。しかし、そのまま返すのもまた気が引ける行為なわけで……というか、じっと見られているせいで余計に飲みづらいし、飲まないという選択肢を潰されてしまっているのだけれど。
ええい、ままよ!
かすかに濡れている飲み口にそっと口をつけて恐る恐る傾ける。薄く開いた唇から茶色の液体が流れ込んできて、口の中に広がっていく。
「……甘い、わね」
コーヒーと名を冠するものとは思えないほどの甘さ。けれど後から遅れてくるように、確かなコーヒーの風味と苦味がやってきて控えめに自分はコーヒーだと自己主張してくる。
「だろ? これ一本で飯一杯分のカロリーなんだってさ。俺の強い味方って奴」
なるほど、愛飲しているのはそういう理由からか。
彼に許可をもらってもう一口甘い液体を嚥下する。やはり暴力的な甘さ。普通ならつい顔をしかめていたかもしれない。
でも、なぜか妙においしいと思えて、癖になりそうな味をそっと舌の上で転がした。
「ふふ、私も明日から自分で買おうかしら」
「布教ができたなら何よりだ。うちの家族は全然これのうまさを分かってくれなくてなぁ」
おそらく苦味に敏感な彼の味覚は、この味を微糖くらいのものにしてしまっているだろう。それを一般的な味覚で理解しろという方が無理な話かもしれない。……なんかそれだと私も普通と違うと言っているようにも感じるのだけれど、まあ気にするようなことでもないでしょう。
彼のことはまだよく知らない。知らないことばかりで、きっと四捨五入すればゼロになってしまうほどだ。
けれど、この短い時間で少しだけ彼のことを知ることができた。それはとてもうれしいことで。
「どうした? そんなにうまかったか?」
「ふふ、……そうかもしれないわね」
「なんだそりゃ」
これからも少しずつ彼のことを知ることができると思うと、思わず頬が緩んでしまうのだった。
特殊体質系は塩梅が難しいよなぁと思いながら書いている私です。
あとがき短いですが今日はこの辺で。
ではでは。