比企谷八幡がイチャラブするのはまちがっている。R 作:暁英琉
「うっす……」
「いらっしゃい、比企谷くん」
彼と初めて昼食を一緒に取った放課後、部室で待っていると彼はちゃんと来てくれた。いえ、奉仕部の部活に参加すると昨日言っていたのだし、来ることは分かり切っていたのだけれど。別に来ないのではないだろうかと不安になってはいない。決してない。
後ろ手で扉を閉めた彼はすでに確立した定位置、長机を挟んで反対側の席に腰を下ろそうとする。
今までの私なら、いえ彼以外に対してなら特に気にも留めず、特に話すこともなく読書を始めていただろう。
「比企谷くん」
「ん?」
けれど私は今、彼に関する依頼を受けている。現在進行形で依頼をこなしている状況なのだ。故にこそ、ここで呑気に読書なんてしていられない。
「少し……付き合ってもらえるかしら」
そんな建前を頭の中で反芻させて、彼を近くに呼び寄せた。
***
「で? いったい何やるんだ?」
隣に椅子を持ってきた比企谷くんは特に期待していないのか、息を吐いて座りこむ。依頼に関して、彼は『止めない』とは言ったけれど、それは期待していることとイコールではない。それも、彼のこれまでを考えると仕方のないことだろう。
どの道、できることも一つしかないのだし。
「……私からの提案は、人に触れられることに慣れる練習よ」
確かに私たちが高校に在学している二年で彼に一般的な生活をさせることはできないだろう。けれど、それでも多少は改善……というか慣れさせる手助けにはなるのではないだろうか。
「このまま高校、大学を卒業して社会人になれば、嫌でも人付き合いをする必要が出てくるわ。満員電車に乗ることになったり、会合の席で食事を取らざるを得なくなったり……」
学生というものは割と自由な身分だ。多少のサボり、遅刻は許容されるし、成績さえ良ければ基本的には何も言われない。平塚先生のように一部例外はいるけれど、一人で過ごしていても大した支障にはならない。
しかしこれが社会人になったら? 会社という組織では嫌でも人と関わる必要があるし、何かしらの催しに出席したりすることになるかもしれない。両親や姉を見ていると、そんなことが不要な人間の方が少数派であることはなんとなく想像できる。
そして、たとえ大人になっても少数派は排除される運命にあることも。
「……慣れるったって、具体的にはどうするんだよ」
黙ってしまった私をじっと見つめていた比企谷くんはやがてボソリと呟いた。その目に若干緊張が走ったところを見るに、多少の不安があるのだろう。いきなり外に駆り出されたりとか、たぶんそういう手段を使われるのではないかという不安が。いえ、さすがにそれが最初としてはハードルの高すぎる方法であることは重々理解している。
だから――
「私があなたの身体に触れるわ」
まずはこれくらいの軽い方法から。それに慣れれば少しずつ、少しずつステップアップしていけばいい。
「…………」
「…………」
「…………」
「…………?」
なんの反応もないので一度外していた視線を彼の顔に合わせると――なぜか両手で胸元を隠して半身になっていた。どうして着替えを覗かれた女の子みたいなポーズを取っているのかしら。
「なに、お前って実は結構な肉食系……?」
肉食……? いえ、どちらかと言えば野菜の方が好きなのだけれど、なぜ今好物の話をするのかしら。ひょっとしたら、何か別の意味が……。
「あ……」
『私があなたの身体の触れるわ』
身体、ということは……一般的に全身のことを指すわけで……わけ、で……。
「まあ、依頼だもんな。見返りがないのがそもそもおかしいわけだし、お互いWinWinになるって考えれば普通――」
「待って! 比企谷くん待って! 勘違いしてるから待って!」
身体中をくまなく触りつくすとかそういうことでは決してない。そもそもそういうのは恋人同士がするようなことなわけで……いやいや、それは今は置いておいて。
「触れると言っても手とか肩とか、そういうのだから……やましい意味は一切ないから!」
久しぶりに張り上げた声での弁明に彼は一瞬驚くと、「ああ、なるほど」と胸元を隠していた両腕を膝の上に落とした。
「俺の貞操が奪われるのかと思った……」
「さすがに話が飛躍しすぎよ……」
というか、私ってそんなに飢えているように見えるのかしら。いや、今回は言葉選びが悪かっただけよ。そう、そうに違いない。決して事実を聞くのが怖いとかそういうことではない。
とりあえず話を戻しましょう。それがいい。
「んんっ、……とりあえずその……手に触れるところから始めようと思うのだけれど……」
「まあ、それくらいなら……」
手は日常生活において最も物や人に触れ合う部位だ。彼が人と関わらないにしても授業を受けるには教科書やノートを開いてペンを持たなくてはいけないし、家に入るならドアノブに手をかける。三食パンで箸やスプーンを使わないとしても、それを口まで運ぶのは彼自身の手だ。
つまり、彼が一番刺激に慣れている部位であり、同時に真っ先に慣れる必要のある部位と言える。
彼もそれを自覚しているからか、多少表情を曇らせながらもおずおずと右手を差し出してきた。もう好きにしろということだろうか。いえ、完全に受け身になられてもそれはそれで困るのだけれど。
「…………」
いざ事に移そうとすると、私も緊張してしまうのだから。
「それじゃあ……触るわよ?」
「……ああ」
二度深呼吸をして……ゆっくりと手を伸ばす。彼の右手と握手をするように自らの右手を近づけ、加減が分からないので分からないので恐る恐るになりながら――そっと手のひら同士をくっつけた。
「っ――――!」
その瞬間、彼が息を詰まらせたように音のない声を漏らした。五指が跳ねるようにビクリと動き、手のひら越しに筋肉が強張ったのが分かる。
「大丈夫、かしら」
「ああ……ッ、まだ……これくらい、なら……」
キュッと両の瞼を閉じた顔にはうっすらと汗がにじんでいるけれど、確かに昨日手首や肩に触れたときほどきつそうには見えない。やはり予想通り、普段使っている分刺激に慣れているのだろう。
それにしても……昨日はなんだかんだ彼の反応を見る余裕しかなかったけれど、そもそも男の人の身体に触れること自体久しい。たぶん最後に触れたのは……合気道の稽古を除けば小学校高学年の頃に同級生と握手をした時だろうか。第二次性徴を確実に通り過ぎた彼の手のひらは、見た目の華奢さに対して意外なほどゴツゴツしている。
女性とは明らかに違うその感触は不思議と飽きがこなくて……。
「あの……っ……ゆきの、した……ぁぅっ……」
「っ! な、なんでもないわ!」
危ない。初めて味わう感触につい夢中になってしまった。いえ、これはあくまで知的好奇心からくる“夢中”であって、決してそれ以外の理由はない、はず。
――本当にないのよ? たぶん。
誰に弁明するでもなく心の中で念押しをして――たぶん、と言っている時点で念押しではない気がするけれど――意識を再び彼に集中する。
「ふくっ……ん――――ッ、ひぅっ……」
手のひら同士をすり合わせたり、指の腹で手相の溝をなぞるたびに、彼の喉からはいつもの気だるげなものより幾分高い音が抜けていく。他の部位に比べれば慣れている、とは言っても、普段受けないタイプの刺激には弱いらしい。
「まだ、続けられそうかしら?」
「お、おう。んくっ……、あれだな。自分の意図しない刺激ってのは――ぁ、手のひらでも……結構やばい」
けどまだ大丈夫、とかすかに声を上ずらせながら続けた彼に小さく頷いて、再び手のひらへの刺激を与えていく。
「呼吸をゆっくり深くしてみましょう。触れられることに身構えつつ、けれど身体は無駄に強張らないように」
「注文多すぎません?」
呆れたように不満を漏らしながらも、私の注文を実践しようとしている。期待なんてしていないはずなのに律儀に付き合ってくれるのは彼の性分なのか、それとも別の理由でもあるのか。
……まあ、深く詮索するのはやめよう。当人がやめろと言わないのなら、私は全力で力になるだけだ。
「くっ……ぁっ、ん――っ! フーッ、フーッ――ぁぅ……」
……それにしても、この“声”はなんとかならないものだろうか。
男子にしては高い声。それを極力漏らすまいと声を殺しているせいでまるでか細い女性の喘ぎ声にすら聞こえてしまう。今私はあくまで彼に関する依頼のためにこうして触れているはずなのに、まるでイケないことをしているような錯覚を覚えてしまうのだ。
いえ、これは決してイケないことではない。私は必要な事をしているだけ。身体が若干熱くなっているように感じるのも、呼吸が不自然に荒くなっているように感じるのも、ただの錯覚。私はただ、依頼を遂行するだけ。
依頼を遂行するために――次のステップに進まない、と……。
「手の甲、にも……触る、わね……」
彼の了承を待たずに遊ばせていた左手を伸ばす。指先が昨日掴んだ手首に触れるか触れないかの距離まで近づいたところで昨日の彼の反応を思い出して一瞬躊躇して、小さく唾を飲み込むとわずかな距離をくっと詰めた。
「アアッ!?」
人差し指、中指、薬指の腹。その面というよりも点と形容したほうが正しいくらいのかすかな接触部を彼の指の方に向けてゆっくりと下ろしていく。血管と指の骨がかすかに浮き出た肌は手のひらよりもゴツゴツしていて、私に“男の子に触れている”という現実をまざまざと突き付けてくる。
「はぅっ! ッ、雪ノ下、それ、やば……っ」
変にくぐもった彼の声はまるでこことは別のところから聞こえてくるよう。現実味がなくて、ただ彼の声が聞こえているということしか分からない。その内容まで理解が及ばない。
接する肌面積を少しずつ増やしていくと、彼の体温がより感じられるようになる。自分のものよりも少しだけ高いその熱は伝播するように私の中に入り込んできて、よりその温かさを感じようとするように両手で彼の手を――
――コンコン。
「!?」
突然聞こえてきたノック音に思わず両手を離してしまった。それはもう「バッ」なんて音すら聞こえそうなほどの速度。自分で言うのもなんだけれど、さすがに慌てすぎではないだろうか。
私の両手が離れた彼の右手が力なく長机の上に着陸する。いつ頃からか突っ伏していたらしい彼の肩は大きく上下していて、呼吸は全力疾走した後のように荒くなっていた。
これは……やりすぎてしまったのではないだろうか。
「比企谷くん、その……」
「いや……だいじょう、ぶ……だから……。っていうか……、依頼人、なんじゃ……ねえの?」
とても大丈夫そうには見えないが、確かにこの教室にノックをするのは依頼人くらいのものだろう――平塚先生はノックをしないものね――。
「……どうぞ」
「し、失礼しまーす……」
一つ息をついて平静を装いながら扉の先に向かって促すと、おずおずと引き戸が開かれて、女子の制服を身に纏った少女が姿を現す。
「って、なんでヒッキーがここにいるの!?」
元気が有り余っていると言わんばかりに張り上げられた声に、気づかれないようにため息を漏らした。
まったく、これは何の因果だろうか。まあ、因果だとか運命なんて大仰なものではなく、単にお節介な教師の策略なのだろうけれど。
ペッティングパートはひたすら八幡を可愛くしたい一心で書いてます。
やっぱ八幡がメインヒロインだって、はっきり分かんだね。
それでは今日はこの辺で。
ではでは。